思兼神とは?深謀遠慮をめぐらせる天界のプロデューサー。日本神話をもとに思兼神を分かりやすく解説します。
『日本書紀』第七段 現代語訳
〔本伝〕
この時、八十万神が天安河辺に会合して、その祈るべき方法を計画した。それゆえ、思兼神は深謀遠慮をめぐらせ、遂に常世(神仙境)の長鳴鳥(鳴き声を長くのばして暁を告げる鶏)を集めて互いに長鳴きさせ、また手力雄神を磐戸の側に立たせた。そうして中臣連の遠祖天児屋命と忌部の遠祖太玉命が、天香山の五百箇真坂樹(神域を画するりっぱな境木)を根こそぎ掘り出し、上の枝には八坂瓊の五百箇御統をかけ、中の枝には八咫鏡(咫は開いた手の親指と中指の間の長さ)をかけ、あるいは「真経津鏡」と云う。下の枝には青和幣、「和幣」は「尼枳底」と云う。白和幣をかけ、一緒にその祈祷に尽くした。また猨女君の遠祖天鈿女命は、手に茅を纏いた矟を持ち、天石窟戸の前に立って巧みに俳優(独特の所作を伴う舞踊。演者を倡優という)をした。また天香山の真坂樹を鬘(髪飾り)にし、蘿(蘿蔓で、常緑のシダ類)「蘿」は、ここでは「比舸礙」と云う。を手繦にして、「手繦」は、ここでは「多須枳」と云う。かがり火を焚き、覆槽(逆さに伏せた桶)を伏せ置き、「覆槽」は、ここでは「于該」と云う。顕神明之憑談(神の憑依による神託を顕現すること)した。「顕神明之憑談」は、ここでは「歌牟鵝可梨」と云う。
〔一書1〕
ある書はこう伝えている。誓約の後に、稚日女尊が齊服殿に坐して神の御服を織っていた。素戔鳴尊はこれを見ると、生きたまま班駒を逆剥ぎ(尻のほうから皮を剥ぐこと)に剥いで、その殿内に投げ入れた。稚日女尊は、これに驚いて機から墜ち、持っていた梭で体を傷つけて死去した。それゆえ、天照大神は素戔鳴尊に対して「汝はやはり黒心がある。汝と会おうとは思わない。」と言い、そこで天石窟に入り、磐戸を固く閉じてしまった。ここにおいて天下は常に闇となり、昼と夜の交替も無くなってしまった。
それゆえ、八十万神を天高市(交易する市のように神の集う小高い場所)に会し、善後策を問うた。この時、高皇産霊尊の子息の思兼神という者がいた。思慮の智があったので、思いをめぐらして「あの神の象をかたち造って、招き禱り奉るのがよい。」と申しあげたのである。それゆえさっそく石凝姥を鍛冶工とし天香山の金を採って日矛を作った。また真名鹿(愛子の愛で、愛らしい鹿)の皮を丸剥ぎにして天羽鞴(火を起こすさい風を送る道具、ふいご)を作った。これらを用いて天照大神の像を造り奉った神が、紀伊国に鎮座する日前神である。「石凝姥」は、ここでは「伊之居梨度咩」と云う。「全剥」、ここでは「宇都播伎」と云う。
『日本書紀』第九段 現代語訳
〔一書1〕
ある書ではこう伝えている。天照大神は天稚彦に勅して、「豊葦原中國は我が子が君主たるべき国である。しかしながら、思うに残忍凶暴な邪神どもがいる様子だ。そこで、まずお前が行って平定しなさい。」と言った。そして天鹿児弓と天眞鹿児矢を授けて遣わした。天稚彦は勅を受けて豊葦原中国に降り、國神の娘たちを次々に娶り、八年の歳月が過ぎても復命しなかった。
そこで天照大神は思兼神を召して、天稚彦が帰って来ない事情を問うた。すると思兼神は熟慮して、「また雉を遣わして尋ねさせましょう」と告げた。そこで、その神の策に従って、さっそく雉を遣わして様子をうかがわせた。その雉は飛び下りると、天稚彦の門の前の神聖な杜樹の梢に止まって、「天稚彦よ、どうして八年の間、復命しないのか」と鳴いて問うた。その時、國神で天探女という名の者がいた。その雉を見て、「鳴き声の悪い鳥がこの樹の上にとまっています。射殺しなさい。」と言った。天稚彦は、そこで天神から賜った天鹿児弓と天眞鹿児矢を取り、すぐに射殺してしまった。その矢は雉の胸を貫き、ついに天神の御前にまで届いた。その時、天神はその矢を見て、「これは昔、私が天稚彦に授けた矢である。今になってどうして飛んできたのだろう」と言って、矢を取り呪いをかけて「もし悪心で射たのならば、天稚彦はきっと災いに遭うだろう。もし平心で射たのならば、無事でいるだろう。」と言い、矢を投げ返すと、その矢は中国に落ちて天稚彦の仰臥している胸に命中し、たちどころに死んでしまった。これが世の人が「返矢恐るべし」と言うことの由縁である。
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