天照大神(日神)とは?高天原の統治者として世界を隅々まで照らす神。日本神話をもとに天照大神を分かりやすく解説します。
目次
『日本書紀』第五段 現代語訳
〔本伝〕天下之主者生み(神生み)
次に海を生んだ。次に川を生む。次に山を生む。次に木の祖、句句廼馳を生む。次に草の祖、草野姫を生む。またの名を野槌と言う。
そして伊奘諾尊・伊奘冉尊は共に議り、「我々はすでに大八洲国をはじめ山川草木まで生んでいる。どうして地上世界の統治者を生まないでいようか。」と言った。
そこで、共に日神を生む。名を大日孁貴と言う。(大日孁貴、ここでは於保比屢咩能武智と言う。孁は、音は力丁の反である。ある書には、天照大神と言う。ある書には、天照大日孁尊と言う。)この子は、光り輝くこと明るく色とりどりで、世界の内を隅々まで照らした。それで、二柱の神は喜び「我々の子供は多いけれども、まだこのように霊妙不可思議な子はいない。長くこの国に留め置くのはよくない。すぐに天に送り、天上の事を授けるべきだ。」と言った。この時は、天と地がまだたがいに遠く離れていなかった。それで天柱を使って、天上に送り挙げたのである。
〔一書1〕御寓之珍子生み
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊が「私は天下を統治する優れて貴い子を生もうと思う。」と言い、左の手で白銅鏡を持つと、そこから化し出る神があった。これを大日孁尊と言う。右手に白銅鏡を持つと、また化し出る神があった。これを、月弓尊と言う。また首を廻らせて見たその瞬間に、化す神があった。これを、素戔嗚尊と言う。
先に化し出た大日孁尊および月弓尊は、ともに性質が明るく麗しかった。それゆえ、伊奘諾尊は両神に天地を照らし治めさせた。素戔嗚尊は、生まれつき残酷で害悪なことを好む性格であった。それで根国に下して治めさせた。
珍、ここでは「うづ」と言う。顧眄之間、ここでは「みるまさかりに(顧みるまさにその瞬間に)」と言う。
伊奘諾尊は黄泉から辛うじて逃げ帰り、そこで後悔して「私は今しがた何とも嫌な見る目もひどい穢らわしい所に行ってしまっていたものだ。だから我が身についた穢れを洗い去ろう。」と言い、そこで筑紫の日向の小戸の橘の檍原に至り、禊祓をした(身の穢れを祓い除いた)。
こういう次第で、身の穢れをすすごうとして、否定的な言いたてをきっぱりとして「上の瀬は流れが速すぎる。下の瀬はゆるやかすぎる。」と言い、そこで中の瀬で濯いだ。これによって神を生んだ。名を八十枉津日神と言う。次にその神の枉っているのを直そうとして神を生んだ。名を神直日神と言う。次に大直日神。
また海の底に沈んで濯いだ。これによって神を生んだ。名を底津少童命と言う。次に底筒男命。また潮の中に潜ってすすいだ。これに因って神を生んだ。名を中津少童命と言う。次に中筒男命。また潮の上に浮いて濯いだ。これに因って神を生んだ。名を表津少童命と言う。次に表筒男命。これらを合わせて九柱の神である。その中の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、これが住吉大神である。底津少童命、中津少童命、表津少童命は、安曇連らが祭る神である。
そうして後に左の眼を洗った。これによって神を生んだ。名を天照大神と言う。また右の眼を洗った。これに因って神を生んだ。名を月読尊と言う。また鼻を洗った。これに因って神を生んだ。名を素戔嗚尊と言う。合わせて三柱の神である。
こういう次第で、伊奘諾尊は三柱の御子に命じて「天照大神は、高天原を治めよ。月読尊は、青海原の潮が幾重にも重なっているところを治めなさい。素戔嗚尊は天下を治めなさい。」と言った。
〔一書11〕天照大神の天上統治と農業開始
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊は、三柱の子それぞれに「天照大神は、高天原を治めよ。月夜見尊は、日と並んで天を治めよ。素戔嗚尊は、海原を治めよ。」と勅任した。
こうしてすでに天照大神は天上にあり、月夜見尊に対して「葦原中国に保食神がいると聞く。月夜見尊よ、そこに行き様子をうかがってきなさい。」と言った。
月夜見尊がその勅命を受けて降り、保食神のもとに到ると、保食神はさっそく首を巡めぐらし、国に向かえば口から飯を出し、また海に向かえば大小さまざまな魚を口から出し、また山に向かえば大小さまざま獣を口から出した。それらのありとあらゆる品物を備え、数え切れないほどたくさんの机に積み上げて饗応した。この時、月夜見尊は怒りをあらわにして、「なんと汚らわしい、卑しい。口から吐いた物なんかを、敢えて私に喰わせてよいはずはないだろう。」と言い、剣を抜いて打ち殺した。
そうして後に復命して詳しくこの事を報告した。この時、天照大神は激怒し、「汝は悪い神だ。もう顔など見たくもない。」と言った。こうして、天照大神は月夜見尊と、日と夜と時を隔てて住んだ。
この後に、天照大神は天熊人を遣わし、往って様子を看させた。この時、保食神は実際すでに死んでいた。ただ、その神の頭頂部は化して牛馬と成り、額の上に粟が、眉の上に蚕が、眼の中に稗が、腹の中に稲が、陰には麦と大豆、小豆が生じていた。天熊人はそれを全て取って持ち去り、天照大神に奉った。
時に天照大神は喜び、「この物は、この世に生を営む人民が食べて活きるべきものである。」と言って、粟・稗・麦・豆を陸田(畑)の種とし、稲を水田の種とした。またこれにより天邑君(村長)を定めた。そこでさっそくその稲の種を、天狭田と長田に始めて植えた。その秋には、垂れた稲穂が握り拳八つほどの長さにたわむほどの豊作であり、たいへん快よい。また、口の中に蚕を含み、糸を抽き出すことができた。これをとり始めて養蚕の道が拓けたのである。
保食神、ここでは「うけもちのかみ」と言う。顕見蒼生、ここでは「うつしきあをひとくさ」と言う。
『日本書紀』第六段 現代語訳
〔本伝〕
そこで(根国への追放処分を受け)、素戔嗚尊は伊奘諾尊に請い、「私はいま勅命を奉じて根国に行こうとしています。ですから、しばらく高天原に出向き、姉(天照大神)とお会いしてその後、永久にこの世界から退去することにしたいと思います。」と言った。伊奘諾尊はこの請願を勅許した。そこで、素戔嗚尊は天に昇り、天照大神のもとに詣でたのである。
この後、伊奘諾尊は、はかり知れない仕事をすでにやり遂げ、霊妙な命運が遷るべきであった。それで終の住み処となる幽宮を淡路の洲に構え、ひっそりと身をとこしえに隠したのである。またこうした伝えもある。伊奘諾尊は、その仕事がすでに行き届き、德も偉大であった。そこで天に登り、天神に報告した。これにより、日の少宮に留まり宅むのである。少宮、ここでは「倭柯美野」と云う。
はじめ素戔嗚尊が天に昇った時、大海がそれで激しく波打って揺れ動き、山岳はそのため鳴りとどろいた。これは、神の本性の雄々しく猛々しいことがそうさせているのである。天照大神は、もとよりその神の暴悪を知っていた。素戔嗚尊の天に昇って来るさまを聞くに及んで、顔色をにわかに変えて驚き、「私の弟の来るのは、よもや善意ではあるまい。思うに、きっと国を奪う意志があるはずではないか。そもそも父母がすでにどの子をも任じ、だからそれぞれが統治する境界をもっている。それなのにどうして赴くべき国を棄て置き、ことさら此処(高天原)を奪い取ろうなどとするのか。」と言った。そこで防禦すべく、髪を結って髻(男の髪型)とし、裳(女の上下組み合わせた衣と裳、裳は腰から下をおおう衣服)を縛って袴とした上で、八坂瓊の五百箇御統(大きな玉をいくつも紐で通してつなげた玉飾り)で、(御統 ここでは「美須磨屢」と云う)その髻・鬘(髪飾り)および腕に巻き付け、また背には千箭(数多くの矢)(千箭 ここでは「知能梨」と云う)の靫(矢を入れる武具)と五百箭の靫を負い、臂に稜威(相手を恐れさせる強盛な威力)(稜威 ここでは「伊都」と云う。)の髙鞆(弓を射るさい弦の当たるのを防ぐ一方、当たって高い音を出すために左手首の内側に巻き付ける武具)を著け、弓彇(弦をかける弓の両端部。上端を末弭、下端を本弭という)を振りたて、剣の柄を力強く握りしめて、堅い大地を踏んで股までのめり込ませ、そのまま淡雪のように蹴散らかし、(蹴散 ここでは「倶穢簸邏邏箇須」と云う)稜威の雄詰(相手を威圧する雄壮な声)(雄詰 ここでは「烏多稽眉」と云う)を奮わせ、稜威の嘖譲(責め叱りたてる言葉)を発して、面と向かい問い詰めた。
素戔嗚尊は、これに対して「私には、もともと邪悪な心(具体的には高天原の乗っ取り)はない。ただ、すでに父母の厳しい勅命があり、永久に根国に行こうとしているのです。それでもし姉にお会いしなければ、私はどうしてあえて去くことができるでしょう。それですから雲や霧のなかを跋渉し、遠路はるばる参り来たのです。姉上が喜ぶどころか、厳しいお怒りの顔をなさるとは思いもしませんでした。」と答えた。その時、天照大神がまた「もしそうだとしたら、何をもって爾の赤き心(潔白)を証明しようとするのか。」と問うと、これには「姉と共に誓(事前に決めておいた通りの結果になるか否かをもって、神意を判定する占い)することをお願いします。この誓約の中では、(誓約之中 ここでは「宇気譬能美難箇」と云う)必ずや子を生むでしょう。もし私の生むのが女であれば、濁きこころがあるとしてください。もし男であれば、清き心があるとしてください。」と答えた。
そこで、天照大神が素戔嗚尊の十握剣(握は拳一つの幅。大剣)を索め取り、これを三段に打ち折り、天の真名井(神聖な井)に濯いで、噛みに噛んで(○然咀嚼 ここでは「佐我弥爾加武」と云う)砕き、吹き棄てた息吹によってできた細かな霧に(吹棄気噴之狭霧 ここでは「浮枳于都屢伊浮歧能佐擬理」と云う)生まれた神が、名を田心姫と言う。次に湍津姫、次に市杵嶋姫。合わせて三女である。今度は、素戔嗚尊が天照大神の髻・鬘および腕に纏いている八坂瓊の五百箇御統を乞い取り、これを天の真名井に濯いで、噛みに噛んで砕き、吹き棄てた息吹の細かな霧に生まれたのが、名を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊と言う。次に天穂日命、是は出雲臣・土師連等の祖である。次に天津彦根命。是は凡川内直・山代直等の祖である。次に活津彦根命。次に熊野櫲樟日命。合わせて五男である。
この時、天照大神は勅して「その物実(子としてうまれるそのもとの根源)を原ねると、八坂瓊の五百箇御統は、間違いなく私の物である。だから、そちらの五男神はすべて私の子である。」と言い、そうして引き取って子として養育した。また勅して「その十握剣は、まぎれもなく素戔嗚尊の物である。だから、こちらの三女神はすべて爾の児である。」と言い、素戔嗚尊に授けた。三女神は、筑紫の胸肩君等の祭る神がこれである。
〔一書1〕
ある書はこう伝えている。日神は、もともと素戔嗚尊に勇猛で物を突き抜けてその上に出るような意のあることを知っていた。その天に昇り至るに及んで、思うようは、「弟の来たわけは、決して善意ではあるまい。必ずやわたしの天の原を奪うに違いない。」と。そこで大夫の武の装備をととのえ、身には十握剣・九握剣・八握剣を帯び、背に靫を負い、また臂には稜威の髙鞆を著け、手に弓と箭をつかみ、みずから迎え防禦した。この時素戔嗚尊が日神に告げて「私はもともと悪い心(国を奪い取る反逆心)などありません。ただ姉とお会いしたいと思い、ただそれだけで少しの間来たに過ぎないのです。」と言った。そこで日神は、素戔嗚尊と共に向き合って誓を立て「もし爾の心が明浄で、国を力づくで奪い取る意志がないのならば、汝の生む児は、必ず男のはずだ。」と言い、そう言い終わると、先に身に帯びている十握剣を食べて児を生んだ。名を瀛津島姫と言う。また九握剣を食べて児を生んだ。名を湍津姫と言う。また八握剣を食べて児を生んだ。名を田心姫という。合わせて三女神である。
そうしたあと今度は素戔嗚尊がその頸にかけている五百箇御統の瓊(数多くの玉を数珠つなぎした美玉)を天渟名井、またの名は去来の真名井に濯いで食べ、そうして子を生んだ。名を正哉吾勝勝速日天忍骨尊と言う。次に天津彦根命。次に活津彦根命。次に天穂日命。次に熊野忍蹈命。合わせて五男神である。
それゆえ、素戔嗚尊はすでに勝の験(証拠)を得た。そこで、日神は、素戔嗚尊にもともと悪意がなかったことをまさに知り、そこで日神の生んだ三女神を筑紫の洲に降した。これにより、三女神に教えて「汝三神は、道中(〔一書 第三〕に「海の北の道中」という海路をいう。この玄界灘の沖ノ島に沖津宮、大島に中津宮、宗像に返津宮がある)に降り居て、天孫(後に降臨する火瓊瓊杵尊)を助け奉り、天孫に祭られなさい。」と言った。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。素戔嗚尊が天に昇ろうとする時に、名を羽明玉という神が迎え奉り、めでたいしるしの八坂瓊曲玉(大きな美しい珠の湾曲した玉)を進呈した。それで、素戔嗚尊はその瓊玉を持って天上に到ったのである。
この時、天照大神は、弟に悪い心(国を奪い取る邪悪な心)があることを疑い、軍兵を動員して問い詰めた。素戔嗚尊はこれに対して「私の来た理由は、実際に姉とお会いしたいと思ったからです。また珍宝の瑞八坂瓊曲玉を献上しようとしただけです。それ以外にことさら意図などありません。」と答えた。この時また天照大神が「汝のその言葉が嘘か実か、何を験(証拠)とするのか。」と問うと、答えて「私が姉と共に誓約を立てることを要請します。この誓約の間に、女を生めば黒心(国を奪い取る謀反の心)であり、逆に男を生んだら赤心(潔白な心)です。」と答えた。そこで天真名井を三処掘り、ともに向き合って立った。
この時、天照大神が素戔嗚尊に向かって「私の帯びる剣を、今汝に奉ろう。汝の持っている八坂瓊曲玉を私に授ければよい。」と言った。このように約束し、共に所持品を交換して取った。そうしたあと天照大神は八坂瓊曲玉を天真名井に浮かべ寄せて、瓊の端を噛んで断ち切り、口から吹き出した気息の中に神を化生した。名を市杵嶋姫命という。これが大海の遠い沖(沖津宮)に居る神である。また瓊の中ほどをかんで断ち切り、口から吹き出した
気息の中に神を化生した。名を田心姫命という。これが中ほどの沖あい(中津宮)に居る神である。また瓊の尾(尻に当たる部分)をかんで断ち切り、口ちから吹き出した気息の中に神を化生した。名を湍津姫命という。これが浜辺(辺津宮)に居る神である。合わせて三女神である。
そこで今度は素戔嗚尊が持っている剣を天(あまの)真(ま)名井(ない)に浮かべ寄せて、剣の末(すえ)(切っ先)をかんで断ち切り、口ちから吹き出した気息の中に神を化生した。名を天穂日命という。次に正哉吾勝勝速日天忍骨尊。次に天津彦根命。次に活津彦根命。次に熊野櫲樟日命。合わせて五男神であると、爾云う(「爾」が以上の記述全体を指す。「一書曰」に対応する締め括り辞)。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。日神は素戔嗚尊と天安河を隔てて向き合い、そこで誓約を立て「汝にもし姧賊之心(国を奪い取る邪悪な心)がないのであれば、汝の生む子は必ず男である。もし男を生めば、私は子として天原を治めさせる。」と明言した。さてそこで、日神が先にその帯びている十握剣を食べて児の瀛津嶋姫命を化生した。亦の名を市杵嶋姫命という。また九握剣を食べて児の湍津姫命を化生した。また八握剣を食べて児の田霧姫命を化生した。
そうして今度は素戔嗚尊がその左手の髻に纏きつけている五百箇統の瓊を口に含み、吐き出して左手の掌中に著けて男を化生した。そこでこれを称えて「なんとまさしくも、私が勝ったのだ。」と言った。だから、それによって名付け、勝速日天忍穂耳尊と言う。また右の髻の瓊を口に含み、吐き出して右手の掌中に著け、天穂日命を化生した。また頸にかけている瓊を口に含み、吐き出して左臂の中に著け、天津彦根命を化生した。また右臂の中から活津彦根命を化生した。また左足の中より熯之速日命を化生した。また右足の中から熊野忍蹈命を化生した。亦の名を、熊野忍隅命という。その素戔嗚尊の生んだ児は、皆まさに男である。
それゆえに、日神はまさに素戔嗚尊にもともと赤心(潔白な心)があったことを知った。そこでその六男を引き取って日神の子とし、天原を治めさせた。同時に、日神の生んだ三女神は、葦原中国の宇佐嶋に降して居らせた。今、海の北の道中に在って、名を道主貴と言う。これは、筑紫の水沼君等の祭る神がこれである。「熯」は、「干」である。ここでは「備」と云う。
『日本書紀』第七段 現代語訳
〔本伝〕
また天照大神がまさに神衣を織って斎服殿(機を織る神聖な殿舎)に居るのを看ると、天斑駒の皮を剥ぎ、その殿の甍を穿って投げ込んだ。この時、天照大神は驚愕して、織り機の梭で身を傷つけてしまった。これによって激怒し、そこで天石窟に入り、磐戸を閉じて籠もってしまった。それゆえ、この世界中が常闇(はてしなく続く闇)となり、昼と夜の交代も分からなくなってしまった。
この時、天照大神はこれを聞いて「私がこのごろ石窟を閉じて籠もっている以上、豊葦原中国は必ず長く続く夜であるのに、どうして天鈿女命はこのように大笑いして楽しんでいるのだろうか。」と言い、そこで御手で磐戸を少しだけ開いて窺った
その時とばかり、手力雄神が天照大神の手を承け奉り、引いて石窟からお出し申し上げた。そこで、中臣神と忌部神がただちに端出之縄(しめなわ。通常とは逆に左捻りにわらの端を出したまま綯う)を石窟の入り口に引き渡して境とし、「縄」また「左縄端出」と云う。ここでは「斯梨倶梅儺波」と云う。そこで「二度とお戻りなさってはいけません。」と請い申しあげた
〔一書1〕
れゆえ、天照大神は素戔嗚尊に対して「汝はやはり黒心がある。汝と会おうとは思わない。」と言い、そこで天石窟に入り、磐戸を固く閉じてしまった。ここにおいて天下は常に闇となり、昼と夜の交替も無くなってしまった。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。日神尊が天垣田を御田としていた。この時、素戔嗚尊は、春にはその田の渠を埋め、畦を壊し、また秋の穀物がすでに成熟すれば、横取りあるいは収穫を妨害するため勝手に絡縄(丈夫な縄)をその田に引き渡した。また日神が織殿に居た時には、班駒を生きたまま皮を剥いでその殿内に投げ込んだ。おしなべてこの諸事は、ことごとくが暴虐であった。そうではあっても、日神は、情け深い親愛の意があり、怒らず恨まずに、すべて穏やかな心で容認した。
それでも、日神が新嘗に当たっている(新穀を神に供え、神と共食する神聖な行事のさなか)時に及ぶと、素戔嗚尊はそれを見計らってその新嘗を行う新宮の日神の御席の下にひそかに糞をした。日神は、なにも知らないまま、じかにその席の上に坐った。これにより、日神は全身が病んでしまった。それゆえ、たいそう怒り恨み、ただちに天石窟に籠もってその磐戸を閉じた。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。この後に([一書 第一]と同じ書き出しのかたちをとるが、誓約の後ではなく、先行する内容は不明)、日神の田は三カ所あった。名を天安田・天平田・天邑并田という。これは皆良田であった。長雨や干魃に見舞われても、損なわれたり壊れたりなどしない。一方、その弟の素戔嗚尊の田も、また三カ所あった。名を天樴田・天川依田・天口鋭田 という。これは、どこも土地がやせて狭小であり、石も多い。雨が降れば流れ、また旱であれば焦けてしまう。それゆえ、素戔嗚尊は姉の田を妬んで害を加えた。春には、田の用水路をだめにし、溝を埋め、畔を壊し、またすでに種子を播いた上に重ね播きする。秋には、収穫前の田に串を刺して自分のものとしたり、馬を入れて腹這いにさせたりする。すべてこの悪事の止む時がまったく無かった。それにもかかわらず、日神は怒らず、いつも穏やかで思いやりの心で容認していた。云云。(省略を表す語。その省略は、日神の天石窟閉居を導く素戔嗚尊の悪辣な行為を主な内容とする先行[一書 第二]を前提とする)。
日神が天石窟にとじ籠もるに及んで、諸神は中臣連の遠祖である興台産霊の児の天児屋命を遣わして祈らせた。そこで天児屋命は、天香山の真坂木を根ごと掘り出し、その上の枝には、鏡作の遠祖である天抜戸の児の石凝戸辺が作った八咫鏡を掛け、中の枝には、玉作の遠祖である伊奘諾尊の児の天明玉が作った八坂瓊の曲玉を掛け、下の枝には、粟国の忌部の遠祖である天日鷲が作った木綿(木の繊維を糸状にした祭器。榊に掛け、襷にして神事に使う)を掛け、そうして忌部の首の遠祖である太玉命にこの真坂木を手に取り持たせ、壮大・重厚に賛美するたたえごとを祈り申し上げた。時に、日神はこれを聞いて「このごろ人が何度も石窟から出るように誓願するが、いまだこんなにも麗美しい言葉はない。」と言い、そこで磐戸を細めに開けて外を窺った。この時、天手力雄が磐戸の側にひかえていたので、ただちに磐戸を引き開けると、日神の光が世界の隅々まで満ちた。
〔一書1〕
ある書ではこう伝えている。天照大神は天稚彦に勅して、「豊葦原中國は我が子が君主たるべき国である。しかしながら、思うに残忍凶暴な邪神どもがいる様子だ。そこで、まずお前が行って平定しなさい。」と言った。そして天鹿児弓と天眞鹿児矢を授けて遣わした。天稚彦は勅を受けて豊葦原中国に降り、國神の娘たちを次々に娶り、八年の歳月が過ぎても復命しなかった。
そこで天照大神は思兼神を召して、天稚彦が帰って来ない事情を問うた。すると思兼神は熟慮して、「また雉を遣わして尋ねさせましょう」と告げた。そこで、その神の策に従って、さっそく雉を遣わして様子をうかがわせた。その雉は飛び下りると、天稚彦の門の前の神聖な杜樹の梢に止まって、「天稚彦よ、どうして八年の間、復命しないのか」と鳴いて問うた。その時、國神で天探女という名の者がいた。その雉を見て、「鳴き声の悪い鳥がこの樹の上にとまっています。射殺しなさい。」と言った。天稚彦は、そこで天神から賜った天鹿児弓と天眞鹿児矢を取り、すぐに射殺してしまった。その矢は雉の胸を貫き、ついに天神の御前にまで届いた。その時、天神はその矢を見て、「これは昔、私が天稚彦に授けた矢である。今になってどうして飛んできたのだろう」と言って、矢を取り呪いをかけて「もし悪心で射たのならば、天稚彦はきっと災いに遭うだろう。もし平心で射たのならば、無事でいるだろう。」と言い、矢を投げ返すと、その矢は中国に落ちて天稚彦の仰臥している胸に命中し、たちどころに死んでしまった。これが世の人が「返矢恐るべし」と言うことの由縁である。
こういう次第で、天照大神は、思兼神の妹の萬幡豊秋津媛命を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊に娶らせて妃とし、葦原中國に降らせた。この時、勝速日天忍穂耳尊は天浮橋に立って見下ろし、「あの国はまだ平定されていない。気に入らず心に染まない見る目も穢れた国であるよ。」と言って、再び天上に還り昇り、天降りしなかった理由を詳しく述べた。
そこで天照大神はまた武甕槌神と經津主神とを遣わして、まずそこへ行き悪神どもを駆除させた。そのとき、二柱の神は出雲に降り着き、さっそく大己貴神に「汝はこの国を天神に献上するかどうか。」と尋ねた。すると、「我が子の事代主が鳥猟に行って、三津之碕にいます。今、それに尋ねて返事をしましょう。」と答えた。そこで使者を遣わして訪問させた。すると、「天神の望まれるところであれば、どうして奉らないことがありましょう。」と答えた。そこで大己貴神はその子の言葉どおりに二柱の神に報告した。二神は天に昇って復命をして、「葦原中國はみなすっかり平定しました。」と報告した。そこで、天照大神は勅を下して「もしそうであれば、今まさに我が子を降臨させよう。」と言った。まさに天降ろうとしていた間に、皇孫が生まれた。名を天津彦彦火瓊瓊杵尊と言う。その時に、天忍穂耳尊の奏上があって、「この皇孫を代わりに降臨させようと思う」と言った。そこで天照大神は、天津彦彦火瓊瓊杵尊に八坂瓊曲玉と八咫鏡、草薙劒の三種宝物を授けた。
また、中臣の祖神である天児屋命、忌部の祖神である太玉命、猿女の祖神である天鈿女命、鏡作の祖神である石凝姥命、玉作の祖神である玉屋命、併せて五部神々をお供として付き従わせた。そして皇孫に勅して、「葦原千五百秋之瑞穂國は、我が子孫が君主たるべき地である。汝、皇孫よ、行って治めなさい。さあ、行きなさい。宝祚の栄えることは、天地とともに窮まることがないであろう。」と言った。
8. 熊野荒坂で全軍昏倒
この時、神が毒気を吐き、この毒気により将兵はみな病み倒れてしまった。このため、軍は奮い立つことができなくなってしまった。
丁度そのころ、その地に熊野の「高倉下」 という名の者がいた。その夜、夢を見た。
(夢のなかで)「天照大神」は「武甕雷神」に伝えた。『いったい葦原中國は、まだ騒然として、うめき苦しむ声が聞こえてくる。(聞喧擾之響焉はここでは「さやげりなり」という)。武甕雷神よ、お前がまたかの国へ行き、征伐しなさい。』。すると武甕雷神は答えて、『私が行かずとも、私が国を平定した剣を下せば、国はおのずと平安をとりもどすでしょう。』と申し上げたところ、天照大神は、『よろしい。』と承諾した。(諾はここでは「うべなり」という)。そこで武甕雷神は、さっそく高倉下に伝えた。『私の剣は「韴靈」という。(韴靈はここでは「ふつのみたま」という)。今、これをお前の倉に置こう。これを取って天孫に献じるがよい。』。高倉下は「承知しました」と申し上げた。
そこで夢から醒めた。
その明け方、高倉下は夢に見た教えに従って「倉」をあけてみると、果たして天から落ちてきた剣が、倉の底板に逆さまに突き立っていた。
高倉下はさっそくこの剣を取って、彦火火出見に奉った。その時、彦火火出見は眠り臥していたが、たちまちに意識を取り戻し、「私はどうしてこんなに長く眠っていたのか。」と言った。続いて、毒気にあたっていた兵士たちもみな意識を取り戻し、目を覚まして起き上がった。
9. 頭八咫烏の導きと熊野越え
東征一行はいよいよ世界の中心である「中洲」に向かおうとした。
しかし、熊野の山道は険しく、途中で道がなくなってしまい、いよいよ進むことができなくなってしまった。あちこち探しても、この深く険しい山を越えていく所が分からない。
まさにそのような状況の時。ある夜、彦火火出見は夢をみた。その中で、天照大神が現れこのように伝えた。「今から頭八咫烏を遣わそう。この烏を道案内とするがよい。」
果たして、その「訓え」通り、頭八咫烏が空から飛んできて舞い降りた。
「この烏の飛来は、めでたい夢のとおりだ。(皇祖の威徳の)なんと偉大なことよ、輝かしいことよ。皇祖の天照大神が、東征の大業を成し遂げようと助けてくれたのだ。」と、彦火火出見は感嘆の声をあげた。
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