『日本書紀』現代語訳。
天地開闢から日本建国までの日本神話をお届けします。
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『日本書紀』巻第一(神代上)
目次
『日本書紀』第一段 現代語訳
〔本伝〕天地開闢と三柱の神の化生
昔々、天と地がまだ分れず、陰と陽も分れていなかった。混沌として、まるで鶏の卵のようであり、ほの暗くぼんやりとして、事象が芽生えようとする兆しを内に含んでいた。
その中の清く明るいものが薄くたなびいて天となり、重く濁ったものがよどみ滞って地となるに及んでは、その軽やかで妙なるものは集まりやすく、重く濁ったものは凝り固まりにくい。だから、まず天ができあがり、その後で地が定まったのである。
そうして天と地が成り立った後に、その天地の中に神が生まれた。
それゆえに、具体的にいえばこういうことになる。天と地ができる初めには、のちに洲となる土壌が浮かび漂う様は、まるで水に遊ぶ魚が水面にぷかりぷかり浮いているようなものだった。
まさにその時、天地の中に一つの物が生まれた。それは萌え出る葦の芽のような形状であった。そして、変化して神と成った。この神を国常立尊と言う。次に国狭槌尊。さらに豊斟渟尊。あわせて三柱の神である。天の道は、単独で変化する。だから、この純男、つまり男女対ではない純粋な男神が化生したのである。
〔一書1〕体系性を持つ一書群が展開
ある書はこう伝えている。天地が初めて分かれ、その間のガランとした中に一つの物があった。その物のかたちは言い表しがたい。その中に物が変化して生まれた神があった。名を国常立尊と言う。また国底立尊とも言う。その次に国狭槌尊。また国狭立尊とも言う。さらに豊国主尊。また豊組野尊とも言う。また豊香節野尊、浮経野豊買尊、豊国野尊、豊齧野尊、葉木国野尊、或いは見野尊とも言う。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。昔、国も土地もできて間もなく幼かったころは、例えるなら水に浮かんだ脂の状態で漂っていた。そんな時、国の中に物が生まれた。その形は葦の芽が突き出たようであった。これにより変化して生まれた神があった。その名を可美葦牙彦舅尊と言う。次に国常立尊。次に国狭槌尊。葉木国は、ここでは「はこくに」という。可美は、ここでは「うまし」という。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。天と地が混じり合って成った時、初めに神人(神である人、神そのものとも言うべき人)がいた。その名を可美葦牙彦舅尊と言う。次に国底立尊。彦舅は、ここでは「ひこぢ」という。
〔一書4〕
ある書はこう伝えている。天地が初めて分かれ、初めに倶に生まれた(双生の)神がいた。名を国常立尊と言う。次に国狭槌尊。またこうも伝えている。高天原に生まれた神の名は、天御中主尊と言う。次に高皇産霊尊。次に神皇産霊尊。皇産霊は、ここでは「みむすひ」という。
〔一書5〕
ある書はこう伝えている。天と地がまだ生まれる以前の時、例えるなら海上に浮かんでいる雲に根ざしつながる所がないような様だった。その中に一つの物が生まれた。葦の芽が初めて泥の中に生え出たようである。それが変化して人となった。名を国常立尊と言う。
〔一書6〕
ある書はこう伝えている。天地が初めて分かれ、物があった。葦の芽が空中に生じたようであった。これによって変化した神は、天常立尊と言う。次に可美葦牙彦舅尊。また、物があった。浮かぶ脂が空中に生じたようであった。これによって変化した神は、国常立尊と言う。
『日本書紀』第二段 現代語訳
〔本伝〕男女耦生の八神
次に現れた神は、泥土煑尊(土、これを「うひぢ」と読む)、沙土煑尊(沙土、これを「すひぢ」と読む。またの名は、泥土根尊・沙土根尊)。次に現れた神は、大戸之道尊(ある書では、大戸之辺と言う)、大苫辺尊(または大戸摩彦尊・大戸摩姫尊・大富道尊・大富辺尊とも言う)。次に現れた神は、面足尊・惶根尊(または吾屋惶根尊・忌橿城尊・青橿城根尊・吾屋橿城尊と言う)。次に現れた神は、伊奘諾尊・伊奘冉尊。
ある書はこう伝えている。この二柱の神は、青橿城根尊の御子である。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。国常立尊が、天鏡尊を生んだ。天鏡尊が、天万尊を生んだ。天万尊が、沫蕩尊を生んだ。沫蕩尊が、伊奘諾尊を生んだ。沫蕩、これを「あわなぎ」と読む。
『日本書紀』第三段 現代語訳
〔本伝〕神世七代
合わせて八柱の神である。これは陰の道と陽の道が入り混じって現れた。それゆえ男と女の性となったのである。そして、国常立尊から、伊奘諾尊・伊奘冉尊に至るまでを、神世七代と言う。
〔一書1〕新しい時代へ向けた準備
ある書はこう伝えている。男女が対になって現れた神は、まず泥土煮尊・沙土煮尊。次に角樴尊・活樴尊。次に面足尊・惶根尊。次に伊奘諾尊・伊奘冉尊。樴は杭の意味。
『日本書紀』第四段 現代語訳
〔本伝〕聖婚、洲国生み
伊奘諾尊と伊奘冉尊の二柱の神は、天浮橋の上に立って共に計り、「この下の底に、きっと国があるはずだ。」と言った。そこで、天之瓊矛(瓊とは玉である。ここでは努という)を指し下ろして探ってみると海を獲た。その矛の先から滴り落ちた潮が自然に凝り固まり、一つの嶋と成った。それを名付けて「磤馭慮嶋」といった。
二柱の神は、ここにその島に降り居ると、共に夫婦となり、国を産もうとした。そこで、磤馭慮嶋を、国の中心である柱(柱、ここでは美簸旨邏という)とし、陽神は左から巡り、陰神は右から巡った。分かれて国の柱を巡り、同じ所であい会したその時、陰神が先に唱え、「ああ嬉しい、いい若者に会ったことよ。」と言った。(少男、日本では烏等孤という)。陽神はそれを悦ばず、「私が男だ。理の上では、まず私から唱えるべきなのだ。どうして女が理に反して先に言葉を発したのだ。これは全く不吉な事だ。改めて巡るのがよい。」と言った。
ここに、二柱の神はもう一度やり直してあい会した。今度は陽神が先に唱え、「ああ嬉しい。可愛い少女に会ったことよ。」と言った。(少女、ここでは烏等咩という)。そこで陰神に「お前の身体には、なにか形を成しているところがあるか。」と問うた。それに対し、陰神が「私の身体には女の元のところがあります。」と答えた。陽神は「私の身体にもまた、男の元のところがある。私の身体の元のところを、お前の身体の元のところに合わせようと思う。」と言った。ここで陰陽(男女)が始めて交合し、夫婦となったのである。
産む時になって、まず淡路洲を胞としたが、それは意に不快なものであった。そのため「淡路洲」と名付けた。こうして大日本豊秋津洲(日本、日本では耶麻騰という。以下すべてこれにならえ)を産んだ。次に伊予二名洲を産んだ。次に筑紫洲を産んだ。そして億歧洲と佐渡洲を双児で産んだ。世の人に双児を産むことがあるのは、これにならうのである。次に越洲を産んだ。次に大洲を産んだ。そして吉備子洲を産んだ。これにより、はじめて八洲を総称する国の「大八洲国」の名が起こった。このほか、対馬嶋、壱岐嶋、及び所々の小島は、全て潮の泡が凝り固まってできたものである。また水の泡が凝り固まってできたともいう。
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〔一書1〕天神ミッションと無知な二神
ある書はこう伝えている。天神が伊奘諾尊・伊奘冉尊に、「豊かな葦原の永久にたくさんの稲穂の実る地がある。お前達はそこへ行き国の実現に向けた作業をしなさい。」と言って、天瓊戈を下された。そこで二柱の神は、天上の浮橋に立ち、戈を投げて地を求めた。それで青海原をかき回し引き上げると、戈の先から滴り落ちた潮が固まって島となった。これを磤馭慮嶋と名付けた。
二柱の神はその島に降り居て、八尋之殿を化し作った。そして天柱を化し立てた。そして陽神が陰神に、「お前の身体は、どんな形を成しているところがあるのか。」と問うた。それに対して「私の身体に備わっていて、陰(女)の元と称するところが一カ所あります。」と答えた。そこで陽神は、「私の身体にも備わっていて、陽(男)の元と称するところが一カ所ある。私の身体の元を、お前の身体の元に合わせようと思う」と言った。
さっそく天柱を巡ろうとして約束し、「お前は左から巡れ。私は右から巡ろう。」と言った。さて、二柱の神が分かれて天柱を巡り、半周してあい会すると、陰神は先に唱えて「ああ、なんとすばらしい、いい少男(若者)ではないか。」と言った。陽神は後に和して、「ああ、なんとすばらしい、いい少女ではないか。」と言った。ついに夫婦となり、まず蛭児を産んだ。そこで葦船に載せて流した。次に淡洲を産んだ。これもまた子供の数には入れなかった。
こうしたことから、また天に詣り帰って、こと細かに天神に申し上げた。その時、天神は太占で占い、「女の言葉が先に揚がったからではないか。また帰るがよい。」と教えた。そして帰るべき日時を定め、二柱の神を降らせた。
かくて二柱の神は、改めてまた柱を巡った。陽神は左から、陰神は右から巡り、半周して二柱の神があい会した時に、今度は陽神が先に唱えて、「ああ、なんとすばらしい、いい少女ではないか。」と言った。陰神がその後に和して「ああ、なんとすばらしい、いい少男ではないか。」と言った。
このあと、同じ宮に共に住み、子を産んだ。その子を大日本豊秋津洲と名付けた。次に淡路洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に億歧三子洲。次に佐渡洲。次に越洲。次に吉備子洲。これにより、この八洲を大八洲国と言う。
瑞、ここでは弥図と言う。妍哉、ここでは阿那而恵夜と言う。可愛、ここでは哀と言う。太占、ここでは布刀磨爾と言う。
〔一書2〕多彩に展開する国生み
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊と伊奘冉尊の二柱の神は天霧の中に立って、「私は国を得ようと思う。」と言い、天瓊矛を指し下ろして探り、磤馭慮嶋を得た。そこで矛を抜き上げると、喜んで「良かった。国がある。」と言った。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。伊奘諾・伊奘冉尊の二神は高天原に座して、「国があるはずだ」と言った。そこで天瓊矛でかきまわして磤馭慮嶋を成した。
〔一書4〕
ある書はこう伝えている。伊奘諾と伊奘冉の二柱の神は互いに言った。「物がある。浮かんでいる油のようだ。その中に国があると思う」。そこで、天瓊矛で探って一つの嶋を成した。名付けて「磤馭慮嶋」という。
〔一書5〕
ある書はこう伝えている。陰神が先に唱えて、「ああ、なんとすばらしい、いい少男ではないか。」と言った。その際、陰神が先に言葉を発したので、不吉とした。もう一度改めて国柱を巡ると、陽神が先に唱え、「ああ、なんとすばらしい、いい少女ではないか。」と言った。そしてついに交合しようとしたが、その方法を知らなかった。その時、鶺鴒が飛んで来て、その首と尾を揺り動かした。二柱の神はそれを見て学び、すぐに交合の方法を得た。
〔一書6〕
ある書はこう伝えている。二柱の神は交合して夫婦となった。まず淡路洲・淡洲を胞として、大日本豊秋津洲を生んだ。次に伊予洲、次に筑紫洲、そして億歧洲と佐渡洲とを双児で生んだ。次に越洲、次に大洲、そして子洲。
〔一書7〕
ある書はこう伝えている。まず淡路洲を生んだ。次に大日本豊秋津洲、次に伊予二名洲、次に佐渡洲、次に筑紫洲、次に壱岐洲、次に対馬洲。
〔一書8〕
ある書はこう伝えている。磤馭慮嶋を胞(えな)として、淡路洲を生んだ。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に億歧洲と佐渡洲を双児で生んだ。次に越洲。
〔一書9〕
ある書はこう伝えている。淡路洲を胞として、大日本豊秋津洲を生んだ。次に淡洲。次に伊予二名洲。次に億歧三子洲。次に佐渡洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に大洲。
〔一書10〕
ある書はこう伝えている。陰神が先に唱えて、「ああ、なんとすばらしい、いい少男ではないか。」と言った。そこで陽神の手を握り、遂に夫婦となって、淡路洲を生んだ。次に蛭児。
『日本書紀』第五段 現代語訳
〔本伝〕天下之主者生み(神生み)
次に海を生んだ。次に川を生む。次に山を生む。次に木の祖、句句廼馳を生む。次に草の祖、草野姫を生む。またの名を野槌と言う。
そして伊奘諾尊・伊奘冉尊は共に議り、「我々はすでに大八洲国をはじめ山川草木まで生んでいる。どうして地上世界の統治者を生まないでいようか。」と言った。
そこで、共に日神を生む。名を大日孁貴と言う。(大日孁貴、ここでは於保比屢咩能武智と言う。孁は、音は力丁の反である。ある書には、天照大神と言う。ある書には、天照大日孁尊と言う。)この子は、光り輝くこと明るく色とりどりで、世界の内を隅々まで照らした。それで、二柱の神は喜び「我々の子供は多いけれども、まだこのように霊妙不可思議な子はいない。長くこの国に留め置くのはよくない。すぐに天に送り、天上の事を授けるべきだ。」と言った。この時は、天と地がまだたがいに遠く離れていなかった。それで天柱を使って、天上に送り挙げたのである。
次に、月神を生んだ。(ある書には、月弓尊、月夜見尊、月読尊と言う。)その光りの色どりは日神に次ぐものであった。日神とならべて天上を治めさせるのがよいとして、また天に送った。
次に蛭児を生んだが、三歳になっても脚が立たなかった。それゆえ天磐櫲樟船に乗せ、風のまにまに捨てた。
次に素戔鳴尊を生んだ。(ある書には、神素戔鳴尊、速素戔鳴尊と言う。)この神は勇ましく残忍であった。そして、いつも哭くことをわざとしていた。このため、国内の多くの民を早死にさせ、また青々とした山を枯らしてしまった。それゆえ父母の二神は素戔鳴尊に勅して、「お前は、全く道に外れて乱暴だ。この世界に君臨してはならない。当然のこと、はるか遠く根国へ行かなければならない。」と命じ、遂に放逐したのである。
〔一書1〕御寓之珍子生み
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊が「私は天下を統治する優れて貴い子を生もうと思う。」と言い、左の手で白銅鏡を持つと、そこから化し出る神があった。これを大日孁尊と言う。右手に白銅鏡を持つと、また化し出る神があった。これを、月弓尊と言う。また首を廻らせて見たその瞬間に、化す神があった。これを、素戔鳴尊と言う。
先に化し出た大日孁尊および月弓尊は、ともに性質が明るく麗しかった。それゆえ、伊奘諾尊は両神に天地を照らし治めさせた。素戔鳴尊は、生まれつき残酷で害悪なことを好む性格であった。それで根国に下して治めさせた。
珍、ここでは「うづ」と言う。顧眄之間、ここでは「みるまさかりに(顧みるまさにその瞬間に)」と言う。
〔一書2〕卑の極まりと祭祀による鎮魂
ある書はこう伝えている。日と月は既に生まれた。次に蛭児を産んだ。この子は三年経っても足腰が立たなかった。これは初めに、伊奘諾・伊奘冉尊が御柱を巡った時に、陰神が先に喜びの声を発したからである。陰陽の原理に背いてしまったのだ。そのせいで今蛭児が生まれた。
次に素戔鳴尊が生まれた。この神は、神としての性質が悪く、常に哭いて怒りを露にしてばかりいた。それで国の民がたくさん若死にし、青々とした山は枯れた。そのため父母は、「もしお前がこの国を治めたならば、必ず多くの人々を殺し傷つけるだろう。だからお前はここから遠く離れた根国を治めよ」と命じた。
次に鳥磐櫲樟橡船を産んだ。この船に蛭児を乗せ、流れにまかせ棄てた。次に、火神軻遇突智を産んだ。しかし、伊奘冉尊はこの時、軻遇突智の火に焼かれ終った。その、まさに臨終する間、倒れ臥し糞尿を垂れ流し、土神埴山姫と水神罔象女を産んだ。
そこで、軻遇突智は埴山姫を娶って稚産霊を産んだ。この神の頭の上に、蚕と桑が生じた。また、臍の中に五穀が生じた。
罔象、これを「みつは」という。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。伊奘冉尊は火産霊を産む時に、子のために焼かれ神退った。又は神避ると言う。その神退る時に、水神 罔象女と土神 埴山姫を生み、また天吉葛を産んだ。
天吉葛は「あまのよさづら」と言う。又は「よそづら」とも言う。
〔一書4〕
ある書はこう伝えている。伊奘冉尊は火神 軻遇突智を産もうとした時に、その火の熱に悶絶懊悩した。それにより嘔吐した。これが神に化成した。名を金山彦と言う。次に小便を漏らした。これも神と成った。名を罔象女と言う。次に大便を漏らした。これも神と成った。名を埴山媛と言う。
〔一書5〕
ある書はこう伝えている。伊奘冉尊は火の神を生んだ時に焼かれ死んだ。そこで紀伊国の熊野の有馬村に葬った。その土地では、習俗としてこの神の魂を祭る時には、花をもって祭り、そして鼓や笛や旗を用いて歌い舞って祭るのである。
〔一書6〕人間モデル神登場による新たな展開
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊と伊奘冉尊は共に大八洲国を生んだ。
その後に、伊奘諾尊は、「私が生んだ国は朝霧だけがかすんで立ちこめ満ちていることよ。」と言った。そこで吹き払った気が化して神となった。名を級長戸辺命と言う。また級長津彦命と言う。これが、風の神である。また飢えた時に子を生んだ。名を倉稲魂命と言う。また、海神等を生んだ。名を少童命と言う。山神等は名を山祇と言い、水門神等は名を速秋津日命と言い、木神等は名を句句迺馳と言い、土神は名を埴安神と言う。その後に、悉くありとあらゆるものを生んだ。
その火神の軻遇突智が生まれるに至って、その母の伊奘冉尊は焦かれ、化去った。その時、伊奘諾尊は恨み「このたった一児と、私の愛する妻を引き換えてしまうとは。」と言った。そこで伊奘冉尊の頭の辺りを腹ばい、脚の辺りを腹ばいして、哭いて激しく涕を流した。その涕が落ちて神と成る。これが畝丘の樹下に居す神である。名を啼沢女命と言う。
遂に、帯びていた十握剣を抜き、軻遇突智を三段に斬った。それぞれ化してその各部分が神と成った。また剣の刃から滴る血は、天安河辺にある五百箇磐石と成った。これが経津主神の祖である。また、剣の鐔から滴る血がほとばしって神と成った。名付けて甕速日神と言う。次に熯速日神。その甕速日神は武甕槌神の祖である。(または、甕速日命、次に熯速日命、次に武甕槌神と言う。)また、剣の先から滴る血がほとばしって神と成った。名付けて磐裂神と言う。次に根裂神。次に磐筒男命。(一説には磐筒男命と磐筒女命と言う。)また、剣の柄から滴る血がほとばしって神と成った。名付けて闇龗と言う。次ぎに闇山祇。次に闇罔象。
こうした後に、伊奘諾尊は伊奘冉尊を追って黄泉に入り及びいたって共に語った。その時、伊奘冉尊は「私の愛しい夫よ、どうして来るのがこんなに遅かったのですか。私は黄泉で煮炊きした物をすでに食べてしまったのです。でも、私はこれから寝ようと思います。お願いですから、けっして私をご覧にならないでください。」と言った。伊奘諾尊はそれを聴かず、こっそり湯津爪櫛を取り、櫛の端の雄柱を引き折り松明として見ると、膿がわき、蛆虫がたかっていた。今、世の人が夜に一つ火を灯すことを忌み、また夜に投げ櫛をすることを忌むのは、これが由縁である。
その時、伊奘諾尊はおおいに驚き、「私は、思いもよらず何と嫌な汚穢い国に来てしまったことだ。」と言い、すぐに急いで走り帰った。その時、伊奘冉尊は恨んで「どうして約束を守らず私に恥をかかせたのか。」と言い、泉津醜女(一説では泉津日狭女と言う)八人を遣わし、追い留めようとした。ゆえに、伊奘諾尊は剣を抜き、後ろ手に振りながら逃げた。さらに、黒い蔓草の頭飾りを投げた。これがたちまち葡萄と成った。醜女はこれを見て採って食べた。食べ終えると、更に追った。伊奘諾尊はまた湯津爪櫛を投げた。たちまち竹の子に成った。醜女はまたも、これを抜いて食べた。食べ終えるやまた追ってきた。最後には、伊奘冉尊もまた自ら来て追ってきた。この時には、伊奘諾尊はすでに泉津平坂に至っていた。(一説では、伊奘諾尊が大樹に向かって小便をした。するとこれがすぐに大河と成った。泉津日狭女がその川を渡ろうとしている間に、伊奘諾尊はすでに泉津平坂に至った、という。)そこで、伊奘諾尊は千人力でやっと引けるくらいの大きな磐でその坂路を塞ぎ、伊奘冉尊と向き合って立ち、遂に離縁を誓う言葉を言い渡した。
その時、伊奘冉尊は「愛しい我が夫よ、そのように言うなら、私はあなたが治める国の民を、一日に千人縊り殺しましょう。」と言った。伊奘諾尊は、これに答えて「愛しい我が妻よ、そのように言うならば、私は一日に千五百人生むとしよう。」と言った。そこで「これよりは出て来るな。」と言って、さっと杖を投げた。これを岐神と言う。また帯を投げた。これを長道磐神と言う。また、衣を投げた。これを煩神と言う。また、褌を投げた。これを開齧神と言う。また、履を投げた。これを道敷神と言う。その泉津平坂、あるいは、いわゆる泉津平坂はまた別に場所があるのではなく、ただ死に臨んで息の絶える間際、これではないか、とも言う。
伊奘諾尊は黄泉から辛うじて逃げ帰り、そこで後悔して「私は今しがた何とも嫌な見る目もひどい穢らわしい所に行ってしまっていたものだ。だから我が身についた穢れを洗い去ろう。」と言い、そこで筑紫の日向の小戸の橘の檍原に至り、禊祓をした(身の穢れを祓い除いた)。
こういう次第で、身の穢れをすすごうとして、否定的な言いたてをきっぱりとして「上の瀬は流れが速すぎる。下の瀬はゆるやかすぎる。」と言い、そこで中の瀬で濯いだ。これによって神を生んだ。名を八十枉津日神と言う。次にその神の枉っているのを直そうとして神を生んだ。名を神直日神と言う。次に大直日神。
また海の底に沈んで濯いだ。これによって神を生んだ。名を底津少童命と言う。次に底筒男命。また潮の中に潜ってすすいだ。これに因って神を生んだ。名を中津少童命と言う。次に中筒男命。また潮の上に浮いて濯いだ。これに因って神を生んだ。名を表津少童命と言う。次に表筒男命。これらを合わせて九柱の神である。その中の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、これが住吉大神である。底津少童命、中津少童命、表津少童命は、安曇連らが祭る神である。
そうして後に左の眼を洗った。これによって神を生んだ。名を天照大神と言う。また右の眼を洗った。これに因って神を生んだ。名を月読尊と言う。また鼻を洗った。これに因って神を生んだ。名を素戔鳴尊と言う。合わせて三柱の神である。
こういう次第で、伊奘諾尊は三柱の御子に命じて「天照大神は、高天原を治めよ。月読尊は、青海原の潮が幾重にも重なっているところを治めなさい。素戔鳴尊は天下を治めなさい。」と言った。
この時、素戔鳴尊はすでに年が長じていて、また握りこぶし八つもの長さもある鬚が生えていた。ところが、天下を治めようとせず、常に大声をあげて哭き怒り恨んでいた。そこで伊奘諾尊が「お前はどうしていつもそのように哭いているのだ。」と問うと、素戔鳴尊は「私は根国で母に従いたいのです。だから、哭いているだけなのです。」と答えた。伊奘諾尊は不快に思って「気のむくままに行ってしまえ。」と言って、そのまま追放した。
〔一書7〕激烈なシーンで化成する激烈な神
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊は剣を抜き軻遇突智を斬り、三つに刻んだ。そのうちの一つは雷神となった。もう一つは大山祇神と成り、一つは高龗と成った。
また別の言い伝えではこう伝えている。軻遇突智を斬った時に、その血がほとばしり、天八十河中にあった五百箇磐石を染めた。それによって神が化成した。名付けて磐裂神と言う。次に根裂神、次に磐筒男神、次に磐筒女神、その児、経津主神。
倉稲魂、これを「うかのみたま」と読む。少童、これを「わたつみ」と読む。頭辺、これを「まくらへ」と読む。脚辺、これを「あとへ」と読む。熯は火のことである。音は「じぜん」の反。龗これを「おかみ」と読む。音は「りょくてい」の反。吾夫君、これを「あがなせ」と言う。泉之竈、これを「よもつへぐい」と読む。秉炬、これを「たひ」と読む。不須也凶目汚穢、これを「いなしこめききたなき」と読む。醜女、これを「しこめ」と読む。背揮、これを「しりへでにふく」と読む。泉津平坂、これを「よもつひらさか」と読む。尿、これを「ゆまり」と読む。音は「だいちょう」の反。絶妻之誓、これを「ことど」と読む。岐神、これを「ふなとのかみ」と読む。檍、これを「あはき」と読む。
〔一書8〕
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊は軻遇突智命を斬り、五つにばらした。これがそれぞれ五つの山祇に化成した。一つは首で大山祇と成った。二つは身体で中山祇と成った。三つは手で麓山祇と成った。四つは腰で正勝山祇と成った。五つは足で䨄山祇と成った。
この時、斬った血がほとばしり流れ、石や礫、樹や草を染めた。これが草木や砂礫がそれ自体に火を含み燃えるようになった由縁である。
麓は、山のふもとのことを言う。これを「はやま」と読む。正勝、これを「まさか」と読む。ある書では「まさかつ」とも読まれる。䨄これを「しぎ」と読む。音は烏含の反。
〔一書9〕一方的な絶縁スタイル
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊は妻に会いたくなり、殯斂のところへ行った。すると伊奘冉尊は、まだ生きているかのように、伊奘諾尊を出迎え共に語った。そして伊奘諾尊に、「私の愛しい夫よ、どうかお願いです、私を決して見ないで下さい。」と言った。そう言い終わると忽然と姿が見えなくなった。このとき暗闇となっていた。伊奘諾尊は一つ火を灯してこれを見た。すると、伊奘冉尊の身は膨れあがっていて、その上に八色の雷がいた。
伊奘諾尊は驚き逃げ帰った。その時、雷達が皆起きあがり追いかけてきた。すると、道端に大きな桃の樹があった。伊奘諾尊はその樹の下に隠れ、その実を採って雷に投げると、雷達はみな退き逃げていった。これが、桃で鬼を追い払う由縁である。そして、伊奘諾尊は桃の木の杖を投げつけ、「これよりこちら側には、雷は決して来るまい。」と言った。この杖を岐神と言う。元の名は来名戸之祖神と言う。
いわゆる八色の雷とは、首にいたのは大雷といい、胸にいたのは火雷といい、腹にいたのは土雷といい、背にいたのは稚雷といい、尻にいたのは黒雷といい、手にいたのは山雷といい、足の上にいたのは野雷といい、陰の上にいたのは裂雷という。
〔一書10〕黄泉との完全なる断絶
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊は後を追って、伊奘冉尊のいる所に至った。
そして語って、「お前を失った事が切なく悲しくてやって来たのだ。」と言った。伊奘冉尊は、「親族のあなたよ、どうか私を見ないで下さい。」と答えた。伊奘諾尊はそれには従わず伊奘冉尊を猶も見た。それ故、伊奘冉尊は恥じ恨んで、「あなたは私の様子を見てしまった。私もあなたの様子を見る。」と言った。このとき伊奘諾尊も自らを恥じた。
そこで、そこを出て帰ろうとした。この時、ただ黙って帰らず、盟って「必ず離縁しよう」と言った。そしてまた「親族のお前には負けない。」と言った。そこで誓いを固めるために唾を吐いた。その唾から生まれた神を、名付けて速玉之男と言う。次に、これまでの事柄を一掃したことから生まれた神を、泉津事解之男という。合わせて二柱の神である。
その妻と泉平坂で相戦う時になって、伊奘諾尊は、「始め、私が親族のお前のために悲しみ、また慕ったのは、私が弱かったからだ。」と言った。すると、泉守道者が、「伊奘冉尊のお言葉があります。『私はすでにあなたと国を生みました。どうしてさらに生きる事を望みましょうか。私はこの国に留まります。あなたと一緒にこの国を去ることはしません。』と仰いました。」と言った。この時、菊理媛神からも言葉があった。伊奘諾尊はそれを聞いて褒めた。そして、去って行った。
しかし、伊奘諾尊は自ら泉国を見た。これは全く良くないことだった。この穢れを濯ぎ払おうと思い、すぐに粟門や速吸名門を見に行った。しかしこの二つの海峡は潮の流れが非常に速かった。それ故、橘小門に帰り、穢れを濯ぎ払った。
その時に、水に入って磐土命を吹き生んだ。水から出て、大直日神を吹き生んだ。また入って、底土命を吹き生んだ。水を出て、大綾津日神を吹き生んだ。また入って、赤土命を吹き生んだ。そして水から出て、大地・海原の諸々の神々を吹き生んだ。
不負於族、これを「うがらまけじ」と読む。
〔一書11〕天照大神の天上統治と農業開始
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊は、三柱の子それぞれに「天照大神は、高天原を治めよ。月夜見尊は、日と並んで天を治めよ。素戔鳴尊は、海原を治めよ。」と勅任した。
こうしてすでに天照大神は天上にあり、月夜見尊に対して「葦原中国に保食神がいると聞く。月夜見尊よ、そこに行き様子をうかがってきなさい。」と言った。
月夜見尊がその勅命を受けて降り、保食神のもとに到ると、保食神はさっそく首を巡めぐらし、国に向かえば口から飯を出し、また海に向かえば大小さまざまな魚を口から出し、また山に向かえば大小さまざま獣を口から出した。それらのありとあらゆる品物を備え、数え切れないほどたくさんの机に積み上げて饗応した。この時、月夜見尊は怒りをあらわにして、「なんと汚らわしい、卑しい。口から吐いた物なんかを、敢えて私に喰わせてよいはずはないだろう。」と言い、剣を抜いて打ち殺した。
そうして後に復命して詳しくこの事を報告した。この時、天照大神は激怒し、「汝は悪い神だ。もう顔など見たくもない。」と言った。こうして、天照大神は月夜見尊と、日と夜と時を隔てて住んだ。
この後に、天照大神は天熊人を遣わし、往って様子を看させた。この時、保食神は実際すでに死んでいた。ただ、その神の頭頂部は化して牛馬と成り、額の上に粟が、眉の上に蚕が、眼の中に稗が、腹の中に稲が、陰には麦と大豆、小豆が生じていた。天熊人はそれを全て取って持ち去り、天照大神に奉った。
時に天照大神は喜び、「この物は、この世に生を営む人民が食べて活きるべきものである。」と言って、粟・稗・麦・豆を陸田(畑)の種とし、稲を水田の種とした。またこれにより天邑君(村長)を定めた。そこでさっそくその稲の種を、天狭田と長田に始めて植えた。その秋には、垂れた稲穂が握り拳八つほどの長さにたわむほどの豊作であり、たいへん快よい。また、口の中に蚕を含み、糸を抽き出すことができた。これをとり始めて養蚕の道が拓けたのである。
保食神、ここでは「うけもちのかみ」と言う。顕見蒼生、ここでは「うつしきあをひとくさ」と言う。
『日本書紀』第六段 現代語訳
〔本伝〕
そこで(根国への追放処分を受け)、素戔鳴尊は伊奘諾尊に請い、「私はいま勅命を奉じて根国に行こうとしています。ですから、しばらく高天原に出向き、姉(天照大神)とお会いしてその後、永久にこの世界から退去することにしたいと思います。」と言った。伊奘諾尊はこの請願を勅許した。そこで、素戔鳴尊は天に昇り、天照大神のもとに詣でたのである。
この後、伊奘諾尊は、はかり知れない仕事をすでにやり遂げ、霊妙な命運が遷るべきであった。それで終の住み処となる幽宮を淡路の洲に構え、ひっそりと身をとこしえに隠したのである。またこうした伝えもある。伊奘諾尊は、その仕事がすでに行き届き、德も偉大であった。そこで天に登り、天神に報告した。これにより、日の少宮に留まり宅むのである。少宮、ここでは「倭柯美野」と云う。
はじめ素戔鳴尊が天に昇った時、大海がそれで激しく波打って揺れ動き、山岳はそのため鳴りとどろいた。これは、神の本性の雄々しく猛々しいことがそうさせているのである。
天照大神は、もとよりその神の暴悪を知っていた。素戔鳴尊の天に昇って来るさまを聞くに及んで、顔色をにわかに変えて驚き、「私の弟の来るのは、よもや善意ではあるまい。思うに、きっと国を奪う意志があるはずではないか。そもそも父母がすでにどの子をも任じ、だからそれぞれが統治する境界をもっている。それなのにどうして赴くべき国を棄て置き、ことさら此処(高天原)を奪い取ろうなどとするのか。」と言った。
そこで防禦すべく、髪を結って髻(男の髪型)とし、裳(女の上下組み合わせた衣と裳、裳は腰から下をおおう衣服)を縛って袴とした上で、八坂瓊の五百箇御統(大きな玉をいくつも紐で通してつなげた玉飾り)で、(御統 ここでは「美須磨屢」と云う)その髻・鬘(髪飾り)および腕に巻き付け、また背には千箭(数多くの矢)(千箭 ここでは「知能梨」と云う)の靫(矢を入れる武具)と五百箭の靫を負い、臂に稜威(相手を恐れさせる強盛な威力)(稜威 ここでは「伊都」と云う。)の髙鞆(弓を射るさい弦の当たるのを防ぐ一方、当たって高い音を出すために左手首の内側に巻き付ける武具)を著け、弓彇(弦をかける弓の両端部。上端を末弭、下端を本弭という)を振りたて、剣の柄を力強く握りしめて、堅い大地を踏んで股までのめり込ませ、そのまま淡雪のように蹴散らかし、(蹴散 ここでは「倶穢簸邏邏箇須」と云う)稜威の雄詰(相手を威圧する雄壮な声)(雄詰 ここでは「烏多稽眉」と云う)を奮わせ、稜威の嘖譲(責め叱りたてる言葉)を発して、面と向かい問い詰めた。
素戔鳴尊は、これに対して「私には、もともと邪悪な心(具体的には高天原の乗っ取り)はありません。ただ、すでに父母の厳しい勅命があり、永久に根国に行こうとしているのです。それでもし姉にお会いしなければ、私はどうしてあえて去くことができるでしょう。それですから雲や霧のなかを跋渉し、遠路はるばる参り来たのです。姉上が喜ぶどころか、厳しいお怒りの顔をなさるとは思いもしませんでした。」と答えた。
その時、天照大神がまた「もしそうだとしたら、何をもって爾の赤き心(潔白)を証明しようとするのか。」と問うと、これには「姉と共に誓(事前に決めておいた通りの結果になるか否かをもって、神意を判定する占い)することをお願いします。この誓約の中では、(誓約之中 ここでは「宇気譬能美難箇」と云う)必ずや子を生むでしょう。もし私の生むのが女であれば、濁きこころがあるとしてください。もし男であれば、清き心があるとしてください。」と答えた。
そこで、天照大神が素戔鳴尊の十握剣(握は拳一つの幅。大剣)を索め取り、これを三段に打ち折り、天の真名井(神聖な井)に濯いで、噛みに噛んで(○然咀嚼 ここでは「佐我弥爾加武」と云う)砕き、吹き棄てた息吹によってできた細かな霧に(吹棄気噴之狭霧 ここでは「浮枳于都屢伊浮歧能佐擬理」と云う)生まれた神が、名を田心姫と言う。次に湍津姫、次に市杵嶋姫。合わせて三女である。
今度は、素戔鳴尊が天照大神の髻・鬘および腕に纏いている八坂瓊の五百箇御統を乞い取り、これを天の真名井に濯いで、噛みに噛んで砕き、吹き棄てた息吹の細かな霧に生まれたのが、名を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊と言う。次に天穂日命、是は出雲臣・土師連等の祖である。次に天津彦根命。是は凡川内直・山代直等の祖である。次に活津彦根命。次に熊野櫲樟日命。合わせて五男である。
この時、天照大神は勅して「その物実(子としてうまれるそのもとの根源)を原ねると、八坂瓊の五百箇御統は、間違いなく私の物である。だから、そちらの五男神はすべて私の子である。」と言い、そうして引き取って子として養育した。また勅して「その十握剣は、まぎれもなく素戔鳴尊の物である。だから、こちらの三女神はすべて爾の児である。」と言い、素戔鳴尊に授けた。三女神は、筑紫の胸肩君等の祭る神がこれである。
〔一書1〕
ある書はこう伝えている。日神は、もともと素戔鳴尊に勇猛で物を突き抜けてその上に出るような意のあることを知っていた。その天に昇り至るに及んで、思うようは、「弟の来たわけは、決して善意ではあるまい。必ずやわたしの天の原を奪うに違いない。」と。そこで大夫の武の装備をととのえ、身には十握剣・九握剣・八握剣を帯び、背に靫を負い、また臂には稜威の髙鞆を著け、手に弓と箭をつかみ、みずから迎え防禦した。この時素戔鳴尊が日神に告げて「私はもともと悪い心(国を奪い取る反逆心)などありません。ただ姉とお会いしたいと思い、ただそれだけで少しの間来たに過ぎないのです。」と言った。そこで日神は、素戔鳴尊と共に向き合って誓を立て「もし爾の心が明浄で、国を力づくで奪い取る意志がないのならば、汝の生む児は、必ず男のはずだ。」と言い、そう言い終わると、先に身に帯びている十握剣を食べて児を生んだ。名を瀛津島姫と言う。また九握剣を食べて児を生んだ。名を湍津姫と言う。また八握剣を食べて児を生んだ。名を田心姫という。合わせて三女神である。
そうしたあと今度は素戔鳴尊がその頸にかけている五百箇御統の瓊(数多くの玉を数珠つなぎした美玉)を天渟名井、またの名は去来の真名井に濯いで食べ、そうして子を生んだ。名を正哉吾勝勝速日天忍骨尊と言う。次に天津彦根命。次に活津彦根命。次に天穂日命。次に熊野忍蹈命。合わせて五男神である。
それゆえ、素戔鳴尊はすでに勝の験(証拠)を得た。そこで、日神は、素戔鳴尊にもともと悪意がなかったことをまさに知り、そこで日神の生んだ三女神を筑紫の洲に降した。これにより、三女神に教えて「汝三神は、道中(〔一書 第三〕に「海の北の道中」という海路をいう。この玄界灘の沖ノ島に沖津宮、大島に中津宮、宗像に返津宮がある)に降り居て、天孫(後に降臨する火瓊瓊杵尊)を助け奉り、天孫に祭られなさい。」と言った。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。素戔鳴尊が天に昇ろうとする時に、名を羽明玉という神が迎え奉り、めでたいしるしの八坂瓊曲玉(大きな美しい珠の湾曲した玉)を進呈した。それで、素戔鳴尊はその瓊玉を持って天上に到ったのである。
この時、天照大神は、弟に悪い心(国を奪い取る邪悪な心)があることを疑い、軍兵を動員して問い詰めた。素戔鳴尊はこれに対して「私の来た理由は、実際に姉とお会いしたいと思ったからです。また珍宝の瑞八坂瓊曲玉を献上しようとしただけです。それ以外にことさら意図などありません。」と答えた。この時また天照大神が「汝のその言葉が嘘か実か、何を験(証拠)とするのか。」と問うと、答えて「私が姉と共に誓約を立てることを要請します。この誓約の間に、女を生めば黒心(国を奪い取る謀反の心)であり、逆に男を生んだら赤心(潔白な心)です。」と答えた。そこで天真名井を三処掘り、ともに向き合って立った。
この時、天照大神が素戔鳴尊に向かって「私の帯びる剣を、今汝に奉ろう。汝の持っている八坂瓊曲玉を私に授ければよい。」と言った。このように約束し、共に所持品を交換して取った。そうしたあと天照大神は八坂瓊曲玉を天真名井に浮かべ寄せて、瓊の端を噛んで断ち切り、口から吹き出した気息の中に神を化生した。名を市杵嶋姫命という。これが大海の遠い沖(沖津宮)に居る神である。また瓊の中ほどをかんで断ち切り、口から吹き出した
気息の中に神を化生した。名を田心姫命という。これが中ほどの沖あい(中津宮)に居る神である。また瓊の尾(尻に当たる部分)をかんで断ち切り、口ちから吹き出した気息の中に神を化生した。名を湍津姫命という。これが浜辺(辺津宮)に居る神である。合わせて三女神である。
そこで今度は素戔鳴尊が持っている剣を天真名井に浮かべ寄せて、剣の末(切っ先)をかんで断ち切り、口ちから吹き出した気息の中に神を化生した。名を天穂日命という。次に正哉吾勝勝速日天忍骨尊。次に天津彦根命。次に活津彦根命。次に熊野櫲樟日命。合わせて五男神であると、爾云う(「爾」が以上の記述全体を指す。「一書曰」に対応する締め括り辞)。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。日神は素戔鳴尊と天安河を隔てて向き合い、そこで誓約を立て「汝にもし姧賊之心(国を奪い取る邪悪な心)がないのであれば、汝の生む子は必ず男である。もし男を生めば、私は子として天原を治めさせる。」と明言した。さてそこで、日神が先にその帯びている十握剣を食べて児の瀛津嶋姫命を化生した。亦の名を市杵嶋姫命という。また九握剣を食べて児の湍津姫命を化生した。また八握剣を食べて児の田霧姫命を化生した。
そうして今度は素戔鳴尊がその左手の髻に纏きつけている五百箇統の瓊を口に含み、吐き出して左手の掌中に著けて男を化生した。そこでこれを称えて「なんとまさしくも、私が勝ったのだ。」と言った。だから、それによって名付け、勝速日天忍穂耳尊と言う。また右の髻の瓊を口に含み、吐き出して右手の掌中に著け、天穂日命を化生した。また頸にかけている瓊を口に含み、吐き出して左臂の中に著け、天津彦根命を化生した。また右臂の中から活津彦根命を化生した。また左足の中より熯之速日命を化生した。また右足の中から熊野忍蹈命を化生した。亦の名を、熊野忍隅命という。その素戔鳴尊の生んだ児は、皆まさに男である。
それゆえに、日神はまさに素戔鳴尊にもともと赤心(潔白な心)があったことを知った。そこでその六男を引き取って日神の子とし、天原を治めさせた。同時に、日神の生んだ三女神は、葦原中国の宇佐嶋に降して居らせた。今、海の北の道中に在って、名を道主貴と言う。これは、筑紫の水沼君等の祭る神がこれである。「熯」は、「干」である。ここでは「備」と云う。
『日本書紀』第七段 現代語訳
〔本伝〕
この後には、素戔鳴尊の行うことが、甚だ常軌を逸脱したものであった。何かといえば、天照大神は天狭田・長田を御田としていたが、その時、素戔鳴尊が春にはその御田のすでに種子を播いた上にさらに種子を播き、「重播種子」は、ここでは「璽枳磨枳」と云う。しかもまたその畔を壊しなどする。秋には、天斑駒を放ち、稲の実る田の中に伏せさせ、また天照大神が新嘗(新穀を神に供えかつ食する祭祀)をする時を見計らっては、新造した宮(新嘗を行う殿舎)にこっそり糞を放ちかける。また天照大神がまさに神衣を織って斎服殿(機を織る神聖な殿舎)に居るのを看ると、天斑駒の皮を剥ぎ、その殿の甍を穿って投げ込んだ。この時、天照大神は驚愕して、織り機の梭で身を傷つけてしまった。
これによって激怒し、そこで天石窟に入り、磐戸を閉じて籠もってしまった。それゆえ、この世界中が常闇(はてしなく続く闇)となり、昼と夜の交代も分からなくなってしまった。
この時、八十万神が天安河辺に会合して、その祈るべき方法を計画した。それゆえ、思兼神は深謀遠慮をめぐらせ、遂に常世(神仙境)の長鳴鳥(鳴き声を長くのばして暁を告げる鶏)を集めて互いに長鳴きさせ、また手力雄神を磐戸の側に立たせた。そうして中臣連の遠祖天児屋命と忌部の遠祖太玉命が、天香山の五百箇真坂樹(神域を画するりっぱな境木)を根こそぎ掘り出し、上の枝には八坂瓊の五百箇御統をかけ、中の枝には八咫鏡をかけ、あるいは「真経津鏡」と云う。下の枝には青和幣、「和幣」は「尼枳底」と云う。白和幣をかけ、一緒にその祈祷に尽くした。また猨女君の
遠祖
天鈿女命は、手に茅を纏いた矟を持ち、天石窟戸の前に立って巧みに俳優(独特の所作を伴う舞踊。演者を倡優という)をした。また天香山の真坂樹を鬘(髪飾り)にし、蘿(蘿蔓で、常緑のシダ類)「蘿」は、ここでは「比舸礙」と云う。を手繦にして、「手繦」は、ここでは「多須枳」と云う。かがり火を焚き、覆槽(逆さに伏せた桶)を伏せ置き、「覆槽」は、ここでは「于該」と云う。顕神明之憑談(神の憑依による神託を顕現すること)した。「顕神明之憑談」は、ここでは「歌牟鵝可梨」と云う。
この時、天照大神はこれを聞いて「私がこのごろ石窟を閉じて籠もっている以上、豊葦原中国は必ず長く続く夜であるのに、どうして天鈿女命はこのように大笑いして楽しんでいるのだろうか。」と言い、そこで御手で磐戸を少しだけ開いて窺った
その時とばかり、手力雄神が天照大神の手を承け奉り、引いて石窟からお出し申し上げた。そこで、中臣神と忌部神がただちに端出之縄(しめなわ。通常とは逆に左捻りにわらの端を出したまま綯う)を石窟の入り口に引き渡して境とし、「縄」また「左縄端出」と云う。ここでは「斯梨倶梅儺波」と云う。そこで「二度とお戻りなさってはいけません。」と請い申しあげた
その後諸神は罪過を素戔鳴尊に帰して、千座置戸(物を置く数多くの場所。そこに置く莫大な賠償品)を科し、遂に督促して徴収した。これに応じないため、髪を抜いてその罪を購わせるに至った。また別に、その手足の爪を抜いて購ったと言う。こうしたあと、遂に放逐して降したのである。
〔一書1〕
ある書はこう伝えている。誓約の後に、稚日女尊が齊服殿に坐して神の御服を織っていた。素戔鳴尊はこれを見ると、生きたまま班駒を逆剥ぎ(尻のほうから皮を剥ぐこと)に剥いで、その殿内に投げ入れた。稚日女尊は、これに驚いて機から墜ち、持っていた梭で体を傷つけて死去した。それゆえ、天照大神は素戔鳴尊に対して「汝はやはり黒心がある。汝と会おうとは思わない。」と言い、そこで天石窟に入り、磐戸を固く閉じてしまった。ここにおいて天下は常に闇となり、昼と夜の交替も無くなってしまった。
それゆえ、八十万神を天高市(交易する市のように神の集う小高い場所)に会し、善後策を問うた。この時、高皇産霊尊の子息の思兼神という者がいた。思慮の智があったので、思いをめぐらして「あの神の象をかたち造って、招き禱り奉るのがよい。」と申しあげたのである。それゆえさっそく石凝姥を鍛冶工とし天香山の金を採って日矛を作った。また真名鹿(愛子の愛で、愛らしい鹿)の皮を丸剥ぎにして天羽鞴(火を起こすさい風を送る道具、ふいご)を作った。これらを用いて天照大神の像を造り奉った神が、紀伊国に鎮座する日前神である。「石凝姥」は、ここでは「伊之居梨度咩」と云う。「全剥」、ここでは「宇都播伎」と云う。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。日神尊が天垣田を御田としていた。この時、素戔鳴尊は、春にはその田の渠を埋め、畦を壊し、また秋の穀物がすでに成熟すれば、横取りあるいは収穫を妨害するため勝手に絡縄(丈夫な縄)をその田に引き渡した。また日神が織殿に居た時には、班駒を生きたまま皮を剥いでその殿内に投げ込んだ。おしなべてこの諸事は、ことごとくが暴虐であった。そうではあっても、日神は、情け深い親愛の意があり、怒らず恨まずに、すべて穏やかな心で容認した。
それでも、日神が新嘗に当たっている(新穀を神に供え、神と共食する神聖な行事のさなか)時に及ぶと、素戔鳴尊はそれを見計らってその新嘗を行う新宮の日神の御席の下にひそかに糞をした。日神は、なにも知らないまま、じかにその席の上に坐った。これにより、日神は全身が病んでしまった。それゆえ、たいそう怒り恨み、ただちに天石窟に籠もってその磐戸を閉じた。
この時、諸神は憂慮し、そこで鏡作部の遠祖である天糠戸には鏡を造らせ、忌部の遠祖である太玉には幣を造らせ、玉作部の遠祖である豊玉には玉を造らせた。また山雷(山の神)には五百箇真坂樹の八十玉籤(神にささげる祭具、玉串)を採らせ、野槌(野の神霊)には五百箇野薦の八十玉籤を採らせた。おしなべてこの諸諸の物が皆来て集まった。その時に中臣の遠祖である天児屋命が日神の祝い言を言葉の限り称えあげた。ここにおいて、日神はまさに磐戸を開いて出た。この時に鏡をその石窟に入れたので、戸に触れて鏡に小さな瑕ができてしまった。その瑕は、今もなお残っている。これがつまり、伊勢のあがめ敬う神秘な大神である。
そうしたあと、罪を素戔鳴尊に科して、その罪を祓うためのものを出させた。こうして手端の吉棄物(祓えの具として切った手の爪)、足端の凶棄物(祓えの具として切った足の爪)があり、また唾を白和幣(唾液の供え物)とし、洟を青和幣(鼻水の供え物)とし、これらを用いて解除(罪穢れを除去する祓え)をやり終え、遂に神逐(神の追放)の理によって追放した。「送糞」は、ここでは「俱蘇摩屢」と云う。「玉籤」は、ここでは「多摩俱之」と云う。「祓具」は、ここでは「波羅閉都母能」と云う。「手端吉棄」はここでは「多那須衛能余之岐羅毘」と云う。「神祝祝之」は、ここでは「加武保佐枳保佐枳枳」と云う。「逐之」は、ここでは「波羅賦」と云う。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。この後に([一書 第一]と同じ書き出しのかたちをとるが、誓約の後ではなく、先行する内容は不明)、日神の田は三カ所あった。名を天安田・天平田・天邑并田という。これは皆良田であった。長雨や干魃に見舞われても、損なわれたり壊れたりなどしない。一方、その弟の素戔鳴尊の田も、また三カ所あった。名を天樴田・天川依田・天口鋭田 という。これは、どこも土地がやせて狭小であり、石も多い。雨が降れば流れ、また旱であれば焦けてしまう。それゆえ、素戔鳴尊は姉の田を妬んで害を加えた。春には、田の用水路をだめにし、溝を埋め、畔を壊し、またすでに種子を播いた上に重ね播きする。秋には、収穫前の田に串を刺して自分のものとしたり、馬を入れて腹這いにさせたりする。すべてこの悪事の止む時がまったく無かった。それにもかかわらず、日神は怒らず、いつも穏やかで思いやりの心で容認していた。云云。(省略を表す語。その省略は、日神の天石窟閉居を導く素戔鳴尊の悪辣な行為を主な内容とする先行[一書 第二]を前提とする)。
日神が天石窟にとじ籠もるに及んで、諸神は中臣連の遠祖である興台産霊の児の天児屋命を遣わして祈らせた。そこで天児屋命は、天香山の真坂木を根ごと掘り出し、その上の枝には、鏡作の遠祖である天抜戸の児の石凝戸辺が作った八咫鏡を掛け、中の枝には、玉作の遠祖である伊奘諾尊の児の天明玉が作った八坂瓊の曲玉を掛け、下の枝には、粟国の忌部の遠祖である天日鷲が作った木綿(木の繊維を糸状にした祭器。榊に掛け、襷にして神事に使う)を掛け、そうして忌部の首の遠祖である太玉命にこの真坂木を手に取り持たせ、壮大・重厚に賛美するたたえごとを祈り申し上げた。時に、日神はこれを聞いて「このごろ人が何度も石窟から出るように誓願するが、いまだこんなにも麗美しい言葉はない。」と言い、そこで磐戸を細めに開けて外を窺った。この時、天手力雄が磐戸の側にひかえていたので、ただちに磐戸を引き開けると、日神の光が世界の隅々まで満ちた。
それゆえ、諸神は大いに喜び、さっそく素戔鳴尊に千座置戸の解除(罪穢れを祓うためのもの、祓えの具)を科し、手の爪を吉爪棄物とし、足の爪を凶爪棄物とした。そこで、天児屋命にその解除のこの上なく荘重・厳粛な祝詞を掌り、唱えさせた。世人が自分の爪を慎重に収めるのは、これがその縁(ことの起こり)なのである。
そうしたあと、諸神は素戔鳴尊を責めとがめて「汝が所行は甚だ常軌を逸している。だから天上に住んではならない。また葦原中国にも居てはならない。今すぐに底根之国に往くがよい。」と言い、そこで共に天上から逐い降り去かせた。
ちょうどこの時、霖雨が降っていた。素戔鳴尊は青草を結い束ねて笠や蓑とし、宿を多くの神に乞うた。神神は「汝は、みずからの所行が濁って悪辣だから追い払われ流されるのだ。それなのに、どうして宿を私に乞うのか。」と言い、結局みな同じように拒絶した。そこで、風雨は甚だしかったけれども、留まり休むことができずに、つらく苦しみながら降った。それ以来、世の人では、笠や蓑を着けたまま他人の家の屋内に入ることを諱むのである。また束ねた草を負って他人の家の内に入ることも諱む。これを犯す者があれば、必ず解除(祓えの具)を出して償わさせる。これは、太古から残されてきたきまり・制度である。
この後に、素戔鳴尊は「諸神が私を追放した。私は、今ここから永久に去ろうと思うけれども、どうして姉と会うことも無く、自分勝手にただちに去ることができようか。」と言い、また天地を揺るがして天に昇った。この時、天鈿女が見て、日神に報告した。日神は「私の弟が天に昇って来る理由は、決して好意ではない。必ず我が国を奪おうとしているのではないか。私は婦女だが、どうして避けようか。」と言い、みずから戦いの備えを身に装った。云云(省略を表す語。前出)。
そこで素戔鳴尊は誓をして「私がもし善くない心を懐いて再度ここに昇って来たのであれば、私がいま玉を噛んで生む児は、必ずや女であるはずです。そうだとしたら、この女の児を葦原中国に降すことができます。もし清い心があるのであれば、必ずや男を生むはずです。そうだとしたら、この男の児に天上を統治させることができます。また姉の生むのも(生む児の男女とその処遇との対応)、またこの誓いと同じです。」と言った。ここにおいて、日神が先に十握剣を噛み、云云。
素戔鳴尊は、そこで緒もくるくるとその左の髻に纏いている五百箇統の瓊の緒を解き、瓊の触れ合う音もさやかに天渟名井に濯ぎ浮かべ、その瓊の端を噛み、吐き出して左の掌に置いて児の正哉吾勝勝速日天忍穂根尊を生んだ。また右の瓊を噛み、吐き出して右の掌に置いて、児の天穂日命を生んだ。これが、出雲臣・武蔵国造・土師連等の遠祖である。次に天津彦根命。これが、茨城国造・額田部連等の遠祖である。次に活目津彦根命。次に熯速日命。次に熊野大角命。合わせて六男である。
そこで素戔鳴尊は日神に「私の再び天上に昇って来た理由は、多くの神神が私を根国に追放処分したことです。今そこに退去しなければならず、もし姉とお会いしなければ、とうてい別離にたえられません。それゆえ、本当に清い心で再び昇って来ただけなのです。今はもうお目見えもすみました。多くの神神の意向に従い、これより永久に根国に赴くべきなのです。どうか姉上には天国(語構成上は天の国であり、高天原とみるのが通説だが、存疑。天上と葦原中国との対応上は、天地に通じる天と国との熟合の可能性もある)に照臨(四方を照らし、君臨すること)し、おのずから平安でおられるのがよろしい。私は、清い心で生んだ児らもまた姉上に奉ります。そうしたあと、再び、葦原中国に還り降った。「廃渠槽」は、ここでは「秘波鵝都」と云う。「捶籤」は、ここでは「久斯社志」と云う。「興台産霊」はここでは「許語等武須毘」と云う。「太諄辞」はここでは「布斗能理斗」と云う。「○轤然」はここでは「乎謀苦留留爾」と云う。「瑲瑲」は、ここでは「奴儺等母母由羅爾」と云う。
『日本書紀』第八段 現代語訳
〔本伝〕
この時(諸神に追放されて高天原を降る時)、素戔鳴尊は天より降り、出雲国の簸の川の上に至った。その際、川の上に死を痛んで哭きさけぶような声がするのを聞いたので、その声を尋ね求めて往けば、老翁と老婆が中に少女を置いて撫でながら哭いていた。素戔鳴尊が「汝らは誰か、どうしてそんなありさまで哭いているのか。」と問うと、これに対して「私は国神で、名を脚摩乳と申します。私の妻は手摩乳と申します。この童女は私の児で、奇稲田姫と申します。哭く理由というのは、過去に私の児は八人の少女がいましたが、年ごとに一人ずつ八岐大蛇に呑み込まれてしまいました。今、この少女が大蛇に呑み込まれようとしています。なんとも脱がれる手立てがありません。それで(この少女の死を)悲しみいたんでいるのです。」と答えた。素戔鳴尊が勅して「もしそうだとするならば、汝は女を私に奉るか。」と言うと、「勅に従って奉ります。」と答えた。
それゆえ、素戔鳴尊はたちまち奇稲田姫を湯津爪櫛(神聖な爪を立てた形状の櫛(くし))に化身させて、御髻に挿した。そこで脚摩乳と手摩乳に八醞の酒(醸造を何度もくり返した強い酒)を造り、あわせて仮庪(桟敷)を八間(八つの仮の棚)作り、「仮庪」は、ここでは「佐受枳」と云う。そのおのおのに一つの酒桶を置いて酒をそれに盛らせ、大蛇の到来を待ったのである。
その時期に至ると、はたして大蛇が姿を現した。頭と尾は、それぞれ八岐に分かれ、眼は赤酸醤(ほうずき)のようであり、「赤酸醤」は、ここでは「阿箇箇鵝知」と云う。松や柏(栢。常緑高木)がその背に生えて、八つの丘、八つの谷の間に蛇体を這いわたらせていた。酒を得ると、八岐の頭をそれぞれ酒桶に突っ込んで飲み、酔って睡てしまった。この時を見はからって、素戔鳴尊は帯びていた十握剣を抜き、細かくその大蛇を斬り刻んだ。尾に至ったところで、その剣の刃が少し欠けた。それでその尾を切り裂いて見れば、中に一振りの剣があった。これが、いわゆる草薙剣である。「草薙剣」は、ここでは「俱裟那伎能都留伎」と云う。ある書には、「もとは名を天叢雲剣という。思うに、大蛇のいる上には、常に雲気がただよっている。それゆえに、そう名付けたのではないか。日本武皇子に至って、名を改めて草薙剣という」とつたえている。素戔鳴尊は「是は神剣である。私がどうしてあえて自分のものとして置こうか。」と言い、そこで天神に献上したのである。
その後、素戔鳴尊は奇稲田姫と結婚するのに最適な場所を求めて探し訪ね、その果てに遂に出雲の清地に到った。「清地」は、ここでは「素鵝」と云う。そこで「私の心は清清しい」と言い、この次第で、今この地を「清」と言う。その場所に宮を建てた。ある説には、時に武素戔嗚尊が「八雲たつ出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣ゑ」と歌ったと伝えている。そこで結婚して児の大己貴神を生んだ。これにより、勅して「私の児の宮を管理する首(司長)は、脚摩乳と手摩乳である。」と言い、それで、この二神に名号を賜り、稲田宮主神と言うのである。そうしたあと、素戔鳴尊は根国に行った。
〔一書1〕
ある書はこうつたえている。素戔鳴尊は天から降り、出雲の簸の川の上に到った。そうして稲田宮主簀狹之八箇耳の子女、稲田媛に会い、そこで奇御戸(隠処、寝所)に睦事を始めて児を生み、清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠と名付けた。一説に清之繫名坂軽彦八嶋手命と云う。また一説に、清湯山主三名狹漏彦八嶋野と云う。この神の五世の孫が大国主神である。「篠」は「小竹」である。ここでは「斯奴」と云う。
〔一書2〕
ある書はこうつたえている。この時、素戔鳴尊は天から下り、安芸国の可愛の川の上に到ったのである。そこに神がいた。名を脚摩手摩と言う。その妻は名を稲田宮主簀狹之八箇耳と言う。この神はまさに妊娠中であった。夫と妻は共に愁え、そこで素戔鳴尊に「私の生んだ児は多かったのですが、生むたびに、八岐大蛇が来て呑み込んでしまい、一人も生き残ることができていません。いま私は児を産もうとしていますが、おそらくはまた呑まれてしまいます。それで悲しみいたんでいるのです。」と告げた。
素戔鳴尊はそこで二神に教えて「汝は多くの木の実で酒を八甕醸造したらよい。私が汝のために蛇を殺してやる。」と言った。二神はこの教えどおり、酒を設けそなえた。いよいよ産む時に至ると、確かにあの大蛇が戸につき当たって児を呑みこもうとした。素戔鳴尊は蛇に勅して「汝は恐れ敬うべき神だ。是非とも酒を供えてもてなさなければならない。」と言い、そこで八つの甕の酒を、大蛇の八つの口ごとに注ぎ込んだ
するとその蛇は、酒に酔って睡てしまった。素戔鳴尊は剣を抜いて斬った。尾を斬る時に至ったところで、剣の刃が少し欠けた。尾を割いて見れば、中に剣があった。名を草薙剣と言う。これがいま尾張国の吾湯市村にある。熱田祝部の管掌する神がこれである。その蛇を断ちきった剣は、名を蛇之麁正と言う。これが、今は石上にある。
この後、稲田宮主簀狹之八箇耳の生んだ児、真髪触奇稲田媛を出雲の簸の川の上に遷し置き、養育して、成長させた。そうした後に素戔鳴尊が妃となして生んだ児の六世の孫が、名を大己貴命と言うのである。「大己貴」は、ここでは「於褒婀名娜武智」と云う。
〔一書3〕
ある書はこうつたえている。素戔鳴尊が奇稲田媛を娶ろうと思って乞うた。脚摩乳・手摩乳はこれに答えて「どうか先にあの蛇を殺して下さい。その後に娶るというのであれば宜しいでしょう。あの大蛇は、頭ごとにそれぞれ岩松があり、両脇に山があって、甚だ恐るべきです。なにで殺すのでしょうか。」と言った。
素戔鳴尊は、そこで計略をめぐらし、毒酒を醸造して大蛇に飲ませた。蛇は酔って睡ってしまった。素戔鳴尊は、そこで蛇韓鋤之剣で頭を斬り、腹を斬った。その尾を斬る時に、剣の刃が少し欠けた。それゆえ尾を裂いて見ると、別に一振りの剣があった。名を草薙剣とした。この剣は、昔は素戔鳴尊の許にあったが、今は尾張国にある。その素戔鳴尊が蛇を断ち斬った剣は、今は吉備の神部(神職)のもとにある。出雲の簸の川の上の山がこれである。
〔一書4〕
ある書はこうつたえている。素戔鳴尊の所業が暴虐極まりなかった。それゆえ、諸神は千座置戸(罪過を贖う莫大な賠償品)を素戔鳴尊に科して、遂に天上から追放した(第七段 [本伝]の抄録)。
この時、素戔鳴尊は子の五十猛神をひき連れて新羅国に降り到って、その曽尸茂梨という所に居住した。そこで声高に言葉を発して「この地は、私は居たいとは思わない。」と言い、遂に埴土で舟を作り、これに乗って海を東に渡り、出雲国の簸の川の上に所在する鳥上の峯に到った。まさにこの時、そこには人を呑み込む大蛇がいた。素戔鳴尊はそこで、天蠅斫之剣でその大蛇を斬った。その際、蛇の尾を斬ったところで、刃が欠けた。すぐに裂いてよく見ると、尾の中に一振りの神剣があった。素戔鳴尊は「これは、私が自分一人だけで使用してはならないものだ。」と言い、そこで、五世の孫に当たる天之葺根神を遣わして天に献上した。これが、今にいう草薙剣である。
当初、五十猛神が素戔鳴尊に伴って天降った時に、多く木の種を持って下った。しかし韓地(新羅)にはそれを一切植えることなく、全て東渡の際に持ち帰り、遂に筑紫から始め大八洲国の国内すべてのところに播き植え、ことごとく青山に成した。このはたらき、功績により、五十猛命を有功之神と称するのである。すなわち紀伊國に鎮座する大神(和歌山市伊太祈曾の伊太祁曾神社)がこれである。
〔一書5〕
ある書はこうつたえている。素戔鳴尊が「韓の郷(地方)に所在する嶋には金銀がある。もし私の児(第八段[本伝]に「生児大己貴神」と伝える)の支配する国に浮く宝(船)がなければ、それは良くない(金銀のある嶋に渡れない)と言い、そこで鬚・髯を抜いて播いた。すると、それがたちまち杉に成った。また胸の毛を抜いて播くと、これが檜に成った。尻の毛は柀に成り、眉の毛が櫲樟に成った。そうして、あとでその用途を定めた。そこで「杉および櫲樟は、二つの樹とも浮く宝(船)にすべきだ。檜は、瑞宮(宮殿)の用材とすべきだ。柀は、顕見蒼生(現にこの世に生きる民草。人民)の奧津棄戸(墓所)に臥す具(棺)とすべきだ。さて食用にすべき八十木種(数多くの果実の種)は、どれも播いて生かすことができた。」と称えた。
この時、素戔鳴尊の子(児とは違う)は名を五十猛命と言い、その妹は大屋津姫命であり、次が枛津姫命である。みなこの三柱の神も、木の種を広く播いた。そこで紀伊国に渡し奉ったのである。そうした後、素戔鳴尊は熊成峰に居住し、遂に根国に入ったのである。「棄戸」は、ここでは「須多杯」と云う。「柀」は、ここでは「磨紀」という。
〔一書6〕
ある書はこうつたえている。大国主神は、また大物主神と名付け、また国作大己貴命と号し、また葦原醜男と言い、また八千戈神と言い、また大国玉神と言い、また顕国玉神と言う。その子は、全部で百八十神いる。
そもそも大己貴命は、少彦名命と力を合わせ心を一つにして天下を経営した。また顕見蒼生および家畜のためには、その病を治療する方法を定め、また鳥獣や昆虫の災害(わざわい、害悪、変異現象)を払い除くためには、その災難やたぶらかしを押さえとどめる(呪禁)方法を定めた。これにより、人民は今に至るまでみなこの恩恵を蒙っている。
かつて大己貴命が少彦名命に向かって「われらの造った国は、どうして善くできたといえるだろうか。」と言った。少彦名命はこれに対して「あるいはできたところがある。またあるいはできていないところもある」と答えた。この両者の談は、思うに深遠な趣がある。その後、少彦名命は熊野の岬まで行き至ったところで、遂に常世郷に適ってしまった。またこれとは別に、淡嶋に至って、粟の茎をよじ登れば、弾かれて常世郷に渡り至ったという。
これより後に、国内のまだ造り終えていない所は、大己貴神が一人で巡り造りあげて、遂に出雲国に到った。そこで声高に言葉を発して「そもそも葦原中国は、もとは荒れて広々とした状態であり、岩石や草木に至るまでみな強暴であった。しかし私がすでにそれらを摧き伏せてしまい、すっかりおとなしく従順になっている。」と言い、遂には、それで「今この国を治めるのは、ただ私一人だけである。さて私と共に天下を治めることのできる者が、はたしているだろうか」と言った。
その時、神神しい光が海を照らし、忽然として浮かんで寄り来る者がいて、「もし私がいなかったらならば、汝はどうしてこの国を平定することができただろうか。私がいたことによって、それで汝はその国を平定するという大きな功績をうちたてることができたのだ。」と言った。この時に、大己貴神は「そうだとすれば、汝は誰なのか。」と問い、これに対して「私は、汝の幸魂(幸をもたらす魂)・奇魂(霊妙なはたらきの魂)である。」と答えた。大己貴神が「まさしくそうだ。なるほど汝は私の幸魂・奇魂であることが分かる。今どこに住みたいのか。」と言うと、これに応じ、「私は日本国の三諸山(奈良県桜井市の三輪山)に住みたいと思う。」と言った。それゆえ、さっそく宮殿をその地に造営し、そこに行き住まわせた。これが大三輪の神である。この神の子が、甘茂君等・大三輪君等であり、また姫蹈鞴五十鈴姫命である。
また次のように伝えている。事代主神が八尋熊鰐(「尋」は広げた両手の幅。巨大なさめ)に化(変身)し、三嶋溝樴姫に通じて、あるいは玉櫛姫と云う。児の姫蹈鞴五十鈴姫命を生んだ。これが神日本磐余彦火火出見天皇(神武天皇)の后である。
はじめ大己貴神が国を平定するに際して、行き巡り出雲国五十狹狹の小汀に到って飲食しようとした。この時、海上に忽然と人の声がした。そこで驚いて探し求めたけれども、全くなにも見当たらない。しばらくすると、一人の小男が白薟(カガイモまたヤブカラシ)の皮を舟として、鷦鷯(ミソサザイ)の羽を着衣とし、潮流に乗って浮かび到った。大己貴神はさっそく取り上げ掌中に置いてもてあそんでいると、飛び上がって頬を噛んだ。そこでその小男の形状を怪しんで、使いを遣わして天神に申しあげた。その時、高皇産霊尊はその報告を聞き、それで「私の産んだ児は全部で千五百座いる。その中の一児は最悪で、教え育てようにも従わない。私の指の間から漏れ墜ちたのが、きっとそのものだ。可愛がって養育すれば良い。」と云った。少彦名命がこれである。「顕」は、ここでは「于都斯」と云う。「蹈鞴」は、ここでは「多多羅」と云う。「幸魂」は、ここでは「佐枳弥多摩」と云う。「奇魂」は、ここでは「俱斯美侘磨」と云う。「鷦鷯」は、ここでは「裟裟岐」と云う。
『日本書紀』巻第二(神代下)
『日本書紀』第九段 現代語訳
〔本伝〕
天照大神の子の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊は、高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫を娶り、天津彦彦火瓊瓊杵尊を生んだ。そこで皇祖の高皇産霊尊は特に愛情を注いで貴んで養育した。こうして皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中國の君主にしようと考えた。
しかし、その国には蛍火のように妖しく光る神や、五月ごろの蝿のようにうるさく騒ぐ邪神がいた。また、草や木さえもが精霊を持ち、物を言って不気味な様子であった。そこで、高皇産霊尊は多くの神々を召し集めて、問われるには「私は葦原中國の邪神どもを除き平定させようと思う。誰を遣わしたらよかろう。汝ら諸神よ、知っていることを隠さずに申せ。」と言った。皆は、「天穂日尊は傑出した神です。この神を使わしてみてはいかがでしょうか。」と言った。そこで、高皇産霊尊はこれら諸神の意見に従って天穂日尊を葦原中国の平定のために遣わせることにした。ところが、この神は大己貴神におもねり媚びて、三年たってもいっこうに報告しなかった。そこで、その子の大背飯三熊之大人――またの名は武三熊之大人――を遣わした。これもまた、その父に従って、とうとう報告に戻らなかった。
そこで高皇産霊尊は、さらに諸神を集めて、遣わすべき神を尋ねた。皆は、「天國玉の子の天稚彦は勇壮です。試してみるべきでしょう。」と言った。そこで、高皇産霊尊は天稚彦に天鹿児弓と天羽羽矢を授けて遣わした。だが、この神もまた誠実ではなかった。葦原中国に到着するや顕國玉の娘の下照姫<またの名は高姫。またの名は稚國玉>を娶って、そのまま住み着いて、「私もまた葦原中國を統治しようと思う。」と言って、報告に戻らなかった。
さて、高皇産霊尊は天稚彦が久しく報告に来ないことを不審に思い、無名雉を遣わして様子を窺わせた。その雉は飛び降って、天稚彦の門の前に植わっていた神聖な杜木の梢にとまった。すると、天探女がこれを見つけて、天稚彦に「不思議な鳥が来て、杜の梢にとまってます。」と言った。天稚彦は、高皇産霊尊から授かった天鹿児弓と天羽羽矢を手に取り、雉を射殺した。その矢は雉の胸を深く貫き通って、高皇産霊尊の御前に届いた。すると、高皇産霊尊はその矢を見て「この矢は昔、私が天稚彦に授けた矢である。見ると血が矢に染みている。思うに、これは国神と戦って血が付いたのだろうか。」と言った。そして、矢を取って下界に投げ返した。その矢は落下して、そのまま天稚彦の仰臥している胸に命中した。その時、天稚彦は新嘗の祭事をして仰眠しているところだった。その矢が命中してたちどころに死んだ。これが、世の人が「反矢恐るべし」と言うことの由縁である。
天稚彦の妻の下照姫が大声で泣き悲しみ、その声は天に届いた。この時、天國玉はその泣く大声を聞いて、天稚彦がすでに死んでしまったことを知り、疾風を遣わして、屍を天上に持ってこさせ、さっそく喪屋を造って殯を行った。
そして川雁を持傾頭者と持帚者とした。<一説には、鶏を持傾頭者とし、川雁を持帚者としたと言う>。また、雀を舂女とした。<一説には、川雁を持傾頭者とし、また持帚者とした。鴗(かわせみ)を尸者とした。雀を舂女とした。鷦鷯を哭者とした。鵄を造綿者とした。烏を宍人者とした。すべて諸々の鳥に殯の所役に任命したと言う>。そのようにして八日八夜の間、大声で泣き悲しんで歌い続けた。
これより前、天稚彦が葦原中國にいた頃、味耜高彦根神と親交があった。そこで、味耜高彦根神は天に昇って喪を弔った。その時、この神の顔かたちは、まさに天稚彦の生前の容貌そのままであった。そこで、天稚彦の親族や妻子はみな、「我が君は死なずに、なお生きていた。」と言って、帯にすがりつき、喜んだりひどく泣いたりした。その時、味耜高彦根神は激怒して顔を真っ赤にして、「朋友の道として弔うのが道理だ。だからこそ、穢らわしいのもいとわず、遠くからやってきて哀悼の意を表しているのだ。その私を、どうして私を死人と間違えるのか。」と言って、即座に帯びていた剣の大葉刈<またの名は神戸劒>を抜いて、喪屋を斬り倒した。これがそのまま落ちて山となった。今の美濃國の藍見川の川上にある喪山が、これである。世の人が、生者を死者と間違えることを忌むのは、これがその由縁である
この後、高皇産霊尊はさらに神々を招集して、葦原中國に遣わすべき者を選定した。皆は、「磐裂・根裂神の子の磐筒男・磐筒女が生んだ子、經津主神がよいでしょう。」と言った。この時、天石窟に住む神である稜威雄走神の子に甕速日神がいて、その甕速日神の子に熯速日神がいて、その熯速日神の子に武甕槌神がいた。この神が進み出て、「どうして經津主神だけがひとり立派で、私は立派ではないのか」と言った。その語気は非常に激しかった。そのため、經津主神にこの神を副えて、葦原中國の平定に遣わした。
經津主神と武甕槌神の二神は、出雲國の五十田狭之小汀に降って来て、十握劒を抜いて逆さに大地に突き立てると、その剣の切っ先にあぐらをかいて座り、大己貴神に問うて「高皇産霊尊が皇孫を降らせ、この国に君臨させようと思っている。そこで、まず我ら二神を遣わし、邪神を駆除い平定させることとなった。あなたの考えはどうだ、国を譲るか否か。」と言った。すると大己貴神は「我が子に尋ね、その後で返事をしましょう。」と答えた。この時、その子の事代主神は、出雲國の三穂之碕にいて魚釣りを楽しんでいた。――あるいは、鳥の狩りをしていたとも言う。
そこで、熊野諸手船<またの名は天鴿船>に、使者の稲背脛を乗せて遣わした。そうして高皇産霊尊の勅を事代主神に伝え、その返事を尋ねた。そのとき、事代主神は使者に、「今、天神の御下問の勅がありました。我が父はお譲りするでしょう。私もまたそれと異なることはありません。」と言った。そこで、海中に幾重もの蒼柴籬を造り、船の舳先を踏み傾けて退去した。使者はそういう次第で、戻ってこのことを報告すると、大己貴神は我が子の言葉をもって二柱の神に、「私が頼りにしていた子もすでに国を譲りました。そこで、私もまたお譲りしましょう。もし私が抵抗すれば、国内の諸神もきっと同じように抵抗するでしょう。今私がお譲りすれば、誰ひとりとして従わない者はいないでしょう。」と申し上げた。そして大己貴神は、かつてこの国を平定した時に用いた広矛を二神に授け、「私はこの矛で、国の平定という功を成し遂げました。天孫がもしこの矛を用いて国を治めたならば、きっと天下は平安になるでしょう。今から私は、百足らず八十隈に隠れましょう。」と言って、言い終わるやとうとう隠れてしまった。
そして、二柱の神は帰順しない諸々の邪神たちを誅伐し、<一説には、二神はついに邪神や物を言う不気味な草・木・石の類を誅伐して、すっかり平定し終えた。唯一、従わない神は星神香香背男だけであった。そこで倭文神である建葉槌命を遣わして服従させた。そして二神は天に昇ったと言う>、ついに報告に戻った。
さて、高皇産霊尊は、真床追衾で皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆って降臨させた。皇孫は天磐座を押し離し、また天の八幾雲を押し分けて、威風堂々と良い道を選り分けて、日向の襲の高千穂峯に天降った。こういう次第で、そこから皇孫の出歩いた様子は、串日の二上の天浮橋から、浮島の平らなところ降り立ち、その痩せて不毛の国を丘伝いに良い国を求めて歩き、吾田の長屋の笠狭碕に辿り着いた、というものであった。
その地に一人の人がいて、自ら事勝國勝長狭と名乗った。皇孫が、「国があるかどうか。」と尋ねると、「ここに国があります。どうぞ御心のままにごゆっくりなさってください。」と答えた。そこで皇孫はそこに滞在した。
その時、その国に美人がいた。名を鹿葦津姫と言う。<またの名は神吾田津姫。またの名は木花之開耶姫>。皇孫がこの美人に、「おまえは誰の子か」と尋ねると、「私は天神が大山祇神を娶って生んだ子です。」と答えた。そこで皇孫が召すと、この姫は一夜にして懐妊した。皇孫はこれを疑い、「たとえ天神であっても、どうしてたった一晩で身重にさせることができるだろうか。お前が身ごもったのは、きっと私の子ではあるまい。」と言った。これを聞いて、鹿葦津姫は怒り恨んで、さっそく戸のない産屋を造り、その中に籠って誓約をして、「私の身ごもった子が、もし天孫の御子でなければ、きっと焼け死ぬでしょう。もし本当に天孫の御子であれば、火もその子を害することはできないでしょう。」と言って、火をつけて産屋を焼いた。初め、燃え上がった煙の先から生まれ出た御子は、火闌降命と言う。<これは隼人等の始祖である>。次に火の熱を避けて生れ出た御子を彦火火出見尊と言う。次に生まれ出た子を火明命と言う。<これは尾張連等の始祖である>。併せて三柱の御子である。
それからしばらくして天津彦彦火瓊瓊杵尊が崩御された。そこで筑紫の日向の可愛之山陵に葬った。
〔一書1〕
ある書ではこう伝えている。天照大神は天稚彦に勅して、「豊葦原中國は我が子が君主たるべき国である。しかしながら、思うに残忍凶暴な邪神どもがいる様子だ。そこで、まずお前が行って平定しなさい。」と言った。そして天鹿児弓と天眞鹿児矢を授けて遣わした。天稚彦は勅を受けて豊葦原中国に降り、國神の娘たちを次々に娶り、八年の歳月が過ぎても復命しなかった。
そこで天照大神は思兼神を召して、天稚彦が帰って来ない事情を問うた。すると思兼神は熟慮して、「また雉を遣わして尋ねさせましょう」と告げた。そこで、その神の策に従って、さっそく雉を遣わして様子をうかがわせた。その雉は飛び下りると、天稚彦の門の前の神聖な杜樹の梢に止まって、「天稚彦よ、どうして八年の間、復命しないのか」と鳴いて問うた。その時、國神で天探女という名の者がいた。その雉を見て、「鳴き声の悪い鳥がこの樹の上にとまっています。射殺しなさい。」と言った。天稚彦は、そこで天神から賜った天鹿児弓と天眞鹿児矢を取り、すぐに射殺してしまった。その矢は雉の胸を貫き、ついに天神の御前にまで届いた。その時、天神はその矢を見て、「これは昔、私が天稚彦に授けた矢である。今になってどうして飛んできたのだろう」と言って、矢を取り呪いをかけて「もし悪心で射たのならば、天稚彦はきっと災いに遭うだろう。もし平心で射たのならば、無事でいるだろう。」と言い、矢を投げ返すと、その矢は中国に落ちて天稚彦の仰臥している胸に命中し、たちどころに死んでしまった。これが世の人が「返矢恐るべし」と言うことの由縁である。
そこで、天稚彦の妻子たちが天から降って来て、柩を持って天に昇っていき、天上に喪屋を造って殯をして大声で泣いた。これより前、天稚彦は味耜高彦根神と親友であった。そこで、味耜高彦根神は天に昇って喪を弔い、大声をあげて泣いた。その時、この神の容貌は、もともと天稚彦と同じといってもよいほど似ていた。そのため、天稚彦の妻子たちはこの神を見て喜び、「我が君は死なずにまだ生きていた。」と言って、その帯にとりすがって離そうとしなかった。その時、味耜高彦根神は怒り、「親友が亡くなった。だから私はすぐに弔いに来たのだ。どうして死者と私を間違えるのか」と言って、十握劒を抜いて喪屋を斬り倒した。その小屋が落ちて山となった。これが美濃國の喪山である。世の人が死者を自分と間違えることを忌むのは、これがその由縁である。
時に、味耜高彦根神は容姿端麗で、二つの丘、二つの谷にわたって照り輝いた。そこで、喪に集まった人が歌を詠んだ。――ある伝えに、味耜高彦根神の妹の下照媛が、集まった人たちに、丘や谷に照り輝くのは味耜高彦根神であることを知らせようと思った。それで詠んで、と言う。
天なるや 弟棚機の 頸がせる 玉の御統の 穴玉はや み谷二渡らす 味耜高彦根
(天上にいる若い機織女の首にかけている連珠の美しい穴玉よ。そのように麗しく谷二つに渡って輝いている味耜高彦根神よ。)
また、歌を詠んで、
天離る 夷つ女の い渡らす迫門 石川片淵 片淵に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 石川片淵
(天から遠く離れた田舎の娘が渡る狭門の石川の片淵。その片淵に鳥網を張り渡し、その網目にたぐり寄せられるように、鳥たちはこちらに寄せられ、そのように寄っておいで。この石川の片淵で。)
といった。
この二首の歌は今、夷曲と言う。
こういう次第で、天照大神は、思兼神の妹の萬幡豊秋津媛命を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊に娶らせて妃とし、葦原中國に降らせた。この時、勝速日天忍穂耳尊は天浮橋に立って見下ろし、「あの国はまだ平定されていない。気に入らず心に染まない見る目も穢れた国であるよ。」と言って、再び天上に還り昇り、天降りしなかった理由を詳しく述べた。
そこで天照大神はまた武甕槌神と經津主神とを遣わして、まずそこへ行き悪神どもを駆除させた。そのとき、二柱の神は出雲に降り着き、さっそく大己貴神に「汝はこの国を天神に献上するかどうか。」と尋ねた。すると、「我が子の事代主が鳥猟に行って、三津之碕にいます。今、それに尋ねて返事をしましょう。」と答えた。そこで使者を遣わして訪問させた。すると、「天神の望まれるところであれば、どうして奉らないことがありましょう。」と答えた。そこで大己貴神はその子の言葉どおりに二柱の神に報告した。二神は天に昇って復命をして、「葦原中國はみなすっかり平定しました。」と報告した。そこで、天照大神は勅を下して「もしそうであれば、今まさに我が子を降臨させよう。」と言った。
まさに天降ろうとしていた間に、皇孫が生まれた。名を天津彦彦火瓊瓊杵尊と言う。その時に、天忍穂耳尊の奏上があって、「この皇孫を代わりに降臨させようと思う」と言った。そこで天照大神は、天津彦彦火瓊瓊杵尊に八坂瓊曲玉と八咫鏡、草薙劒の三種宝物を授けた。
また、中臣の祖神である天児屋命、忌部の祖神である太玉命、猿女の祖神である天鈿女命、鏡作の祖神である石凝姥命、玉作の祖神である玉屋命、併せて五部神々をお供として付き従わせた。そして皇孫に勅して、「葦原千五百秋之瑞穂國は、我が子孫が君主たるべき地である。汝、皇孫よ、行って治めなさい。さあ、行きなさい。宝祚の栄えることは、天地とともに窮まることがないであろう。」と言った。
こういう次第で皇孫が降ろうとしている間に、先駆の者が引き返してきて、「一人の神がいます。天八達之衞にいます。その鼻の長さは七咫、座高は七尺あまり、身長はまさに七尋と言うべきでしょう。また口や尻が明るく光っています。眼は八咫鏡のようで、照り輝いているさまは赤い酸漿のようです。」と言った。そこでお供の神を遣わして、行って尋ねさせた。その時、八十萬神であったが、だれも皆、眼力で相手を圧倒して尋ねることができなかった。そこで特に天鈿女命に勅して、「汝は眼力が勝れ相手を威圧する力をもっている。行って尋ねてきなさい。」と命じた。天鈿女命はその胸乳をあらわにし、裳の紐を臍の下に押し垂らして、呵々大笑して向かい立った。そのとき、衢神が尋ねて、「天鈿女よ、汝がそうするのはどういう理由からか。」と言う。天鈿女は答えて「天照大神の御子が進む道に、このように立ちふさいでいるお前こそ誰だ。反対に尋ねたい。」と答えた。衢神は、「天照大神の御子が今、降臨すると聞いた。それで、お迎えしようと待っているのだ。私の名は猿田彦大神だ。」と言った。そこで天鈿女命が再び、「汝が私を先導するか、それとも私が汝より先に行くか。」と尋ねると、「私が先に立ってご案内しよう。」と言った。天鈿女命がさらに、「汝はどこへ行こうというのか、皇孫はどこに着くことになるのか。」と尋ねると、「天神の御子は、筑紫の日向の高千穂串触之峯に着くだろう。私は伊勢の狭長田の五十鈴川の川のほとりに着くことになる。」と答え、そして、「私を世に現出せしめたのは汝である。だから、汝は私を送り届けるべきだろう。」と言った。
天鈿女命は天に還って報告をした。そこで、皇孫は天磐座を押し離し、天の幾重もの雲を押し分け、威風堂々とよい道を選り分け選り分けて天降った。はたして、先の約束通り、皇孫は筑紫の日向の高千穂串触之峯に辿り着いた。
その猿田彦神は伊勢の狭長田の五十鈴川の川のほとりに着き、天鈿女命は猿田彦神の願い通り、ついに伊勢まで送っていった。そのとき、皇孫は天鈿女命に勅して、「汝が世に現出せしめた神の名を姓氏とせよ。」と言った。これによって猿女君の名を賜った。それで猿女君らの男女は皆、相手を「君」と呼ぶ。これがその由縁である。
〔一書2〕
ある言い伝えには、天神は經津主神と武甕槌神とを遣わして葦原中國を平定させた。その時、二柱の神は、「天に悪神がいます。名を天津甕星、またの名を天香香背男と言います。どうかまずこの神を誅して、その後に降って葦原中國を平定しましょう。」と言った。この時、天津甕星を誅するための斎主の神がおり、この神を斎之大人と言う。この神は今、東國の楫取の地に鎮座している。
そうして二柱の神は出雲の五十田狭之小汀に天降ってきて、大己貴神に「おまえはこの国を天神に献上するかどうか。」と尋ねた。すると、「あなた方、二柱の神は、本当に私のもとに来られたのではないように思われる。だから、申し出を許すことはできない。」と答えた。そこで經津主神は天に還り昇って報告した。
その時、高皇産霊尊は二神を出雲に戻し遣わして、大己貴神に勅して、「今お前が言うことを聞くと、深く通にかなっている。そこで、さらに条件を提示しよう。あなたが治めている現世の仕事は、我らの子孫が治めよう。あなた改めて一つ一つについて勅をしよう。そもそも、お前が治めている現世の政事は、我が皇孫が治めるのだ。お前は、幽界の神事をつかさどれ。また、おまえが住む天日隅宮は、今、造営してやろう。千尋もある長い𣑥縄で、しっかり結んで百八十結びに造り、その宮を建てるのに、柱は高く太く、板は広く厚くしよう。また、御料田を提供しよう。また、おまえが往来して海で遊ぶ備えのために、高い橋や浮橋、天鳥船も造ろう。また、天安河にも打橋を造ろう。また、繰り返し縫い合わせたじょうぶな白楯を造ろう。まら、お前の祭祀をつかさどる者は、天穂日命である。」と伝えた。そこで大己貴神は、「天神の申し出は、かくも懇切である。どうして勅命に従わないことがありましょうか。私が治めている現世の政事のことは、今後は皇孫が治めさてください。私は退いて神事を司りましょう。」と答えた。そうして岐神を二柱の神に推薦して、「この神が、私に代わって皇孫にお仕えするでしょう。私はここで退きましょう」と言って、瑞之八坂瓊を身につけて永久に隠れた。
そこで經津主神は岐神を国の先導役とし、周囲を巡りながら平定していった。反抗する者がいれば斬り殺し、帰順する者には褒美を与えた。この時に帰順した実力者が大物主神と事代主神である。そして八十萬神を天高市に集め、これらを率いて天に昇り、その柔順に至ったことを示した。
この時、高皇産霊尊は大物主神に、「おまえがもし國神を妻とするのならば、私はなお、おまえに迷いの心があると思うだろう。そこで今、私の娘の三穂津姫をおまえに娶わせて妻とさせる。八十萬神を率いて、永遠に皇孫を守って差し上げよ」と命じ、帰り降らせた。そして紀國の忌部の祖神の手置帆負神を笠作りと定めた。彦狭知神を盾作りとした。天目一箇神を鍛冶とした。天日鷲神を木綿作りとした。櫛明玉神を玉作りとした。そして太玉命の弱い肩に太い襷をかけ、代表者とした。このようにしてこの神を祭るようになったのは、これが起源である。
また、天児屋命は神事の根本を掌る神であったため、太占の占いによって仕えさせた。高皇産霊尊は、「私は天津神籬と天津磐境を造り立てて、皇孫のために祭祀をしよう。おまえたち、天児屋命と太玉命は、天津神籬を持って葦原中國に降り、また皇孫のために祭祀をしなさい」と命じ、二神を遣わして天忍穂耳尊に従わせて降らせた。
この時、天照大神は手に宝鏡を持ち、天忍穂耳尊に授けて、「我が子よ、この宝鏡を見るのには、まさに私を見るようにしなさい。ともに床を同じくし、御殿をともにし、祭祀の鏡としなさい」と祝いを述べた。また、天児屋命と太玉命に、「おまえたち二神も、ともに御殿の内側に侍り、よくお守りをしなさい」と命じた。また、「私が高天原に所有する斎庭之穂を我が子に持たせなさい」と命じた。そして、高皇産霊尊の娘、名は萬幡姫を天忍穂耳尊に娶らせて妃とさせ、降らせた。
そして、その途中に大空において生まれた子を天津彦火瓊瓊杵尊と言う。このため、この皇孫を親に代わって降らせようと考え、天児屋命と太玉命、及び諸氏族の神々をことごとく授け、また、衣服等の物もそれらと同様に授けた。そうした後に天忍穂耳尊は天に再び帰った。
そこで、天津彦火瓊瓊杵尊は日向の串日高千穂峯に降り立ち、不毛の地を丘づたいに国を求めて通り、浮島のある平らな土地に立った。そして、國主の事勝國勝長狭を呼んで尋ねると、「ここに国があります。どうぞご自由に」と答えた。
そこで皇孫は宮殿を立て、そこで休息した後、海辺に進んで一人の美人を見かけた。皇孫が、「おまえは誰の子か」と尋ねると、「私は大山祇神の子です。名は神吾田鹿葦津姫、またの名は木花開耶姫です」と答え、さらに、「また、私には姉の磐長姫がいます」と申し上げた。皇孫が、「私はあなたを妻にしようと思うがどうか」と尋ねると、「私には父の大山祇神がいます。どうかお尋ねください」と答えた。皇孫がそこで大山祇神に、「私はあなたの娘を見かけた。妻としたいと思う」と語ると、大山祇神は二人の娘に多くの飲食物を載せた机を持たせて進呈した。すると皇孫は、姉の方は醜いと思って招くこともなく、妹の方は美人であったので招いて交わった。すると一夜にして身籠った。そこで磐長姫は大いに恥じ、「もし天孫が私を退けずに招いていたら、生まれる子は長寿で、堅い岩のように長久に繁栄したことでしょう。今そうではなく妹だけを一人招いたので、生まれる子はきっと木の花のように散り落ちることでしょう」と呪詛を述べた。――あるいは、磐長姫は恥じ恨んで、唾を吐いて泣き、「この世の人々は木の花のように儚く移ろい、衰えることでしょう」と言った。これが世の人が短命であることの発祥であると言う。
この後、神吾田鹿葦津姫が皇孫を見て、「私は天孫の子を娠みました。自分だけで生むべきではありません」と言うと、皇孫は、「たとえ天神の子であっても、どうして一夜にして人を娠ませられるのか。もしや我が子ではないのではないか」と言った。木花開耶姫は大いに恥じ恨んで、戸口のない小屋を作り、誓を立てて、「私が娠んだのがもし他の神の子ならば、きっと不幸になるでしょう。本当に天孫の子ならば、きっと無事に生まれるでしょう」と言って、その小屋の中に入り、火をつけて小屋を焼いた。
その時、炎が立ち昇りはじめた時に生まれた子を火酢芹命と言う。次に、火の燃え盛る時に生まれた子を火明命と言う。次に、生まれた子を彦火火出見尊と言う。または火折尊と言う。
〔一書3〕
最初に炎が明るい時に生まれた子が火明命である。次に、炎が燃え盛る時に生まれた子が火進命である。――または火酢芹命と言う。次に、炎が鎮まった時に生まれた子が火折彦火火出見尊である。この併せて三子は火の害を受けることもなく、母もまた少しも害を受けなかった。そして竹の刀でその子の臍の緒を切った。その捨てた竹の刀が後に竹林となった。そこで、その地を竹屋と言う。その時に神吾田鹿葦津姫が占いで定めた田を狭名田と言う。その田の稲で天の美酒を醸して嘗を催した。また、渟浪田の稲を用いて飯を作って嘗を催した。
〔一書4〕
高皇産霊尊は、真床覆衾を天津彦國光彦火瓊瓊杵尊に着せて、天磐戸を引き開けて、天の幾重もの雲を押し分けて降らせた。この時、大伴連の祖神である天忍日命が、来目部の祖神である天串津大来目を率い、背には天磐靫を背負い、腕には威力のある高鞆をつけ、手には天梔弓と天羽羽矢を取り、八目鳴鏑を取り揃え、また頭槌劒を帯びて、天孫の前に立って進み降り、日向の襲之高千穂の串日の二つの頂のある峯に辿り着き、浮島のある平らな土地に立ち、不毛の地を丘伝いに国を求めて通り、吾田の長屋の笠狭之御碕に辿り着いた。
すると、その地に一人の神がいた。名を事勝國勝長狭と言う。そこで天孫がその神に、「国があるか」と尋ねると、「あります」と答え、さらに、「お言葉のままに奉りましょう」と言った。そこで天孫はその地に留まり住んだ。その事勝國勝長狭は伊奘諾尊の子である。またの名は塩土老翁。
〔一書5〕
天孫は大山祇神の娘の吾田鹿葦津姫を娶った。一夜にして身籠り、四人の子を生んだ。そこで吾田鹿葦津姫は子を抱いてやって来て、「天神の子をどうして自分だけで育てられるでしょう。なので、そのことを申し上げてお聞かせします」と言った。この時、天孫はその子たちを見て嘲笑い、「なんとまあ、我が子たちがこんなにも生まれたと聞くとは」と言った。そこで吾田鹿葦津姫が怒って、「どうして私を嘲笑うのですか」と言うと、天孫は、「本心では疑っているから嘲笑ったのだ。なぜなら、たとえ天神の子であっても、どうして一夜の間に人を身籠らせることができるだろうか。本当は私の子ではあるまい」と言った。これを聞いて吾田鹿葦津姫はますます恨み、戸口のない小屋を作ってその中に入り、誓いを立てて、「私が娠んだのがもし天神の子でなければ、きっと亡くなるでしょう。これがもし天神の子であれば、害を受けることはないでしょう」と言って、火をつけて小屋を焼いた。
その火の明るくなりはじめた時に、子が勇ましく進み出て、自ら、「私は天神の子。名は火明命。我が父上はどこにおられるか」と名乗った。
次に、火の燃え盛った時に、子が勇ましく進み出て、「私は天神の子。名は火進命。我が父上と兄上はどこにおられるか」とまた名乗った。
次に、炎の衰えた時に、子が勇ましく進み出て、「私は天神の子。名は火折尊。我が父上と兄上たちはどこにおられるか」とまた名乗った。
次に、火の熱が鎮まった時に、子が勇ましく進み出て、「私は天神の子。名は彦火火出見尊。我が父上と兄上たちはどこにおられるか」とまた名乗った。
そうした後に、母の吾田鹿葦津姫が焼け跡の中から出て来て、言葉に出して、「私が生んだ子も私の身も、自ら火に向かったのに少しも害を受けませんでした。天孫はこれをご覧になりましたか」と言うと、「私は最初から我が子であるとわかっていたのだよ。ただ、一夜にして身籠ったことを疑う者がいるだろうと思ってだな、人々にこれらが我が子であり、また天神が一夜にして娠ませることがあるのだと知らせようと思ったのだ。また、おまえが奇異な威力を持っていてだな、子たちもまた人を超越した気配を持っていることをだな、明らかにしようと思ったのだ。だから先日のように嘲笑う言葉を言ったのだ」と答えた。
〔一書6〕
天忍穂根尊は、高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫萬幡姫命――または高皇産霊尊の子の火之戸幡姫の子、千千姫命と言う――を娶った。そして子の天火明命を生んだ。次に天津彦根火瓊瓊杵根尊を生んだ。その天火明命の子の天香山が尾張連等の祖神である。
皇孫の火瓊瓊杵尊を葦原中國に降臨させることになり、高皇産霊尊は多くの神々に、「葦原中國は岩の根や木の株、草の葉までがよく文句を口にする。夜は火の粉のようにやかましく、昼は蝿のようにわきあがる」と述べた――と、云々。
その時、高皇産霊尊は、「昔、天稚彦を葦原中國に遣わしたが、今に至るまで長く戻って来ないのは、國神に強靭な者がいるからだろうか」と述べ、無名雄雉を遣わして見に行かせた。この雉は降りて来るなり粟畑や豆畑を見て、そこに留まって帰らなかった。これが世に言う、雉頓使の発祥である。
そこで、また無名雌雉を遣わした。この鳥は降りて来るなり天稚彦に射られ、その矢に射上げられることで戻って報告をした――と、云々。
さて、高皇産霊尊は真床覆衾を皇孫の天津彦根火瓊瓊杵根尊に着せて、天の幾重もの雲を押し分けて、降らせた。そこで、この神を称して天國饒石彦火瓊瓊杵尊と言う。その時に降り立った所を日向の襲之高千穂の添山峯と言う。その進む時になり――と、云々。
吾田の笠狭之御碕に辿り着き、長屋の竹嶋に登った。その地を眺め回すと、そこに人がいた。名を事勝國勝長狭と言う。天孫がそこで、「ここは誰の国か」と尋ねると、「ここは長狭の住む国です。しかし今は天孫に奉りましょう」と答えた。天孫がまた、「あの波立っている上に広い御殿を立てて、糸玉をゆらゆらと機を織っている少女は誰の娘か」と尋ねると、「大山祇神の娘たちで、姉を磐長姫と言い、妹を木花開耶姫と言い、または豊吾田津姫と言います」と答えた――と、云々。
皇孫がそこで豊吾田津姫を招くと、一夜にして身籠った。皇孫は疑った――と、云々。そして火酢芹(命を生んだ。次に火折尊を生んだ。または彦火火出見尊と言う。
母の誓いがはっきりと示した。本当に皇孫の子であったと。
しかし豊吾田津姫は皇孫を恨んで口をきかなかった。皇孫は愁えて歌を詠んだ。
沖つ藻は 邊へには寄れども さ寝床も 与はぬかもよ 濱つ千鳥よ
沖の海藻は浜辺に打ち寄せられるのに、私はともに寝ることもできない。浜の千鳥よ。
〔一書7〕
高皇産霊尊の娘に天萬栲幡千幡姫がいた。――あるいは、高皇産霊尊の子の萬幡姫の子の玉依姫命と言う。この神が天忍骨命の妃となって、子の天之杵火火置瀬尊を生んだ。――あるいは、勝速日命の子の天大耳尊が丹潟姫を娶って、子の火瓊瓊杵尊を生んだと言う。――あるいは、神皇産霊尊の娘の栲幡千幡姫が、子の火瓊瓊杵尊を生んだと言う。――あるいは、天杵瀬命が吾田津姫を娶って、子の火明命を生んだ。次に火夜織命。次に彦火火出見尊。
〔一書8〕
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊が高皇産霊尊の娘の天萬栲幡千幡姫を娶って妃とし、子を生んだ。天照國照彦火明命と言う。これは尾張連等の祖神である。
次に天饒石國饒石天津彦火瓊瓊杵尊。この神は大山祇神の娘の木花開耶姫命を娶って妃とし、子を生んだ。火酢芹命と言う。次に彦火火出見尊。
『日本書紀』第十段 現代語訳
〔本伝〕
兄の火闌降命には自づから海幸があり、弟の彦火火出見尊には自づから山幸があった。はじめに兄弟二人は語り合い、「試しに道具を取り換えう」と言って交換したが、どちらも獲物を得ることができなかった。兄は悔やんで弟の弓矢を返し、自分の釣針を求めた。弟はその時すでに兄の釣針を失っていて、探し出すことができなかった。そこで別に新しい釣針を作って兄に渡したが、兄は許さず、その元の釣針を要求した。弟は悩み、自分の刀から新しい釣針を作り、箕に山盛りにして渡したが、兄は怒って、「私の元々の釣針でなければ、多くても受け取らない」と言って、ますます激しく求めた。そこで彦火火出見尊はとても深く悩み苦しみ、海辺に行って口籠っていた。
すると、塩土老翁と出会った。老翁が、「どうしてこんなところで悩んでおるのか」と尋ねたので、その事情を答えると、老翁は、「悩むことはない。私があなたのために計らってあげよう」と言って、無目籠を作り、彦火火出見尊を籠の中に入れて海に沈めた。すると自然に美しい小浜に着いた。そこで籠を捨てて進むと、すぐに海神の宮に行き着いた。
その宮は垣根が立派に整っていて、御殿は光り輝いていた。門の前には一つの井戸があり、井戸のほとりに清浄な桂の木があって枝を広げていた。彦火火出見尊がその木の下に進んで、うろうろと歩いていると、しばらくして一人の美人が扉を開けて出て来た。そして綺麗なお椀に水を汲もうとしたので、目でじっと見つめた。そこで驚いて帰り戻り、その父母に、「一人の珍しいお客がいます。門の前の木の下にいます」と申し上げた。海神はそこで、多くの畳を重ね敷いて招き入れ、座につかせて、その来た理由を尋ねた。そこで彦火火出見尊はその事情を詳しく答えた。そこで海神が大小の魚を集めて問いただすと、皆は、「知りません。ただ赤女<赤女は鯛の名である>が近頃、口に怪我をして、来ません」と言った。呼んでその口を探すと、やはり失った釣針が見つかった。
そうして彦火火出見尊は海神の娘の豊玉姫を娶り、海の宮に留まり住んで三年が経った。そこは安らかで楽しかったが、やはり故郷を思う心があり、たまにひどく溜息をつくことがあった。豊玉姫はそれを聞いて、その父に、「天孫が悲しんでいて、しばしば嘆くことがあります。もしかすると、陸地を懐かしんで悩んでいるのでしょうか」と語った。海神は彦火火出見尊を招くと、「天孫がもし国に帰りたいと思うのなら、私が送って差し上げよう」と丁寧に語り、すぐに探し出した釣針を渡して、「この釣針をあなたの兄に渡す時、こっそりとこの釣針に『貧鉤』と言ってから渡しなさい」と教えた。また、潮満瓊と潮涸瓊を授けて、「潮満瓊を水に浸すと、潮がたちまち満ちるでしょう。これであなたの兄を溺れさせなさい。もし兄が悔やんで救いを求めたら、潮涸瓊を水に浸せば、潮は自然と引くでしょう。これで救いなさい。このように攻めて悩ませれば、あなたの兄も自ら平伏すでしょう」と教えた。そして帰ろうとする時になり、豊玉姫は天孫に、「私はすでに妊娠していて、もうすぐ産まれます。私は波風の速い日にきっと浜辺を訪れますので、どうか私のために産屋を作って待っていてください」と語った。
彦火火出見尊は元の宮に帰り、まるごと海神の教えに従った。すると兄の火闌降命は困り果てて自ら平伏し、「今より後、私はあなたの俳優之民になりましょう。どうか、情けをかけて生かしてほしい」と言った。そこで、その願いの通りについに許した。その火闌降命は、吾田君小橋等の本祖である。
その後、豊玉姫は前の約束通り、その妹の玉依姫を連れて、波風に逆らって海辺にやって来て、産む時が迫ると、「私が産む時に、どうか見ないでください」と頼んだ。天孫が我慢できず、こっそり訪れて覗くと、豊玉姫は産もうとして龍に姿を変えていた。そして大いに恥じて、「もし私を辱しめることがなかったら、海と陸とは通じていて、永久に隔絶することはなかったでしょう。今すでに辱しめを受けました。どうして睦まじく心を通わせることができるでしょうか」と言って、草で子を包んで海辺に捨て、海への道を閉じてすぐに去った。
そこで、その子の名を彦波瀲武盧茲草葺不合尊と言う。
その後、しばらくして彦火火出見尊が亡くなられた。日向の高屋山上陵に埋葬した。
〔一書1〕
兄の火酢芹命はよく海幸を得て、弟の彦火火出見尊はよく山幸を得た。ある時、兄弟はお互いの道具を取り換えようと思った。そこで兄は弟の呪的な弓を持ち、山に入って獣を探したが、ついに獣の足跡さえ見つからなかった。弟も兄の呪的な釣針を持ち、海に行って魚を釣ったが、全く釣れず、しかもその釣針を失ってしまった。この時、兄が弟の弓矢を返して自分の釣針を求めると、弟は悩み、帯びていた刀で釣針を作り、箕に山盛りにして兄に渡した。兄はこれを受け取らず、「やはり自分の呪的な釣針が欲しい」と言った。そこで彦火火出見尊は、どこを探していいかもわからず、ただ悩み口籠ることしかできなかった。
そして海辺に行き、たたずんで嘆いていると、一人の老人がたちまちにして現れた。自ら塩土老翁と名乗り、「君は誰か。どうしてここで悩んでおるのか」と尋ねたので、彦火火出見尊は詳しくその事情を話した。老翁が袋の中の櫛を取り、地面に投げつけると、茂った竹林となった。そこでその竹を取って大目麁籠を作り、火火出見尊を籠の中に入れて海に投げ入れた。――あるいは、無目堅間で浮かぶ木舟を作り、細い縄で彦火火出見尊を結びつけて沈めたと言う。堅間と言うのは、今の竹の籠のことである。
すると、海の底に美しい小浜があり、浜に沿って進むと、すぐに海神の豊玉彦の宮に辿り着いた。その宮は城門が飾られ、御殿は美しかった。門の外には井戸があり、井戸のほとりに桂の木があった。そこで木の下に進んで立っていると、しばらくして一人の美人が現れた。容貌は世にまたとないほどで、従えていた侍女たちの中から出て来て、綺麗な壺に水を汲もうとして彦火火出見尊を仰ぎ見た。そこで驚いて帰り、その父の神に、「門の前の井戸のほとりの木の下に、一人の立派なお客がいます。体格は普通ではありません。もし天から降りてきたなら、天の垢があるはずです。地上から来たのなら、地上の垢があるはずです。本当にこれは奇妙な美しさです。虚空彦と言う者でしょうか」と申し上げた。――あるいは、豊玉姫の侍女が綺麗な瓶に水を汲もうとしたが、満たすことができなかった。井戸の中を覗き込むと、逆さまに人の笑顔が映っていた。そこで仰ぎ見ると、一人の美しい神がいて、桂の木に寄り立っていた。そこで帰り戻ってその王に申し上げたと言う。
そこで豊玉彦が人を遣わして、「おたくはどなたか。どうしてここにやって来たのか」と尋ねると、火火出見尊は、「私は天神の孫である」と答えて、そのやって来た理由を語った。
すると海神は出迎えて拝み、招き入れて丁重に慰め、そして娘の豊玉姫を妻とさせた。そして海の宮に留まり住んで三年が経った。
その後、火火出見尊はしばしば溜息をつくことがあった。豊玉姫が、「天孫はもしや故郷に帰りたいとお思いですか」と尋ねると、「そうだ」と答えた。豊玉姫は父の神に、「ここにおられる立派なお客が、地上の国に帰りたいと思っておられます」と申し上げた。海神がそこで、海の魚たちをすべて集め、その釣針を求め尋ねると、一尾の魚がいて、「赤女――あるいは赤鯛と言う――が長いこと口に怪我をしています。もしやこれが呑んだのでしょうか」と答えた。そこで赤女を呼んでその口を見ると、釣針がまだ口の中にあった。すぐにこれを取り、彦火火出見尊に渡して、「釣針をあなたの兄に渡す時に、呪詛をかけて、『貧窮之本・飢饉之始・困苦之根』と言ってから渡しなさい。また、あなたの兄が海に出ようとした時に、私が必ず波風を起こし、それによって溺れさせて苦しめましょう」と教えた。そして火火出見尊を大鰐に乗せて、元の国に送り届けた。
これより前、別れる時になり、豊玉姫は、「私はすでに身籠っています。波風の速い日に海辺を訪れますので、どうか私のために産屋を作って待っていてください」と丁寧に語った。その後、豊玉姫はやはりその言葉通りにやって来て、火火出見尊に、「私は今夜、子を産みます。どうか見ないでください」と申し上げた。火火出見尊はそれを聞かず、櫛に火を灯して覗いた。すると豊玉姫は八尋大熊鰐に姿を変え、もぞもぞと這い回っていた。そこで辱しめを受けたことを恨み、ただちに海の国に帰ったが、その妹の玉依姫を留めて子を育てさせた。
子の名を彦波瀲武盧茲草葺不合尊と呼ぶ理由は、その浜辺の産屋の屋根を、すべて鵜の羽を草のように用いて葺こうとしたのに、それが終わらないうちに子が生まれたため、そう名付けたのである。
〔一書2〕
門の前に一つの良い井戸があり、井戸のほとりに枝の繁った桂の木があった。そこで彦火火出見尊は飛び跳ねてその木に登り立った。すると海神の娘の豊玉姫が手に綺麗なお椀を持ってやって来て、水を汲もうとした。人の姿が井戸の中にあるのを見て、仰ぎ見るや、驚いてお椀を落とした。お椀は砕け散ったが、かまわずに帰り戻り、父母に、「私は人が井戸のほとりの木の上にいるのを見ました。顔はとても美しく、容貌は涼やかです。普通の人ではありません」と語った。すると父の神はこれを聞いて奇妙に思い、多くの畳を重ね敷いて迎え入れ、座についてからやって来た理由を尋ねた。その事情をあるがままに答えると、海神はすぐに憐れみの心を抱き、ことごとく鰭の大きな魚や鰭の小さな魚を呼んで尋ねた。皆は、「知りません。ただ、赤女だけが口に怪我をしていて来ていません」と言った。――または、口女が口に怪我をしていた。急いで呼んでその口を探すと、失った釣針がたちどころに見つかった。そこで海神は、「やい口女め。これから先、おまえは餌を口にしてはならない。また天孫の御膳に加わってもならない」と禁じた。口女〔クチメ〕の魚を御膳に出さないのは、これがその発祥である――と言う。
彦火火出見尊が帰ろうとする時になり、海神は、「今まで天神の孫が忝くも私のところにおられた。その喜びはいつまでも忘れないだろう」と申し上げた。そして思うがままの潮溢之瓊と思うがままの潮涸之瓊をその釣針とともに奉り、「皇孫よ。遥か遠くに隔たっていても、どうか時には思い出し、捨て置かないでくれよ」と言って、そして、「この釣針をあなたの兄に渡す時に、『貧鉤・滅鉤・落薄鉤』と言葉に出し、言い終わってから後ろの手で投げ捨てて渡しなさい。正面から渡してはなりません。もし兄が怒って反抗しようとしたら、潮溢瓊を出して溺れさせなさい。もし苦しんで救いを求めたら、潮涸瓊を出して救いなさい。このように攻めて悩ませれば、自づから臣従するだろう」と教えた。
そこで彦火火出見尊はその玉と釣針とを受け取り、元の宮に帰って来て、まるごと海神の教えた通りに、まずその釣針を兄に渡した。兄は怒って受け取らなかった。そこで弟が潮溢瓊を出すと潮が大いに満ち、兄は溺れて、「私はあなたに仕えて下僕となりましょう。どうか助けてほしい」と懇願した。弟が潮涸瓊を出すと潮は自然と引き、兄は元の状態に戻った。そうしたところ、兄は前言を改め、「私はおまえの兄だ。どうして人の兄でありながら弟に仕えるのか」と言った。弟はそこで溢瓊を出した。兄はこれを見て高い山に逃げ登ったが、潮は山もまた沈めた。兄は高い木に登ったが、潮は木もまた沈めた。兄は追い詰められて逃げ去る所もなくなり、平伏して、「私の過ちだった。これから先は、私の子孫の末代まで、常にあなたの俳人――あるいは狗人と言う――になりましょう。どうか、お情けを」と言った。弟が涸瓊を出すと潮は自然と引いた。そこで兄は弟に神々しい威力があることを知り、ついにその弟に平伏した。
こういうわけで、火酢芹命の末裔の様々な隼人たちは、今に至るまで天皇の宮の垣根のそばを離れず、代々吠える番犬のように仕えているのである。世の人が失った釣針を催促しないのは、これがその発祥である。
〔一書3〕
兄の火酢芹命はよく海幸を得たので海幸彦と呼ばれ、弟の彦火火出見尊はよく山幸を得たので山幸彦と呼ばれた。兄は風雨のたびにその道具を失ったが、弟は風雨であってもその道具をなくさなかった。ある時、兄が弟に、「私は試しにおまえと道具を取り換えようと思う」と語り、弟も承諾して交換した。そこで兄は弟の弓矢を持ち、山に入って獣を狩り、弟は兄の釣針を持ち、海に入って魚を釣ったが、ともに獲物を得られず、手ぶらで帰って来た。兄は弟の弓矢を返し、自分の釣針を求めたが、その時、弟はすでに釣針を海中に失っていて、探し出すことができなかった。そこで、別に新しい釣針を千本作って渡したが、兄は怒って受け取らず、元の釣針を激しく求めた――と、云々。
そこで弟が浜辺に行ってうなだれ、悩み口籠っていると、川雁がいて、罠にかかって苦しんでいた。哀れに思い、罠を解いて放してやると、しばらくして塩土老翁が現れた。そして無目堅間の小舟を作り、火火出見尊を乗せて海の中へと押し出した。すると自然に沈み、たちまち良い潮路に出くわした。そこで流れのままに進むと、自然と海神の宮に辿り着いた。すると、海神が自ら迎えて招き入れ、多くの海驢の皮を重ね敷いてその上に座らせ、さらに多くの品々を載せた机を用意し、主人としての礼を尽くした。そして、「天神の孫がどうして、忝くも参られたのでしょうか」――あるいは、「近頃、我が子が来て、天孫が浜辺で悩んでいると語っていた。本当かどうかわからなかったが、もしや本当であったのか」――と丁寧に尋ねた。彦火火出見尊は詳しく事情を述べた。そして留まり住んで、海神の子の豊玉姫を妻とし、睦まじく愛し合い、そして三年が経った。
帰ることになり、海神が鯛女を呼んでその口を探すと、釣針が見つかった。そこでその釣針を彦火火出見尊に進呈し、「これをあなたの兄に渡す時に、『大鉤・踉旁鉤・貧鉤・痴矣鉤』と言葉に出し、言い終わってから後ろの手で投げ渡しなさい」と教えて差し上げた。そして鰐魚を呼び集めて、「天神の孫が、今帰ろうとしている。おまえたちは何日でお送りできるか」と尋ねると、様々な鰐魚が、それぞれの体長に応じてその日数を申し出た。その中に一尋鰐がいて、自ら、「一日のうちに送りましょう」と申し出た。そこでその一尋鰐魚を遣わして、送って差し上げた。また、潮満瓊と潮涸瓊の二種の宝物を進呈し、玉の使用法を教えた。また、「兄が高地に田を作ったら、あなたは窪地に田を作りなさい。兄が窪地に田を作ったら、あなたは高地に田を作りなさい」と教えた。海神はこのようにして誠を尽くして助けて差し上げたのである。
そこで彦火火出見尊は帰って来て、まるごと神の教えの通りに行動した。その後、火酢芹命は日に日にやつれて悩み、「私はすでに貧しくなった」と言って、弟に平伏した。弟が潮満瓊を出すと、兄は手を上げて溺れ苦しみ、反対に潮涸瓊を出すと元に戻った。
これより前、豊玉姫は天孫に、「私はすでに妊娠しています。天孫の子を海の中で産むべきではないので、産む時には必ずあなたのところを訪れましょう。私のために海辺に産屋を作って待っていてくれることを願います」と申し上げた。そこで彦火火出見尊は国に帰ると、鵜の羽で屋根を葺いて産屋を作ったが、屋根を未だ葺き終えないうちに、豊玉姫が大亀に乗り、妹の玉依姫を連れ、海を照らしながらやって来た。すでに臨月を迎えていて、出産が目前に迫っていた。そこで葺き終えるのを待たずにただちに入り、天孫に、「私が産むのをどうか見ないでください」と丁寧に語った。天孫が内心その言葉を怪しみ、こっそりと覗くと、八尋熊鰐に姿を変えていた。しかも、天孫が覗いたことに気づいて深く恥じ、恨みを抱いた。
すでに子が生まれた後、天孫が訪れて、「子の名を何と名付ければよいだろうか」と尋ねると、「彦波瀲武盧茲草葺不合尊と名付けてください」と答えたが、そう言い終わると、海を渡ってただちに去ってしまった。そこで彦火火出見尊は歌を詠んだ。
沖つ鳥 鴨著く嶋に 我が率寝し 妹は忘らじ 世の尽も
(鴨の寄り着く島で、私が共寝をした妻のことは、決して忘れないだろう、生きている限り。)
――または、彦火火出見尊は婦人を募り、乳母、湯母、及び飯嚼、湯坐とし、すべて様々に準備をして育てた。その時、母親の代わりに他の婦人の乳によって皇子を育てた。これが世間で乳母を決めて子を育てることの発祥である――と言う。
この後、豊玉姫はその子が端正なことを聞いて、大いに憐れみの心を募らせ、また帰って育てたいと思ったが、道義的にかなわなかった。そこで妹の玉依姫を遣わして、育てに行かせた。その時、豊玉姫は玉依姫に託して返歌を奉った。
赤玉の 光はありと 人は言へど 君が装し 貴くありけり
(赤い玉は輝いていると人は言いますが、あなたの姿はそれ以上に立派に思えます。)
この二首の贈られた歌を挙歌と言う。
〔一書4〕
兄の火酢芹命は山幸を得て、弟の火折尊は海幸を得た――と、云々。
弟が悩み、口籠って浜辺にいると、塩筒老翁に出会った。老翁が、「どうしてそのように悩んでおるのか」と尋ねたので、火折尊が答えた――と、云々。
老翁が、「心配なさるな。私が計らおう」と言って、計らい、「海神の乗る駿馬は八尋鰐で、その背鰭を立てて橘之小戸にいる。私が彼とともに策を考えよう」と言った。そして火折を連れて、ともに見に行った。すると鰐魚は策を考え、「私が八日のうちに天孫を海の宮にお送りしましょう。ただし、我が王の駿馬は一尋鰐魚です。これは一日のうちに必ずお送りすることでしょう。そこで、今私が帰って、彼を来させましょう。彼に乗って海に入りなさい。海に入ると、海の中に美しい小浜があります。その浜に沿って進めば、きっと我が王の宮に辿り着くでしょう。宮の門の井戸のほとりに清浄な桂の木があります。その木の上に登っていてください」と言って、言い終わるや海に入り去った。そこで天孫は鰐の言った通りに留まり、待って八日になった。しばらくして一尋鰐魚がやって来たので、乗って海に入り、どれも以前の鰐の教えに従った。
すると、豊玉姫の侍女がいて、綺麗なお椀に水を汲もうとした。人の姿が水底にあるのを見て、汲み取ることができず、そこで天孫を仰ぎ見た。そして戻ってその王に、「私は、我が王一人が最も美しいと思っていましたが、今一人のお客がいて、遥かに勝っています」と告げた。海神はこれを聞いて、「ためしに見てみよう」と言って、三つの床を設けて招き入れた。すると天孫は、端の床でその両足を拭き、中の床でその両手を押さえ、内の床の眞床覆衾の上にゆったりと座った。海神はこれを見て、天神の孫であることを知り、ますます崇めた――と、云々。
海神が赤女と口女を呼んで尋ねると、口女が口から釣針を出して奉った。赤女は赤鯛のことで、口女は鯔のことである。すると海神は、釣針を彦火火出見尊に渡して、「兄に釣針を返す時に、天孫は、『おまえの子孫の末代まで、貧鉤・狭狭貧鉤』と言いなさい。言い終わったら三度唾を吐いて渡しなさい。また兄が海に入って釣りをする時には、天孫は風招をしなさい。風招とは、ふーっと息を吹き出すことです。このようにすれば、私が沖の風や浜辺の風を起こし、激しい波で溺れさせて悩ませましょう」と教えた。
火折尊は帰って来ると、細部まで神の教えに従った。兄が釣りをする日になり、弟は浜辺でふーっと息を吹き出した。すると疾風がたちまちに吹いて、兄は溺れて苦しみ、助かる見込みもなかった。すぐに遠くにいる弟に頼んで、「おまえはしばらく海原にいた。きっと良い術を持っていることだろう。どうか救ってほしい。もし私を生かしてくれたら、私の生む子の末代まで、おまえの垣根のそばを離れず、俳優之民となろう」と言った。そこで弟が息を吹き出すことを止めると、風もまた止んだ。そこで兄は弟の威力を知り、自ら平伏した。ところが、弟は怒った表情のまま口をきかなかった。そこで兄は褌をし、赤土を手に塗り、顔に塗り、その弟に、「私はこの通り、身を汚した。永久にあなたの俳優となろう」と告げた。そして足を上げて踏み込み、その溺れ苦しんだ様子を演じた。
はじめに潮が足を浸した時には爪先立ちをした。膝に至った時には足を上げた。股に至った時には走り回った。腰に至った時には腰に手を置いた。腋に至った時には手を胸にあてた。首にまで至った時には手を上げて掌をひらひらさせた。それより今に至るまで、これは絶えたことがない。
これより前、豊玉姫がやって来て、産もうとする時に皇孫にお願いを言った――と、云々。皇孫は従わなかった。豊玉姫は大いに恨んで、「私の言葉を聞かず、私に恥をかかせた。なのでこれから先、私の奴婢があなたの元に行っても、返すことはありません。あなたの奴婢が私の元に来ても、返しませんので」と言って、真床覆衾と草でその子を包んで渚に置くと、海に入り去った。これが海と陸とが通じなくなったことの発祥である。――あるいは、子を渚に置いたのではなく、豊玉姫命自身が抱いたまま去った。しばらくして、「天孫の子を海の中に置いておくべきではない」と言って、玉依姫に抱かせて送り出したと言う。
さて、豊玉姫が別れ去る時に、しきりに恨みを口にした。そこで火折尊は、再び会うことはないと知り、歌を贈った。これはすでに上で述べた。
『日本書紀』第十一段 現代語訳
〔本伝〕
彦波瀲武盧茲草葺不合尊は、その姨の玉依姫を妃として、彦五瀬命を生んだ。次に稲飯命。次に三毛入野命。次に神日本磐余彦尊。併せて四人の男を生んだ。
しばらくして彦波瀲武盧茲草葺不合尊は西洲之宮で亡くなられた。そこで日向の吾平山上陵に埋葬した。
〔一書1〕
まず彦五瀬命を生んだ。次に稲飯命。次に三毛入野命。次に狭野尊。または神日本磐余彦尊と言う。狭野というのは、年少の時の名である。後に天下を平定して八洲を治めた。そのため、名を加えて神日本磐余彦尊と言う。
〔一書2〕
まず五瀬命を生んだ。次に三毛野命。次に稲飯命。次に磐余彦尊。または神日本磐余彦火火出見尊と言う。
〔一書3〕
まず彦五瀬命を生んだ。次に稲飯命。次に神日本磐余彦火火出見尊。次に稚三毛野命。
〔一書4〕
まず彦五瀬命を生んだ。次に磐余彦火火出見尊。次に彦稲飯命。次に三毛入野命。
『日本書紀』巻第三(神武紀)
『日本書紀』神武紀 現代語訳
1. 神武天皇の家系図
「神日本磐余彦天皇」は、「彦火火出見」を諱とし、彦波激武鸕鷀草葺不合尊の4番目の子である。母は玉依姫で、海神の娘である。
彦火火出見は生まれついて聡明で、何事にも屈しない強い心を持っていた。十五歳で皇太子となり、さらに長じて、日向国の吾田邑の吾平津媛を娶って妃とし、手研耳命を生んだ。
2. 東征発議と旅立ち
(彦火火出見が)四十五歳になったとき、兄達や子供等に建国の決意を語った。
「昔、我が天神である高皇産霊尊・大日孁尊は、この豊葦原瑞穂の国のすべてを我が天祖である彦火瓊瓊杵尊に授けた。 そこで火瓊々杵尊は、天の関をひらき、雲の路をおしわけ、日臣命らの先ばらいを駆りたてながらこの国へ来たり至った。これは、遙か大昔のことであり、世界のはじめであって暗闇の状態であった。それゆえ諸事に暗く分からない事も多かったので、物事の道理を養い、西のはずれの地を治めることとした。 我が祖父と父は霊妙な神であって物事の道理に精通した聖であった。彼らは素晴らしい政により慶事を重ね、その徳を輝かせてきた。そして多くの歳月が経過した。 天祖が天から降ってからこのかた今日まで、179万2470有余年が過ぎたが、遠く遥かな地は、いまだ王の徳のもたらす恵みとその恩恵をうけていない。その結果、国には君が有り、村には長がいて、各自が支配地を分け、互いに領土を争う始末だ。 さて、一方で塩土老翁 からはこんな話を聞いた。『東に、美しい土地があって、青く美しい山が四方を囲んでいる。そこに天磐船に乗って飛びその地に降りた者がいる。』と。 私が思うに、かの地は豊葦原瑞穂の国の平定と統治の偉業を大きく広げ、王の徳を天下のすみずみまで届けるのにふさわしい場所に違いない。きっとそこが天地四方の中心だろう。そこに飛んで降りた者とは「饒速日」という者ではないだろうか。私はそこへ行き都としたい。」
諸々の皇子は、「なるほど、建国の道理は明白です。我らも常々同じ想いを持っていました。さっそく実行すべきです。」と賛同した。この年は、太歳・甲寅(紀元前667年)であった。
その年の冬10月5日に、彦火火出見は、自ら諸皇子や水軍を率いて、東へ進発した。
3. 東征順風・戦闘準備
速吸之門に到る。
この時、一人の漁人が小舟に乗ってやって来た。彦火火出見はその者を招き、「お前は誰か」と問うた。その者が答えて、「私は国神です。名を『珍彦』と言います。湾曲した入江で魚を釣っています。天神子が来ると聞き、それですぐにお迎えに参りました。」と言った。彦火火出見が「おまえは私を先導することができるのか?」と問うたところ、「先導いたします。」と答えた。そこで彦火火出見は詔をくだし、その漁師に「椎の木の竿の先」を授けて執らせ、そして舟に引き入れ「海路の先導者」としたうえで、特別に「椎根津彦」という名前を下された。(これが「倭直部(やまとのあたいら) 」の始祖である。)
さらに進み、筑紫の国の菟狭に到る。
その時、菟狭の国造の祖先がいた。名を「菟狭津彦」「菟狭津媛」という。その者達は、菟狭川のほとりに一柱騰宮を建て、彦火火出見に饗宴を奉りおもてなしをした。そこで彦火火出見は詔をくだし、従臣の「天種子命」に「菟狭津媛」を妻として下された。(「天種子命」は中臣氏の遠祖である。)
11月9日に、筑紫の国の岡水門 に到る。
12月27日に、安芸の国に到る。埃宮に居住する。
乙卯の年(紀元前666年)、春3月6日に、安芸の国から移動し、吉備の国に入る。行宮を建て居住。これを「高嶋宮」と言う。3年の間、軍船を整備し、兵達の食糧を備蓄して、一挙に天下を平定しようとした。
戊午の年(紀元前663年)、春2月の11日に、東征軍は遂に東に向けて出発した。前の船の「とも」と、後ろの船の「さき」が互いに接するほど多くの船が続く。いよいよ「難波の碕」に到ると、非常に速い潮流に遭遇した。そこで、その国を名付けて「浪速の国」という。(また「浪花」ともいう。今、「難波」と言うのは、訛である。)
3月10日に、その急流をさかのぼり、河内の国の草香の邑の青雲の白肩の津に到る。
5. 孔舎衛坂激戦、敗退
夏4月9日に、東征軍は兵を整え、徒歩で龍田に向かった。
しかし、その路は狭くて険しく、人が並んで行くことさえできなかった。そこで引き返し、改めて東へ胆駒山を越えて中洲に入ろうとした。
その時、長髄彦がこれを聞きつけ、「天神子等がこの大和に来る理由は、我が国を奪おうとするためだろう」と言い、配下の兵をことごとく起こし、「孔舎衛坂」で遮り激しい戦闘となった。この時、流れ矢が五瀬命の肘と脛に当たった。
東征軍は先に進むことができなかったので、彦火火出見は、この状況を憂えて、胸中に神策をめぐらした。
「今、私は日神の子孫でありながら、日に向って敵を攻撃している。これは、日を敵にまわしているのと同じで「天の道」に逆らうことだ。 ここは引き返して、かなわないと見せかけ、神祇を敬い祭り、日神の神威を背に負い、自分の前にできる影に従って襲いかかり、敵を圧倒するのがよいだろう。 こうすれば、少しも血を流さずに、敵は必ず自ら敗れるはずだ。」
この秘策に対し、皆は「まさにそのとおりです」と賛同した。
そこで全軍に対し「しばらく停れ。これ以上、進軍してはならない」と軍命を下し、さらに軍を引いて引き返した。敵もまた、敢えて追ってはこなかった。
退却して草香津に到り、盾を立てて雄誥をする。これにより、その津の名を改めて「盾津」という。(今、「蓼津」というのは、訛りである。)
はじめに、この「孔舎衛の戦い」において、大樹に隠れて難を免れ得た者がいて、その樹を指して「ご恩は母のようだ」と言った。(当時の人は、その地を名付けて「母木邑」といった。今、「悶廼奇」というのは訛りである。)
6. 長兄「五瀬命」の死
5月8日に、東征軍は茅淳の「山城水門」 に至る。またの名は「山井水門」。(茅淳はここでは「ちぬ」という。)
この時、長兄「五瀬命」は、孔舎衛で受けた矢傷の痛みが甚だしく、そこで剣の柄に手をあてて押さえ雄誥をあげた。(撫劒は、ここでは「つるぎのたかみとりしばる」という)「なんといまいましいことだ!武勇に優れていながら、(慨哉は、ここでは「うれたきかや」という)敵の手によって傷を負い、報復もせずに死ぬとは!」当時の人は、それでこの地を名付けて「雄水門」といった。
さらに進軍し、紀国の竃山に到ったとき、ついに五瀬命は軍中にて薨じられた。よって竃山に葬った。
7. 熊野灘海難と兄の喪失
6月23日、東征軍は「名草邑」 に至った。そこで「名草戸畔」に誅伐を加える。
ついに 狭野を越えて熊野の「神邑」 に至る。そして「天磐盾」に登る。そこで軍を引いて徐々に進む。
ところが海中で、突然暴風に遭い 、一行の舟は木の葉のように揺れ漂った。
その時、次兄の「稲飯命」 が、「ああ、私の祖先は天神で、母は海神である。それなのにどうして私を陸で苦しめ、また海でも苦しめるのか」と嘆いた。言い終ると、剣を抜き荒れ狂う海に身を投じて「鋤持神」 となった。
三兄の「三毛入野命」 もまた、「我が母と姨とは共に海神である。それなのにどうして波濤を立てて溺らせるのか」と恨み言を言い、波の先を踏んで常世の国に往ってしまった。
彦火火出見は、たった独りで皇子の「手研耳尊」 と軍を率いてさらに進み、熊野の「荒坂の津」に至った。(又の名を丹敷浦という)「丹敷戸畔」という者に誅罰を加える。
8. 熊野荒坂で全軍昏倒
この時、神が毒気を吐き、この毒気により将兵はみな病み倒れてしまった。このため、軍は奮い立つことができなくなってしまった。
丁度そのころ、その地に熊野の「高倉下」 という名の者がいた。その夜、夢を見た。
(夢のなかで)「天照大神」は「武甕雷神」に伝えた。『いったい葦原中國は、まだ騒然として、うめき苦しむ声が聞こえてくる。(聞喧擾之響焉はここでは「さやげりなり」という)。武甕雷神よ、お前がまたかの国へ行き、征伐しなさい。』。すると武甕雷神は答えて、『私が行かずとも、私が国を平定した剣を下せば、国はおのずと平安をとりもどすでしょう。』と申し上げたところ、天照大神は、『よろしい。』と承諾した。(諾はここでは「うべなり」という)。そこで武甕雷神は、さっそく高倉下に伝えた。『私の剣は「韴靈」という。(韴靈はここでは「ふつのみたま」という)。今、これをお前の倉に置こう。これを取って天孫に献じるがよい。』。高倉下は「承知しました」と申し上げた。
そこで夢から醒めた。
その明け方、高倉下は夢に見た教えに従って「倉」をあけてみると、果たして天から落ちてきた剣が、倉の底板に逆さまに突き立っていた。
高倉下はさっそくこの剣を取って、彦火火出見に奉った。その時、彦火火出見は眠り臥していたが、たちまちに意識を取り戻し、「私はどうしてこんなに長く眠っていたのか。」と言った。続いて、毒気にあたっていた兵士たちもみな意識を取り戻し、目を覚まして起き上がった。
9. 頭八咫烏の導きと熊野越え
東征一行はいよいよ世界の中心である「中洲」に向かおうとした。
しかし、熊野の山道は険しく、途中で道がなくなってしまい、いよいよ進むことができなくなってしまった。あちこち探しても、この深く険しい山を越えていく所が分からない。
まさにそのような状況の時。ある夜、彦火火出見は夢をみた。その中で、天照大神が現れこのように伝えた。「今から頭八咫烏を遣わそう。この烏を道案内とするがよい。」
果たして、その「訓え」通り、頭八咫烏が空から飛んできて舞い降りた。
「この烏の飛来は、めでたい夢のとおりだ。(皇祖の威徳の)なんと偉大なことよ、輝かしいことよ。皇祖の天照大神が、東征の大業を成し遂げようと助けてくれたのだ。」と、彦火火出見は感嘆の声をあげた。
そこで、臣下の「日臣命」は山を踏みわけ道を通しながら、烏の飛び行く先を尋ね、仰ぎ見て追っていった。
日臣命は、大伴氏の遠祖で、勇猛果敢な軍隊(大来目)と大きな戦車を率いる将軍である。この熊野において、中洲への突破口を見出し、山道を穿ち、一行が通る道の整備を行った。
そうしてついに、菟田の下県に到着した。(道を穿ちながら進んだので、これにより、その到達した所を名付けて菟田の「穿邑」という。)
この時、彦火火出見は日臣命に詔をくだし、大いに褒め称えて言った。「お前は、忠実で勇猛な臣下だ。その上、よく導いてくれた。この功績をもとに、お前の名を改めて、以後『道臣』とせよ。」
10. 兄猾と弟猾
秋、8月2日に、彦火火出見は、「兄猾」と「弟猾」という者を召し出させた。この二人は菟田県の首領である。
すると、兄の兄猾は姿を見せず、弟の弟猾はすぐにやってきた。
弟猾は軍営の門を拝してこう申し上げた。「私の兄の兄猾が反逆を企てております。天孫(彦火火出見)が今まさにこの地においでになると聞き、すぐさま兵を起こして襲おうとしていたところ、東征軍の威勢をはるかに望み見て、勝ち目のないことを恐れたのです。そこで企てを案じ、兵をひそかに伏せ、仮の新しい宮を建て、その建物の内に「人を圧殺するからくり機」を設け、饗宴に招待すると偽って誘い出し、罠にかけて討とうとしているのです。どうかこの偽りと企てを知り、よくお備えくださるようお願いします。」
彦火火出見はただちに道臣命を遣わし、その反逆の様子を窺わせた。
道臣命は、兄猾には確かに害意を抱いていることを詳しく察知し、激怒して責めなじり「卑しい敵め!うぬが造った宮に、うぬが自分で入ってみろ!」と荒々しい声で言った。さらに剣の柄に手をかけ、弓を強く引きしぼって追い立て、兄猾を建物に入らせた。
兄猾は、天によって罰を受けるのと同じようにどうにも言い訳ができなくなり、ついに自ら中に入りからくり機を踏み、押しつぶされて死んだのである。それから道臣命は兄猾の屍を引きずり出してバラバラに斬った。流れ出る血は踝まで達した。それゆえ、その地を名づけて「菟田血原」という。
弟猾は、大いに酒や肴を取り揃え、饗を催し東征の軍勢をねぎらいもてなした。彦火火出見はその酒肴を兵士達に分け与え、そこで御謡を詠んだ。
菟田の高城に 鴫罠はる 我が待つや 鴫は障らず いすくはし くぢら障り 前妻が 肴 乞はさば たちそばの 実の無けくを こきしひゑね 後妻が 肴 乞はさば いちさかき 実の多けくを こきだひゑね
(菟田の猟場である高城に鴫罠をかけた。獲物がかかるのを待っていると、鴫はかからず、なんと鯨がかかった。先に娶った妻が肴に欲しがったら、立木のソバの実のように肉の少ないところをいっぱいそぎ取ってやれ、新しい妻が肴に欲しがったら、サカキの実のように肉の多いところをいっぱいそぎ取ってやれ。
これを来目歌と言う。今、「楽府 」でこの歌を演奏するときは、手拍子や声の大きさに大小をつける。これは古式が今に残ったものである。
11. 吉野巡幸
その後、彦火火出見は吉野の地を視察しようとして、菟田の穿邑から、自ら軽装の兵を従えて巡幸した。
吉野に到着すると、井戸の中から出てくる者がいた。その姿は光り尾がある。彦火火出見は、「お前は何者か」と問うた。答えて「私めは国神で、名を井光と申します」と言う。これは吉野首らの始祖である。
さらに少し進むと、また尾のある者が岩を押し分けて出てきた。彦火火出見が「お前は何者か」と問うと、その者は、「私めは磐排別の子です」と言った。これは吉野国楳らの始祖である。
川に沿って西に行くと、また、梁を設けて魚を取っている者がいた。彦火火出見が問うと、答えて「私めは苞苴担の子です」と言う。これが阿太の養鸕らの始祖である。
12. 香具土採取と顕斎
9月5日に、彦火火出見は、あの菟田の高倉山の頂きに登り、辺り一帯をはるかに望み見た。
すると、その手前、国見丘には八十梟帥がいて、女坂 には「女軍」を、男坂には「男軍」を配置し、墨坂には真っ赤に焃っている炭を置いて士気を高めていた。女坂・男坂・墨坂の名は、これによって起こる。また、磐余邑には「兄磯城軍」があふれるほど満ちていた。これらの賊敵が陣を布くところは、どこも要害の地で、そのため道が遮断されて塞がり、通れるところが無かった。
彦火火出見はこれを憎み、この夜、自ら祈って寝た。すると夢に天神が現れ、教えて言った。「天香山にある社の土を取って、『天平瓮』 八十枚をつくり、あわせて『厳瓮』もつくり、天神地祇を敬い祭るのだ。また、厳重な呪詛を為よ。そうすれば、賊どもは自ら平伏するだろう。」 彦火火出見は謹んで夢の教えを承り、その通りに実行しようとした。
ちょうどその時、弟猾もまたこのようなことを申し上げた。「倭国の磯城邑に『磯城八十梟帥』がおります。また、高尾張邑に『赤銅八十梟帥』がおります。この連中はみな、天皇を拒絶して戦おうとしております。私めはひそかにこれを憂慮しております。どうか、今まさに天香山の埴土を取って『天平瓮』を造り、それで天社国社の神をお祭りください。その後、賊を攻撃すれば容易く排除できます。」 彦火火出見は、すでに夢の教えを吉兆としていたが、今、弟猾の言葉を聞いて、ますます心のうちに喜んだ。
そこで、椎根津彦にヨレヨレになった破れた衣服と蓑笠を着せて「老夫」の姿を装わせた。また、弟猾には箕を被らせ「老婆」に姿を装わせた。そして、勅して言った。「お前たち二人は天香山まで行って、密かにその頂の土を取って戻って来るのだ。東征の大業が成就するか否かは、お前たちが土を取って来れるか否かで占うことにしよう。努めて慎重に行うように。」
この時、賊兵は香具山へ行く道にあふれていて行き来することが難しかった。そこで、椎根津彦は祈 をして言った。「我が君がまさしくこの国を平定することができるならば、行く道は自ら通れるだろう。もし平定できないのであれば、賊が必ず阻止するだろう。」 言い終ると直ちに天香山へ向かって行った。
その時、賊どもは、この二人を見て大いに笑い「なんと醜い、じじいとばばあだ。」と言って、みな道をあけて通らせた。二人は香具山にたどり着くことができ、土を取って帰って来た。
彦火火出見は大いに喜び、この香具山で採取した埴土で「八十平瓮」と「天手抉八十枚」そして「厳瓮」を作り、丹生川のほとりにのぼり天神地祇を祭った。すると、あの菟田川の朝原で、水の泡立ちのように呪詛が立ち現れた。
彦火火出見はまた祈をして言った。「私は今、八十平瓮で、水を使わずに飴を作ろう。もし飴ができれば、私は武器の威力を借りずに、居ながらにして天下を平定するであろう。」 そこで、飴を作ると、自然にできあがった。
また祈をして言う。「私は今、厳瓮を丹生川に沈めよう。もし魚がその大小にかかわらず、皆酔って流れる様子が、ちょうど柀の葉が水に浮いて流れるようであるならば、私は必ずこの国を平定することになるであろう。もしそうでないならば、ついに事は成就しないだろう。」 そこで厳瓮を川に沈めた。するとその口が下に向き、しばらくすると魚が皆浮き上がってきて、流れながら口をぱくぱくさせた。 椎根津彦はこれを見て報告したところ、彦火火出見は大いに喜び、丹生川のほとりの「五百箇真坂樹」を根っこごと抜き取り、神々を祭った。この時から、厳瓮を据えて神を祭ることが始まる。
その時、彦火火出見は道臣命に勅して言った。「これから『高皇産霊尊』を祭神として、私自身が『顕斎』 を執り行う。お前を斎主として、『厳媛』の名を授ける。そして、祭りに置く埴瓮を『厳瓮』と名付け、また火を『嚴香來雷』と名付け、水を『嚴罔象女』、食べものを『厳稲魂女』、薪を『厳山雷』、草を『厳野椎』と名付けよう。」
13. 国見丘の戦いと忍坂掃討作戦
冬、10月1日に、彦火火出見は、その厳瓮に盛った神饌を口にし、兵を整えて出陣した。
まず、敵の主力部隊を国見丘で撃ち、これを破り斬った。この戦いでは、彦火火出見は必ず勝つという志を持っていた。そこで御謡を詠んだ。
神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻る 細螺の 吾子よ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ
(神風が吹く伊勢の海の大石に這いまわる細螺の如き吾が兵士よ、細螺のように国見丘を這いまわって、徹底的に(敵を)撃ちのめしてやれ。)
歌の意は、国見丘を大石に喩えたのである。
その後でも、打ち破った八十梟帥の残党がなお多数いて、情勢は予断を許さない。
そこで、彦火火出見は振り返って道臣命に命じた。「お前は「大来目部」を率いて、忍坂邑に大きな室を造り、盛大に饗宴を催し、賊どもをおびき寄せて討ち取れ。」
道臣命はこの密命を承り、忍坂に地面に穴ぐらを掘って室とし、大来目部の勇猛な兵を選び、賊のあいだに紛れこませた。そして、密かに手筈を定め命じた。「酒宴が盛りをすぎたあと、私が立ち上がって歌を歌おう。お前たちは私の歌う声を聞いたと同時に、一斉に賊どもを刺し殺せ。」
いよいよ皆が座り酒杯をめぐらせた。賊はこちらにひそかな計略があることも知らず、心にまかせて酔いしれた。その時、道臣命が立ち上がって歌った。
忍坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の子らが 頭槌い 石椎い持ち 撃ちてし止まむ
(忍坂の大きな室屋に、人が大勢いても、人が大勢入っていようとも、勇猛な来目の者たちが、 頭槌の太刀、石槌の太刀を持って(敵を)撃たずに止むものか)
その時、こちらの兵士はこの歌を聞き、一斉に頭槌の剣を抜き、一気に賊を斬り殺した。賊の中に生き残る者は一人もいなかった。東征の軍は大いに喜び、天を仰いで笑った。そこでこのように歌った。
今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ
(今はもう、今はもう、あっはっは、今だけでも 吾が子たちよ(戦士たちよ) 今だけでも 吾が子たちよ(戦士たちよ))
来目部の者たちが歌った後に大笑いするのは、これがその由縁である。また歌う。
蝦夷を 一人百な人 人は言へども 手向かひもせず
(蝦夷を一人が百人にあたる猛者と人は言うが、(来目部の戦士の前には)手向かいもしないぞ)
これらの歌はみな、すべて密命を受けて歌ったもので、勝手に歌ったものではない。
時に彦火火出見が「戦いに勝っても驕ることのないのが、良将の行いである。今や強力な賊は滅びたが、乱れ悪をなす者どもはなお数十の群れをなしてその動向は計り知れない。どうして一つのところにいつまでも留まり、変化する事態を制する手立てを講じずにいようか」と言い、陣営を別の場所に設けた。
14. 兄磯城討伐・磐余制圧
11月7日に、東征軍は大挙して「磯城彦」を攻撃しようとした。
先ず、使者を派遣して「兄磯城」を召したが、兄磯城はその命に従わなかった。そこで、今度は八咫烏を派遣して召した。烏は兄磯城の軍営に到り鳴き声をあげ、「天神子が、お前を召されている。さあ、さあ(招きに応じよ)」と言った。兄磯城はこれを聞いて激怒し、「天圧神がやって来たと聞き、今まさに憤慨している時に、どうして烏めがこんなに嫌なことを鳴くのか。」と言い、弓を引きしぼって烏めがけて射ると、烏はすぐさま逃げ去った。
次に、八咫烏は「弟磯城」の家にやってきて鳴き声をあげて、「天神子が、お前を召されている。さあ、さあ。」と言った。この時、弟磯城は恐れ畏まって居ずまいを正し、「臣である私は、天圧神がやってこられたと聞き、朝に晩に大変かしこまっておりました。まったく素晴らしいことです、烏よ。あなたがこんな風に鳴いてくれたのは。」と言い、さっそく葉盤八枚を作って食べ物を盛り、烏をもてなした。
そして、烏のあとに従って彦火火出見のもとに参上し、「私の兄の兄磯城が、天神子がいらっしゃったと聞き、八十梟帥を集めて武器を準備し、決戦を挑もうとしております。早急に手だてを講じなさいませ。」と言った。
彦火火出見は、すぐさま将たちを集め、問うた。「今、兄磯城は、やはり反逆の意があり、召してもやって来ない。どうしたらいいだろうか。」 将たちは、「兄磯城は悪賢い賊です。まずは弟磯城を派遣してしっかりと諭し、あわせて兄倉下と弟倉下も説得させるのがよいでしょう。それでも帰順しないのであれば、その後に兵を挙げて戦いに臨んでも遅くはありません。」と申し上げた。
そこで弟磯城を遣わし、利害を明らかに示して分からせようとした。しかし、兄磯城らはなお愚かな謀に固執し、帰伏するのをよしとしなかった。
その時、椎根津彦が計略をめぐらせて言った。「この上は、まず我が女軍を遣わして、忍坂の道から出陣させましょう。これを賊が見れば必ずや精鋭部隊を残らずそこに向かわせるはずです。私は、勇猛な兵を馬で走らせ直ちに墨坂を目指し、菟田川の水を取って墨坂に置く炭火に注ぎ火を消し不意をつけば、敵の敗北は間違いありません。」
彦火火出見はその計略を「善し」とし、そこで女軍を出陣させて敵の動向をうかがった。果たして、賊は大軍がすでに押し寄せて来たと思い込み、全戦力を挙げて待ち受けた。
ところで、これより前のことであるが、東征軍は攻めては必ず敵の陣地を取り、戦っては必ず勝利してきた。しかし兵士たちが疲弊しないわけではなかった。そこで、彦火火出見は「御謠」をつくって、将兵の心を慰撫した。
楯並めて 伊那瑳の山の 木の間ゆも い行き見守らひ 戦えば 我はや飢ぬ 島つ鳥 鵜飼が伴 今助けに来ね
(伊那瑳の山の木の間を通って、敵がいつ襲ってくるかと見張りながら戦っていると、私はいよいよ腹が減ってしまったよ。鵜飼のものどもよ、今すぐ(うまい鮎をさし入れて)助けに来てくれ。)
このように戦意を鼓舞した上で、ついに男軍を率いて墨坂を越え、先に出陣させた女軍と後方から挟み撃ちにして賊を破り、首領の兄磯城らを斬り殺した。
15. 長髄彦最終決戦
12月4日に、東征軍はついに長髄彦を攻撃した。ところが、続けて幾度となく戦っても勝利を得ることができなかった。
その時、突然、空がかき曇り雹が降ってきた。すると、金色の霊妙な鵄が飛来し、彦火火出見の弓の弭 に止まった。その鵄は燃える火のように輝き、稲妻のように光を放った。この光に打たれ長髄彦の軍兵はみな目が眩み惑って、もはや反撃して戦うことができなくなった。
長髄というのは、邑のもともとの名である。それに因んで人の名前にもつけたのである。東征軍が鵄の「瑞」を得たことで、時の人は、それによりこの地を「鵄邑」と名付けた。今、「鳥見」というのは、それが訛ったものである。
昔、孔舎衛の戦いで、五瀬命が矢に当たって亡くなった。彦火火出見は、このことを心に留め、常に憤りや恨みを抱いていた。そのため、この長髄彦との戦いにおいては、皆殺しにしてやろうとした。
そこで御歌をつくり歌った。
みつみつし 来目の子らが 垣本に 粟生には 韮一本 其のが本 其ね芽認ぎて 撃ちて止まむ
(来目部の勇猛な戦士たちの垣根のもとに粟が生えた中に、くさい韮が一本生えている。その根やその芽を探し出すように敵を探し出して撃たずには止むものか。)
また、歌を歌った。
みつみつし 来目の子らが 垣本に 植ゑし山椒 口疼く 我は忘れず 撃ちてし止まむ
(来目部の勇猛な戦士たちの垣根の元に植えた山椒 を食べると口がいつまでもヒリヒリする。そのようにいつまでも恨みを忘れてはいない。(敵を)撃たずには止むものか。)
よって、兵卒を放って敵を急襲した。これらの御謡はみな来目歌という。この名はすべて歌の担い手(来目)によって名付けたものである。
この時、長髄彦は行人を遣わして、彦火火出見に告げた。「かつて、天神の子が天磐船に乗り、天から降臨された。名を櫛玉饒速日命と言う。この神が我が妹の三炊屋媛を娶り、ついに御子をもうけた。名を可美真手命と言う。それ故、吾れは饒速日命を主君として奉っている。そもそも天神の子の血筋が二つあるなどということがあろうか。なぜまた「天神子」と称して、人の土地を奪おうとするのか。吾が心に推察するに、これではとうてい真実とみなすことはできない」。
彦火火出見は答えて、「天神の子といっても大勢いる。お前の主君とする者が本当に天神の子ならば、必ずそのしるしとなる物があるはずだ。それを見せてみよ」と言った。長髄彦は早速、饒速日命の天羽羽矢一本と歩靫 とを取って彦火火出見に献上して見せた。彦火火出見はそれをよく見て「間違いない」と言い、今度は自分が身に付けていた天羽羽矢一本と歩靫とを長髄彦に下し示した。長髄彦はその天表を見て、いよいよ敬い畏まる気持ちを懐いた。しかし、武器を構えたその勢いは途中で止めることができず、なお迷妄な謀に固執して、少しも心を改めることはなかった。
饒速日命は、もともと天神が深く心にかけて味方しているのは天孫だけであることを知っていた。そのうえ、かの長髄彦は生来の性質がねじ曲がっていて、天と人との分際(身のほど)を教えるべくもないと見てとり、そこで長髄彦を殺し、その配下の兵卒を率いて帰順した。
彦火火出見は、初めから饒速日命が天から降った者であることを聞いており、今、はたして忠義の功を立てたので、これを褒めて寵愛した。これが物部氏の遠祖である。
16. 中洲平定と事蹟伝承
己未の年(紀元前662年)春2月20日、彦火火出見は将たちに士卒の訓練を命じた。
この時、層富県の波哆の丘岬に「新城戸畔」という者がいた。また、和珥の坂下に「居勢祝」という者がいた。臍見の長柄の丘岬には「猪祝」という者がいた。これら三か所の土蜘蛛は、みな己の勇猛さを恃みにし、あえて帰順しなかった。彦火火出見はそこで、軍勢を分けて派遣し、これらをことごとく誅殺した。
また、高尾張邑に土蜘蛛がいて、その体つきは、身の丈が低く手足が長くて侏儒に似ていた。東征の軍は、葛で網を結い、急襲して一挙に殺した。これにより、その邑の名を改めて「葛城」という。
さてまた「磐余」の地のもとの名は「片居」または「片立」といった。東征の軍が賊を打ち破ったとき、たくさんの兵が集まりその地に満ちあふれた。これにより名を「磐余」と改めたのである。
あるいはこうも言う。以前に、彦火火出見は厳瓮にそなえた神饌を食し、西方を征討しに軍を出陣させた。この時、磯城の八十梟帥らが、その地に大勢たむろしていた。果たして、彦火火出見と大きな戦いになり、ついに滅ぼされた。そこで、その地を「磐余邑」と名付けたのであると。
また東征の軍が雄叫びをあげた所を「猛田」といい、城をつくった所を「城田」という。また、敵の軍勢が戦死し倒れた死骸が、互いの臂を枕にして折り重なった場所を「頰枕田」という。
彦火火出見は、前年の秋九月に、ひそかに天香山の埴土を取り、それで八十平瓮を作り、自ら斎戒して神々を祭った。そして今、ついに天下を平定することができた。それゆえ、土を取った所を名付けて「埴安」という。
17. 橿原宮造営と八紘為宇
3月7日、彦火火出見は命令を下した。「私が自ら東征に出発してからから、これまでに六年が過ぎた。この間、天神の神威を頼りとし、凶暴な賊どもは誅殺された。遠く辺境の地はいまだ静まらず、敵残党はなお残っているが、中洲の地はもはや兵乱に風塵がたつことはない。今まさしく、天皇の都を大きく広げ、大壮を規範として倣うのがよい。 しかるに今、時は世のはじめにあたり、民心は素朴である。彼らは穴に住み、未開の風習が常である。そもそも、聖人が制度を定めれば、大義は必ず時勢に叶うものである。いやしくも民の利益となることがあれば、聖人の業を妨げるものはないであろう。 今こそ、山林を伐り開き、宮殿を造営し、謹んで皇位に即いて、人民を安んじ治めなければならない。上にあっては天神がこの国を授けた徳に応え、下にあっては皇孫が正義を養育した心を広めよう。そして世界をひとつに合わせ都を開き、天下を覆ってひとつの家とするのだ。なんと素晴らしいことではないか。 見渡せば、あの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに周囲を山に囲まれ、国の奥深くにある安住の地であろう。この地を整備しよう。」
この月に、さっそく役人に命じて宮殿の造営を開始した。
18. 正妃 蹈韛五十鈴媛命
庚申の年(紀元前661年)、秋8月16日、彦火火出見は正妃を立てようとして、改めて広く高貴な血筋の女を求めた。その時、ある者が「事代主神が三島溝橛耳神の女である玉櫛媛と生んだ子で、名を「媛蹈韛五十鈴媛命」と申します。この者は国中でもとりわけ麗しい美人です」と申し上げた。彦火火出見はこれを喜んだ。
9月24日、媛蹈韛五十鈴媛命を迎え入れて正妃とした。
19. 橿原宮即位と東征完結
辛酉の年(紀元前660年)春、正月1日、彦火火出見は橿原宮で帝位に即いた。この年を天皇の元年とし、正妃を尊んで皇后とした。皇后は皇子の神八井命と神淳名川耳尊を生んだ。
そこで、古くからこのことを称えて「畝傍の橿原に、宮柱を大地の底の磐根に届くまでしっかりと立て、千木を高天原に届くまで高くそそり立たせて、初めて国を治めた天皇(始馭天下之天皇)」と言い習わしているのである。この天皇を名付けて「神日本磐余彦火火出見天皇」と言う。
初めて、天皇が天日嗣の大業を草創した日、大伴氏の遠祖である道臣命は、大来目部を率いて秘策を承り、諷歌や倒語を巧みに用いて災いや邪気を全て払った。倒語が用いることは、ここに初めて起こったのである。
20. 論功行賞と国見
2年(紀元前659年)春2月2日、神武天皇は臣下の功績を評定して褒賞を行った。道臣命には、宅地を与え築坂邑に居所を与えられて、ことに寵愛された。また大来目には、畝傍山より西の川辺の地に居所を与えられた。今、来目邑というのは、これがその由縁である。そして、珍彦を倭国造とされた。また、弟猾に猛田邑を与えられ、それで猛田県主とされた。これは菟田主水部の遠祖である。弟磯城、名は黒速を磯城県主とされた。また剣根という者を葛城国造とされた。また、八腿烏も褒賞にあずかった。その子孫は葛野主殿県主部である。
4年(紀元前657年)春2月の23日、神武天皇は勅して仰せられた。「我が皇祖の神霊が天から地上をご覧になって、我が身を照らし助けてくださった。今、すでに諸々の賊は平定され、国内は平穏である。天神を郊祀って、大孝の志を申しあげねばならぬ。」そこで、鳥見山の中に斎場を設けて、その地を名付けて上小野の榛原・下小野の榛原といい、もって皇祖である天神を祭った。
31年夏4月1日に、神武天皇は国中を巡幸された。その時、腋上の嗛間丘に登って、国の状況を眺めめぐらせ「ああ、なんと美しい国を得たことよ。山に囲まれた小さな国ではあるが、あたかも蜻蛉が交尾している形のようだ。」と仰せられた。これにより、初めて「秋津洲」という名が起こったのである。
昔、伊奘諾尊がこの国を名付けて、「日本は浦安の国、細戈の千足る国、磯輪上の秀真国」と仰せられた。また、大己貴大神は名付けて、「玉牆の内つ国」と言われた。饒速日命が天磐船に乗って虚空を飛翔して、この国を見おろして天降ったので、名付けて、「虚空見つ日本の国」と言われた。
42年(紀元前619年)春正月の3日に、神武天皇は、皇子の神淳名川耳尊を立てて皇太子とされた。
76年(紀元前585年)春3月11日、神武天皇は橿原宮で崩御された。時に御年百二十七であった。
翌年秋9月12日に、畝傍山東北陵に葬った。
本記事監修:(一社)日本神話協会理事長、佛教大学名誉教授 榎本福寿氏
参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)、他
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