足仲彥天皇(仲哀天皇)日本書紀巻第八 現代語訳と原文

仲哀天皇

 

仲哀ちゅうあい天皇は、

  • 第14代天皇
  • 在位:仲哀ちゅうあい天皇元年1月11日 – 9年2月6日
  • 日本武尊やまとたけるのみことの子。神功じんぐう皇后の夫。実在性は定かでないとされる。

 

足仲彥天皇(仲哀天皇)日本書紀巻第八 現代語訳と原文

足仲彥天皇の生い立ち

足仲彦天皇たらしなかつひこのすめらみことは、日本武尊やまとたけるのみことの第二子であった。母の皇后きさき両道入命ふたじのいりびめのみことという。垂仁すいにん天皇のむすめである。天皇は容姿端正で身丈は十尺であった。成務せいむ天皇の四十八年に皇太子となった。時に年三十一。成務せいむ天皇は男児がなかったので、自分の後継とした。

六十年、天皇が亡くなられた。翌年秋九月六日、やまと狭城盾列陵さきのたたなみのみささぎ奈良なら山陵町みささぎちょう御陵前ごりょうまえ)にほうむった。

元年春一月十一日、太子は皇位につかれた。

秋九月一日、母の皇后きさきを尊んで皇太后こうたいごうとよばれた。

冬十一月一日、群臣ぐんしんちょくして、「自分はまだ二十歳にならぬとき、父のきみはすでに亡くなっていた。魂は白鳥となって天に上った。慕い思う日は一日もやすむことがない。それで白鳥をみささぎのまわりの池に飼い、その鳥を見ながら父を偲ぶ心を慰めたいと思う」といわれた。諸国に令して白鳥を献上させた。

閏年うるうどし十一月四日、越国こしのくにから白鳥四羽をたてまつった。鳥をたてまつる使いの人が、宇治川うじがわのほとりに宿った。蘆髪蒲見別王あしかみのかまみわけのみこがその白鳥を見て、「どちらに持っていく白鳥か」と問われた。こしの人が答えて「天皇が父のきみを恋しく思われて、飼いならそうとしておられるので、たてまつるのです」といった。蒲見別王かまみわけのみここしの人に、「白鳥といっても、焼いたら黒鳥になるだろう」といわれた。そして無理に白鳥を奪っていってしまった。こしの人はそれを報告した。天皇は蒲見別王かまみわけのみこが、先王に対して無礼なことをにくまれて、兵を遣わしてこれを殺された。蒲見別王かまみわけのみこは天皇の異母弟である。

ときの人はいった。「父は天であり、このかみ仲哀ちゅうあい天皇)は天皇である。天をあなどり君にそむいたならば、どうして罪を免れようか」と。この年、太歳壬申みずのえさる

足仲彥天皇、日本武尊第二子也。母皇后曰兩道入姬命、活目入彥五十狹茅天皇之女也。天皇容姿端正、身長十尺。稚足彥天皇卌八年、立爲太子。時年卅一。稚足彥天皇無男、故立爲嗣。六十年、天皇崩、明年秋九月壬辰朔丁酉、葬于倭國狹城盾列陵。盾列、此云多々那美。

元年春正月庚寅朔庚子、太子卽天皇位。秋九月丙戌朔、尊母皇后曰皇太后。冬十一月乙酉朔、詔群臣曰「朕、未逮于弱冠、而父王既崩之。乃神靈化白鳥而上天、仰望之情一日勿息。是以、冀獲白鳥養之於陵域之池、因以覩其鳥、欲慰顧情。」則令諸國、俾貢白鳥。

閏十一月乙卯朔戊午、越國、貢白鳥四隻。於是、送鳥使人、宿菟道河邊。時、蘆髮蒲見別王、視其白鳥而問之曰「何處將去白鳥也。」越人答曰「天皇戀父王而將養狎、故貢之。」則蒲見別王、謂越人曰「雖白鳥而燒之則爲黑鳥。」仍强之奪白鳥而將去。爰越人參赴之請焉、天皇於是、惡蒲見別王无禮於先王、乃遣兵卒而誅矣。蒲見別王則天皇之異母弟也、時人曰「父是天也、兄亦君也。其慢天違君、何得兔誅耶。」是年也、太歲壬申。

 

気長足姫尊を立后

二年春一月十一日、気長足姫尊おきながたらしひめのみことを皇后とされた。これより先に叔父彦人大兄ひこひとのおおえむすめ大中媛おおなかつひめを妃とされた。麛坂皇子かごさかのみこ忍熊皇子おしくまのみこを生んだ。

二月六日、敦賀つるがにおいでになった。行宮かりみやをたててお住まいになった。これを笥飯宮けひのみやという。その月に淡路あわじ屯倉みやけを定められた。

二年春正月甲寅朔甲子、立氣長足姬尊爲皇后。先是、娶叔父彥人大兄之女大中姬爲妃、生麛坂皇子・忍熊皇子。次娶來熊田造祖大酒主之女弟媛、生譽屋別皇子。二月癸未朔戊子、幸角鹿、卽興行宮而居之、是謂笥飯宮。卽月、定淡路屯倉。

 

熊襲征伐に神功皇后同行

三月十五日、天皇は南海道みなみのみちを巡幸された。そのとき皇后と百寮ももつかさを留めおかれて、駕に従ったのは二~三人のくげと、官人数百人とで紀伊国きいのくににおいでになり、徳勒津宮ところつのみやに居られた。このとき熊襲くまそそむいてみつぎをたてまつらなかった。天皇はそこで熊襲くまそを討とうとして、徳勒津ところつをたって、船で穴門あなと山口やまぐち県)においでになった。その日使いを敦賀つるがに遣わされて、皇后にみことのりして、「すぐそこの港から出発して穴門あなとで出会おう」といわれた。

夏六月十日、天皇は豊浦津とゆらのつ山口やまぐち豊浦とようら)に泊まられた。皇后は敦賀つるがから出発して、渟田門ぬたのみなと(福井県)に至り、船上で食事をされた。そのとき鯛が沢山船のそばに集まった。皇后が鯛に酒を注がれると、鯛は酒に酔って浮んだ。そのとき漁人は沢山その魚を得て、よろこんでいった。「聖王(神功じんぐう皇后)のくださった魚だ」と。

そこの魚は六月になると、いつも浮き上がって口をパクパクさせて酔ったようになる。それはこれがもとである

秋七月五日、皇后は豊浦津とゆらのつに泊まられた。この日皇后は如意の珠(すべての願いがかなうという珠)を海から拾われた。

九月、宮室みや穴門あなとにたてて住まわれた。これを穴門豊浦宮あなとのとゆらのみやという。

八年春一月四日、筑紫ちくしにおいでになった。岡県主おかのあがたぬしの先祖の熊鰐わにが、天皇がお越しになったことをきいて、大きな賢木さかきを根こぎにして、大きな船のに立てて、上枝に白銅鏡ますみのかがみをかけ、中枝には十握剣とつかのつるぎをかけ、下枝には八尺瓊やさかにをかけて、周芳すわ沙麼さば山口やまぐち佐波さば)の浦にお迎えした。御料の魚や塩をとる区域を献上した。

申し上げて、「穴門あなとより向津野大済むかつののおおわたり大分おおいた宇佐うさ向野むくの)に至るまでを東門ひがしのみととし、名籠屋大済なごやのおおわたり福岡ふくおか戸畑とばた名籠屋崎なごやざき)を西門にしのみととし、没利島もとりしま(六連島)・阿閉島あへのしま(藍島)を限って御筥みはことし、柴島を割いて御なへ(扁瓦みなへ)とする。逆見の海を塩地しおのところ(塩をとるところ)としたい」といった。

海路の案内をして、山鹿岬やまかのさきからめぐって岡浦おかのうらに入った。しかし入口に行くと船が進まなくなった。

熊鰐わにに尋ねられ、「熊鰐わには清らかな心があってやって来ているのに、なぜ船が進まないのだろう」といわれた。

熊鰐わには、「船が進まないのは私の罪ではありません。この浦の口に男女の二神がいます。男神を大倉主おおくらぬし、女神を菟夫羅媛つぶらひめといいます。きっとこの神の御心みこころによるのでしょう」といった。

天皇はお祈りをされ、舵取りの倭国の菟田うだの人、伊賀彦いがひこはふりとして祭らされた。すると船は動いた。

皇后は別の船に乗っておられ、洞海くきのうみよりおはいりになったが、潮がひいて動くことができなかった。熊鰐わにはまた返って洞海くきのうみから皇后をお迎えしようとした。しかし船の動かないのを見て恐れかしこまり、急いで魚池・鳥池をつくって、魚や鳥を集めた。皇后はこの魚や鳥をご覧になって、怒りの心もやっと解けた。潮が満ちて岡津おかのつに泊まられた。

また筑紫ちくし伊都県主いとのあがたぬしの先祖、五十迹手いとてが天皇がおいでになるのを聞いて、大きな賢木さかきを根こぎにして、船の舳艫ともへに立て、上枝には八尺瓊やさかにをかけ、中枝には白銅鏡ますみのかがみをかけ、下枝には十握剣とつかのつるぎをかけ、穴門あなと引島ひこしま(彦島)にお迎えした。

そして申し上げるには、「手前がこの物を奉りますわけは、天皇が八尺瓊やさかにまがっているように、お上手に天下をお治め頂きますよう、また白銅鏡ますみのかがみのようにあきらかに山川や海原をご覧頂き、十握剣とつかのつるぎをひっさげて、天下を平定して頂きたいからであります」といった。

天皇は五十迹手いとてをほめられて、「伊蘇志」とおっしゃった。時の人は五十迹手いとての本国を名づけて伊蘇国いそのくにといった。いま伊都いとというのはなまったものである。

二十一日、儺県ながあがたにおつきになり、橿日宮かしひのみや香椎宮かしいぐう)に居られた。

三月癸丑朔丁卯、天皇巡狩南國、於是、留皇后及百寮而從駕二三卿大夫及官人數百而輕行之、至紀伊國而居于德勒津宮。當是時、熊襲叛之不朝貢、天皇於是、將討熊襲國、則自德勒津發之、浮海而幸穴門。卽日、使遣角鹿、勅皇后曰「便從其津發之、逢於穴門。」

夏六月辛巳朔庚寅、天皇泊于豐浦津。且皇后、從角鹿發而行之、到渟田門、食於船上。時、海鯽魚多聚船傍、皇后以酒灑鯽魚、鯽魚卽醉而浮之。時、海人多獲其魚而歡曰「聖王所賞之魚焉。」故其處之魚、至于六月常傾浮如醉、其是之緣也。秋七月辛亥朔乙卯、皇后泊豐浦津。是日、皇后得如意珠於海中。九月、興宮室于穴門而居之、是謂穴門豐浦宮。

八年春正月己卯朔壬午、幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐、聞天皇之車駕、豫拔取五百枝賢木、以立九尋船之舳、而上枝掛白銅鏡、中枝掛十握劒、下枝掛八尺瓊、參迎于周芳沙麼之浦、而獻魚鹽地、因以奏言「自穴門至向津野大濟爲東門、以名籠屋大濟爲西門、限沒利嶋・阿閉嶋爲御筥、割柴嶋爲御甂御甂、此云彌那陪、以逆見海爲鹽地。」既而導海路。自山鹿岬𢌞之入岡浦。

到水門、御船不得進。則問熊鰐曰「朕聞、汝熊鰐者有明心以參來、何船不進。」熊鰐奏之曰「御船所以不得進者、非臣罪。是浦口有男女二神、男神曰大倉主、女神曰菟夫羅媛。必是神之心歟。」天皇則禱祈之、以挾杪者倭國菟田人伊賀彥、爲祝令祭、則船得進。皇后別船、自洞海洞、此云久岐入之、潮涸不得進。時熊鰐更還之、自洞奉迎皇后、則見御船不進、惶懼之、忽作魚沼・鳥池、悉聚魚鳥。皇后、看是魚鳥之遊而忿心稍解。及潮滿卽泊于岡津。

又筑紫伊覩縣主祖五十迹手、聞天皇之行、拔取五百枝賢木、立于船之舳艫、上枝掛八尺瓊、中枝掛白銅鏡、下枝掛十握劒、參迎于穴門引嶋而獻之、因以奏言「臣敢所以獻是物者、天皇、如八尺瓊之勾以曲妙御宇、且如白銅鏡以分明看行山川海原、乃提是十握劒平天下矣。」天皇卽美五十迹手、曰「伊蘇志。」故、時人號五十迹手之本土曰伊蘇國、今謂伊覩者訛也。己亥、到儺縣、因以居橿日宮。

 

神の啓示と天皇の不信

秋九月五日、群臣ぐんしんちょくして熊襲くまそを討つことを相談させられた。ときに神があって皇后に託し神託を垂れ、「天皇はどうして熊襲くまその従わないことをうれえられるのか、そこは荒れて痩せた地である。戦いをして討つのに足りない。この国よりもまさって宝のある国、譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。目にまばゆい金・銀・彩色などが沢山ある。

これを栲衾新羅国たくぶすましらぎのくにという(栲衾は白い布で新羅の枕詞)。もしよく自分を祀ったら、刀に血ぬらないで、その国はきっと服従するであろう。また熊襲くまそも従うであろう。その祭りをするには、天皇の御船と穴門直践立あなとのあたいほむだちが献上した水田――名づけて大田という。これらのものをお供えしなさい」と述べられた。

天皇は神の言葉を聞かれたが、疑いの心がおありになった。そこで高い岳に登って遥か大海を眺められたが、広々としていて国は見えなかった。

天皇は神に答えて、「私が見渡しましたのに、海だけがあって国はありません。どうして大空に国がありましょうか。どこの神が徒に私を欺くのでしょう。またわが皇祖の諸天皇たちは、ことごとく神祇をお祀りしておられます。どうして残っておられる神がありましょうか」といわれた。

神はまた皇后に託して「水に映る影のように、鮮明に自分が上から見下ろしている国を、どうして国がないといって、わが言をそしるのか、汝はこのようにいって遂に実行しないのであれば、汝は国を保てないであろう。ただし皇后は今はじめてみごもっておられる。その御子が国を得られるだろ」といわれた。

天皇はなおも信じられなくて、熊襲くまそを討たれたが、勝てないで帰った。

九年春二月五日、天皇は急に病気になられ、翌日はもう亡くなられた。時に、年五十二。すなわち、神のお言葉を採用されなかったので早く亡くなられたことがうかがわれる。

皇后と大臣武内宿禰は、天皇の喪もをかくして天下に知らされなかった。皇后は大臣と中臣烏賊津連いかつのむらじ大三輪友主君おおみわのおおともぬしのきみ・物部胆咋連いくいのむらじ・大伴武以連たけもつのむらじちょくして、「いま天下の人は天皇の亡くなられたことを知らない。もし人民が知ったなら、気がゆるむかも知れない」といわれ、四人の大夫まえつきみに命ぜられ、百寮ももつかさを率いて宮中を守らせられた。

こっそりと天皇の遺骸を収めて、武内宿禰に任せ、海路から穴門あなとにお移しした。そして豊浦宮とゆらのみやで、灯火を焚かないで仮葬された。

二十二日、大臣武内宿禰は、穴門あなとから帰って皇后に御報告した。

この年は新羅の役があって、天皇の葬儀は行われなかった。

秋九月乙亥朔己卯、詔群臣以議討熊襲。時有神、託皇后而誨曰「天皇、何憂熊襲之不服。是膂宍之空國也、豈足舉兵伐乎。愈茲國而有寶國、譬如處女之睩、有向津國睩、此云麻用弭枳、眼炎之金・銀・彩色、多在其國、是謂𣑥衾新羅國焉。若能祭吾者、則曾不血刃、其國必自服矣、復熊襲爲服。其祭之、以天皇之御船、及穴門直踐立所獻之水田、名大田、是等物爲幣也。」

天皇聞神言、有疑之情、便登高岳、遙望之大海、曠遠而不見國。於是、天皇對神曰「朕周望之、有海無國、豈於大虛有國乎。誰神徒誘朕。復我皇祖諸天皇等、盡祭神祇、豈有遺神耶。」時神亦託皇后曰「如天津水影、押伏而我所見國、何謂無國、以誹謗我言。其汝王之、如此言而遂不信者、汝不得其國。唯今皇后始之有胎、其子有獲焉。」然天皇猶不信、以强擊熊襲、不得勝而還之。

九年春二月癸卯朔丁未、天皇、忽有痛身而明日崩、時年五十二。卽知、不用神言而早崩。一云「天皇親伐熊襲、中賊矢而崩也。」於是、皇后及大臣武內宿禰、匿天皇之喪、不令知天下。則皇后詔大臣及中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連曰「今天下、未知天皇之崩。若百姓知之、有懈怠者乎。」則命四大夫、領百寮令守宮中。竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門、而殯于豐浦宮、爲无火殯斂。无火殯斂、此謂褒那之阿餓利。甲子、大臣武內宿禰、自穴門還之、復奏於皇后。是年、由新羅役、以不得葬天皇也。

 

 



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参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)他
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