『日本書紀』応神天皇九年四月条では、応神天皇が武内宿禰と甘美内宿禰に探湯(くがたち)を行わせ真偽を確かめたと記されてます。
概要としては、
夏4月に、武内宿禰を筑紫へ派遣して国内の人民の様子を観察・調査させた。この時、武内宿禰の弟である甘美内宿禰が兄を排斥しようと企て、天皇に対して「武内宿禰には常に天下を奪おうとする野心がある」と嘘の告発(讒言)を行う。それに対して、「探湯(くがたち)」という儀式を行い、熱湯に手を入れさせて真偽を確かめ、武内宿禰の無実が明らかになる。。というもの。
ちなみに、、
武内宿禰は、応神天皇の誕生から幼少期、そして即位後にかけて母親の神功皇后と共に天皇を支え、国家を補佐した伝説的な忠臣(重臣)です。仕えた天皇は、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の5代とされ、200歳以上、または300歳以上ともいわれる超長寿説ありなお方。
彼の役割としては大きく3つ。
①誕生と養育の補佐
応神天皇が生まれる前後の苦難(三韓征討や皇位を狙う敵との対立など)において、神功皇后に付き添い、生まれたばかりの応神天皇を抱いて守り育てた。
②政治の補佐役
応神天皇が幼い頃から政務を助け、国家の基盤固めに貢献。
③忠誠心の証明
弟(甘美内宿禰)から謀反の濡れ衣を着せられた際、熱湯に手を浸す「探湯(くがたち)」の儀礼を行って無実と忠節を証明した。
ということで、
応神天皇にとっては幼少期から命がけで自分と母親を守り、政権を支えてくれた大恩人であり忠実な臣下にあたる人物であります。
以上の概要を踏まえて、『日本書紀』応神天皇九年四月条の現代語訳と原文をどうぞ。
探湯(くがたち)で無実と忠節を証明|『日本書紀』応神天皇九年四月条
9年夏4月、武内宿禰を筑紫に遣わして、民情を視察させた。
その時、武内宿禰の弟である甘美内宿禰が、兄を失脚させようと天皇に讒言をした。「武内宿禰は、いつも天下を狙う野心を持っています。今聞いたところでは、筑紫で密かに『自分一人で筑紫を切り取り、朝鮮半島(三韓)を従えて自分に朝貢させ、ついには天下を手に入れてみせる』と謀っているそうです」と。
これを聞いた天皇はすぐに使者を遣わし、武内宿禰を殺すよう命じました。武内宿禰は嘆いて言いました。「私はもともと二心などなく、ひたすら忠誠を尽くして天皇にお仕えしてきた。それなのに、どうしてこのような災難に遭い、無実の罪で死ななければならないのか」と。
その時、壱伎直の祖先である真根子という人がいた。その容姿が武内宿禰によく似ていたので、武内宿禰が無実のままむざむざと死ぬのを惜しみ、武内宿禰にこう言った。「大臣(武内宿禰)が忠誠を尽くして君主にお仕えし、邪な心がないことは天下の誰もが知っています。どうか身を隠して都へ参り、ご自身の口で無実を証明してください。そうしてから死んでも遅くはありません。それに、世間の人々はいつも『私の姿が大臣にそっくりだ』と言います。だから、私が大臣の身代わりとなって死に、大臣の真心の潔白を明らかにしましょう」と。そう言うと、真根子は自ら剣に伏して命を絶った。
武内宿禰は大変悲しみ、こっそり筑紫を避けて海に舟を浮かべ、南の海路を回って紀伊の水門に船を着け、ようやく都にたどり着いて無実を訴えた。
天皇が武内宿禰と甘美内宿禰を呼び出して尋問させたところ、二人はそれぞれ自分の主張を譲らず、どちらが正しくてどちらが嘘なのか決着がつかなかった。そこで天皇は、神々に真偽を問う「探湯」を行うよう勅命を下し、これをもって、武内宿禰と甘美内宿禰は、磯城川のほとりに出て探湯を行った。武内宿禰がこれに勝ち、横刀(大刀)を手に取って甘美内宿禰を打ち倒し、まさに殺そうとした。しかし天皇が勅命を出して止めさせ、(甘美内宿禰を)そのまま紀伊直らの祖先に与えた。
九年夏四月、遣武內宿禰於筑紫、以監察百姓。時武內宿禰弟、甘美內宿禰、欲廢兄、卽讒言于天皇「武內宿禰、常有望天下之情。今聞、在筑紫而密謀之曰『獨裂筑紫、招三韓令朝於己、遂將有天下。』」於是天皇則遣使、以令殺武內宿禰、時武內宿禰歎之曰「吾元無貳心、以忠事君。今何禍矣、無罪而死耶。」於是、有壹伎直祖眞根子者、其爲人能似武內宿禰之形、獨惜武內宿禰無罪而空死、便語武內宿禰曰「今大臣以忠事君、既無黑心、天下共知。願密避之、參赴于朝、親辨無罪、而後死不晩也。且時人毎云、僕形似大臣。故今我代大臣而死之、以明大臣之丹心。」則伏劒自死焉。
時武內宿禰、獨大悲之、竊避筑紫浮海以從南海𢌞之、泊於紀水門、僅得逮朝、乃辨無罪。天皇則推問武內宿禰與甘美內宿禰、於是二人各堅執而爭之、是非難決。天皇勅之令請神祇探湯、是以、武內宿禰與甘美內宿禰、共出于磯城川湄、爲探湯。武內宿禰勝之、便執横刀、以毆仆甘美內宿禰、遂欲殺矣。天皇勅之令釋、仍賜紀伊直等之祖也。 (引用:『日本書紀』応神天皇九年四月条より)
ちなみに、、、
一番最後、応神天皇が「(甘美内宿禰を)そのまま紀伊直らの祖先に与えた」というのは、甘美内宿禰を「伊直等之祖」に隷属民として与えたということ。「伊直等之祖」に奴隷として生涯服従させる形をとったわけです。これ、武内宿禰への裏切りに対する処罰として。
なぜ「紀伊直」だったのか?というと、武内宿禰の一族(後の紀氏など)は紀伊国(和歌山県)の豪族である紀伊直と元々深い血縁関係・地盤関係にあったとされてるから。つまり、身内の奴隷として生涯服従させるためだったという訳です。
「探湯」について。
「そこで天皇は、神々に真偽を問う「探湯」を行うよう勅命を下し、これをもって、武内宿禰と甘美内宿禰は、磯城川のほとりに出て探湯を行った。(原文:天皇勅之令請神祇探湯、是以、武內宿禰與甘美內宿禰、共出于磯城川湄、爲探湯。)」とあります。
応神天皇条では、「探湯」として伝えているので、一般的に解釈されている通り、熱いお湯に手を入れ、無事であれば真実を言っている、火傷を負えば嘘を言っているとするもの。
「請神祇(神祇に請う)」とあり、「神祇(じんぎ)」とは天神地祇、つまりすべての神々のこと。人間の力ではどちらが正しいか判断できないため、神々に判決を委ねる(祈請する)訳です。
ちなみに、、
「盟神探湯」という言葉は、その後の允恭天皇4年9月条で登場。当時、自分の血筋(氏姓)を偽る者が増えて社会が混乱したため、それを正すために行われたとしています。以下。
盟神探湯(盟神探湯、これを「くかたち」と言う)とは、あるいは泥を釜に入れて沸騰させ、手を突っ込んでその熱い泥を探らせる。またある場合は、斧を真っ赤に焼いて、手のひらの上に置かせるものである。
盟神探湯、此云區訶陀智。或泥納釜煮沸、攘手探湯泥。或燒斧火色、置于掌。
ということで、
意外にも、沸騰した湯に手をつっこむ方法ではなく、沸騰させた泥につっこませる、または、真っ赤に焼いた斧を手のひらに乗せる方法を伝えてます。
いずれにしても、火傷の有無や程度によって、主張の正邪や罪の有無を判定する呪術的な裁判方法としてチェック。
さらにちなみに、
奈良県明日香村にある甘樫坐神社は、「盟神探湯」が行われたと伝わる場所。境内には石碑があって、毎年4月の第1日曜日に「盟神探湯神事」が行われてます。
コチラも是非チェックされてください。
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