奈良県宇陀市榛原にある「宇陀市役所」。
その1階右手奥に、
縦1m×横3m程の『大和宇陀神武天皇御聖蹟御図絵』が掲示されています。
横長の鳥瞰図で、宇陀榛原を中心に東征神話にちなむ場所や神社、位置関係が分かりやすく描かれています。
コレ、「吉田初三郎(1884-1955)」という方の描いた絵。
大正-昭和時代の絵地図作者。全国各地をあるき、独特な「鳥瞰図法」によりデフォルメされた彩色の観光案内絵を数多くつくる。「大正の広重」とも言われ「鉄道旅行案内」など書籍の挿図も多い。
(宇陀市役所 1階の右手奥掲示のレプリカ説明より)
今回は、
こちらをもとに、最近一人で勝手に騒いでいる「丹生川上の儀式」や「香久山の土採取のコース」を、これまた一人勝手に図示してみたいと思います。
宇陀市榛原の地が持つ神話的意味|丹生川上での儀式は東征神話における超重要な意味があった件|大和宇陀神武天皇御聖蹟御図絵より
目次
宇陀市榛原の地が持つ意味
まずは位置関係から。
[map addr=”奈良県宇陀市榛原下井足17-3″ zoom=”9″]橿原神宮から東へ165号線を走ると「榛原(はいばら)」に到ります。
ココ、近鉄特急・急行停車駅なので、アクセスも良好。
日本神話的に、「榛原」は非常に重要な地。
古代、ココは「大和」から見て「東限の地」、つまり「東の境界の地」でした。
山間の盆地的なところで、盆地を貫くように東西に国道165号線が続いてます。この国道165号線、西は橿原、東は伊勢を結びます。
「大和の平和維持」には、境界線に位置する地域をしっかり固める事が重要ですよね。
その意味で、榛原は「(大和から見た)東の境界の地」として、また、「伊勢との交通における要所」として非常に重要な場所だったという訳です。
神武東征神話でも、宇陀榛原は、「東大阪の孔舎衙で敗戦→紀伊半島をぐるっと回って新宮→熊野→宇陀→橿原」というコースの途上で登場。
東征=支配地域の明確化、という側面もありますので、その通過した場所は意味があって選ばれている訳で。この点からも宇陀は重要な場所と言えます。
また、東征神話の物語における「大きな転換点」としても宇陀の持つ意味は大きいです。
東大阪から宇陀までは敗戦と苦難の連続。特に、新宮(天磐盾)から先は、天照大神の支援があってようやっと切り抜けられた状態でした。
ようやくたどり着いた宇陀榛原ですが、ここにも「兄猾(えうかし)」はじめ数多くの敵軍が陣取っているわけです。
東征神話では、敵情視察の為、「彦火火出見(ひこほほでみ=神武)」が高倉山に登ったときの様子を以下のように伝えています。
宇陀の高倉山の頂上に登り、その地域をはるかに望み見た。その時、国見の丘の上に八十梟 (=敵)がいる。また、女坂には「女軍=敵」を置き、男坂には「男軍=敵」を配置し、墨坂 には真っ赤に焃る炭を置いて士気を高めている。また磐余邑には、「兄磯城軍=敵」があふれるほど多く集まっている。これら、賊軍の陣を布くところは、どこも要害の地で、路が遮断され塞がって通れるところが無い。。。
『日本書紀』神武紀 神武東征神話より訳出
まさに「見渡す限り敵だらけ」。
という感じだったと思います。
兄を失い、遭難し、毒気にやられて昏倒し、道に迷い、散々な目に遭いながらようやっとたどり着いた宇陀は、敵だらけの場所だった、、、w
さて、どうしようかと。
西から東へ、目指す「中州=国の中心」はもうすぐそこ。ただし、見渡す限りの敵を殲滅しなければ先に進めません。
ココから先が、冒頭に触れた『大和宇陀神武天皇御聖蹟御図絵』で登場するシーンです。
まず、「彦火火出見(神武)」は「祈(うけひ)」をして寝ます。とりあえず寝る。すると、夢の中で天神が現れ、必勝の方法を教えてくれるのです。
「祈(うけひ)」とは、占いの事で、うまくいく・いかないを「現れた現象(結果)」によって判定すること。
天神が教えてくれた内容とは、
天香久山の土を取ってきて、それで天神地祇を祭れと。そうすれば敵をやっつけられるよと。
天香山にある社の土を取って、「天の平瓮 」八十枚を作り、また「厳瓮 」をつくり、天つ神・国つ神を敬い祭り、また「厳呪詛」 をせよ。そうすれば、賊は自ら平伏するだろう
『日本書紀』神武紀 神武東征神話より訳出
「天の平瓮(ひらか) 」は平らな皿、「厳瓮(いつへ) 」は瓶(かめ)の形をした祭器の事です。「厳呪詛(いつのかしり)」は、儀式を通じて呪詛する事。ややホラー入ってますね。
そこで神武は夢のお告げの通り実行します。
香具山の土を採りに行くにしても、敵軍だらけ。なので、変装して採りにいく作戦を実行。
臣下である「椎根津彦(しいねつひこ)」と「弟猾(おとうかし)」にぼろぼろの服と蓑を着せて老父・老婆に変装させ、二人は敵を欺きながら香具山に向かい、無事「土」を持って帰るわけです。
そして、その土で祭器をつくり、「丹生川上」で天神地神を祭ります。すると、「宇陀の朝原」で超常現象が発生、「彦火火出見(神武)」は「コレはイケる!」と確信。その上で、「祈(うけひ)の儀式」を執り行います。
この「祈の儀式」は神武東征神話のなかで、ここだけに登場する特別なものです。
祈る=願をかける といったニュアンスで内容は以下2つ。
- もし、水を使わずに「平瓮(ひらか)」80枚で飴(たがね) ができれば、武力を使うことなく天下を平定することができるだろう。
- もし、厳瓮(いつへ)を丹生川に沈め川の魚が酔って流れるなら、この国を平定することができるだろう。
すると、
祈(うけひ)のとおり、
- 土器でつくった皿(平瓮)は飴状になり、
- 厳瓮(いつへ)を丹生川に沈めると魚が浮きあがってきて口をぱくぱくさせながら流れて行った。
(;゚Д゚)マジカオイ!!
天香久山の土でつくった祭器、天神の子孫である神武、祈ひの儀式、いずれも超常パワーを持つ要素が重なり合って「ありえへーん」的な結果を生み出したという事ですね。
願をかけた通りの結果を生んだ、つまり必勝・天下平定の結果が出たのです。
そして最後に、臣下である道臣(みちのおみ)を斎主として、「顕斎(うつしいはい)」の儀式を執り行いフィナーレへ。
「顕斎(うつしいはい)」とは、神武天皇自身が「高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)」の神霊を憑依し、高皇産霊尊が現前して祭祀を受ける形をとるもの。つまり、神武に天神である高皇産霊尊が憑依、スーパーサイヤ人化したという事です。
以上、
- 祈ひの儀式によって、願をかけた通りの結果が出た。
- 高皇産霊尊が神武に憑依しスーパーサイヤ人と化した。
この事により、敵だらけの状況を大きく転換させ、以後の戦いにおいて連戦連勝を重ねていくのです。
このように、これら重要な儀式が行われた宇陀の地というのは、東征神話上極めて大きな意味をもつ場所だという事。コレ、是非チェックされてください。
『大和宇陀神武天皇御聖蹟御図絵』から東征神話を読み解く
そんな背景から『大和宇陀神武天皇聖蹟御図絵』を見ると、ただの鳥観図ではない側面が見えてくると思います。
まずは、位置関係から。
左奥が大和であり、右手前が榛原です。
次に、
丹生神社と宇陀朝原、そして天香久山です。
椎根津彦と弟猾が老父・老婆に変装して香具山の土を採りに行ったルートは恐らく、
榛原方面から、166号線を橿原方面へ、忍坂付近で165号線と合流し、そのまま直進、天香久山へ至るルートだと思われます。
実際、「忍坂」や「男坂」といった地名がでてきますしね。
そして、
コチラの記事でも書きましたが、
この丹生神社には、上記一連の儀式が執り行われたことを証明する「宇陀朝原伝承地」の碑が建っている訳です。
是非、奈良県に旅行や立ち寄られる機会があれば、この宇陀榛原の地を訪れていただきたいと思います。とくに、丹生神社と宇陀朝原の地は超重要パワースポットです。
ここで行われた儀式と占いの結果があってこそ、橿原に進むことができたという事ですし、日本建国につなげられたという事ですね。
まとめ
- 奈良県宇陀市榛原は、古代から「東の境界の地」として「伊勢との交通の要所」として重要な場所でした。
- 神武東征神話においても、「丹生川上」と「宇陀川の朝原」の地を中心に重要な儀式が執り行われる場所。物語の展開上、この地を起点として情勢が大きく転換。以後連戦連により橿原での建国へ繋がります。
- 奈良県に旅行や立ち寄られる機会があれば、この宇陀榛原の地を訪れてみてください。とくに、丹生神社と宇陀朝原の地は超重要パワースポットです。
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