『日本書紀』の目的と独特な編纂方法を分かりやすく解説します。
『日本書紀』とは、日本の歴史書。
日本に伝存する最古の歴史書であり「正史」。全30巻。養老4年(720年)に完成。
最初の編纂指令は、天武10年(681年)。当時の国外、国内の社会情勢をもとに、天武天皇の勅によって編纂プロジェクトがスタートします。
国際的に、日本という国家の成立や、歴史の正当性を示すことを目的に編纂された『日本書紀』。日本としてのアイデンティティを確立し、国際社会に打ち出そうとしています。
一方、その編纂方法は非常に独特で、一言で言うと、
神の時代から歴史の時代へつなげる唯一無二の編纂スタイル。
コレ、『日本書紀』の超独特な世界観であり、独自性。
世界広しと言えど、こんな編纂方法を採用している歴史書はどこにもありません。
そしてコレこそが、「世界最古の国」として我が国「日本」がもつ圧倒的な歴史と独自性を際立たせているのです。
今回は、そんな『日本書紀』について、編纂経緯、目的、編纂方法を、どこよりも分かりやすく徹底的に解説していきます。
日本書紀の目的と編纂方法|神代から歴史へ直通!?それアリ??『日本書紀』の目的と編纂方法に隠されたヒミツを徹底解説!
目次
『日本書紀』とは?
まずは、『日本書紀』とは?ということで、概要をチェック。
改めて、
『日本書紀』とは、日本の歴史書。
日本に伝存する最古の歴史書であり「正史」。全30巻。養老4年(720年)に完成。
概要は以下。
書名 | 日本書紀 |
編纂年 | 720年 |
位置づけ | 日本の正史 |
目的 | 国際的に国家成立・歴史の正当性を示す |
内容 | 天地開闢~41代持統天皇 |
構成 | 全30巻 |
編者 | 川島皇子、忍壁皇子の2人の皇子を中心とする、12人の皇族・豪族・官吏 |
で、
『日本書紀』の独自性であり、絶対に押さえておくべきポイントは3つ。
①目的:国際的に、日本という国家の成立や歴史の正当性を示すことが目的。目線は外に向けられていて、そのなかで、日本としてのアイデンティティを確立し打ち出そうとしていたこと。
②内容:天地開闢から第41代の持統天皇までの歴史を掲載。って、サラッと書いてますが、天地開闢ですよ!つまり、世界の始まりから書き記してるってこと。ココ一番のポイント。世界の始まりから神世の時代、そしてそのまま歴史へつなげてるんです。この独特な編纂スタイルが『日本書紀』最大の特徴。
③編者:川島皇子、忍壁皇子の2人の皇子を中心とする12人の皇族・豪族・官吏らによって編纂。つまり、チーム制で編纂されたってこと。これも非常に独特。みんなで議論して、取捨選択して編纂されていった経緯あり。
ということで、
まずは、目的、内容、編者の3つのポイントをしっかりチェック。
コレを押さえておけば間違いありません。
ちなみに、、、
『日本書紀』の編纂には約40年ほどの年月がかかっております。
同時期に編纂された『古事記』はたったの4か月。非常に対照的。
●参考→ 年表 天智天皇、天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇
- 最初の編纂指令は、天武10年(681年)。
- 完成したのが、養老4年(720年)。
約40年、、、、
この間、宮都も、飛鳥浄御原宮から藤原京、平城京へと移行。まさに古代日本が形づくられ、日本人としての自覚やアイデンティティが確立されていった時代で。その流れと軌を同じくしてる。この間、ずーっと編纂作業が進められてたんですね。この辺りもチェックです。
で、
『日本書紀』が完成した「720年」を根拠に、2020年が「編纂1300年記念の年」とされてました。ビミョーに盛り上がらず、、、
でも、今だからこそ!知っておきたい日本の原点。『日本書紀』を通じて古代日本人の叡智と情熱を知っていただければと。
いうことで、以下、先ほどの3つのポイントに沿って詳しくチェック。
『日本書紀』編纂の目的と背景
まずは、『日本書紀』編纂の目的と背景を理解。
国際的に、日本という国家の成立や歴史の正当性を示すことが目的、でした。
つまり、編纂にあたっての「目線」は国外に向いていて、外国相手に「日本」という国としてのアイデンティティや独自性、スゴさを打ち出そうとしていた訳です。
冷静に考えてみると、途方もない「企て」ですよね。俺たちの国ってこんなにスゴイぜ、こんなにスゴイ歴史があるぜ、って、そんな自負とかプライドとか情熱とかが注ぎ込まれてる、、、フツーの発想ではございません。
で、
なぜ、そんなことをしようとしたのか?
それが大事で、
そこには、背景として、国外と国内で起こった2つの重要イベントがあるんです。
それが、
「白村江の戦い(国外)」と「壬申の乱(国内)」。
いずれも学校の歴史の時間とかに出てきたような、、、古代史における超重要なターニングポイント。
以下概要をかいつまんで。
『日本書紀』編纂の遠因 白村江の戦い
まずは「白村江の戦い」から。
「白村江の戦い」は、天智2年(663年)に起こった朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)での戦争。
構図は、
日本・百済遺民の連合軍
VS 唐・新羅連合軍
戦争なんで、それぞれの事情というものがありつつ、日本としては、当時、朝鮮半島での友好国であった百済が唐によって滅ぼされたことで、半島での影響力や足場を失う事への対抗として、百済の遺民と連合軍を結成し戦った次第。
これ、見事に敗退。。。
負けたわけです。
この敗戦をきっかけに、日本として力をつけないと話にならんという機運が高まっていった次第。だって唐が攻め込んできたらどうすんの?
実際、
唐・新羅軍侵攻の脅威に対する防衛整備として、天智天皇3年(664年)には、防人や情報伝達用の「烽」を対馬や壱岐、筑紫国などに配備。さらに、現在の福岡県太宰府市・大野城市・春日市には「水城」と呼ばれる城が築かれます。相当な危機感ですよね。
これが遠因となって、国家体制の整備、からの歴史書編纂へつながっていくのです。
まずは日本としての力をつける!そのためにも僕たち私たちって何者?的なところでちゃんとした歴史を持とうぜ!的な、、、まずチェック。
次いで、『日本書紀』編纂の直接的なきっかけとなったイベントをご紹介。
『日本書紀』編纂の契機 壬申の乱
白村江での敗戦から約10年。
天智天皇没後の、
皇位継承を巡る仁義なき戦い、壬申の乱(672年)が発生。
コレ、「古代史最大の内乱」とされており、構図は、
天智天皇の弟(大海人皇子)
VS 天智天皇の息子(大友皇子)
まさに骨肉相食む仁義なき身内バトル。
しかも、勢力構造としては、
弟(大海人皇子)ー 地方豪族
VS 息子(大友皇子)ー 中央豪族
といった感じで、地方VS中央といった様相を呈してました。
この「壬申の乱」に勝利したのが、大海人皇子。弟さんが勝った。で、天武2年(672年)に天武天皇として即位。
これを契機として、
天皇中心の中央集権国家づくりが本格的に開始されます。
コレ、壬申の乱により、中央豪族の力が弱まり、地方豪族の力が高まったことも背景としてあります。だって、中央と地方の勢力構造がひっくり返った訳で、勝利した天武天皇としては絶大なパワーを手にした次第。
それは、「天皇」という称号を使用し始めたこと、自らの名前にも「天」をつけたことからも伺えます。
天皇を中心としたムキムキマッチョ化計画のはじまりはじまり。
で、手がけたのは3つ。
天皇即位礼の構築と、律令整備、歴史書編纂。
この3つを柱として、ムキムキのジャパンビルディング。
構図としては
天皇即位礼構築 | |
律令整備 | 歴史書編纂 |
といった感じで、
全体としては「天皇中心の国家体制づくり」をテーマに、
天皇即位や統治の正統性を示すための「即位儀礼」構築。そしてそれを支える根拠として、「律令」整備や「歴史書」編纂が進められたという訳です。
ちなみに、、、
天皇即位については令和の御代替わりでも話題になりました。この代替わり儀礼も、もとを正せばこの頃に構築された即位儀礼が元になってます。
●必読:御代替りとは?日本神話に根ざす御代替りの全貌を徹底解説!
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話を戻して、
天武天皇からスタートした本気の国家体制づくり。これは、奥さんの持統天皇、そして以降の天皇に引き継がれていきます。
『飛鳥浄御原律令』施行(689年)、藤原京遷都(694年)、『大宝律令』施行(701年)、平城京遷都(710年)、『風土記』(全国の国情や古老の伝承などを記録して国に報告した地誌)編纂などなど。
ということで、
『日本書紀』編纂は、そういった背景のなかで進められた国家プロジェクトだった訳ですね。
目的はやはり、
国外向けにも国内向けにも主張できる「国家のアイデンティティ」を、「己の正当性」を、歴史書として理論づけ、根拠づけ構築すること。
壮大。。熱い!スゴイよ、ホント。。『日本書紀』編纂の目的を、その背景を是非チェック。
『日本書紀』の目的と編纂の裏事情
上記、国外・国内の2つの戦争や内乱を契機として、編纂に至った『日本書紀』ですが、実は、天武天皇として考えていた「もうひとつの裏事情」があったりします。
表向きの理由とは別に、裏側の事情としては結構切実な問題があったんです。
これについては『古事記』が詳細を伝えてます。
天武天皇による『古事記』編纂指令の部分を抜粋。
ここに(天武)天皇詔りたまひしく、『朕聞きたまへらく、諸家の賷る帝紀及び本辞、既に正実に違い、多く虚僞を加ふ、といへり。今の時に当たりて、その失を改めずは、未だ幾年をも経ずして、その旨滅びなむとす。これすなわち、邦家の経緯(国家組織の原理)、王化の鴻基(王制政治の根本)なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈(訪ね調べ)して、僞りを削り実を定めて、後葉に流へむと欲ふ』とのたまひき。
於是天皇詔之、朕聞、諸家之所賷、帝紀及本辭、既違正實、多加虚僞。當今之時、不改其失、未經幾年、其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰録帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。 (『古事記』序文より)
と。
「帝紀」とは、歴代の天皇あるいは皇室の系譜類をまとめたものとされます。歴史書の一つとして位置づけられてますが、古くに散逸して現在には伝わってません。
「本辞」は、神話や伝説や歌物語などを筆録したものとされ、同じく散逸し現在には伝わってません。
いずれにしても、天皇家の歴史や系譜をまとめた「帝紀」や、昔のことを記した「本辞」といった伝承本があり、実は、天皇家以外の豪族も持っていたようなんです。
で、、、問題は、
「諸家の賷る帝紀及び本辞、既に正実に違い、多く虚僞を加ふ」ということで、
つまり、
天皇家以外の諸家、つまり各豪族に伝わっている「帝記」や「本辞」は、「既に正実に違い、多く虚僞を加ふ」状態だった、という事。
要は、豪族の皆さんとしては、天皇家との関わりを記すことで自分の家が権威付けされるわけで、正当性、権威付けのために、あること無いことでっちあげてたんです。
天皇中心の中央集権国家づくりにあたって、
虚偽の多い伝承、勝手に天皇家との関わりを記す伝承はやはり、、
駆逐対象
であって、
そんな背景から、
かなりの危機感をもって編纂指令が出された模様。
「邦家の経緯、王化の鴻基なり」=国家組織の原理、王制政治の根本である
と、非常に強い言葉で語っていますよね。
ちなみに、、、
少し脱線しますが「歴史書の伝統」についても触れておきます。大事なので。
古く、歴史書の伝統は、
新しい王朝が、前の王朝のことを総括するかたちで編纂する
というもの。
中国には「革命」の概念があり、王朝交代が前提で発展した歴史書の伝統。
新王朝が自らの正当性を示すため、前王朝がやってたことを総括し歴史書として記す。
なんなら「アイツら、こんなに悪い政治してたんやで。だから、ウチらが正しい政治を行うために王朝を立てたんやで」って。
これは天命によるものだと。
そんな動機や契機から編纂されるのが歴史書だったわけです。
ところが、、、
日本では革命に匹敵するような王朝交代が起こらなかった。
だから、、、
誰も歴史書を編纂してこなった!
わけです。
これではいかんと、少なくとも、記録を残していかないと忘れちゃうよと、もっというと、いい加減な伝承がたくさんつくられちゃうよと、、、
ということで、先ほどの『古事記』が伝える裏事情につながっていくんです。
表向きの国家体制づくりや、国外向けの眼差しとは別に、足元の裏事情として駆逐すべきニセモノ伝承がたくさんあったってこと。チェックされてください。
『日本書紀』の編纂指令と完成
そんな背景からスタートした国家プロジェクトとしての『日本書紀』編纂事業。
ココでは、編纂はじめの指令と、完成を伝える所をご紹介。
『日本書紀』編纂経緯
まずは、編纂はじめの指令。
天武天皇即位後10年。天皇が大極殿で編纂指令。川嶋皇子はじめ12名のメンバーに勅(絶対命令)を下します。
丙戌(17日)に、(天武)天皇、大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君 三千・小錦中忌部連 子首・小錦下阿曇連 稻敷・難波連 大形・大山上中臣連 大嶋・大山下平群臣 子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めたまう。
丙戌、天皇御于大極殿以詔、川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連子首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記、定帝紀、及上古諸事。 (『日本書紀』天武10年3月条より)
大極殿に、川嶋皇子以下12名のメンバーを集め、
「帝紀及び上古の諸事を記し定め」よと、、、
勅キタ━(゚∀゚)━!
冒頭の『日本書紀』の絶対抑えるべきポイントの3つ目、チーム制での編纂というのがココ。
川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君 三千・小錦中忌部連 子首・小錦下阿曇連 稻敷・難波連 大形・大山上中臣連 大嶋・大山下平群臣 子首
当時のスーパーエリートの皆さん。
目的は、対外的に主張できる日本という国の正当性やスゴさを示すこと。
なので、このために、当時のエリートの皆さんによって大陸の最先端理論や知識の体系をフル活用。
もちろん、正しいこと、正しくないこと、伝えるべきこと、伝えるべきでないこと、取捨選択、いろいろな、それこそ政治的な意図も働いての編纂作業。12人のチームメンバーが知恵を絞って日本の歴史を組み上げていく、、、
壮大
そして
途方もない、、、
熱い情熱と知恵と叡智と涙と、ありとあらゆるものを注ぎ込んで編纂作業が進められていったと想像します。このへんはロマンの世界やね。
そして、、、
40年後、、、
『日本書紀』成立の経緯
飛鳥時代、飛鳥浄御原宮でスタートした編纂事業は、その後、藤原京、平城京へと都を移しながら、律令整備とか体制づくりとかムキムキになりながら、ようやく、養老4年(720年)に完成。
ところが、、、
『日本書紀』にはその成立経緯を伝える記載が、、、ない!
なんてこった。。。
実は、成立経緯については、後に成立した『続日本紀』で伝えています。それがコチラ。
以前から、この一品舎人親王が、天皇の勅命により『日本紀』の編纂を行っていたが、ここに至って完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した。
先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷 (『続日本紀』養老4年5月癸酉条より)
と。
「卅」とは、三十(さんじゅう)の意味で、十が三つ横に並んだ形がもとになってます。オモロー
40年かけてようやく完成した『日本書紀』。。。ワナワナ
なのに、意外にアッサリ??
ポイントは、書名。
『続日本紀』では、「日本紀」と伝えており、「日本書紀」じゃないんです。で、実はココから、後世において論争が巻き起こってしまったりします。。
とにもかくにも、飛鳥時代、天武天皇の勅によってスタートした『日本書紀』編纂プロジェクトは、チーム制のもとで引き継がれ、40年という年月を経て奈良時代にようやく完成したという流れ。コレ、しっかりチェックです。
『日本書紀』の内容と独自性
ココからは、『日本書紀』の内容について解説していきます。
改めて、目的は、、
国外向けにも国内向けにも主張できる「国家のアイデンティティ」を、「己の正当性」を、歴史書として理論づけ、根拠づけ構築すること。
そのために、、全30巻を編纂。内容はさーっと以下。
巻第一(神代上) | 第一段:天地開闢と純男神 第二段:男女耦生八神 第三段:神世七代 第四段:国生み 第五段:神生み 第六段:誓約と子生み 第七段:勝ちさびと石窟幽居 第八段:八岐大蛇退治 第九段:天孫降臨 |
巻第二(神代下) | 第十段:海幸・山幸 第十一段:四男神 |
巻第三(神武紀) | 初代:神日本磐余彦天皇(神武天皇) |
巻第四 |
|
巻第五 | 10代:御間城入彦五十塑殖天皇(崇神天皇) |
巻第六 | 11代:活目入彦五十狭茅天皇(垂仁天皇) |
巻第七 | 12代:大足彦忍代別天皇(景行天皇) 13代:稚足彦天皇(成務天皇) |
巻第八 | 14代:足仲彦天皇(仲哀天皇) |
巻第九 | 気長足姫尊(神功皇后) |
巻第十 | 15代:誉田天皇(応神天皇) |
巻第十一 | 16代:大鷦鷯天皇(仁徳天皇) |
巻第十二 | 17代:去来穂別天皇(履中天皇) 18代:瑞歯別天皇(反正天皇) |
巻第十三 | 19代:雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇) 20代:穴穂天皇(安康天皇) |
巻第十四 | 21代:大泊瀬幼武天皇(雄略天皇) |
巻第十五 | 22代:白髪武広国押稚日本根子天皇(清寧天皇) 23代:弘計天皇(顕宗天皇) 24代:億計天皇(仁賢天皇) |
巻第十六 | 25代:小泊瀬稚鷦鷯天皇(武烈天皇) |
巻第十七 | 26代:男大迹天皇(継体天皇) |
巻第十八 | 27代:広国押武金日天皇(安閑天皇) 28代:武小広国押盾天皇(宣化天皇) |
巻第十九 | 29代:天国排開広庭天皇(欽明天皇) |
巻第二十 | 30代:渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇) |
巻第二十一 | 31代:橘豊日天皇(用明天皇) 32代:泊瀬部天皇(崇峻天皇) |
巻第二十二 | 33代:豊御食炊屋姫天皇(推古天皇) |
巻第二十三 | 34代:長足日広額天皇(舒明天皇) |
巻第二十四 | 35代:天豊財重日足姫天皇(皇極天皇) |
巻第二十五 | 36代:天万豊日天皇(孝徳天皇) |
巻第二十六 | 37代:天豊財重日足姫天皇(斉明天皇) |
巻第二十七 | 38代:天命開別天皇(天智天皇) |
巻第二十八 | (39代:弘文天皇) 壬申の乱 |
巻第二十九 | 40代:天渟中原瀛真人天皇(天武天皇) |
巻第三十 | 41代:高天原広野姫天皇(持統天皇) |
と。
ちなみに、巻第三以降に登場する天皇の名には2つあって、
- 諱:天皇が在世中の名。没後、その名を忌むので「いみな」
- 諡:没後に奉られる名
で、天皇の名は諱または和風諡号であらわされており、その特徴は、地名や動植物、体に関連する言葉などの単語の組み合わせからできてます。
で、
ココでしっかり押さえていただきたい『日本書紀』最大のポイント
それは、
神の時代から歴史の時代へつなげてる事。
・:*:・:(*゚Д゚*)キタコレ:・:*:
巻第一は、天地開闢から始まり、巻第二と合わせて神世の時代を伝えます。
そしてその流れを承けての巻第三(神武紀)で、神の時代から人の時代へ、神話から歴史へ接続されていく。
壮大。。。
コレ、『日本書紀』独特の世界観であり、唯一無二の独自性であります。
世界広しと言えど、こんな編纂方法を採用している歴史書はどこにもありません。
そしてコレこそが、
「世界最古の国」として我が国「日本」がもつ圧倒的な歴史と独自性を際立たせているのです。
つまり、
「日本」という国、そして天皇は、神の時代から続いているスゴイ国、という事になる訳です。
確かに、対外的にも主張できる日本のアイデンティティを歴史書として構築しようぜ、とは言った。けどさ、、、
そこまでやる??
天地開闢から、神世の時代からつなげる???
とんでもない構想力であり、企てですよね。『日本書紀』の面白さ、その最大の魅力はまさにココ。
神話と歴史が繋がってる、その壮大な世界観であります。
俺たちの国ってこんなにスゴイぜ、こんなにスゴイ歴史があるぜ、って、そんな自負とかプライドとか情熱とかが注ぎ込まれてる、、、フツーの発想ではございません。これ、激しく重要なのでしっかりチェックされてください。
まとめ
『日本書紀』は日本の歴史書。
日本に伝存する最古の正史で、全30巻。養老4年(720年)に完成。
舎人親王らの撰で、神代から持統天皇の時代までを扱います。
『日本書紀』最大のポイントは、
神の時代から歴史の時代へつなげてる事。
コレ、『日本書紀』の超独特な世界観であり、唯一無二の独自性。
世界広しと言えど、こんな編纂方法を採用している歴史書はどこにもありません。
そしてコレこそが、
「世界最古の国」として我が国「日本」がもつ圧倒的な歴史と独自性を際立たせています。
おまけとして当サイト独自コンテンツをご紹介!必読です!!
『日本書紀』で伝える日本神話の範囲、定義
『日本書紀』全30巻あるなかで、
「日本神話」として記載されているのが、
「巻一」と「巻二」。そして神武紀の「巻三」
神武紀の最後、神武天皇が橿原で初代天皇として即位した後は、
天皇の即位年を起点として、例えば「神武天皇◎年◎月◎日(日は十干十二支の組み合わせによる)」と表示されるようになります。
つまり、「歴史の記録」がこれにより始まるので、神武天皇の即位が「歴史」と「歴史以前」とを分かつ画期となる訳ですね。
なので、当サイトとしては、
神代紀 巻一、二 | 神話の時代 |
神武紀 巻三 | 神話と歴史の時代 |
橿原即位以後 | 歴史の時代 |
として区別。
ただ、大別すれば、神代~即位までとそれ以降とに二分し、便宜的にですが、前者を神話、後者を歴史と規定することにしています。
『日本書紀』巻第一
→「『日本書紀』巻第一(神代上)第五段 一書第2,3,4,5」
続きをお楽しみに!
→「『日本書紀』の「一書」とは?『日本書紀』本伝と一書の読み解き方法を徹底解説!」
『日本書紀』巻第二
更新中!
『日本書紀』巻第三(神武紀)
『神武の生い立ち』 『東征発議と旅立ち』
『東征順風・戦闘準備』『難波碕から白肩の津へ』『孔舎衛坂激戦』『長兄「五瀬命」の死』『熊野灘海難と兄の喪失』
『熊野荒坂で全軍昏倒』『頭八咫烏の導きと熊野越え』
『兄猾と弟猾』『吉野巡幸』『高倉山』『香具土採取と顕斎』『国見丘の戦いと忍坂掃討作戦』 『兄磯城討伐』『兄磯城討伐・磐余制圧②』『兄磯城討伐・磐余制圧③』
『金鵄飛来=祥瑞応見』『長髄彦最終決戦』
『中洲平定と事蹟伝承』『宮殿造営宣言』『十干・十二支を使った暦日』
『橿原宮即位と東征完結』『正妃蹈韛五十鈴媛命』『媛蹈韛五十鈴姫命の出自』『論功行賞と国見』
神話ロマンの旅に是非!!!
日本書紀編纂の現場!奈良にカマン!
日本神話を分かりやすく解説!
参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)
大変興味深く読ませていただいています。
少し質問があるのですが、ご教授いただけると大変うれしく思います。
質問は、「巻第一(神代上)第一段」に記載の純男三神の生まれ順についてです。
内容をまとめると下記の様になると思いますが、間違っていませんか?
・本伝 :国常立尊→ 国狭槌尊→ 豊斟渟尊
・一書1:国常立尊→ 国狭槌尊→ 豊国主尊
・一書2:可美葦牙彦舅尊→ 国常立尊→ 国狭槌尊→ 葉木国
・一書3:可美葦牙彦舅尊→ 国底立尊
・一書4:国常立尊→ 国狭槌尊
天御中主尊→高皇産霊尊→神皇産霊尊
・一書5:国常立尊
・一書6:天常立尊→ 可美葦牙彦舅尊→ 国常立尊
上記で間違いなければ、純男三神の生まれ順は下記と思われます。
国常立尊(国底立尊)→国狭槌尊→豊斟渟尊(豊国主尊、葉木国)
ただ、ここで、一書2と一書3に記載されている可美葦牙彦舅尊が
国常立尊(国底立尊)より先に生まれたことになっています。
又、一書6では、さらに可美葦牙彦舅尊よりも先に天常立尊が生まれたとあります。
これをどの様に理解すればいいのでしょうか?
又、一書4には、天御中主尊→高皇産霊尊→神皇産霊尊 との記載もありますが、
天御中主尊=国常立尊(国底立尊)
高皇産霊尊=国狭槌尊
神皇産霊尊=豊斟渟尊(豊国主尊、葉木国)
ということでしょうか?
当方の理解不足で大変恐縮ではありますが、ご教授いただけると大変うれしく思います。
以上、宜しくお願い致します。