【保存版】飛鳥浄御原宮|日本神話編纂のふるさと!歴史書の編纂というビッグプロジェクトがスタートした超重要スポット

飛鳥浄御原宮

 

飛鳥浄御原宮あすかきよみはらは、7世紀後半に造営された宮都。

672年、壬申の乱に勝利した大海人皇子おおあまのみこが、
近江(大津宮)から飛鳥に遷都。この時の宮都が「飛鳥浄御原宮あすかきよみはら」です。

乱の勝利により強大な権力を握った大海人皇子、改め「天武天皇」が
天皇中心の国家体制づくりを推し進めた激しく重要なスポット。

国家体制づくり、ビッグプロジェクト始動。

その2大柱が
律令整備と歴史書編纂であります。

2つの事業を「車の両輪」として、ムキムキの中央集権国家づくりが進められたわけで。

そんな中、
当サイトとしてイチオシは、何と言っても

歴史書編纂プロジェクト!

そう、
ココ、飛鳥浄御原宮で、
あの、天武天皇が、『日本書紀』や『古事記』の編纂指令を出したわけです!

コレはアツい!

日本神話の編纂が開始された場所であり、
言い方変えると、飛鳥浄御原宮は「日本神話編纂のふるさと」なんじゃないかと。

コレはこれで、スゴイ神話ロマン発生地帯。勝手にな。

そんな飛鳥浄御原宮。

現在、奈良県明日香村に史跡があり、「飛鳥宮跡」として残されております。

先日、現地へ行ってきたので、その様子とあわせて日本神話から見る「飛鳥浄御原宮」の魅力をたっぷりご紹介します。

 

飛鳥浄御原宮|日本神話編纂のふるさと!歴史書の編纂というビッグプロジェクトがスタートした超重要スポット

飛鳥浄御原宮の造営経緯

きっかけは、672年の「壬申じんしんの乱(7/24 – 8/21)」。

コレ、古代史最大の内乱で、天智天皇の息子と弟の戦い。仁義なき身内の皇位争い。

天智天皇といえば、大化の改新で有名なアノお方。その天智天皇の、、、

息子(大友皇子おおとものみこ) VS 弟(大海人皇子おおあまのみこ

ガチンコバトル。天智天皇としては息子に皇位を継承させたかったようですが、、、

で、

このとき、中央豪族は息子側に、地方豪族は弟側について乱参加。

実際には、672年の7月末から8月末、1ヶ月もかからず決着つきにけり。勝利したのは、弟(大海人皇子)で。

これにより、

大海人皇子、改め「天武天皇」は、
オレ様中心の、もとい、天皇中心の国家体制づくりを強力に進めていきます。

もちろん、

これまでも、天皇中心の国家づくりは進められてきたんですが、
壬申の乱で負けた息子側についた中央豪族、
この「既得権益 受益者ども」が没落したことは、
結果的に天皇の権威を高めることになり、
今まで以上に強力に、超トップダウンで進められるようになった経緯あり。結構重要。

で、

まずは遷都!

ということで、選ばれたのが「飛鳥浄御原宮あすかきよみはら」。

ま、この時点での「都」というと、
平城京とか平安京のような大規模なものでは無く、、、

イメージ的には「宮都」といった感じが近く
遷都=宮都のお引っ越し、つまり天皇が住む&政治を行う場所を変える、みたなニュアンスです。

で、

「壬申の乱」の勝敗が決したのが672年8月。この年の冬には新たな宮都を飛鳥浄御原宮に設定。

『日本書紀』の天武天皇条には、

「この年(672年)に、宮室を岡本宮の南に営る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」

是歲、營宮室於岡本宮南。卽冬、遷以居焉、是謂飛鳥淨御原宮。

と伝えてます。

「宮室」とは、天皇の住まいの事。
「岡本宮」とは、舒明天皇代の宮都の名。舒明天皇は、天武天皇のお父さん。

要は、

オヤジが政治やってた場所のすぐそばに「オレの住まい」をつくったと。それが飛鳥浄御原宮だと。

で、

この飛鳥浄御原宮、
持統天皇が藤原宮に遷都する694年まで、約20年ほど日本の中心でありました。

必読→ 藤原宮跡|藤原京の中心施設「藤原宮」の跡地!周辺施設や跡地も含めて藤原宮跡の全貌まとめ!

とにもかくにも、

  • 壬申の乱(672年)で勝利した大海人皇子、改め「天武天皇」が
  • オレ様中心の、いや、天皇中心の国家体制づくりを開始させた場所、それが飛鳥浄御原宮で、
  • 場所は、オヤジが政治を行っていた宮都のすぐそば

ということでまずはチェック。

 

飛鳥浄御原宮で行われたこと

天皇中心の中央集権国家づくり。

メインプレイヤーは、天武天皇(673- 686)と持統天皇(690 – 697)。

「壬申の乱」の後、飛鳥浄御原宮に宮都を設定したのが672年冬で、
翌年673年に、大海人皇子は「武天皇」として即位。第四十代。このとき、はじめて「皇」という称号を使用。

オレ様にも「天」、称号にも「天」。どんだけスゴいんだよ、、、っていうくらい、壬申の乱のビフォーアフターはスゴかったってことです。

また、同じ時に、後の持統天皇となる鸕野讃良うののさらら皇女を皇后に立てとります。奥さんね。

で、

飛鳥浄御原宮で行われたことはと言えば、、、

超トップダウン型の皇親政治。

天武天皇、一人の大臣も置かず、直接政治を行うの巻。

皇后が助言、皇族の諸王が要職を独占、これを皇親政治といいます。

トップダウン&身内でガッチリ政治

進めた内容は、

天皇中心の中央集権国家づくり。

それには3つの大きな柱があって、

それが

  1. 天皇の即位儀礼づくり
  2. 律令の整備
  3. 歴史書の編纂

どちからというと、

天皇統治の正統性を示す一大イベントである即位儀礼をメインとし、

車の両輪としての律令整備&歴史書編纂。

まず、

即位儀礼(践祚&大嘗)については、コチラで詳しく。

必読:御代替りとは?日本神話に根ざす御代替り(皇位継承)の全貌を徹底解説!

次に、

律令整備について。

律令りつりょうというのは、
古代国家の基本法である「律」と「令」のこと。

  • 律は刑罰についての規定
  • 令は政治・経済など一般行政に関する規定

7世紀前後から、中国の隋や唐にならって編纂が進められていた国家事業であります。

大事だよ、やっぱ。
法律がないと国家なんて運営できないしね。

で、

ここ、飛鳥浄御原宮では、
律令のうち「令」だけ先行して編纂・施行。これが「飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう」。
「律」は「大宝律令たいほうりつりょう」施行(701年)までは、唐の国の律、「唐律とうりつ」を借用してた模様。

律令の整備、
これはコレで、続く藤原京、平城京において、それぞれ大宝律令、養老律令へと発展していくわけで。ずーっと続けられてたってことね。

そしてそして、

3つめの柱が、

当サイト一番推しの

歴史書編纂へんさん事業

要は、

日本書紀』『古事記』編纂であり、日本神話編纂へんさんです。

その

編纂指令がココ飛鳥浄御原宮で発せられたってことで、

これはつまり、

飛鳥浄御原宮は、日本神話編纂のふるさと」と言っちゃってもいいんじゃないか!

●必読:『日本書紀』とは?編纂1300年の今だから知りたい『日本書紀』を分かりやすく解説!

編纂指令は、天武天皇即位後10年のこと。

丙戌(17日)に、天皇、大極殿におわしまして、川嶋かわしま皇子・忍壁おさかべ皇子・広瀬ひろせ王・竹田王・桑田王・三野みの王・大錦下上毛野君だいきんげかみつけのきみ 三千みちぢ・小錦中忌部連いんべのむらじ 子首おびと・小錦下阿曇連あづみのむらじ 稻敷いなしき難波連なにわのむらじ 大形おおかた・大山上中臣連なかとみのむらじ 大嶋・大山下平群臣へぐりのおみ 子首おびとちょくして、帝紀及び上古の諸事もろもろのことを記し定めたまう。

丙戌、天皇御于大極殿以詔、川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連子首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記、定帝紀、及上古諸事。 (『日本書紀』天武10年3月条より)

とあり、

天皇が大極殿で編纂指令。川嶋皇子はじめ12名のメンバーにちょく(絶対命令)。

「帝紀及び上古の諸事を記し定め」よと。勅キタ━(゚∀゚)━!

帝紀(ていき)とは、歴代の天皇あるいは皇室の系譜類をまとめたものとされます。
歴史書の一つとして位置づけられてますが、古くに散逸して現在には伝わってません。

よー分からんのです。

「上古の諸々の事」も同様で、それまで伝えられていたと思われる伝承記録。

少し脱線しますが、背景を少し。大事なので。

古く、歴史書の伝統は、
新しい王朝が、前の王朝のことを総括するかたちで編纂するというもの。

中国には「革命」の概念があり、王朝交代が前提で発展した伝統です。

新王朝が自らの正当性を示すため、前王朝がやってたことを総括し歴史書として記す。なんなら「アイツら、こんなに悪い政治しててんで。だから、自分らが正しい政治を行うために王朝を立てたんやで」って。

これは天命によるものだと。

そんな動機や契機から編纂されるのが歴史書だったわけです。

ところが、、、

日本では革命に匹敵するような王朝交代が起こらなかった。

だから、誰も歴史書を編纂してこなったわけです。

これではいかんと、少なくとも、記録を残していかないと忘れちゃうよと、もっというと、いい加減な伝承がたくさんつくられちゃうよと、

この辺りの事情については『古事記』が伝えてます。

同様に、天武天皇による『古事記』編纂指令の部分を抜粋。

「ここに(天武)天皇りたまひしく、『朕聞きたまへらく、諸家のもたる帝紀及び本辞、既に正実にたがい、多く虚僞を加ふ、といへり。今の時に当たりて、そのあやまりを改めずは、未だ幾年をも経ずして、そのむね滅びなむとす。これすなわち、邦家の経緯(国家組織の原理)、王化の鴻基こうき(王制政治の根本)なり。かれこれ、帝紀を撰録せんろくし、旧辞を討覈とうかく(訪ね調べ)して、いつわりを削り実を定めて、後葉のちのよつたへむとおもふ』とのたまひき。」

於是天皇詔之、朕聞、諸家之所賷、帝紀及本辭、既違正實、多加虚僞。當今之時、不改其失、未經幾年、其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰録帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。 (『古事記』序文より)

と。

「諸家のもたる帝紀及び本辞、既に正実にたがい、多く虚僞を加ふ」ということで、

天皇家以外にも諸家、つまり各豪族に伝わる帝記や本辞といった伝承記録は、
天武天皇の時代には、「既に正実にたがい、多く虚僞を加ふ」状態だったわけです。

帝紀は、天皇の歴代の記録なんですが、
豪族の皆さんとしては、天皇家との関わりを記すだけで自分の家が権威付けされるわけで、

正当性、権威付けのために、あること無いことでっちあげるんすよね。

天皇中心の中央集権国家づくりにあたって、
虚偽の多い伝承、勝手に天皇家との関わりを記す伝承はやはり「駆逐対象くちくたいしょう」であって、

そんな背景から、
かなりの危機感をもって編纂指令が出されたんではないかと思います。

「邦家の経緯、王化の鴻基こうきなり」=国家組織の原理、王制政治の根本である

と、非常に強い言葉で語っていますよね。え?むしろ怒ってる???

で、

日本書紀』は、当時のスーパーエリートの皆さんが招集され、12人のチーム制で編纂作業が進められたわけです。

目的は誤りを正すこと、のみならず、対外的に主張できる日本という国の正当性、スゴさを示すこと。このために、当時の最先端宇宙理論や知識体系をフル活用して編纂されます。

このあたりは、コチラでシリーズ化して詳しくまとめてますので、是非チェック。絶対です。

『日本書紀』第一段

一方の『古事記』は、

位置づけ的には、天皇家の私的歴史書なので、天皇家の中で進められた?って、このあたりはよく分かりません。『古事記』編纂の記録が登場するのは、天武天皇の編纂指令から約40年後の711年。元明天皇の時です。

元明天皇、和銅4年(711)9月に再度『古事記』の編纂指令。再度です。で、その4ヶ月後の和銅5年(712)正月に献上されてます。

つまり、国家プロジェクトとしての『日本書紀』編纂作業が進んでいたなかで、『古事記』編纂作業はあまり進んでいなかった。それで元明天皇が改めて指令を下し、4ヶ月という超短期間で完成されたわけですね。コレには天皇の皇位継承が絡んでいるので詳細は別エントリで詳しくお伝えします。

いずれにしても、

この地、飛鳥浄御原宮で開始された国家プロジェクトとしての歴史書編纂事業。

飛鳥浄御原宮に続く、藤原京、平城京でも事業として引き継がれ、
最終的に『日本書紀』は720年、『古事記』は712年に完成するんすね。

この辺りの歴史ロマンもあわせて飛鳥浄御原宮へレッツゴーです。

 

飛鳥浄御原宮跡の様子

現在、奈良県明日香村に史跡があり、「飛鳥宮跡あすかのみやあと」として残されております。

舒明じょめい天皇の「飛鳥岡本宮おかもとのみや」、皇極こうぎょく天皇の「飛鳥板蓋宮いたぶきのみや」、斉明~天智天皇の「のちの飛鳥岡本宮」、天武~持統天皇の「飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや」の、6代に渡る宮殿跡が見つかっていて、

これらの宮殿跡は、天皇の住まいの場であり、天皇や官僚が政治や儀式を行う場でもあった模様。

飛鳥宮跡は各宮殿が造営されていた時期ごとに、下層から順番にⅠ~Ⅲ期に分かれてます。

  • Ⅰ期(下層)・・・舒明天皇の飛鳥岡本宮
  • Ⅱ期(中層)・・・皇極天皇の飛鳥板蓋宮
  • Ⅲ期(上層)・・・斉明・天智・天武・持統天皇が使用した後飛鳥岡本宮及び、飛鳥浄御原宮

ということで、

現在見れる遺跡は、飛鳥浄御原宮として認識しちゃってOK!ということ。

壮大な神話編纂ロマンをビシビシ感じに行きましょう!

場所は、奈良県高市郡明日香村岡。

▲奈良県立万葉文化会館から5分ほどのところ。お車の場合は、まずは文化会館をめざしましょう。飛鳥はレンタサイクルで巡るのが○。春から初夏にかけてはめっちゃ気持ちいいぞー!

 

▲奈良県立万葉文化会館沿いの道から入っていく小道があります。車は通行不可。徒歩かチャリンコで。

 

▲初夏。修学旅行生たちがレンタサイクルで移動してました。楽しそうだ-!

 

▲おー!見えてきたぞ!あそこが飛鳥浄御原宮のあった場所!!!!!コレはアガルぅ!

 

キタ━━━━ヽ(゚∀゚ )ノ━━━━!!!!日本神話編纂プロジェクト始動の地!!!

 

▲おおおおおおおおおおおおおお!インスタでちょっと加工ですか?!コチラ、復元された大井戸跡!!!スゲー!

 

▲おおおおおおおおおおおおおおお!コチラ、復元された石敷広場!ココを天皇やら官僚やら『日本書紀』編纂メンバーやらが歩いておったのか!そうかそうか!!!

 

ここで日本神話の編纂がスタート!チームメンバーが集まってアツイ議論を繰り広げてた!!

なんて神話ロマン!サイコーですやん!!!

 

てか、、、

にしても、、、田舎すぎて、、、

ホント何にもねーな。。。汗

この地から日本の国家づくりを企てたわけやんね。天皇中心の中央集権国家をつくろうとしたんよね。。。

 

途方もない、、、

その、「やろう!」と思えた発想がスゴすぎる。「できる!」と思えた感覚がぶっ飛び過ぎ。

この地から、日本全国(西日本中心ですが)を、お隣の中国を、世界を見据えていたことにビックリ(゜Д゜)タラリ。。。

スゴイよ天武天皇。流石です。そら、自分に「天」っていう字をつけちゃうよ。分かるよ分かる。。。。

って感じで、ロマンはいつまでも果てないのでした。。。

と、いうことで、皆様、是非、ココへ来てみてください。日本神話が好きな方は鉄板のビジットスポットであります。

 

まとめ

飛鳥浄御原宮(現:飛鳥宮跡)

飛鳥浄御原宮あすかきよみはらは、7世紀後半に造営された宮都。

672年、壬申の乱に勝利した大海人皇子おおあまのみこが、
近江(大津宮)から飛鳥に移したときの宮都が「飛鳥浄御原宮」。

乱の勝利により強大な権力を握った大海人皇子、改め「天武天皇」が
天皇中心の国家体制づくりを強力に推し進めた激しく重要なスポット。

国家体制づくり、ビッグプロジェクト始動。

その3大柱が
即位儀礼づくり、律令整備、歴史書編纂

であります。

3つの事業をリンクさせながら、ムキムキの中央集権国家づくりが進められたわけです。

そんな中で当サイトとしてイチオシは、何と言っても

歴史書編纂プロジェクト!

そう、ココ、飛鳥浄御原宮で、
あの天武天皇が『日本書紀』や『古事記』の編纂指令を出したわけです。

日本神話の編纂が開始された場所であり、
言い方変えると、飛鳥浄御原宮は「日本神話編纂のふるさと」なんじゃないかと。

コレはこれで、スゴイ神話ロマン発生地帯。

是非チェックされてください。超オススメです。

 

飛鳥浄御原宮(現:飛鳥宮跡)

住所 〒634-0111 高市郡明日香村岡

[map lat=”34.4732325″ lng=”135.8189884″ zoom=”15″]神話ロマン発生スポット![/map]
営業時間 無し
駐車場 無し
トイレ 無し

 

飛鳥浄御原宮跡地の次はココ!

藤原宮跡

藤原宮跡|藤原京の中心施設「藤原宮」の跡地!周辺施設や跡地も含めて藤原宮跡の全貌まとめ!

 

この記事を読まれたアナタ!絶対コレを読んでお帰りください!必読です!

『日本書紀』第一段

そして、当然、コチラに行かれてください!

さらに!



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参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)他
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