吉野宮跡(宮滝遺跡)は、奈良県吉野郡吉野町にある遺跡。
ココ、古代史最大の内乱である壬申の乱の起点となった場所。大海人皇子(後の天武天皇)が吉野に隠居しつつ、中央の情勢を伺いながら挙兵を決意した歴史的なスポットであります。
当サイトとしては、それこそ日本神話(『日本書紀』や『古事記』)編纂につながる契機ともなった地なので、いつも以上に前のめりにご紹介。すべてはココから始まった。
吉野宮跡(宮滝遺跡)|大海人皇子による壬申の乱の挙兵地!天武天皇への道、もっというと神への道はココから始まった、、
目次
吉野宮跡(宮滝遺跡)とは?
吉野宮とは、そもそもは、飛鳥時代、斉明天皇が造営した離宮であります。吉野に造ったので吉野離宮とも言われたりします。以後、大海人皇子をはじめ、持統天皇、文武天皇、元正天皇、聖武天皇などの行幸があり、結構重宝されたスポット。
なかでも、大海人皇子が吉野宮に出家・隠居してきたのはめっちゃ重要で。隠居といいつつ、兄の天智天皇の猜疑心をかわすための作戦だったと言われております。『日本書紀』巻28では、天智天皇が大海人皇子の吉野行きを許したことについて、「「虎に翼を着けて放すようなものだ。」という人もあった。」と伝えてるのは結構有名なお話。
大海人皇子が吉野宮に入ったのは、天智天皇10年冬10月20日(旧暦。以下同じ)。
その後、12月3日に天智天皇が崩御。天智の子、大友皇子が後を継ぐ。
翌年、大津宮では山稜を造るという口実のもと、武器を集めていることが判明。自分を滅ぼそうとしていることを察知した大海人皇子はついに挙兵を決意。
ここに天皇は詔して、「私が皇位を辞して身を退いたのは、独りで療養に努め、天命を全うしようと思ったからだ。それなのに、今、否応なく禍を被ろうとしている。私の身が滅ぼされようというのに、どうして黙っておられようか。」と言われた。と伝えます。
こうして吉野を出発したのが天武天皇元年6月24日でした。ここから古代史最大の内乱、壬申の乱が始まるのです。
ということで、
ここ、吉野宮は壬申の乱という大きな内乱の起点となり、古代史上、大きな役割を果たした訳で。この重要感とあわせて現場をチェックです。
吉野宮跡(宮滝遺跡)の場所
吉野宮跡(宮滝遺跡)は、奈良県吉野郡吉野町宮滝にあります。
県道169号線から、少し吉野川方面へ入ったところにあり。
実は、吉野宮がどこにあるのか?については、どの文献にも記録がなかったんです。このため、平安時代には吉野山に、江戸時代には大滝・宮滝・秋津のいずれか(または全部)に、その比定地が求められるようになっていった経緯アリ。
で、近現代になってやっぱりちゃんとした場所を調べようという話になり、地元の郷土史家らが宮滝で古代の瓦や土器を採取し、遺跡の確認へと繋がった次第。地元のみなさんのおかげ様です。
吉野宮跡(宮滝遺跡)はこんなところ
吉野川におりていく道もあったりします。
まとめ
吉野宮跡(宮滝遺跡)
奈良県吉野郡吉野町にある遺跡。
ココ、古代史最大の内乱である壬申の乱の起点となった場所。大海人皇子(後の天武天皇)が吉野に隠居しつつ、中央の情勢を伺いながら挙兵を決意した歴史的なスポットであります。
当サイトとしては、それこそ日本神話(『日本書紀』や『古事記』)編纂につながる契機ともなった地として激しくチェックしておきたいスポットです。
吉野宮跡(宮滝遺跡)
住所:奈良県吉野郡吉野町宮滝
駐車場:ちょっと停めて置けるスペースあり
トイレ:なし
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