舒明天皇陵は、奈良県桜井市忍阪にある陵。
こちら、第34代天皇(629年即位)である舒明天皇の陵で、
陵墓の一番上の部分が「八角形」になってるユニークな陵です。
激動の時代、日本の大きな変革期であった7世紀から8世紀にかけて
天皇家で大きな力を発揮した「舒明ファミリー」を形成。その親分、ビッグダディであります。
今回は、そんな舒明天皇の陵をご紹介します。
舒明天皇陵(段ノ塚古墳)|舒明ファミリーの頂点!ビッグダディ舒明天皇の陵はとってもユニークな八角形
舒明天皇陵の場所
舒明天皇陵の場所は、奈良県桜井市忍阪。
まずは、「忍阪(おっさか)」の交差点を目指しましょう。
からの、こんな感じ↓で、「忍阪街道」というのが整備されています。
▲スタート地点は、左上の「忍阪」交差点。ここから榛原方面へ。166号線が走っていて、途中から分岐、併走する形で山際ルートが「忍阪街道」。
舒明天皇陵周辺は、「忍阪街道」からさらに山の方へ入ったところにあります。
ちなみに、
当サイトとしては、この「忍阪街道」周辺は日本神話にも登場する場所としてチェックいただきたい!激しく神話ロマンをかき立てる場所であります。
是非チェックください!
ということで現場に戻ります。
▲看板発見!!!忍阪交差点から166号線を榛原方面へ歩いて、すぐ小道に入るところ。
▲忍阪街道。平和な田舎の雰囲気満載やー。
▲石の標識碑があります。舒明天皇陵は、忍阪街道から山の方へ入っていった奥にあります。
▲ありました!!!こちら舒明天皇陵の入口!ついに来ましたビッグダディ舒明天皇のお墓!!!胸一杯に飛鳥な空気を吸い込んで!
敷地に入ってさらに陵墓に上がっていく階段があります。
▲こちら、山の上にお墓があるのではなく、墳丘として積み上げた人工の山、というか丘。
舒明天皇陵
舒明天皇 第34代天皇。629年即位。
641年(舒明13年)に崩御。その2年後に「押坂内陵」に改葬。
古墳時代の終末期にあたる7世紀中頃の墓で、現在は宮内庁で管理。
舒明天皇の事蹟としては
- 初めて遣唐使を派遣
- 初の国家寺院である百済大寺を建立
なんですが、
皇后である斉明天皇との間にもうけた子供たちが大活躍。天智天皇、天武天皇、孝徳天皇妃となった間人皇女。。。
激動の7世紀から8世紀にかけて彼ら「舒明ファミリー」が皇統の主流を構成するようになっていきます。つまり、舒明天皇はそうしたファミリーのトップ。ビッグダディであります。
ちなみに
舒明天皇陵は合葬陵という説あり
被葬者は、舒明天皇と、お母さんの田村皇女とする説が有力です。
平安時代の延喜式では
舒明天皇のお母さんである田村皇女の墓が、舒明天皇陵内とされてます。
また
今から150年以上も前、文久年間に墳丘の一部が崩壊し石室の一部が露出したそうで。
その際、2基の石棺が見えたとか。手前の石棺は縦に、奥の石棺は横に置かれておったぞ、という村人Aの話が伝わっていることから
研究者の皆様の間でも合葬説は有力なものとなってるみたいですね。
この古墳の最大の特徴は
初の八角墳であること。
これは、
八角形をした天皇の玉座「高御座」に由来しているとか。
万葉集巻1-3 間人連老の歌に舒明天皇を讃えた歌があります。
「八隅知之 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ・・・」
とあり、
八隅知之(やすみしし) 八角形は「国土の隅々までおさめる」という思想の表れなんじゃないかと。
「八角形」結構深い。。。
三段ある四角形の土台の上に、八角形の上円部が乗っかってる形。イメージ図は以下の通り。
▲たしかに、これは珍しい!流石ビッグダディ。
激動の時代、日本の大きな変革期であった7世紀の日本。その源流がココにあるのかと思うとコレはこれで神話ロマン発生地帯と言えるのではないかと思います。
まとめ
舒明天皇陵
奈良県桜井市忍阪にある陵。
こちら、第34代天皇(629年即位)である舒明天皇の陵で、
八角形をしているめっちゃユニークな陵です。
7世紀から8世紀にかけて天皇家で大きな力を発揮した「舒明ファミリー」を形成。その親分。
この父親にして天武天皇あり、そして『日本書紀』『古事記』あり、と、日本神話的につながって行くわけです。
激動の時代、日本の大きな変革期であった7世紀の日本。その源流がココにあるのかと思うとコレはこれで神話ロマン発生地帯と言えるのではないかと思います。
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