大己貴神(大国主神)とは?国造りからの国譲りして幽界に退いた神。日本神話をもとに大己貴神を分かりやすく解説します。
『日本書紀』第八段 現代語訳
〔本伝〕
その後、素戔嗚尊は奇稲田姫と結婚するのに最適な場所を求めて探し訪ね、その果てに遂に出雲の清地に到った。「清地」は、ここでは「素鵝」と云う。そこで「私の心は清清しい」と言い、この次第で、今この地を「清」と言う。その場所に宮を建てた。ある説には、時に武素戔嗚尊が「八雲たつ出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣ゑ」と歌ったと伝えている。そこで結婚して児の大己貴神を生んだ。これにより、勅して「私の児の宮を管理する首(司長)は、脚摩乳と手摩乳である。」と言い、それで、この二神に名号を賜り、稲田宮主神と言うのである。そうしたあと、素戔嗚尊は根国に行った。
〔一書1〕
ある書はこうつたえている。素戔嗚尊は天から降り、出雲の簸の川の上に到った。そうして稲田宮主簀狹之八箇耳の子女、稲田媛に会い、そこで奇御戸(隠処、寝所)に睦事を始めて児を生み、清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠と名付けた。一説に清之繫名坂軽彦八嶋手命と云う。また一説に、清湯山主三名狹漏彦八嶋野と云う。この神の五世の孫が大国主神である。「篠」は「小竹」である。ここでは「斯奴」と云う。
〔一書2〕
この後、稲田宮主簀狹之八箇耳の生んだ児、真髪触奇稲田媛を出雲の簸の川の上に遷し置き、養育して、成長させた。そうした後に素戔嗚尊が妃となして生んだ児の六世の孫が、名を大己貴命と言うのである。「大己貴」は、ここでは「於褒婀名娜武智」と云う。
〔一書6〕
ある書はこうつたえている。大国主神は、また大物主神と名付け、また国作大己貴命と号し、また葦原醜男と言い、また八千戈神と言い、また大国玉神と言い、また顕国玉神と言う。その子は、全部で百八十神いる。
そもそも大己貴命は、少彦名命と力を合わせ心を一つにして天下を経営した。また顕見蒼生および家畜のためには、その病を治療する方法を定め、また鳥獣や昆虫の災害(わざわい、害悪、変異現象)を払い除くためには、その災難やたぶらかしを押さえとどめる(呪禁)方法を定めた。これにより、人民は今に至るまでみなこの恩恵を蒙っている。
かつて大己貴命が少彦名命に向かって「われらの造った国は、どうして善くできたといえるだろうか。」と言った。少彦名命はこれに対して「あるいはできたところがある。またあるいはできていないところもある」と答えた。この両者の談は、思うに深遠な趣がある。その後、少彦名命は熊野の岬まで行き至ったところで、遂に常世郷に適ってしまった。またこれとは別に、淡嶋に至って、粟の茎をよじ登れば、弾かれて常世郷に渡り至ったという。
これより後に、国内のまだ造り終えていない所は、大己貴神が一人で巡り造りあげて、遂に出雲国に到った。そこで声高に言葉を発して「そもそも葦原中国は、もとは荒れて広々とした状態であり、岩石や草木に至るまでみな強暴であった。しかし私がすでにそれらを摧き伏せてしまい、すっかりおとなしく従順になっている。」と言い、遂には、それで「今この国を治めるのは、ただ私一人だけである。さて私と共に天下を治めることのできる者が、はたしているだろうか」と言った。
その時、神神しい光が海を照らし、忽然として浮かんで寄り来る者がいて、「もし私がいなかったらならば、汝はどうしてこの国を平定することができただろうか。私がいたことによって、それで汝はその国を平定するという大きな功績をうちたてることができたのだ。」と言った。この時に、大己貴神は「そうだとすれば、汝は誰なのか。」と問い、これに対して「私は、汝の幸魂(幸をもたらす魂)・奇魂(霊妙なはたらきの魂)である。」と答えた。大己貴神が「まさしくそうだ。なるほど汝は私の幸魂・奇魂であることが分かる。今どこに住みたいのか。」と言うと、これに応じ、「私は日本国の三諸山(奈良県桜井市の三輪山)に住みたいと思う。」と言った。それゆえ、さっそく宮殿をその地に造営し、そこに行き住まわせた。これが大三輪の神である。この神の子が、甘茂君等・大三輪君等であり、また姫蹈鞴五十鈴姫命である。
また次のように伝えている。事代主神が八尋熊鰐(「尋」は広げた両手の幅。巨大なさめ)に化(変身)し、三嶋溝樴姫に通じて、あるいは玉櫛姫と云う。児の姫蹈鞴五十鈴姫命を生んだ。これが神日本磐余彦火火出見天皇(神武天皇)の后である。
はじめ大己貴神が国を平定するに際して、行き巡り出雲国五十狹狹の小汀に到って飲食しようとした。この時、海上に忽然と人の声がした。そこで驚いて探し求めたけれども、全くなにも見当たらない。しばらくすると、一人の小男が白薟(カガイモまたヤブカラシ)の皮を舟として、鷦鷯(ミソサザイ)の羽を着衣とし、潮流に乗って浮かび到った。大己貴神はさっそく取り上げ掌中に置いてもてあそんでいると、飛び上がって頬を噛んだ。そこでその小男の形状を怪しんで、使いを遣わして天神に申しあげた。その時、高皇産霊尊はその報告を聞き、それで「私の産んだ児は全部で千五百座いる。その中の一児は最悪で、教え育てようにも従わない。私の指の間から漏れ墜ちたのが、きっとそのものだ。可愛がって養育すれば良い。」と云った。少彦名命がこれである。「顕」は、ここでは「于都斯」と云う。「蹈鞴」は、ここでは「多多羅」と云う。「幸魂」は、ここでは「佐枳弥多摩」と云う。「奇魂」は、ここでは「俱斯美侘磨」と云う。「鷦鷯」は、ここでは「裟裟岐」と云う。
『日本書紀』第九段 現代語訳
〔本伝〕
しかし、その国には蛍火のように妖しく光る神や、五月ごろの蝿のようにうるさく騒ぐ邪神がいた。また、草や木さえもが精霊を持ち、物を言って不気味な様子であった。そこで、高皇産霊尊は多くの神々を召し集めて、問われるには「私は葦原中國の邪神どもを除き平定させようと思う。誰を遣わしたらよかろう。汝ら諸神よ、知っていることを隠さずに申せ。」と言った。皆は、「天穂日尊は傑出した神です。この神を使わしてみてはいかがでしょうか。」と言った。そこで、高皇産霊尊はこれら諸神の意見に従って天穂日尊を葦原中国の平定のために遣わせることにした。ところが、この神は大己貴神におもねり媚びて、三年たってもいっこうに報告しなかった。
經津主神と武甕槌神の二神は、出雲國の五十田狭之小汀に降って来て、十握劒を抜いて逆さに大地に突き立てると、その剣の切っ先にあぐらをかいて座り、大己貴神に問うて「高皇産霊尊が皇孫を降らせ、この国に君臨させようと思っている。そこで、まず我ら二神を遣わし、邪神を駆除い平定させることとなった。あなたの考えはどうだ、国を譲るか否か。」と言った。すると大己貴神は「我が子に尋ね、その後で返事をしましょう。」と答えた。この時、その子の事代主神は、出雲國の三穂之碕にいて魚釣りを楽しんでいた。――あるいは、鳥の狩りをしていたとも言う。
そこで、熊野諸手船<またの名は天鴿船>に、使者の稲背脛を乗せて遣わした。そうして高皇産霊尊の勅を事代主神に伝え、その返事を尋ねた。そのとき、事代主神は使者に、「今、天神の御下問の勅がありました。我が父はお譲りするでしょう。私もまたそれと異なることはありません。」と言った。そこで、海中に幾重もの蒼柴籬を造り、船の舳先を踏み傾けて退去した。使者はそういう次第で、戻ってこのことを報告すると、大己貴神は我が子の言葉をもって二柱の神に、「私が頼りにしていた子もすでに国を譲りました。そこで、私もまたお譲りしましょう。もし私が抵抗すれば、国内の諸神もきっと同じように抵抗するでしょう。今私がお譲りすれば、誰ひとりとして従わない者はいないでしょう。」と申し上げた。そして大己貴神は、かつてこの国を平定した時に用いた広矛を二神に授け、「私はこの矛で、国の平定という功を成し遂げました。天孫がもしこの矛を用いて国を治めたならば、きっと天下は平安になるでしょう。今から私は、百足らず八十隈に隠れましょう。」と言って、言い終わるやとうとう隠れてしまった。
〔一書1〕
そこで天照大神はまた武甕槌神と經津主神とを遣わして、まずそこへ行き悪神どもを駆除させた。そのとき、二柱の神は出雲に降り着き、さっそく大己貴神に「汝はこの国を天神に献上するかどうか。」と尋ねた。すると、「我が子の事代主が鳥猟に行って、三津之碕にいます。今、それに尋ねて返事をしましょう。」と答えた。そこで使者を遣わして訪問させた。すると、「天神の望まれるところであれば、どうして奉らないことがありましょう。」と答えた。そこで大己貴神はその子の言葉どおりに二柱の神に報告した。二神は天に昇って復命をして、「葦原中國はみなすっかり平定しました。」と報告した。そこで、天照大神は勅を下して「もしそうであれば、今まさに我が子を降臨させよう。」と言った。
〔一書2〕
そうして二柱の神は出雲の五十田狭之小汀に天降ってきて、大己貴神に「おまえはこの国を天神に献上するかどうか。」と尋ねた。すると、「あなた方、二柱の神は、本当に私のもとに来られたのではないように思われる。だから、申し出を許すことはできない。」と答えた。そこで經津主神は天に還り昇って報告した。
その時、高皇産霊尊は二神を出雲に戻し遣わして、大己貴神に勅して、「今お前が言うことを聞くと、深く通にかなっている。そこで、さらに条件を提示しよう。あなたが治めている現世の仕事は、我らの子孫が治めよう。あなた改めて一つ一つについて勅をしよう。そもそも、お前が治めている現世の政事は、我が皇孫が治めるのだ。お前は、幽界の神事をつかさどれ。また、おまえが住む天日隅宮は、今、造営してやろう。千尋もある長い𣑥縄で、しっかり結んで百八十結びに造り、その宮を建てるのに、柱は高く太く、板は広く厚くしよう。また、御料田を提供しよう。また、おまえが往来して海で遊ぶ備えのために、高い橋や浮橋、天鳥船も造ろう。また、天安河にも打橋を造ろう。また、繰り返し縫い合わせたじょうぶな白楯を造ろう。まら、お前の祭祀をつかさどる者は、天穂日命である。」と伝えた。そこで大己貴神は、「天神の申し出は、かくも懇切である。どうして勅命に従わないことがありましょうか。私が治めている現世の政事のことは、今後は皇孫が治めさてください。私は退いて神事を司りましょう。」と答えた。そうして岐神を二柱の神に推薦して、「この神が、私に代わって皇孫にお仕えするでしょう。私はここで退きましょう」と言って、瑞之八坂瓊を身につけて永久に隠れた。
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