多彩で豊かな日本神話の世界へようこそ!
日本最古の書『古事記』をもとに、
最新の文献学的学術成果も取り入れながら、どこよりも分かりやすい解説をお届けします。
今回は、
『古事記』の神武東征神話を分かりやすく解説するシリーズ、第一回目。
『古事記』中巻をもとに、「東征発議から吉備の高嶋宮へ」をお届け。初回ということで、『古事記』中巻の位置づけとポイントを合わせてどうぞ!
『古事記』中巻|神武東征神話① 東征発議から吉備「高嶋宮」までの神話を現代語訳付きで分かりやすく解説
目次
『古事記』中巻の位置づけとポイント
これからご紹介する『古事記』版神武東征神話は、『古事記』中巻に伝えます。『古事記』上・中・下巻の3つある巻の2番目。中巻では、神武天皇から応神天皇まで全15代の事績を伝えてるんですが、その一番最初の箇所であります。
コレまでの「上巻」は神の時代。登場するのは神神であり、展開する場所も天界でした。一方、「中巻」は人の時代。主人公は「天皇」であり、展開する場所も地上。
上巻の「神代」から、中巻を通じて「天皇が統治する時代」へ直接つながっていく。「天皇」の称号が登場し、人の政治を、時の流れにそって叙述するようになります。
『古事記』は、こうした経緯含めて、先祖代々、天皇家に伝わる歴史書として、お家の成立経緯をお家なりの表現と事情をもって説明しているわけです。運用的には、将来天皇になる皇太子の「天皇教育用教科書」といった形にもなってきます。
そんな中での『古事記』版神武東征神話。当サイトとしては、是非、
正史『日本書紀』と比較しながら、読み進めていただきたいド━(゚Д゚)━ン!!
その方が、『古事記』の注力しているポイントがとっても分かりやすくなる。コチラ!
『日本書紀』の方は、神武天皇の生い立ちから始まり、東征途中の様々なイベントや困難などをドラマチックに描いてます。編年体での歴史記述もスタートし、例えば、神武天皇の即位を「辛酉の年」とするなど、流石「正史」だけあって政治的意味合いも強い内容になってます。
それに対して、
『古事記』は、前半こそ東征途中のイベントを伝えてますが、後半は歌がメインでさらっと終わる感じ。時間記述も無し。物語全体に対する歌の構成比が高いため、日記的な、あるいは文学的性質が強いです。
と、こういうことも、『日本書紀』との比較のなかで初めて分かる。何度も言いますが、『日本書紀』との比較を通じて『古事記』を解釈するのが激しくおススメ!
ということで、早速、現場をチェックです。
『古事記』中巻 神武東征神話 東征発議から吉備の高嶋の宮まで
古事記 : 国宝真福寺本 中巻 国立国会図書館デジタルコレクションより 「神倭 伊波礼毘古命」とその同母の兄「五瀬命」の二柱は、高千穗宮にあって相談し「どの地にいたならば天下の政を平安に治められるだろうか。やはり東に行こうと思う」と言った。
さっそく日向より出発し筑紫へ向かった。豊国の宇沙に到着した時に、その土人、名は「宇沙都比古」「宇沙都比賣」の二人は、足一騰宮をつくり盛大な饗宴を献上した。
そこから移って、筑紫の岡田宮に一年滞在した。
また、その国から上り、阿岐の国の多祁理宮に七年滞在した。
また、その国から上り、吉備の高嶋宮に八年滞在した。
ゆえに、その国から上る時に、龜の甲に乘って釣をしながら羽を打ち挙げやって来る人と、速吸門で出会った。そこで、喚び寄せて「お前は誰だ」と問うと、「私は國神である」と答えた。また「お前は、海の道を知っているか」と問うたところ、「よく知っている」と答えた。また「(私に)從って仕えないか」と問うたところ、「お仕え申し上げましょう」と答えた。ゆえに、棹を指し渡し、船に引き入れて、名を与えて「槁根津日子」と名付けた。これは、倭國造等の祖である。
神倭伊波禮毘古命與其伊呂兄五瀬命二柱、坐高千穗宮而議云「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣二人、作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於筑紫之岡田宮一年坐。亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。故從其國上幸之時、乘龜甲爲釣乍、打羽擧來人、遇于速吸門。爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國神。」又問「汝者知海道乎。」答曰「能知。」又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」故爾指渡槁機、引入其御船、卽賜名號槁根津日子。此者倭國造等之祖。(引用:『古事記』中巻 神武東征神話より)
※現代語訳について原文中の尊敬語は冗長になるため原義を損なわない範囲で通常の言葉に変換。また、口誦性の投影による接続語(爾、故、及、於是、など)の頻用も原義を損なわない範囲で簡略化。
『古事記』中巻 神武東征神話 東征発議から吉備の高嶋の宮までの解説
『古事記』版神武東征神話、冒頭部分、いかがでしたでしょうか?
『日本書紀』と比べるとかなりあっさりしてる感じで。。『日本書紀』で伝える諱や4兄弟や父母のことや、地元で娶った嫁のことなど、伝えてないことが多くあります。
本文解説に入る前に、
『古事記』版神武東征神話のポイントを2つ。
①神代の垂直運動に対して、人代は水平運動=版図の拡大。
上巻の神代は、大きく言うと方向的には縦、垂直運動であります。つまり、高天原から葦原中国に降臨する経緯を描いているわけで。上から下。
一方、中巻は、方向的には横、水平運動です。つまり、版図の拡大。次々に版図たる国土、つまり統治領域を拡大していくんですね。この版図拡大の、最初の担い手が神武天皇という訳です。
ただし、最初はまだ天皇とはなってないので、正確には、版図拡大ではなく「国覓ぎ」というかたちをとります。「国覓ぎ」の「覓ぎ」とは、凝視する感じで探すこと。勢いがスゴイ感じの凝視。
日向を出発し、大和に都を造営するまでの、いわゆる東征が「国覓ぎ」にあたる。そして、『古事記』では、この「国覓ぎ」の東征に16年以上費やしたと伝えてます。
国の王たる者が、政治を行うにふさわしい場所を求めて訪ね歩く話、それが東征神話であること。
この点をまずチェック。
次!
②東征=国覓ぎに16年は長すぎるが、それだけに意味がある
「国覓ぎ」とは、あっちへ行き、こっちへ行き、最適の地・国を探し回ること言います。
神代の例では、八俣の大蛇を退治した「須佐之男命」の「国覓ぎ」が有名。
須佐之男命は櫛名田比売と結婚するために最適の地を探し回ったあげく、やっと須賀の地にたどり着き、「吾、此の地に来て、我が御心すがすがし」と言って宮を作り「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」と歌う。で、結婚して生まれた子の末裔が、国造りで名高い「大国主神」です。
これ、構造的には、国覓ぎに要した期間が長ければ長いほど、一生懸命に探しまわったことになる訳で、その成果は保証付きということになる。それは、ひいては選ばれた地がいかに最適な場所であるかを裏打ちしているとも言えて。
妥協して数年では東征に箔がつかず、大和の適地、ベストフィット感も高まらないという訳。だからこその16年。この点もしっかりチェック。
以上、まとめると、
- 神代の垂直運動に対して、人代は水平運動=版図の拡大。
- 東征=国覓ぎに16年は長すぎるが、それだけに意味がある
と言うことで、
それを踏まえて、以下、本文解説。
まとめ
『古事記』版神武東征神話~東征発議から吉備の高嶋の宮まで~
『古事記』版神武東征神話、いかがでしたでしょうか?
改めて、確認しておきたいのは2つ。
1つ目は、東征の動機、理由。
朝鮮半島に面して、日に向かう地「日向」は、やはり地理的には西の偏境。統治には不向きであって、そこで東征となること。
2つ目は、国覓ぎに要した期間の話。
長ければ長いほど、一生懸命に探しまわったことになる訳で、その成果は保証付き。これはひいては、選ばれた地がいかに最適な場所であるかを裏打ちしているとも言えます。だからこそ『古事記』版東征神話は16年以上かかったと伝えてる。
以上のポイントしっかりチェック。
当サイトとしては、ぜひ、『日本書紀』と比較しながら読み進めていただきたい!!そうすることで『古事記』の特徴とかが分かりやすくなります。激しくオススメ↓
続きはコチラで!大和初戦敗退と五瀬命の死!
本シリーズの目次はコチラ!
神話をもって旅に出よう!
神武東征神話のもう一つの楽しみ方、それが伝承地を巡る旅です。以下ご紹介!
【誕生と成長、東征発議】
● 四皇子峰 神武天皇4兄弟が誕生したとされる地 高千穂系
●皇子原神社 神武天皇が誕生したとされる地
神社後背の「産婆石」の付近で誕生したという伝承あり。神武の母「玉依姫」が神武天皇を出産した産屋跡とも伝わってます。
●御池「皇子港」 神武天皇が幼少期に水辺で遊んでいたと伝わる地。
●皇宮神社 神武天皇が15歳より宮を営んでいたとされる地。
御祭神:神日本磐余彦天皇・手耳研命・吾平津姫命・渟名川耳命。宮崎の宮の皇居跡とされてます。
【旅立ち】
● 神武天皇御舟出の地|東征の航海はココから始まった。。。
● 立磐神社|神武天皇が美々津から船出するときに航海の安全を祈念したことにちなむ神社
ちなみに、、、
● 神武天皇御湯浴場跡|神武天皇が東征の際にお風呂入ってリフレッシュ!?
【宇佐】
● 神武天皇聖蹟莵狭顕彰碑|莵狭のヒコヒメから受けた饗宴の地!
● 一柱騰宮跡|神武一行の饗応用に建設!?
【筑紫の岡田宮】
● 岡田神社(岡田宮)福岡県北九州市
● 岡田宮伝承地 古代祭場(神籬磐境跡)|神武天皇が天神地祇を招いて安全隆昌を祈願したとされる古代斎場!
【埃宮】
埃宮は現在の広島県府中市にあります。ココ、その昔、陸地奥深くまで海が迫っていたようで、小島が浮かぶ美しい海岸線が広がっていたそうです。
● 神武天皇聖蹟埃宮/多祁理宮顕彰碑|多家神社がある「誰曽廼森」の裏手
● 神武天皇御腰掛岩|松崎八幡宮跡にある腰掛岩
【高嶋宮】
● 吉備高島宮跡|岡山県岡山市
● 神武天皇聖蹟高嶋宮顕彰碑|岡山県岡山市
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どこよりも分かりやすい日本神話解説シリーズはコチラ!
日本神話編纂の現場!奈良にカマン!




































→『古事記』版神武東征神話のはじまり。
『日本書紀』と比べるとかなりのあっさり味?『日本書紀』で伝えていた、性格とか皇太子になったこととか嫁を娶ったこととか東征発議とか、、神話展開上、重要だと思われたアレコレ設定が全く無い、、、
例えば、冒頭に伝える神武の名「伊波礼毘古命」。これ、東征途上、大和の磐余という場所で溢れるほどの敵を撃破したことにちなんでつけてるんですが、そもそも『古事記』ではその重要イベントを伝えてない、、、なので、なんでそんな名前なの?がよー分からんのです。
と、
他にも、『日本書紀』ではきちんと伝えてることが、『古事記』では端折られてるので「なんでそうなってるの?」がよく分からない、、コンテクストが端折られてるのでドラマ性もあんまり感じられない『古事記』版東征神話であります。
「「どの地にいたならば天下の政を平安に治められるだろうか。やはり東に行こうと思う。(原文:「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。)」とあります。『古事記』版東征発議。
ポイント1つ。
①東に向かう理由=統治に最適な場所に行くため
そもそも、神武の祖先である天孫・瓊瓊杵尊が降臨した場所は、日向の高千穂です。このとき、天孫は「此の地は、韓国に向ひ、笠紗の御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此の地は甚吉き地」と言って居住することになりました。
日に向かう地なので「日向」と言うのですが、地理上は西の偏境。統治には不向きであって、そこで東征となる訳です。
本文には明確に伝えられては無いですが、この背景と東征する理由をしっかりチェック。それにしても、、『日本書紀』で伝える東征発議と比べると拍子抜けするくらいのあっさりテイスト。
ちなみに、
「坐高千穗宮」について、伝承地はコチラ↓
● 鹿児島神宮|鹿児島県霧島市
次!
→日向を出発し、筑紫=福岡へ向かう。。
ちなみに、、出発・舟出の伝承地はコチラ↓
で、
豊国は、今の大分県と福岡県の一部。で、宇沙は大分県宇佐市とされてます。
なぜ宇佐なのか?
根拠となるのは『日本書紀』第六段〔一書3〕。
と伝えており、
宇佐は、海北道の中にあり、主宰神の所在地として位置づけられてるんです。つまり、九州の一大拠点。なので、ここで登場してるし、支配者であった「宇沙都比古・宇沙都比賣」が饗応し迎える訳です。
「土人」は、土着の人。「宇沙都比古・宇沙都比賣」も土地の名前がついてますよね。
この二人、宇沙の支配者の兄妹で。古代の「彦姫制」による統治スタイル。兄弟が政治を、姉妹が祭祀をそれぞれ分担して国を治めるという制度。例えば、有名なところでは、邪馬台国の卑弥呼も似たところで。『魏志倭人伝』では、邪馬台国では女性の卑弥呼が王に共立されて呪術的(祭祀的)支配を行い、男弟が卑弥呼を補佐して政治を執行していたと伝えてます。その他、風土記にも多くその例を伝えます。
「足一騰宮をつくり盛大な饗宴を献上した(原文:作足一騰宮而、獻大御饗)」とあります。
「足一騰宮」は、床が低くて一足で上れる宮殿のこと。慌ただしく造ったので、簡易な御殿になったことを表す?といった解説もありますが、どちらかというと『日本書紀』で伝える「一柱騰宮」をもとに『古事記』的意訳を行なったとみるべきで。元々は、一本の柱で支えられていたから「一柱」といった意味。
「獻大御饗」について。「獻」+「饗」という漢字が使われてます。「饗」は天皇の食事のことで、これを獻=献上するってことは、服属を表す儀礼として位置づけられます。
ココも、『日本書紀』では「天神子」という設定があった上での饗宴なので服属が分かりやすいのですが、『古事記』はそういうのが無いので、「獻」とか「饗」といった漢字をもとに読み解いていくしかないのであります。
ちなみに、伝承地はコチラ↓
次!
→「岡田宮」は、現在の福岡県北九州市にある「岡田神社(岡田宮)」とされてます。
で、なぜ筑紫国の「岡田宮」なのか?しかも、、1年間も滞在、、、何してた??
まず、
位置的に、遠賀郡の西には宗像郡が接していて、さらに西、博多には大宰府があり、歴史の時代でありますが九州を統括する拠点がありました。
さらに、、
筑前国風土記逸文には「筑紫国に到れば、先づ哿襲宮に参謁るを例とす。」と伝える香椎廟(現・香椎宮)があり、『古事記』ではこの宮で神功皇后が神懸りして新羅征討の託宣を得たことを伝えてます。
これらの神話、歴史の文献をつなげて考えると、、、
神武はこの地の情勢を偵察させ、宗像はじめ在地の豪族たちが敵対、寝返りしないことを見極めていた、、と推測される訳です。そのうえで、九州を掌中に収めてから瀬戸内海へ航路をとった、、というのが東征的シナリオ。
そのための「岡田宮」。そのための拠点として位置づけられてるってことでチェック。
ちなみに、、
『日本書紀』では11月9日の到着日から12月27日に安芸国に至るまでの1か月半としていますが、『古事記』では「岡田宮」に1年滞在したと、、このズレは『古事記』版東征神話が「国覓ぎ譚」としての性質が強いから。未知の地を時間をかけて慎重に進めていったと。そして、時間が掛かればかかるほど最終目的地の適地度は比例して上がっていく。。
ちなみに、、伝承地はコチラ↓
● 岡田神社(岡田宮)福岡県北九州市
次!
→筑紫から阿岐へ。
「多祁理宮」は、広島県安芸郡府中町付近とされてます。
この地が登場してるのは、大和へ航行する順路として。安芸は古代より一大海運拠点でありました。
それにしても、、7年滞在したって、、長すぎやしないかい??
ちなみに、、伝承地はコチラ↓
次!
→現在の岡山県宮浦にあったとされる「高嶋宮」。
『古事記』では「高嶋宮」で何をしていたか何も伝えていません。。一方、『日本書紀』では3年居住し、軍船や食糧を整えたと伝えてます。
ちなみに、、『日本書紀』が3年と伝えてるので、『古事記』ではさらに長く8年に。だって「国覓ぎ譚」だから、、
ちなみに、、伝承地はコチラ↓
⚫︎吉備高島宮跡|岡山県岡山市
⚫︎神武天皇聖蹟高嶋宮顕彰碑|岡山県岡山市
次!
→槁根津日子さんが亀の甲羅に乗ってやってきた、、だと??
って、ここで問題発生。「その國から上る時に、」とあり、本文の流れをもとにそのまま解釈すると「その國」=吉備国。吉備から大和へ向かうときに出会った、となります。
ところが、、「速吸門で出会った」と伝えており、「速吸門」は豊予海峡のことであります。なので、『古事記』的地理誤認とされてる箇所であったりするんですが、、
『日本書紀』では、日向を出発し速吸之門に到ったときに登場してますので、ここでは、過去のことを後で挿入していると解釈すれば、「その國」=日向国となり、筑紫国へ向かう途上の「速吸門で出会った」というのが繋がってくるかと。。
ちなみに、、
日本神話的に「速吸門」は潮の流れが急な難所として位置づけられてます。
コチラ、実は神代にすでに登場。伊奘諾尊の禊祓のシーン。
黄泉の穢れを濯ごうと速吸名門に行ったんだが、潮の流れが速すぎて洗えませんでしたと。。どうやら、、神の時代から潮の流れが超速だったようで。だからこそ、海の道を知る者が登場し、神武一行を案内するという流れになるわけです。
ちなみに、、すぐそばに椎根津彦神社があり、今でも「槁根津日子」さんが見守っていらっしゃる??
⚫︎椎根津彦神社|大分県大分市佐賀関
その上で、、
「龜の甲に乘って釣をしながら羽を打ち挙げやってくる人(原文:乘龜甲爲釣乍、打羽擧來人)」とあります。。「槁根津日子」さん、なんで浦島太郎化??
これ、ポイント2つ。
「龜の甲に乘って(乘龜甲爲釣乍)」のところ、実は海神の乗り物=大亀という日本神話的設定から来てるんです。
根拠は『日本書紀』神代巻下第10段〔一書3〕。彦火火出見尊が鵜の羽を葺き産屋を作るシーンで
ということで、
屋根を葺き終わらないうちに、豊玉姫は大きな亀に乗り、玉依姫を率いて現われたと、、豊玉姫も玉依姫も海神の娘なので、つまり、海神の乗り物=大亀という訳です。
なんで亀に乗ってきたかというと、「槁根津日子」が海路を先導する者としての設定があるから。一応、ちゃんと考えられてる訳ですね。
続けて、
「羽を打ち挙げやってくる人(打羽擧來人)」とありますが、羽ばたくように袖を動かす、といった解釈が通例ですが、、正直詳細はよく分からない。。「打羽擧」は、そのまま訳すと「羽を打って挙げる」。この羽はなんなのか、、釣りの羽=浮き??少なくとも袖では無いように思えますが。。
そして、
「「私は國神である」と答えた。また「お前は、海の道を知っているか」と問うたところ、「よく知っている」と答えた。(原文:「僕者國神。」又問「汝者知海道乎。」答曰「能知。」)」とあります。
ココで言う「国神」とは、その土地の土着の神のことで、だからこそ、海路に詳しい者として東征軍の先導者の役割を担う。神話の時代はこのように、初めての土地を訪れる場合には道案内をする者が登場します。
さらに、
「棹を指し渡して、船に引き入れて、名を与えて「槁根津日子」と名付けた。」とあります。
この、「棹を指し渡して(原文:指渡槁機)」について。「槁機」の「槁」は棹のこと。船を進める道具。「機」は道具の意味で添え字。文脈的に、神武天皇が渡して引き入れて名付けたと解釈できるので、それこそ海路の道案内人として船を進める道具を渡して先導させた。
なお、「槁根津日子」は『日本書紀』では「椎根津彦」として伝え、道臣と並んで東征途上で大活躍する将として描かれてます。
詳しくはコチラ↓で!!
それもあって、、
「これは、倭國造等の祖である(原文:此者倭國造等之祖)」とあります。
「倭國」は大和国。国造は長官のこと。「槁根津日子」が大和国の長官の先祖であることを伝えてます。
『古事記』ではこれ以上詳しくは伝えてませんが、『日本書紀』では、東征成就し建国を果たした翌年に行なった論功行賞にて、褒賞として「倭国造」をいただいたと伝えてます。
ちなみに、、
コレ、かなり破格の恩賞で。倭国は、後世の「大倭国(大和国)」。要は、現在の奈良県に相当する領域で。国の中心地となる場所を与えた訳なんで、椎根津彦への恩賞の大きさが伺えます。