「黄泉の国/黄泉」とは、日本神話で伝える「死者の世界」、いわゆる「あの世」の事。
火神に焼かれた伊奘冉尊が、神去ってから(死んでから)行った所(世界)。神話世界で設定されてる「異界」の一つ。
「よみがえり」って言葉、聞いたことありますよね。
コレ、実は「黄泉還り」から来てる言葉。
つまり「黄泉から還ってくる」という意味。その元ネタは日本神話なんです。結構身近。
今回は、そんな「黄泉の国/黄泉」世界を、『日本書紀』『古事記』の二つの違いに注目しながら分かりやすくご紹介します。
- 日本神話研究の第一人者である榎本先生監修。確かな学術成果に基づく記事です
- 日本神話全体の流れや構造を解き明かしながら解説。他には無い分かりやすい記事です
- 現代語訳のほか原文も掲載。日本神話編纂当時の雰囲気を感じてもらえます
- 登場する神様や重要ワードへのリンク付き。より深く知りたい方にもオススメです
黄泉の国ってどんなとこ?死んだら向かうあの世の世界。日本神話的黄泉の国を分かりやすくまとめ!
目次
「黄泉の国」と「黄泉」。日本書紀と古事記に伝える「あの世」
黄泉の国ってどんなとこ?
ということで、これから現場へお連れいたします。
と、その前に少しガイダンス。
これから行く現場「黄泉の国・黄泉」、その伝承には2つあるってこと、まずチェック。
- 『古事記』では「黄泉の国」
- 『日本書紀』では「黄泉」
『古事記』『日本書紀』という書物。コチラ、8世紀初頭に編纂された歴史書の皆さん。
この中で、
いわゆる「日本神話」と呼ばれる内容、記述箇所に「黄泉の国/黄泉」という言葉が登場。もちろん、死者の世界、あの世として。神話世界で設定されてる「異界」の一つ。
で、
ココが面白いところなのですが、2つの書物、実は、
同じ「黄泉(=あの世)」という言葉を使いながら、ビミョーに違う世界観になってる。
なので、黄泉の世界観を理解しながら、その「違い」も追いかけていくと、深みが出てきてオモロー!です。
ココ、しっかり押さえたうえで現場へゴー!
まずは、
日本の正史『日本書紀』版「黄泉」をお届けです。
『日本書紀』版「黄泉」
まず最初に、基本となる『日本書紀』版の「黄泉」をご紹介。
登場するのは、『日本書紀』巻一の第五段〔一書6〕。
『日本書紀』版「黄泉」の特徴は、
- 死んだら行く
- 死者が、さながら現世と同じように活動してる
- 汚くて穢れてる
- タブー・掟がある
- 泉津平坂でこの世界とつながってる
以上、5つ。
てことで、実際に見てみましょう。重要テーマが存在する部分を太字にしてみます。
こうした後に、伊奘諾尊は伊奘冉尊を追って黄泉に入り、伊奘冉尊のもとに及びいたって共に語った。その時、伊奘冉尊は「私の愛しい夫よ、どうしてこんなに遅くなって来たのですか。私は黄泉で煮炊きした物をすでに食べてしまったのです。でも、私はこれから寝ようと思います。お願いですから、けっして私を見てはなりません。」と言った。伊奘諾尊はそれを聴き入れず、こっそり湯津爪櫛を取り、櫛の端の雄柱を引き折り松明のように火を灯して見ると、膿がわき、蛆虫が流れていた。今、世の人が夜に一つ火を灯すことを忌み、また夜に投げ櫛をすることを忌むのは、これが由縁である。
その時、伊奘諾尊はおおいに驚き、「私は、思いもよらず何と嫌な汚穢い国に来てしまったことだ。」と言い、すぐに急いで走り帰った。その時、伊奘冉尊は恨んで「どうして約束を守らず私を恥辱しめたのか。」と言い、泉津醜女(一説では泉津日狭女と言う)八人を遣わし、追い留めようとした。それで、伊奘諾尊は剣を抜き、後ろ手に振りながら逃げた。そうして、黒い蔓草の頭飾りを投げた。これがたちまち葡萄と成った。醜女はこれを見て採って食べた。食べ終えると、更に追った。伊奘諾尊はまた湯津爪櫛を投げた。たちまち竹の子に成った。醜女はまたも、これを抜いて食べた。食べ終えるやまた追ってきた。最後には、伊奘冉尊もまた自ら来て追ってきた。この時には、伊奘諾尊はすでに泉津平坂に至っていた。(一説では、伊奘諾尊が大樹に向かって小便をした。するとこれがすぐに大河と成った。泉津日狭女がその川を渡ろうとしている間に、伊奘諾尊はすでに泉津平坂に至った、という。)そこで、伊奘諾尊は千人力でやっと引けるくらいの大きな磐でその坂路を塞ぎ、伊奘冉尊と向き合って立ち、遂に離縁を誓う言葉を言い渡した。(『日本書紀』巻第一(神代上)第五段 一書第6より)
ということで、
上記、太字にした部分は、黄泉の世界観や位置づけが伺えるポイントなので、以下、少し解説します。
- 追って黄泉に入り及びいたって
→伊奘冉尊焼死時は、この世界とあの世はつながってた、って事。なので、死者を追いかけていくと黄泉に行くことができる。
次!
- 共に語った。
→「共に語る」。ちなみに、ここで発生する重要テーマが「黄泉は真っ暗なのかどうか?」。実はコレ、冗談でもなんでもなくて、学術的にも議論されてるテーマだったりするんです。
ココで、ちょっと飛びますが、比較的分かりやすい『古事記』をチェック。
従来の見解は以下2つ。
- 黄泉だけに、真っ暗。二神は真っ暗な中で語り合った。(本居宣長『古事記伝』。現在の通説)
- 俗世と変わらない明るさの世界。お互いに姿を確認しながら語り合った。真っ暗なのは伊奘冉が寝る宮殿の内だけ。(佐藤正英『黄泉国の在りか『古事記』の神話をめぐって」。少数意見)
といった感じ。
これ、マジで学術的議論があるテーマなんす。で、本エントリで採用するのは②の説。
理由は、
・黄泉入りした伊奘諾尊が、戸惑ってる様子がないから。異界である黄泉に来たのに、フツーに会話し始めてる。コレは、そんな大きな環境変化はなかった、つまり、この世と同様の「物を見分けることができる明るさがあった」と推測されるから。
・物語的に、「見るなの禁破り」で正体露見のコントラストが設定されてるから。「共語る」時点では、ある意味、伊奘冉は化けていて生前と同じ姿で語り合った。(そのほうが、あとで正体露見したときのコントラストがデカくなって劇的度がアップする)
・伊奘諾尊は、この後「泉津平坂」を明確に目指して逃走。途中の逃走劇は暗黒世界では無理な展開だから。
ということで、
黄泉世界は真っ暗ではなく、お互いの容姿が確認できるくらいの明るさはあった、という結論。
『日本書紀』版の黄泉でも同様の世界観で描かれていると思われます。そのなかで、二神は共に語った。
次!
- 「どうして来るのがこんなに遅かったのですか。」
→この世とあの世(黄泉)の非対称性、その違いがポイント。
実は、伊奘諾は伊奘冉焼死後、腹ばいして哭きわめき、母親殺しの火神「軻遇突智」を斬断後、直ぐに黄泉入りしました。ところが、愛する妻は「遅い」と言う。
コレってつまり、この世とあの世では時間の流れ方が違う、ってこと。もっと言うと、黄泉の時間の流れ方が早い。。。そこに、伊奘冉尊の「待ち望む気持ち」が入っているので余計に遅く感じられた、、、ということでチェック。
次!
- 「黄泉で煮炊きした物をすでに食べてしまった」
→原文「已湌泉之竈」。「湌」は底本「飡」。「飡」は「飧」の俗字。「食」と「夕」との会意字で、夕方の食事の意味。動詞として、夕方の食事を摂ることを言います。で、「泉之竈=黄泉のかまど」。なので、「已湌泉之竈」は「黄泉のかまどでつくった夕食をもう食べちゃったぜ」という意味。
ポイント2つ。
①私は黄泉の世界の一員になった = 元には戻れない、、、
「同じ釜の飯を食う」という言葉があるように、ある共同体への帰属、一員になるかどうかは、その共同体で食されてる物を食べるかどうかだったりします。その意味で、伊奘冉尊が「もう食べちゃったよ」と言ってるってことは、つまり、私は黄泉の世界の住人になってしまった、だから元の世界には戻れない、、、ということになります。
②「かまど(竈)」があるって事は、生活があるってこと。つまり「死者の、死者としての生活がある」ってこと。
コレ、結構重要で。死んだら終わりではなく、死んでも死者としての生活が続いていくという考え方。これは、古代の死生観、世界観として理解。『古事記』では、この「死後の生活感」がさらに拡大し、国レベルの広がりを見せるようになります。
次!
- 「私はこれから寝ようと思います。」
→突然の「私寝るわ宣言」。前述のとおり、すでに夕食を食べ終わってる。あとは寝るだけなので、突飛でもなんでもなく、自然な展開として。
で、問題なのは、死者が寝るって、、、どこで? っていう件。
それは、、、
そう、棺桶。。つまり、伊奘冉尊は棺桶に戻ろうとしたって事に。。。ちなみに、古代、死者は棺桶に入れて、専用の建物で一定期間安置するという習慣がありました。これを「殯」と言います。伊奘冉尊の寝る宣言はこのような習俗的背景が踏まえられてます。コレ、第五段〔一書9〕でも登場。
そして、なんで寝るのか?についても。
それは、志怪小説のコチラがベース。拠り所。
要は、情を交わしている間、体が蘇生・復活するのを待っていたという訳です((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
次!
- けっして私を見てはなりません。
→「見るなの禁」と呼ばれる禁忌、タブーのこと。
この世界の男性が、異界の女性と出会い、情を交わした後に、女が課す「見るなの禁」。それを男が破り、女の正体を見たことにより破局を迎える、、というのがパターン。
コレ、古今東西の物語や伝承に共通した「型(話型)」であります。「鶴の恩返し」「浦島太郎」「見るなの座敷」、能の「黒塚」とかも同じやつ。
異界の女が課すのは、女にとって見られたくないもの。それは通常、異類の本質とか本性。一方の、男(人間)には感情があり、見るなと言われれば余計に見たくなる、、という人間の心理が働きます。
こうした構造をもとに、
異類とは別れるほかないという「別れの必然」が物語に織り込まれているんですね。深い、、、深すぎるぞ日本神話、。
次!
- 松明とし、火を灯して見ると、膿がわき、蛆虫が流れていた。
→黄泉世界には、この現世と変わりない明かりがあった事は先ほど触れました。一方で、伊奘冉尊が寝る場所は暗闇に閉ざされています。死体安置所は暗いんすよ。だから松明を付けた。安置所なんで、当然、死体自体は腐乱してる。。。そんなイメージで整理。
次!
- 「何と嫌な汚穢い国に来てしまったことだ。」
→黄泉が「国」として認識されてます。
それまでは「黄泉」という、ふわっとした表現だったのが、ココで初めて「国」レベルの世界だったってことが判明。
しかも、黄泉国は、嫌で汚れて穢れてることも判明。自分も汚れて穢れちゃった。。。だから清めないと! ということで、筑紫国での禊祓につながっていきます。
次!
- 泉津醜女(一説では泉津日狭女と言う)八人を遣わし、追い留めようとした。
→スゴイ漢字です。「醜女」て、、、醜い女、、?
コレ、字面だけで判断してはダメ。「醜」という文字は、古代においてはスゲー強いといった意味で使われてたんす。
例えば、防人のうたう「醜の御楯」という歌。
「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ我は」(万葉集 4373番)
→ 今日からは、後ろを振り返ることなく、(微力ながら)大君の楯となって出で立つ 私は。
「醜の御楯」のように、「醜」は「相手にとっては強力無比の猛威となる」という意味として使われてる。「醜さ」というより、強いとか猛々しいとか、そういう方が強いんですね。
「醜い女」改め、「すげー強い女」。チェックです。いずれにしても怖いことには変わりないか、、
あと、「八」は多いという意味としてチェック。
八人を遣わした、、ということではなく、たくさんの猛女、といったイメージで理解。伊奘冉尊、そうは言っても「神世七代」ジェネレーションですから。尊い神なんす。猛女をどんだけ多く従えててもなんら不思議ではございません。
次!
- 伊奘諾尊はすでに泉津平坂に至っていた。
→この世とあの世(黄泉)との境界が「泉津平坂」。
要は、
坂であり、境なんす。
この坂(境)を隔てて、向こうがあの世(黄泉)、こちらがこの世。本件、後ほど再度深掘りします。
ということで、
『日本書紀』版の黄泉世界、いかがでしたでしょうか?
特徴的なところをまとめます。
- この世界とあの世(黄泉)はつながっていた。境界は泉津平坂。
- 黄泉世界は、お互いの姿を確認できる「この世界と変わりない明るさ」があった。
- 黄泉世界は、この世界とは非対称。時間の流れ方が違う。きっと黄泉の方が早い。
- 黄泉では、煮炊きした物を食べる。食べた者は「黄泉の神」となって元の世界には戻れない。
- 女(異類)の課した「見るなの禁」を破り、その本質・本性を見てしまう。これはこれで、必然的な別れが設定されている。
- 黄泉は、死神とその腐乱した屍体によって汚れて穢れた国である。
- 尊貴な存在にはお付きの者が付く。ただし見た目はとても醜い。いや、猛烈でスゲー強い。。。
といった感じ。『日本書紀』版の黄泉世界ということで、まずチェック。
『古事記』版「黄泉国」
続いて『古事記』版の「黄泉」。大筋は同じなのですが、ところどころ違いがあります。
最大の違いは
「国」として明確に位置づけられてる事。「黄泉の国」。
もう、国なわけで。当然、というか、前提的に、
- 統治者がいて
- 国民としての生活がある
- 軍隊もある
といった設定になっていきます。言葉一つなんですが大きな違い。早速現場をどうぞ。
是に、(伊耶那岐命は)其の妹伊耶那美命をその目で見ようと欲って、黄泉国に追っていった。
そうして、(伊耶那美命が)御殿の戸口から出て迎えた時、伊耶那岐命は語らひ「愛しき我が妹の命、吾と汝と作った国は、未だ作り竟えていない。だから還ろう。」と仰せになった。
ここに伊耶那美命は答えて「残念なことです。早くいらっしゃらなくて。吾は黄泉戸喫をしてしまいました。けれども、愛しき我が夫様よ、この国に入り来られた事は恐れ多いことです。なので、還ろうと欲いますが、且く黄泉神と相談します。我を絶対に見ないでください。」と申し上げた。
このように白して其の殿の内に還り入った間、とても長くて待ち切れなくなった。そこで、左の御美豆良に刺している湯津爪櫛の男柱一箇を取り折って、一つ火を灯して入り、ご覧になったところ、蛆がたかってごろごろ音をたて、頭には大雷が居り、胸には火雷が居り、腹には黒雷が居り、陰には拆雷が居り、左の手には若雷が居り、右の手には土雷が居り、左の足には鳴雷が居り、右の足には伏雷が居り、并せて八の雷神が成り居た。
是に伊耶那岐命、見畏みて逃げ還る時、其の妹伊耶那美命が、「吾に辱をかかせましたね。」と言って、即ち豫母都志許賣を遣わして追わせた。爾に伊耶那岐命、黒御縵を取って投げ棄てれば、乃ち蒲の子が生った。(豫母都志許賣が)是を摭って食む間に、逃げ行くのを、猶も追ってくる。また、其の右の御美豆良に刺せる湯津爪櫛を引き折って投げ棄てれば、乃ち笋が生えた。(豫母都志許賣が)是を拔き食む間に、逃げて行った。且、その後には、八くさの雷神に、千五百の黄泉軍を副えて追わせた。そこで身に帯びていた十拳劒を拔いて、後手に振りながら逃げ来るのを、なおも追いかけて、黄泉比良坂の坂本に到った時、其の坂本に在る桃子三箇を取って、待ち撃ったところ、悉に逃げ返った。そこで伊耶那岐命は、其の桃子に「汝、吾を助けたように、葦原中国に生きているあらゆる青人草(人民)が苦しい目にあって患い困る時に助けるがよい。」と告げて、意富加牟豆美命という名を授けた。
最後に、其の妹伊耶那美命が身自ら追って来た。ここに千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞いで、其の石を中に置きて、各対い立って、事戸を度す(離縁を言い渡す)時、伊耶那美命が「愛しき我が夫よ、このように離縁されるならば、汝の国の人草、一日に千人絞り殺しましょう。」と言った。ここに伊耶那岐命は「愛しき我が妻の命よ、汝がそのようにするならば、吾、一日に千五百の産屋を立てよう。」と詔された。是をもって、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まれるのである。ゆえに、其の伊耶那美命を号けて黄泉津大神という。また言うには、其の追って来たのをもって道敷大神というと伝える。また、其の黄泉の坂に塞いだ石は、道反之大神と名付け、また塞り坐す黄泉戸大神ともいう。故に、其のいわゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂という。 (『古事記』より一部抜粋)
ということで、こちらも『古事記』的黄泉国の世界観が分かる箇所を補足解説。
- 黄泉国に追っていった。
→『日本書紀』版と同様の設定。黄泉国とは繋がってるので、死者を追っていくと辿り着ける。
次!
- (伊耶那美命が)御殿の戸口から出て迎えた時
→御殿あり。この御殿は『古事記』では、異界を象徴するものです。
この象徴する建物、じつは異界によってさまざまだったりして。
- 黄泉・・・殿
- 根国・・・室
- 海神国・・・魚鱗のごと造れる客室
この黄泉国の「殿」は、志怪小説の世界を反映。街があり、役所があり、貴人の住む住居が「殿」です。もちろん、従者も大勢いるらしい、
次!
- 残念なことです。早くいらっしゃらなくて。吾は黄泉戸喫をしてしまいました。
→コチラも『日本書紀』版黄泉と同じ設定。元夫なんで、黄泉の住人にはなってしまったが、愛情にはいささかも変化無し。後に夫が離絶を宣告(事戸を渡す)する展開に、布石として位置。重い意味があります。
次!
- 黄泉神と相談します。
→「還ろう」という旦那の誘いに対して「黄泉神に相談します」との回答。元の世界に還るには相談、そして許可が必要だってことですよね。めっちゃオモロー!な世界観です。
黄泉国には統治者がいる。その統治者とは「黄泉神」であり、黄泉の長官。
後で解説しますが、その原型は「泰山府君」。唐代以降「裁き」が追加されて「閻魔大王」になっていくお話。だからこそ、統治ルール上、黄泉国を出るときには長官の許可が必要という事。国としての世界観が設定されてることをチェック。
次!
- 殿の内に還り入った ~中略~ 蛆がたかってごろごろ音をたて~
→この辺りは『日本書紀』版黄泉と大きく異なります。「殿」の内に伊耶那美命が入っていく訳で、この「殿」が殯宮に相当、屍体の安置所がイメージ。実際に『日本書紀』では〔一書9〕で殯の伝承をつたえています。
まースゴイ世界観。ほぼ真っ暗ななかで蛆がごろごろと音を立てるくらい這いまわる、しかも雷の神まで生まれている。。。なんて恐ろしいんだ!
次!
- 見畏みて逃げ還る
『古事記』版は、『日本書紀』版と比べると、黄泉国での目視による汚さや穢れ表現は、その数は少ないものの、内容的には強調してます。一言「見畏みて」だけなんだけど、コレ結構大事な強調ワード。
類例として、同じ『古事記』から。
降臨した天孫「瓊瓊杵尊」に大山津見神が献上した石長比売を、天孫は「甚凶醜に因りて、見畏みて返し送りき」とつき返す神話あり。醜いから、、、ってことで。これにより、石長比売のもつ「不動の生命」をもたらす呪力を獲得できませんでした。実は、その「不動の生命」をもたらす呪力こそ、醜の醜たる所以だったのですが、、。で、ココでの「見畏」には、畏怖嫌厭の情を伴うものとして使われてるってことチェック。単に「畏まる」よりもっと強烈です。
これと同様に、伊耶那美命の姿を見た伊耶那岐命は、畏怖嫌厭して逃げ帰った、ということで。すんごい嫌そうな顔してる感じをしっかりチェック。
次!
- 豫母都志許賣を遣はして追わしめた。~中略~ 八くさの雷神に、千五百の黄泉軍を副て追わしめた。
→『日本書紀』版と比べると、雷神と黄泉軍が増えてる。。。しかも「黄泉軍」て。。。汗
何度も申し上げますが「黄泉国」ですから。領域、人民、主権(統治者)があって、それらを守る軍隊が存在するのは当然といった感じ。
次!
- 黄泉比良坂の坂本に到った時、其の坂本に在る桃子三箇を取って、待ち撃ったところ、悉に逃げ返った。
→『日本書紀』版は「泉津平坂」。表記はいずれにしても、この世とあの世の境界として坂が設定されてます。この坂は『日本書紀』の本伝を残したもの。
さらに、〔一書9〕では、坂の代わりに「道の辺に大きなる桃樹有り」と伝え、この桃の実を、追ってきた雷に投げて退散させます。直後に「此れ、桃を用ちて鬼を避ふ縁なり」と付け加えてる。つまり、この起源を、桃に対して「すべての人民を救え」と物語的に立て直しているのが古事記の伝承。
次!
- 千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞いで、
→『日本書紀』版も「千人所引磐石」。千人がかりで引っ張るくらい巨大な岩です。「石」って書いてあるけど。。。石レベルの話ではございません。
ということで、『古事記』版黄泉国のお話でした。
特徴的な所をまとめておきます。
- 『紀』同様。この世界とあの世(黄泉)はつながっていた。境界は「黄泉比良坂」。
- 『紀』同様。「黄泉戸喫」という黄泉の食べ物もあり。生活アリ。
- 『紀』同様。見るなのタブーを異類の女神が課し、その本質を、この世の男神が見ることによって別離に至る。
- 『紀』同様。尊貴な存在にはお付きの者が付く。さらに、雷神と黄泉軍が漏れなく追加。
- 黄泉国は、国として成り立っている。国の体制上、役所あり、役所には長官=統治者がいて、統治ルールがある。ここでいう「統治者」とは「黄泉神」。黄泉国を出るときには長官への相談と許可が必要
といった感じ。
全体的に『日本書紀』をベースに、「国」としてのカタチが追加されてるイメージですね。
黄泉の国/黄泉の世界観まとめ
ということで、
以上の『日本書紀』版「黄泉」、『古事記』版「黄泉国」をチェックしたところで、両書に共通するところで黄泉世界や構造をまとめます。
まず言えるのは、
- この世界とあの世(黄泉)はつながっていた。境界は「泉津平坂(黄泉比良坂)」。
- 黄泉世界は、お互いの姿を確認できる「この世界と変わりない明るさ」があった。
- 黄泉世界は、この世界とは非対称。時間の流れ方が違う。きっと黄泉の方が早い。
- 黄泉では、黄泉の食べ物を食べる。「泉之竈(黄泉戸喫)」。食べた者は「黄泉の神」となって元の世界には戻れない。
- 「黄泉の神(異類)」の課した「見るなのタブー」を破り、その「本質」を見てしまう。これはこれで必然的な別れが存在。
- 黄泉は、死神とその腐乱した屍体によって汚れて穢れた国である。
- 尊貴な存在にはお付きの者が付く。ただし見た目はとても醜い。。。いや、猛烈である(雷神と黄泉軍の追加もあり)
といったこと。
からの、『古事記』独特の世界観として
- 黄泉国は、国として成り立っている。国の体制上、役所あり、役所には長官=統治者がいて、統治ルールがある。ここでいう「統治者」とは「黄泉神」。黄泉国を出るときには長官への相談と許可が必要
といった内容追加がある訳ですね。
古事記は出雲神話として素戔嗚関連の伝承を膨らませたい思惑があるので、自然、伊奘冉はフツーに黄泉の神として死を司ってるよ感を出したかったんでしょうな。
「黄泉の国/黄泉」はどっから来た?その語源を探る
「黄泉の国/黄泉」の現場、いかがでしたでしょうか?
『日本書紀』版「黄泉」や『古事記』版「黄泉国」の共通するところ・違う所、世界構造も含めイメージがつかめてきたんじゃないでしょうか。
で、ココからは、じゃ、それどっから来たのよ?的なところをお届け。
以下、①語源、②肉付け、③物語として構築、の順番で解説していきます。
題して、
「黄泉の国/黄泉」はどっから来て、どうしてそうなった?
まずは①語源から。
①黄泉の語源
厳密にいうと、「黄泉の国」と「黄泉」とは違います。その違いは、、、
「国」の概念が入ってるかどうか。
「黄泉の国」は国だけど、「黄泉」は国というより地下世界といった意味。
「国」ってことは、統治者がいるいないにも関わる話で。日本神話的には超重要事項。「国」という一語なんですが、ある・ないだけで、結構大きな違いになってくるのです。
で、
「黄泉の国」と「黄泉」。
もともとは「黄泉」。それが先ほど確認したように、神話の中で「国」化されて「黄泉の国」になっていく流れ。
なので、
まずは「黄泉」の語源を辿ってみましょう。
最初にご紹介するのは『春秋左氏伝』という注釈書。このなかに「黄泉」の語源あり。
『春秋左氏伝』は、中国の歴史書『春秋』の注釈書の1つ。通称『左伝』と呼ばれる書物です。
と、突然の漢籍登場。。。唐突な印象があるかと思いますが、コレ、日本神話編纂当時の時代背景によるもの。
簡単に言うと、
日本神話は、その編纂当時における東アジア最先端知識・学問体系をもとに創出された経緯があるので、「黄泉」の語源を探るにも、当時の知識人が読んでいた漢籍を調べる必要があるって事。「漢字」という文字の輸入だってそうです。一つ一つが漢籍由来。
ということで、コチラ!
「地中ノ泉 故二 黄泉ト 曰フ」(『春秋左氏伝』隠公元年の杜預注より)
と。
「地中の泉だから黄泉という」
って、、、
だから何やねん、、、
と、いうことでしっかり解説。
ポイントは2つ。
- 「黄泉」の語源は、もともとは「五行思想」から。五行では、中央は「黄」。黄土高原が原点。黄土高原は、古代中国において国が生まれ文明が発達した原点的な位置づけ。で、中央の地下には泉が湧き出ているとされてる。だから「黄泉」。
- 五行思想における「黄泉」には、地下世界・死者の世界といった意味あり。
「五行思想」もそうですが、易なんすよね。そもそもの出どころは。紀元前という、めちゃんこ古いお話です。
もっと言うと、
中国古代の易的な思想では、
「魂気は天に帰し、形魄は地に帰す」(『礼記』郊特牲より)
と、人には陰陽2つの気があり、
- 陽の気「魂」は、人の精神をつかさどる
- 陰の気「魄」は、人の肉体をつかさどる
とされてました。で、人が死ぬと、「魂」は肉体を離れて天にのぼり、「魄」は地に残り帰っていくんだと。
ちなみに、このめちゃんこ古代においては、生と死の境も明確ではなかったため、
仮死も死とみなし蘇生をはかる、つまり魂を呼びもどす「復」という儀礼、習俗が広く行われてたりしてました。
「復」は死者の家の屋根にのぼり、その名を三度読んで袖に魂を呼び戻して入れる、というもの。屋根で招魂するのは天にのぼっていく概念から。
さらにちなみに、童謡「ほたるこい」に、「ほー、ほー、蛍来い、あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」という蛍狩りの歌詞がありますが、コレ、「復」などの招魂に基づくとみなす説もあり。こうした招魂歌が東南アジアに広く分布しているという説さえあるほどです。
ふわふわ浮かぶ蛍を魂とみなす、
これはこれで、この考えを「恋に悶え死ぬ苦しみ」として熱く歌ったのが、あの和泉式部。
「もの思へは 沢の蛍も わが身より あくがれ出づる 魂かとぞ見る」(後拾遺集)
あなたが恋しくて思い悩んでいると、沢に飛んでいる蛍も、自分の身体からさ迷い出てきた魂なんじゃないかと思うわ
という歌だったりします。
と、中国古代の死生観からの日本の和歌へのつながり、時間と距離を飛び越えまくって繋がってくロマン発生地帯。
話を戻します。
「黄泉」の語源。それは五行説にあり、中央の地下の泉のこと。地下世界、死者の世界といった意味あり。
ということで、まずはチェックです。
②黄泉の肉付け
「黄泉」という言葉自体は「五行思想」から来てること、確認しました。
次にご紹介するのは、日本神話につながる、死者世界の世界観。言葉をゲットした後、その言葉に肉付けする作業として。
「五行思想」に語源をもつ「黄泉」自体には、あんまり世界観ってなくて。地下にある死者の世界、といった程度。
で、これとは別にあるのが、
「泰山思想」。
古代中国の道教的死生観であり、市民レベルで普及していた一般的な思想、信仰です。
この「泰山思想」には
泰山=死者が行くところ
という思想・信仰がありました。
死んだら泰山に行くんだと。
で、面白いのは、
死者が向かった先の泰山には、「泰山府君」という、病気や寿命、死後の世界の事など、生死に関わること全般を司る神がいる、
ってこと。
さらに、ココ泰山では、
- 統治者「泰山府君」を頂点とする役所があり、
- 死者は、死後もフツーに死者としての生活を続けていく
- 現世で善い行い→良い生活 悪い行い→苦役を受ける
と、まー、そういう世界観が展開されているのです。ね、日本の「黄泉の国」と近い感じがしてきたでしょ?
五行説の「黄泉」と比べて、「泰山思想」の死生観の方が豊かでオモロー!ですよね。現実感があるというか。
ちなみに、中国ではこの「泰山思想」に「仏教」が混ざることで様々な展開をみせるようになります。し、それがまた日本に輸入される流れ。
現世で善い行い→良い生活 悪い行い→苦役を受ける は、輪廻の話に、
また、「泰山府君」は唐代以後「裁き」が追加されることで「閻魔大王」になっていく。
これが遣唐使など大陸交流を通じて日本へ伝わり、例えば、平安初期、僧の景戒が撰した『日本霊異記』には「忽然に死して閻魔の国に至る」といった感じで登場するようになるわけです。
話を戻します。
古代中国の道教的死生観であり、市民レベルで普及していた一般的な思想、信仰である「泰山思想」。その特徴とは、
- 統治者「泰山府君」を頂点とする役所があり、
- 死者は、死後もフツーに死者としての生活を続けていく
- 現世で善い行い→良い生活 悪い行い→苦役を受ける
といった内容。
特に、統治者を頂点とする役所の存在や、死後もフツーに死者としての生活が続く、といった世界観は『古事記』版黄泉の国に色濃く反映されてたりするわけです。
③黄泉の物語としての構築
言葉をゲットした、その言葉に肉付けもした、さー最後にするのは物語としての構築です。
もとは五行説の「黄泉」。ここに泰山思想の世界観を導入して肉付け。あとは、神話の中に物語として組み込んでいくだけですね。
ということで登場するのが「志怪小説」。怪談奇談集です。
これ、中国の伝統みたいなもので、あちらのお方はこういう怪談奇談が大好き。
例えば、1つめの、亡き妻を求めて冥界に行く男の話では、ポイントは4つで
- 死者のいる異界(冥界)がある
- 異界との往復ができる
- 異界で死者と再会する
- 異界には「掟(タブー)」がある
と。いうことで、
この枠組み、まさに日本神話の黄泉往来譚そのもの。
日本神話っぽく修正してみると、、、
- 死者(伊奘冉尊)のいる異界(黄泉)がある
- 黄泉との往復ができる。実際、生者(伊奘諾尊)は死者(伊奘冉尊)を追いかけて黄泉へ行く
- 異界で死者と再会する。伊奘諾尊と伊奘冉尊は共に語り合う。あのころのように、、、
- 異界には「掟(タブー)」がある。伊奘冉尊が「見るなの禁」を科す。ところが見てしまう。。。
と。
志怪小説の「冥界往復譚」の枠組みをもとに男と女のドラマや、生と死の断絶やらを盛り込んでつくられたのが日本神話の「黄泉往来譚」、という事で。
ここにおいて、黄泉は「死者の活動する異界」という一つの独立した世界を構成するに至った訳です。古代日本人の創意工夫の結晶。ほんとにスゴいことをやってます。
④おまけ:「黄泉の国/黄泉」は横穴式古墳がモデル??
言葉をゲットし、言葉に肉付け、最後に物語として構築する。
そんな流れを確認してきましたが、実は、もう一つ「黄泉の国/黄泉」神話のモデルになったんじゃないかと言われてる説をご紹介。
それが、
古墳。特に横穴式古墳。
いきなり何なんですか?
って、、、
だけど、似てるんすよ。黄泉世界の描かれ方と。
なので、早速パワポで作ってみた。
コチラ。横穴式古墳の断面図。
どうすか!?
坂道、羨道、玄室の構造と、黄泉往来譚の描写がソックリやん!?
坂道=泉津平坂(黄泉比良坂)、羨道=伊奘諾尊が逃げ帰った道、玄室=黄泉世界、、、
コレは、、なかなかどうして、見過ごせない説かと。。。
さらにさらにご紹介。
古代においては、死ぬと、黄泉へつづく道「冥道」を行く、といった考えがありました。
『万葉集』山上憶良の歌に、そうした世界観が歌われています。
幼いわが子(名は古日)を亡くした悲しみを歌う内容。
若ければ 道行き知らじ 賂はせむ したへの使ひ 負ひて通らせ (905番)
冥界への道をひとり行くわが子を、「したへの使い(亡者を導く冥吏)」に賄賂を贈るから背負って通らせてくれと懇願する歌です。
常しらぬ 道の長手を くれくれと いかにか行かむ 糧はなしに (888番)
冥界の長くどこまでも続く暗い道を行くさまをいいます。
と、いずれも、死んだわが子が一人「冥道」を行かねばならぬ事への、親の切実な気持ちが歌われています。
「冥道」。黄泉の国、黄泉へ続く道。こうした死後の世界観も黄泉往来譚に反映されているわけですね。もちろん、志怪小説の描く死後世界にも通じてます。
って考えると、まさに組み合わせの妙、それが黄泉往来譚で。ホント良くできてるしスゴイよね。古代日本人の創意工夫。元ネタや、着想のヒントはあっても、それをそのまま使うってことはしない。組み合わせて、広げて、豊かにして再構成。結果的にまったく別物、それは、それまであったものを遥かにしのぐクオリティになってる。スゴイです。
黄泉の国、黄泉往来譚の最終的な帰結
そんなこんなでお届けしてきました黄泉のお話。黄泉往来譚!
ふーん、というのは分かるとして、
結局、黄泉で何が言いたいの? なんで黄泉往復の話なんかがある訳?
っていう根本のところを最後に解説。
2つ。
1つ目。黄泉往来譚を通じて、
死の世界は、生の世界から
完全かつ不可逆的に遮断された
ってこと。これが言いたい。
つまり、死者の黄泉からの帰還とか、往来とかあり得ない!って事。
そして2つ目。
生は死に対して優位である
黄泉世界を統治する伊奘冉尊に対して伊奘諾尊が「絶妻の誓」を宣言し、さらに死に対して生の優位を告げた訳です。1500 VS 1000 の構図。
この2点が言いたい、伝えたい。最終的に理解してもらいたいのはココ。コレだけでOK!
死の世界は、生の世界から
完全かつ不可逆的に遮断された
生は死に対して優位である
- 生・・・伊奘諾尊
- 死・・・伊奘冉尊
で、この生と死の担当分けは、その後の、素戔嗚尊の反抗であったり、東征神話での試練だったり、といったところへ繋がっていきます。ま、コレはこれで別エントリで詳しく。
まとめ
黄泉の国ってどんなとこ?
「黄泉」とは、死者の住む所、あの世の事。
日本神話では、火神に焼かれた伊奘冉尊が死んで行く場所(世界)として登場。神話世界で設定されてるいくつかの「異界」の中の一つです。
『日本書紀』版「黄泉」、『古事記』版「黄泉国」があり、両書に共通するところでは、
- この世界とあの世(黄泉)はつながっていた。境界は「泉津平坂(黄泉比良坂)」。
- 黄泉世界は、お互いの姿を確認できる「この世界と変わりない明るさ」があった。
- 黄泉世界は、この世界とは非対称。時間の流れ方が違う。きっと黄泉の方が早い。
- 黄泉では、黄泉の食べ物を食べる。「泉之竈(黄泉戸喫)」。食べた者は「黄泉の神」となって元の世界には戻れない。
- 黄泉の神(異類)の課した見るなのタブーを破り、その本質を見てしまう。これはこれで必然的な別れが存在。
- 黄泉は、死神とその腐乱した屍体によって汚れて穢れた国である。
- 尊貴な存在にはお付きの者が付く。ただし見た目はとても醜い。。。いや、猛烈である(雷神と黄泉軍の追加もあり)
といった世界観。
さらに、『古事記』独特の世界観として
- 黄泉国は、国として成り立っている。国の体制上、役所あり、役所には長官=統治者がいて、統治ルールがある。ここでいう「統治者」とは「黄泉神」。黄泉国を出るときには長官への相談と許可が必要
といった内容があります。
最終的に伝えたいのは、
- 死の世界は、生の世界から完全かつ不可逆的に遮断された
- 生は死に対して優位である
って事。この2点。しっかりチェックされてください。
黄泉国/黄泉関連の伝承地
神話を持って旅に出よう!!!
日本神話のもう一つの楽しみ方、それが伝承地を巡る旅です。以下いくつかご紹介!
島根県
● 黄泉比良坂伊賦夜坂伝説地 あの世の入口??この世から黄泉国へ至る坂の伝説地!
● 揖夜神社 黄泉国の入口近くに鎮座し「死」を司る伊奘冉尊を祭る!
● 猪目洞窟 夢で猪目洞窟を見た者は必ず死ぬ!?出雲国風土記に「黄泉の穴」と伝える洞窟!
広島県
● 比婆山神社 『古事記』で伝える伊耶那美命の埋葬地!
● 比婆山御陵 頂上付近の巨石が伊耶那美命の御陵!?
三重県
● 花窟神社|黄泉の国=死を司る伊奘冉尊を祭る!高さ45mの圧倒的な巨岩!
佛教大学名誉教授 日本神話協会理事長 榎本福寿
埼玉県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程国語学国文学(S53)。佛教大学助教授(S58)。中華人民共和国西安外国語学院(現西安外国語大学)文教専家(H1)。佛教大学教授(H6)。中華人民共和国北京大学高級訪問学者(H13)。東京大学大学院総合文化研究科私学研修員(H21)。主な書籍に『古代神話の文献学 神代を中心とした記紀の成りたち及び相関を読む』がある。『日本書紀』『古事記』を中心に上代文学における文献学的研究成果多数。
参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)、他
どこよりも分かりやすい日本神話解説シリーズはコチラ!
日本神話編纂の現場!奈良にカマン!
[…] それが、『日本書紀』第五段〔一書6〕。日本神話で有名な、黄泉往来譚よみおうらいたん発生の巻。 […]