味耜高彦根神とは?光輝くほどの容姿端麗だが死人と間違えられ激オコする神。日本神話をもとに味耜高彦根神を分かりやすく解説します。
『日本書紀』第九段 現代語訳
〔本伝〕
そこで高皇産霊尊は、さらに諸神を集めて、遣わすべき神を尋ねた。皆は、「天國玉の子の天稚彦は勇壮です。試してみるべきでしょう。」と言った。そこで、高皇産霊尊は天稚彦に天鹿児弓と天羽羽矢を授けて遣わした。だが、この神もまた誠実ではなかった。葦原中国に到着するや顕國玉の娘の下照姫<またの名は高姫。またの名は稚國玉>を娶って、そのまま住み着いて、「私もまた葦原中國を統治しようと思う。」と言って、報告に戻らなかった。
さて、高皇産霊尊は天稚彦が久しく報告に来ないことを不審に思い、無名雉を遣わして様子を窺わせた。その雉は飛び降って、天稚彦の門の前に植わっていた神聖な杜木の梢にとまった。すると、天探女がこれを見つけて、天稚彦に「不思議な鳥が来て、杜の梢にとまってます。」と言った。天稚彦は、高皇産霊尊から授かった天鹿児弓と天羽羽矢を手に取り、雉を射殺した。その矢は雉の胸を深く貫き通って、高皇産霊尊の御前に届いた。すると、高皇産霊尊はその矢を見て「この矢は昔、私が天稚彦に授けた矢である。見ると血が矢に染みている。思うに、これは国神と戦って血が付いたのだろうか。」と言った。そして、矢を取って下界に投げ返した。その矢は落下して、そのまま天稚彦の仰臥している胸に命中した。その時、天稚彦は新嘗の祭事をして仰眠しているところだった。その矢が命中してたちどころに死んだ。これが、世の人が「反矢恐るべし」と言うことの由縁である。
天稚彦の妻の下照姫が大声で泣き悲しみ、その声は天に届いた。この時、天國玉はその泣く大声を聞いて、天稚彦がすでに死んでしまったことを知り、疾風を遣わして、屍を天上に持ってこさせ、さっそく喪屋を造って殯を行った。
そして川雁を持傾頭者と持帚者とした。<一説には、鶏を持傾頭者とし、川雁を持帚者としたと言う>。また、雀を舂女とした。<一説には、川雁を持傾頭者とし、また持帚者とした。鴗(かわせみ)を尸者とした。雀を舂女とした。鷦鷯を哭者とした。鵄を造綿者とした。烏を宍人者とした。すべて諸々の鳥に殯の所役に任命したと言う>。そのようにして八日八夜の間、大声で泣き悲しんで歌い続けた。
これより前、天稚彦が葦原中國にいた頃、味耜高彦根神と親交があった。そこで、味耜高彦根神は天に昇って喪を弔った。その時、この神の顔かたちは、まさに天稚彦の生前の容貌そのままであった。そこで、天稚彦の親族や妻子はみな、「我が君は死なずに、なお生きていた。」と言って、帯にすがりつき、喜んだりひどく泣いたりした。その時、味耜高彦根神は激怒して顔を真っ赤にして、「朋友の道として弔うのが道理だ。だからこそ、穢らわしいのもいとわず、遠くからやってきて哀悼の意を表しているのだ。その私を、どうして私を死人と間違えるのか。」と言って、即座に帯びていた剣の大葉刈<またの名は神戸劒>を抜いて、喪屋を斬り倒した。これがそのまま落ちて山となった。今の美濃國の藍見川の川上にある喪山が、これである。世の人が、生者を死者と間違えることを忌むのは、これがその由縁である
〔一書1〕
ある書ではこう伝えている。天照大神は天稚彦に勅して、「豊葦原中國は我が子が君主たるべき国である。しかしながら、思うに残忍凶暴な邪神どもがいる様子だ。そこで、まずお前が行って平定しなさい。」と言った。そして天鹿児弓と天眞鹿児矢を授けて遣わした。天稚彦は勅を受けて豊葦原中国に降り、國神の娘たちを次々に娶り、八年の歳月が過ぎても復命しなかった。
そこで天照大神は思兼神を召して、天稚彦が帰って来ない事情を問うた。すると思兼神は熟慮して、「また雉を遣わして尋ねさせましょう」と告げた。そこで、その神の策に従って、さっそく雉を遣わして様子をうかがわせた。その雉は飛び下りると、天稚彦の門の前の神聖な杜樹の梢に止まって、「天稚彦よ、どうして八年の間、復命しないのか」と鳴いて問うた。その時、國神で天探女という名の者がいた。その雉を見て、「鳴き声の悪い鳥がこの樹の上にとまっています。射殺しなさい。」と言った。天稚彦は、そこで天神から賜った天鹿児弓と天眞鹿児矢を取り、すぐに射殺してしまった。その矢は雉の胸を貫き、ついに天神の御前にまで届いた。その時、天神はその矢を見て、「これは昔、私が天稚彦に授けた矢である。今になってどうして飛んできたのだろう」と言って、矢を取り呪いをかけて「もし悪心で射たのならば、天稚彦はきっと災いに遭うだろう。もし平心で射たのならば、無事でいるだろう。」と言い、矢を投げ返すと、その矢は中国に落ちて天稚彦の仰臥している胸に命中し、たちどころに死んでしまった。これが世の人が「返矢恐るべし」と言うことの由縁である。
そこで、天稚彦の妻子たちが天から降って来て、柩を持って天に昇っていき、天上に喪屋を造って殯をして大声で泣いた。これより前、天稚彦は味耜高彦根神と親友であった。そこで、味耜高彦根神は天に昇って喪を弔い、大声をあげて泣いた。その時、この神の容貌は、もともと天稚彦と同じといってもよいほど似ていた。そのため、天稚彦の妻子たちはこの神を見て喜び、「我が君は死なずにまだ生きていた。」と言って、その帯にとりすがって離そうとしなかった。その時、味耜高彦根神は怒り、「親友が亡くなった。だから私はすぐに弔いに来たのだ。どうして死者と私を間違えるのか」と言って、十握劒を抜いて喪屋を斬り倒した。その小屋が落ちて山となった。これが美濃國の喪山である。世の人が死者を自分と間違えることを忌むのは、これがその由縁である。
時に、味耜高彦根神は容姿端麗で、二つの丘、二つの谷にわたって照り輝いた。そこで、喪に集まった人が歌を詠んだ。――ある伝えに、味耜高彦根神の妹の下照媛が、集まった人たちに、丘や谷に照り輝くのは味耜高彦根神であることを知らせようと思った。それで詠んで、と言う。
天なるや 弟棚機の 頸がせる 玉の御統の 穴玉はや み谷二渡らす 味耜高彦根
(天上にいる若い機織女の首にかけている連珠の美しい穴玉よ。そのように麗しく谷二つに渡って輝いている味耜高彦根神よ。)
また、歌を詠んで、
天離る 夷つ女の い渡らす迫門 石川片淵 片淵に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 石川片淵
(天から遠く離れた田舎の娘が渡る狭門の石川の片淵。その片淵に鳥網を張り渡し、その網目にたぐり寄せられるように、鳥たちはこちらに寄せられ、そのように寄っておいで。この石川の片淵で。)
といった。
この二首の歌は今、夷曲と言う。
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