素戔鳴尊とは?生まれながらの無道者で根国へ追放された神。日本神話をもとに素戔鳴尊を分かりやすく解説します。

素戔鳴尊

 

素戔鳴尊とは?生まれながらの無道者で根国へ追放された神。日本神話をもとに素戔鳴尊を分かりやすく解説します。

 

『日本書紀』第五段 現代語訳

〔本伝〕天下之主者生み(神生み)

 次に海を生んだ。次に川を生む。次に山を生む。次に木のおや句句廼馳くくのちを生む。次に草の祖、草野姫かやのひめを生む。またの名を野槌のつちと言う。

 そして伊奘諾尊・伊奘冉尊は共にはかり、「我々はすでに大八洲国おほやしまぐにをはじめ山川草木さんせんそうもくまで生んでいる。どうして地上世界の統治者を生まないでいようか。」と言った。

 そこで、共に日神ひのかみを生む。名を大日孁貴おほひるめのむちと言う。(大日孁貴、ここでは於保比屢咩能武智おほひるめのむちと言う。孁は、音は力丁りょくていかへしである。ある書には、天照大神あまてらすおほかみと言う。ある書には、天照大日孁尊あまてらすおほひるめのみことと言う。)このは、光り輝くこと明るく色とりどりで、世界の内を隅々まで照らした。それで、二柱ふたはしらの神は喜び「我々の子供は多いけれども、まだこのように霊妙不可思議な子はいない。長くこの国に留め置くのはよくない。すぐに天に送り、天上の事を授けるべきだ。」と言った。この時は、天と地がまだたがいに遠く離れていなかった。それで天柱あまのみはしらを使って、天上に送り挙げたのである。

 次に、月神つきのかみを生んだ。(ある書には、月弓尊つくゆみのみこと月夜見尊つくよみのみこと月読尊つくよみのみことと言う。)その光りの色どりは日神に次ぐものであった。日神とならべて天上を治めさせるのがよいとして、また天に送った。

 次に蛭児ひるこを生んだが、三歳になっても脚が立たなかった。それゆえ天磐櫲樟船あまのいはくすぶねに乗せ、風のまにまに捨てた。

 次に素戔鳴尊すさのをのみことを生んだ。(ある書には、神素戔鳴尊かむすさのをのみこと速素戔鳴尊はやすさのをのみことと言う。)この神は勇ましく残忍であった。そして、いつもくことをわざとしていた。このため、国内の多くの民を早死にさせ、また青々とした山を枯らしてしまった。それゆえ父母の二神は素戔嗚尊に勅して、「お前は、全く道に外れて乱暴だ。この世界に君臨してはならない。当然のこと、はるか遠く根国ねのくにへ行かなければならない。」と命じ、遂に放逐したのである。

『日本書紀』第五段

 

〔一書1〕御寓之珍子生み

 ある書はこう伝えている。伊奘諾尊いざなぎのみことが「私は天下を統治する優れて貴い子を生もうと思う。」と言い、左の手で白銅鏡ますみのかがみを持つと、そこから化し出る神があった。これを大日孁尊と言う。右手に白銅鏡を持つと、また化し出る神があった。これを、月弓尊と言う。また首を廻らせて見たその瞬間に、化す神があった。これを、素戔嗚尊と言う。

 先に化し出た大日孁尊および月弓尊は、ともに性質が明るく麗しかった。それゆえ、伊奘諾尊は両神に天地を照らし治めさせた。素戔嗚尊は、生まれつき残酷で害悪なことを好む性格であった。それで根国に下して治めさせた。

 

〔一書2〕卑の極まりと祭祀による鎮魂

 ある書はこう伝えている。日と月は既に生まれた。次に蛭児ひるこを産んだ。この子は三年経っても足腰が立たなかった。これは初めに、伊奘諾いざなき伊奘冉尊いざなみのみことが御柱を巡った時に、陰神が先に喜びの声を発したからである。陰陽の原理に背いてしまったのだ。そのせいで今蛭児が生まれた。

 次に素戔鳴尊すさのをのみことが生まれた。この神は、神としての性質が悪く、常にいて怒りをあらわにしてばかりいた。それで国の民がたくさん若死にし、青々とした山は枯れた。そのため父母は、「もしお前がこの国を治めたならば、必ず多くの人々を殺し傷つけるだろう。だからお前はここから遠く離れた根国を治めよ」と命じた。

 

伊奘諾尊は黄泉から辛うじて逃げ帰り、そこで後悔して「私は今しがた何とも嫌な見る目もひどいけがらわしい所に行ってしまっていたものだ。だから我が身についたけがれを洗い去ろう。」と言い、そこで筑紫つくし日向ひむか小戸をどたちばな檍原あはぎはらに至り、禊祓みそぎはらえをした(身のけがれを祓い除いた)。

 こういう次第で、身の穢れをすすごうとして、否定的な言いたてをきっぱりとして「上の瀬は流れが速すぎる。下の瀬はゆるやかすぎる。」と言い、そこで中の瀬ですすいだ。これによって神を生んだ。名を八十枉津日神やそまがつひのかみと言う。次にその神のまがっているのを直そうとして神を生んだ。名を神直日神かむなおひのかみと言う。次に大直日神おほなほひのかみ

 また海の底に沈んで濯いだ。これによって神を生んだ。名を底津少童命そこつわたつみのみことと言う。次に底筒男命そこつつのおのみこと。また潮の中に潜ってすすいだ。これに因って神を生んだ。名を中津少童命なかつわたつみのみことと言う。次に中筒男命なかつつのおのみこと。また潮の上に浮いて濯いだ。これに因って神を生んだ。名を表津少童命うわつわたつみのみことと言う。次に表筒男命うわつつのおのみこと。これらを合わせて九柱の神である。その中の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、これが住吉大神すみのえのおおかみである。底津少童命そこつわたつみのみこと中津少童命なかつわたつみのみこと表津少童命うわつわたつみのみことは、安曇連あずみのむらじらが祭る神である。

 そうして後に左の眼を洗った。これによって神を生んだ。名を天照大神あまてらすおおみかみと言う。また右の眼を洗った。これに因って神を生んだ。名を月読尊つくよみのみことと言う。また鼻を洗った。これに因って神を生んだ。名を素戔嗚尊すさのおのみことと言う。合わせて三柱の神である。

 こういう次第で、伊奘諾尊は三柱の御子に命じて「天照大神は、高天原たかあまのはらを治めよ。月読尊は、青海原の潮が幾重にも重なっているところを治めなさい。素戔嗚尊は天下あまのしたを治めなさい。」と言った。

 この時、素戔嗚尊はすでに年が長じていて、また握りこぶし八つもの長さもあるひげが生えていた。ところが、天下を治めようとせず、常に大声をあげて哭き怒り恨んでいた。そこで伊奘諾尊が「お前はどうしていつもそのように哭いているのだ。」と問うと、素戔嗚尊は「私は根国ねのくにで母に従いたいのです。だから、哭いているだけなのです。」と答えた。伊奘諾尊は不快に思って「気のむくままに行ってしまえ。」と言って、そのまま追放した。

 

『日本書紀』第六段 現代語訳

〔本伝〕

 そこで(根国への追放処分を受け)、素戔嗚尊は伊奘諾尊に請い、「私はいま勅命を奉じて根国ねのくにに行こうとしています。ですから、しばらく高天原たかまのはらに出向き、姉(天照大神)とお会いしてその後、永久にこの世界から退去することにしたいと思います。」と言った。伊奘諾尊はこの請願を勅許した。そこで、素戔嗚尊は天に昇り、天照大神のもとに詣でたのである。

 この後、伊奘諾尊は、はかり知れない仕事をすでにやり遂げ、霊妙な命運がうつるべきであった。それでついの住みとなる幽宮かくれのみやを淡路のくにに構え、ひっそりと身をとこしえに隠したのである。またこうした伝えもある。伊奘諾尊は、その仕事がすでに行き届き、德も偉大であった。そこで天に登り、天神あまつかみに報告した。これにより、日の少宮わかみやに留まりむのである。少宮、ここでは「倭柯美野わかみや」と云う。

 はじめ素戔嗚尊が天に昇った時、大海がそれで激しく波打って揺れ動き、山岳はそのため鳴りとどろいた。これは、神の本性の雄々おおしく猛々たけだけしいことがそうさせているのである。天照大神は、もとよりその神の暴悪を知っていた。素戔嗚尊の天に昇って来るさまを聞くに及んで、顔色をにわかに変えて驚き、「私の弟の来るのは、よもや善意ではあるまい。思うに、きっと国を奪う意志があるはずではないか。そもそも父母がすでにどの子をも任じ、だからそれぞれが統治する境界をもっている。それなのにどうして赴くべき国を棄て置き、ことさら此処ここ(高天原)を奪い取ろうなどとするのか。」と言った。そこで防禦ぼうぎょすべく、髪を結ってみづら(男の髪型)とし、(女の上下組み合わせた衣と裳、裳は腰から下をおおう衣服)を縛ってはかまとした上で、八坂瓊やさかに五百箇御統いほつみすまる(大きな玉をいくつもひもで通してつなげた玉飾り)で、(御統 ここでは「美須磨屢みすまる」と云う)そのみづらかづら(髪飾り)および腕に巻き付け、また背には千箭ちのり(数多くの矢)(千箭 ここでは「知能梨ちのり」と云う)のゆき(矢を入れる武具)と五百箭いほのりの靫を負い、ひじ稜威いつ(相手を恐れさせる強盛な威力)(稜威 ここでは「伊都」と云う。)の髙鞆たかとも(弓を射るさい弦の当たるのを防ぐ一方、当たって高い音を出すために左手首の内側に巻き付ける武具)をけ、弓彇ゆはずつるをかける弓の両端部。上端を末弭うらはず、下端を本弭もとはずという)を振りたて、剣のつかを力強く握りしめて、堅い大地を踏んでまたまでのめり込ませ、そのまま淡雪のように蹴散けちらかし、(蹴散 ここでは「倶穢簸邏邏箇須くゑはららかす」と云う)稜威いつ雄詰をたけび(相手を威圧する雄壮な声)(雄詰 ここでは「烏多稽眉をたけび」と云う)を奮わせ、稜威の嘖譲ころひ(責め叱りたてる言葉)を発して、面と向かい問い詰めた。

 素戔嗚尊は、これに対して「私には、もともと邪悪な心(具体的には高天原の乗っ取り)はない。ただ、すでに父母ちちははの厳しい勅命があり、永久に根国に行こうとしているのです。それでもし姉にお会いしなければ、私はどうしてあえてくことができるでしょう。それですから雲や霧のなかを跋渉ばっしょうし、遠路はるばる参り来たのです。姉上が喜ぶどころか、厳しいお怒りの顔をなさるとは思いもしませんでした。」と答えた。その時、天照大神がまた「もしそうだとしたら、何をもってなんじきよき心(潔白)を証明しようとするのか。」と問うと、これには「姉と共にうけひ(事前に決めておいた通りの結果になるか否かをもって、神意を判定する占い)することをお願いします。この誓約うけひの中では、(誓約之中 ここでは「宇気譬能美難箇うけひのみなか」と云う)必ずや子を生むでしょう。もし私の生むのが女であれば、濁きこころがあるとしてください。もし男であれば、清き心があるとしてください。」と答えた。

 そこで、天照大神が素戔嗚尊の十握剣とつかのつるぎ(握はこぶし一つの幅。大剣)を索め取り、これを三段に打ち折り、あま真名井まない(神聖な井)に濯いで、噛みに噛んで(○然咀嚼 ここでは「佐我弥爾加武さがみにかむ」と云う)砕き、吹き棄てた息吹いぶきによってできた細かな霧に(吹棄気噴之狭霧 ここでは「浮枳于都屢伊浮歧能佐擬理ふきうつるいふきのさぎり」と云う)生まれた神が、名を田心姫たごりひめと言う。次に湍津姫たぎつひめ、次に市杵嶋姫いちきしまひめ。合わせて三女である。今度は、素戔嗚尊が天照大神のみづらかづらおよび腕にいている八坂瓊やさかに五百箇御統いほつみすまるを乞い取り、これを天の真名井に濯いで、噛みに噛んで砕き、吹き棄てた息吹の細かな霧に生まれたのが、名を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみことと言う。次に天穂日命あまのほひのみこと、是は出雲臣いづものおみ土師連はじのむらじおやである。次に天津彦根命あまつひこねのみこと。是は凡川内直おほしかふちのあたひ山代直やましろのあたひ等の祖である。次に活津彦根命いくつひこねのみこと。次に熊野櫲樟日命くまののくすひのみこと。合わせて五男である。

 この時、天照大神は勅して「その物実ものざね(子としてうまれるそのもとの根源)をたづねると、八坂瓊の五百箇御統は、間違いなく私の物である。だから、そちらの五男神はすべて私の子である。」と言い、そうして引き取って子として養育した。また勅して「その十握剣は、まぎれもなく素戔嗚尊の物である。だから、こちらの三女神はすべて爾の児である。」と言い、素戔嗚尊に授けた。三女神は、筑紫つくし胸肩君むなかたのきみの祭る神がこれである。

 

〔一書1〕

 ある書はこう伝えている。日神ひのかみは、もともと素戔嗚尊に勇猛で物を突き抜けてその上に出るようなこころのあることを知っていた。その天に昇り至るに及んで、思うようは、「弟の来たわけは、決して善意ではあるまい。必ずやわたしのあまはらを奪うに違いない。」と。そこで大夫ますらをの武の装備をととのえ、身には十握剣・九握剣ここのつかつるぎ八握剣やつかつるぎを帯び、背にゆきを負い、またひじには稜威いつ髙鞆たかともけ、手に弓とをつかみ、みずから迎え防禦した。この時素戔嗚尊が日神に告げて「私はもともと悪い心(国を奪い取る反逆心)などありません。ただ姉とお会いしたいと思い、ただそれだけで少しの間来たに過ぎないのです。」と言った。そこで日神は、素戔嗚尊と共に向き合って誓を立て「もし爾の心が明浄で、国を力づくで奪い取る意志がないのならば、汝の生む児は、必ず男のはずだ。」と言い、そう言い終わると、先に身に帯びている十握剣とつかのつるぎを食べて児を生んだ。名を瀛津島姫おきつしまひめと言う。また九握剣ここのつかのつるぎを食べて児を生んだ。名を湍津姫たぎつひめと言う。また八握剣やつかのつるぎを食べて児を生んだ。名を田心姫たごりひめという。合わせて三女神である。

 そうしたあと今度は素戔嗚尊がそのくびにかけている五百箇御統いほつみすまる(数多くの玉を数珠つなぎした美玉)を天渟名井あまのぬない、またの名は去来いざ真名井まないに濯いで食べ、そうして子を生んだ。名を正哉吾勝勝速日天忍骨尊まさかあかつかちはやひあまのおしほねのみことと言う。次に天津彦根命あまつひこねのみこと。次に活津彦根命いくつひこねのみこと。次に天穂日命あまのほひのみこと。次に熊野忍蹈命くまののおしほみのみこと。合わせて五男神である。

 それゆえ、素戔嗚尊はすでに勝のしるし(証拠)を得た。そこで、日神は、素戔嗚尊にもともと悪意がなかったことをまさに知り、そこで日神の生んだ三女神を筑紫つくしくにくだした。これにより、三女神に教えて「なんじ三神は、道中みちなか(〔一書 第三〕に「海の北の道中」という海路をいう。この玄界灘げんかいなだの沖ノ島に沖津宮おきつみや、大島に中津宮なかつみや宗像むなかた返津宮へつみやがある)に降り居て、天孫てんそん(後に降臨する火瓊瓊杵尊ほのににぎのみこと)を助け奉り、天孫に祭られなさい。」と言った。

 

〔一書2〕

 ある書はこう伝えている。素戔嗚尊が天に昇ろうとする時に、名を羽明玉はあかるたまという神が迎え奉り、めでたいしるしの八坂瓊曲玉やさかにのまがたま(大きな美しいたまの湾曲した玉)を進呈した。それで、素戔嗚尊はその瓊玉たまを持って天上に到ったのである。

 この時、天照大神は、弟に悪い心(国を奪い取る邪悪な心)があることを疑い、軍兵を動員して問い詰めた。素戔嗚尊はこれに対して「私の来た理由は、実際に姉とお会いしたいと思ったからです。また珍宝たから瑞八坂瓊曲玉みずのやさかにのまがたまを献上しようとしただけです。それ以外にことさら意図などありません。」と答えた。この時また天照大神が「汝のその言葉が嘘かまことか、何をしるし(証拠)とするのか。」と問うと、答えて「私が姉と共に誓約うけひを立てることを要請します。この誓約の間に、女を生めば黒心きたなきこころ(国を奪い取る謀反の心)であり、逆に男を生んだら赤心きよきこころ(潔白な心)です。」と答えた。そこであまの真名井まない三処みところ掘り、ともに向き合って立った。

 この時、天照大神が素戔嗚尊に向かって「私のびる剣を、今汝に奉ろう。汝の持っている八坂瓊曲玉やさにのまがたまを私に授ければよい。」と言った。このように約束し、共に所持品を交換して取った。そうしたあと天照大神は八坂瓊曲玉を天真名井に浮かべ寄せて、の端を噛んで断ち切り、口から吹き出した気息いきの中に神を化生した。名を市杵嶋姫命いちきしまひめのみことという。これが大海の遠い沖(沖津宮おきつみや)に居る神である。また瓊の中ほどをかんで断ち切り、口から吹き出した

気息いきの中に神を化生した。名を田心姫命たこりひめのみことという。これが中ほどの沖あい(中津宮なかつみや)に居る神である。また瓊の尾(尻に当たる部分)をかんで断ち切り、口ちから吹き出した気息いきの中に神を化生した。名を湍津姫命たぎつひめのみことという。これが浜辺(辺津宮へつみや)に居る神である。合わせて三女神である。

 そこで今度は素戔嗚尊が持っている剣を天(あまの)真(ま)名井(ない)に浮かべ寄せて、剣の末(すえ)(切っ先)をかんで断ち切り、口ちから吹き出した気息の中に神を化生した。名を天穂日命あまのほひのみことという。次に正哉吾勝勝速日天忍骨尊まさかあかつかちはやひあまのおしほねのみこと。次に天津彦根命あまつひこねのみこと。次に活津彦根命いくつひこねのみこと。次に熊野櫲樟日命くまのくすひのみこと。合わせて五男神であると、しかう(「爾」が以上の記述全体を指す。「一書曰」に対応する締め括り辞)。

 

〔一書3〕

 ある書はこう伝えている。日神ひのかみは素戔嗚尊と天安河あまのやすのかはを隔てて向き合い、そこで誓約うけひを立て「なんじにもし姧賊之心あたなふのこころ(国を奪い取る邪悪な心)がないのであれば、汝の生む子は必ず男である。もし男を生めば、私は子として天原あまのはらを治めさせる。」と明言した。さてそこで、日神が先にその帯びている十握剣とつかのつるぎを食べて児の瀛津嶋姫命おきつしまひめのみことを化生した。またの名を市杵嶋姫命いちきしまひめのみことという。また九握剣ここのつかのつるぎを食べて児の湍津姫命たぎつひめのみことを化生した。また八握剣やつかのつるぎを食べて児の田霧姫命たきりひめのみことを化生した。

 そうして今度は素戔嗚尊がその左手のみづらきつけている五百箇統いほつみすまるを口に含み、吐き出して左手の掌中にけて男を化生した。そこでこれをたたえて「なんとまさしくも、私が勝ったのだ。」と言った。だから、それによって名付け、勝速日天忍穂耳尊かちはやひあまのおしほみみのみことと言う。また右の髻の瓊を口に含み、吐き出して右手の掌中に著け、天穂日命あまのほひのみことを化生した。またくびにかけている瓊を口に含み、吐き出して左ひぢの中に著け、天津彦根命あまつひこねのみことを化生した。また右臂の中から活津彦根命いくつひこねのみことを化生した。また左足の中より熯之速日命ひのはやひのみことを化生した。また右足の中から熊野忍蹈命くまののおしほみのみことを化生した。亦の名を、熊野忍隅命くまののおしくまのみことという。その素戔嗚尊の生んだ児は、皆まさに男である。

 それゆえに、日神ひのかみはまさに素戔嗚尊にもともと赤心きよきこころ(潔白な心)があったことを知った。そこでその六男を引き取って日神の子とし、天原あまのはらを治めさせた。同時に、日神の生んだ三女神みはしらのひめかみは、葦原中国あしはらのなかつくに宇佐嶋うさのしまくだしてらせた。今、海の北の道中みちなかに在って、名を道主貴みちぬしのむちと言う。これは、筑紫つくし水沼君みぬまのきみの祭る神がこれである。「熯」は、「かん」である。ここでは「」と云う。

 

『日本書紀』第七段 現代語訳

〔本伝〕

 この後には、素戔嗚尊の行うことが、甚だ常軌を逸脱したものであった。何かといえば、天照大神は天狭田あまのさだ長田ながた御田みたとしていたが、その時、素戔嗚尊が春にはその御田のすでに種子を播いた上にさらに種子を播き、「重播種子」は、ここでは「璽枳磨枳しきまき」と云う。しかもまたそのあぜを壊しなどする。秋には、天斑駒あまのふちこまを放ち、稲の実る田の中に伏せさせ、また天照大神が新嘗にひなへ(新穀を神に供えかつ食する祭祀)をする時を見計らっては、新造した宮(新嘗を行う殿舎)にこっそりくそを放ちかける。また天照大神がまさに神衣かむみそを織って斎服殿いみはたどの(機を織る神聖な殿舎)に居るのを看ると、天斑駒の皮をぎ、その殿おほとのいらか穿うがって投げ込んだ。この時、天照大神は驚愕して、織り機ので身を傷つけてしまった。これによって激怒し、そこで天石窟あまのいはやに入り、磐戸いはとを閉じて籠もってしまった。それゆえ、この世界中が常闇とこやみ(はてしなく続く闇)となり、昼と夜の交代も分からなくなってしまった。

 この時、八十万神やそよろづのかみ天安河辺あまのやすのかはらに会合して、その祈るべき方法を計画した。それゆえ、思兼神おもひかねのかみは深謀遠慮をめぐらせ、遂に常世とこよ(神仙境)の長鳴鳥ながなきどり(鳴き声を長くのばしてあかつきを告げる鶏)を集めて互いに長鳴きさせ、また手力雄神たちからをのかみを磐戸の側に立たせた。そうして中臣連なかとみのむらじ遠祖とほつおや天児屋命あまのこやねのみこと忌部いみべ遠祖とほつおや太玉命ふとたまのみことが、天香山あまのかぐやま五百箇いほつ真坂樹まさかき(神域を画するりっぱな境木さかき)を根こそぎ掘り出し、上の枝には八坂瓊やさかに五百箇御統いほつみすまるをかけ、中の枝には八咫鏡やたのかがみあたは開いた手の親指と中指の間の長さ)をかけ、あるいは「真経津鏡まふつのかがみ」と云う。下の枝には青和幣あをにきて、「和幣」は「尼枳底にきて」と云う。白和幣しろにきてをかけ、一緒にその祈祷きとうに尽くした。また猨女君さるめきみ遠祖天鈿女命あまのうずめのみことは、手にちがやいたほこを持ち、天石窟戸あまのいはやとの前に立って巧みに俳優わざおき(独特の所作を伴う舞踊。演者を倡優しょうゆうという)をした。また天香山あまのかぐやま真坂樹まさかきかづら(髪飾り)にし、ひかげ蘿蔓ひかげのかずらで、常緑のシダ類)「蘿」は、ここでは「比舸礙ひかげ」と云う。を手繦たすきにして、「手繦」は、ここでは「多須枳たすき」と云う。かがり火を焚き、覆槽うけ(逆さに伏せたおけ)を伏せ置き、「覆槽」は、ここでは「于該うけ」と云う。顕神明之憑談かむがかり(神の憑依ひょういによる神託を顕現すること)した。「顕神明之憑談」は、ここでは「歌牟鵝可梨かむがかり」と云う。

 この時、天照大神はこれを聞いて「私がこのごろ石窟いはやを閉じて籠もっている以上、豊葦原中国とよあしはらのなかつくには必ず長く続く夜であるのに、どうして天鈿女命はこのように大笑いして楽しんでいるのだろうか。」と言い、そこで御手みて磐戸いはとを少しだけ開いてうかがった

 その時とばかり、手力雄神たちからをのかみが天照大神の手を承け奉り、引いて石窟からお出し申し上げた。そこで、中臣神なかとみのかみ忌部神いみべのかみがただちに端出之縄しりくめなは(しめなわ。通常とは逆に左ひねりにわらの端を出したままう)を石窟の入り口に引き渡して境とし、「縄」また「左縄端出」と云う。ここでは「斯梨倶梅儺波しりくめなは」と云う。そこで「二度とお戻りなさってはいけません。」と請い申しあげた

 その後諸神もろもろのかみたち罪過つみとがを素戔嗚尊に帰して、千座置戸ちくらおきと(物を置く数多くの場所。そこに置く莫大な賠償品)を科し、遂に督促して徴収した。これに応じないため、髪を抜いてその罪をあがなわせるに至った。また別に、その手足の爪を抜いて購ったと言う。こうしたあと、遂に放逐して降したのである。

 

〔一書1〕

 ある書はこう伝えている。誓約うけひの後に、稚日女尊わかひるめのみこと齊服殿いみはたどのいまして神の御服みそを織っていた。素戔嗚尊はこれを見ると、生きたまま班駒ふちこま逆剥さかはぎ(尻のほうから皮をぐこと)に剥いで、その殿内おほとののうちに投げ入れた。稚日女尊は、これに驚いてはたから墜ち、持っていたで体を傷つけて死去した。それゆえ、天照大神は素戔嗚尊に対して「なんじはやはり黒心きたなきこころがある。汝と会おうとは思わない。」と言い、そこで天石窟あまのいはやに入り、磐戸いはとを固く閉じてしまった。ここにおいて天下は常に闇となり、昼と夜の交替も無くなってしまった。

 それゆえ、八十万神やそよろずのかみ天高市あまのたけち(交易する市のように神の集う小高い場所)に会し(主語を明示しない)、善後策を問うた。この時、高皇産霊尊たかみむすひのみことの子息の思兼神おもひかねのかみという者がいた。思慮の智があったので、思いをめぐらして「あの神のみかたをかたち造って、招きいのたてまつるのがよい。」と申しあげたのである。それゆえさっそく石凝姥いしこりどめを鍛冶工とし天香山あまのかぐやまかねを採って日矛ひほこを作った。また真名鹿まなか愛子まなごで、愛らしい鹿)の皮を丸剥まるはぎにして天羽鞴あまのはぶき(火を起こすさい風を送る道具、ふいご)を作った。これらを用いて天照大神の像を造り奉った神が、紀伊国きのくにに鎮座する日前神ひのくまのかみである。「石凝姥」は、ここでは「伊之居梨度咩いしこりどめ」と云う。「全剥」、ここでは「宇都播伎うつはぎ」と云う。

 

〔一書2〕

 ある書はこう伝えている。日神尊ひのかみのみこと天垣田あまのかきた御田みたとしていた。この時、素戔嗚尊は、春にはその田のみぞを埋め、あぜを壊し、また秋の穀物がすでに成熟すれば、横取りあるいは収穫を妨害するため勝手に絡縄あぜなは(丈夫な縄)をその田に引き渡した。また日神が織殿はたどのに居た時には、班駒ふちこまを生きたまま皮を剥いでその殿内おほとののうちに投げ込んだ。おしなべてこの諸事もろもろのわざは、ことごとくが暴虐ぼうぎゃくであった。そうではあっても、日神は、情け深い親愛のこころがあり、怒らず恨まずに、すべて穏やかな心で容認した。

 それでも、日神が新嘗にひなへに当たっている(新穀を神に供え、神と共食する神聖な行事のさなか)時に及ぶと、素戔嗚尊はそれを見計らってその新嘗を行う新宮にひなへのみやの日神の御席みましの下にひそかにくそをした。日神は、なにも知らないまま、じかにその席の上にすわった。これにより、日神は全身が病んでしまった。それゆえ、たいそう怒り恨み、ただちに天石窟に籠もってその磐戸を閉じた。

 この時、諸神もろもろのかみたちは憂慮し、そこで鏡作部かがみつくり遠祖とほつおやである天糠戸あまのあらとには鏡を造らせ、忌部いみべの遠祖である太玉ふとたまにはにきてを造らせ、玉作部たますりべの遠祖である豊玉とよたまには玉を造らせた。また山雷やまつち(山の神)には五百箇真坂樹いほつまさかき八十玉籤やそたまくし(神にささげる祭具、玉串たまぐし)を採らせ、野槌のつち(野の神霊)には五百箇野薦いほつのすすきの八十玉籤を採らせた。おしなべてこの諸諸の物が皆来て集まった。その時に中臣なかとみの遠祖である天児屋命あまのこやねのみこと日神ひのかみの祝いことを言葉の限りとなえあげた。ここにおいて、日神はまさに磐戸を開いて出た。この時に鏡をその石窟に入れたので、戸に触れて鏡に小さなきずができてしまった。その瑕は、今もなお残っている。これがつまり、伊勢のあがめ敬う神秘な大神である。

 そうしたあと、罪を素戔嗚尊に科して、その罪をはらうためのものを出させた。こうして手端たなすゑ吉棄物よしきらひもの(祓えの具として切った手の爪)、足端あしすゑ凶棄物あしきらひもの(祓えの具として切った足の爪)があり、またつば白和幣しろにきて(唾液の供え物)とし、はな青和幣あをにきて(鼻水の供え物)とし、これらを用いて解除はらへ罪穢つみけがれを除去する祓え)をやり終え、遂に神逐かむやらひ(神の追放)の理によって追放した。「送糞」は、ここでは「俱蘇摩屢くそまる」と云う。「玉籤」は、ここでは「多摩俱之たまくし」と云う。「祓具」は、ここでは「波羅閉都母能はらへつもの」と云う。「手端吉棄」はここでは「多那須衛能余之岐羅毘たなすゑのよしきらひ」と云う。「神祝祝之」は、ここでは「加武保佐枳保佐枳枳かむほさきほさきき」と云う。「逐之」は、ここでは「波羅賦はらふ」と云う。

 

〔一書3〕

ある書はこう伝えている。この後に([一書 第一]と同じ書き出しのかたちをとるが、誓約うけひの後ではなく、先行する内容は不明)、日神ひのかみの田は三カ所あった。名を天安田あまのやすだ天平田あまのひらた天邑并田あまのむらあわせたという。これは皆良田であった。長雨ながあめ干魃かんばつに見舞われても、損なわれたり壊れたりなどしない。一方、その弟の素戔嗚尊の田も、また三カ所あった。名を天樴田あまのくひだ天川依田あまのかはよりだ天口鋭田あまのくちとだ という。これは、どこも土地がやせて狭小であり、石も多い。雨が降れば流れ、またひでりであればけてしまう。それゆえ、素戔嗚尊は姉の田を妬んで害を加えた。春には、田の用水路をだめにし、溝を埋め、あぜを壊し、またすでに種子たねを播いた上に重ね播きする。秋には、収穫前の田に串を刺して自分のものとしたり、馬を入れて腹這はらばいにさせたりする。すべてこの悪事の止む時がまったく無かった。それにもかかわらず、日神は怒らず、いつも穏やかで思いやりの心で容認していた。云云うんぬん。(省略を表す語。その省略は、日神の天石窟閉居を導く素戔嗚尊の悪辣あくらつな行為を主な内容とする先行[一書 第二]を前提とする)。

 日神ひのかみ天石窟あまのいはやにとじ籠もるに及んで、諸神もろもろのかみたち中臣連なかとみのむらじ遠祖とほつおやである興台産霊こごとむすひの児の天児屋命あまのこやねのみことを遣わして祈らせた。そこで天児屋命は、天香山あまのかぐやま真坂木まさかきを根ごと掘り出し、その上の枝には、鏡作かがみつくり遠祖とほつおやである天抜戸あまのぬかとの児の石凝戸辺いしこりとべが作った八咫鏡やたのかがみを掛け、中の枝には、玉作たますりの遠祖である伊奘諾尊いざなきのみことみこ天明玉あまのあかるたまが作った八坂瓊やさかに曲玉まがたまを掛け、下の枝には、粟国あはのくに忌部いみべの遠祖である天日鷲あまのひわしが作った木綿ゆふ(木の繊維を糸状にした祭器。さかきに掛け、たすきにして神事に使う)を掛け、そうして忌部のおびとの遠祖である太玉命ふとたまのみことにこの真坂木を手に取り持たせ、壮大・重厚に賛美するたたえごとを祈り申し上げた。時に、日神はこれを聞いて「このごろ人が何度も石窟いはやから出るように誓願するが、いまだこんなにも麗美うるはしい言葉はない。」と言い、そこで磐戸を細めに開けて外をうかがった。この時、天手力雄あまのたちからをが磐戸のかたわらにひかえていたので、ただちに磐戸を引き開けると、日神の光が世界の隅々まで満ちた。

 それゆえ、諸神は大いに喜び、さっそく素戔嗚尊に千座置戸ちくらおきと解除はらへ(罪けがれを祓うためのもの、祓えの)を科し、手の爪を吉爪棄物とし、足の爪を凶爪棄物あしきらひものとした。そこで、天児屋命あまのこやねのみことにその解除のこの上なく荘重・厳粛な祝詞のりとつかさどり、唱えさせた。世人よのひとが自分の爪を慎重に収めるのは、これがその縁(ことの起こり)なのである。

 そうしたあと、諸神は素戔嗚尊を責めとがめて「なんじが所行は甚だ常軌を逸している。だから天上に住んではならない。また葦原中国あしはらのなかつくににも居てはならない。今すぐに底根之国そこつねのくにに往くがよい。」と言い、そこで共に天上からい降りかせた。

 ちょうどこの時、霖雨が降っていた。素戔嗚尊は青草を結い束ねて笠や蓑とし、宿を多くの神に乞うた。神神は「汝は、みずからの所行が濁って悪辣だから追い払われ流されるのだ。それなのに、どうして宿を私に乞うのか。」と言い、結局みな同じように拒絶した。そこで、風雨は甚だしかったけれども、留まり休むことができずに、つらく苦しみながら降った。それ以来、世の人では、笠やみのを着けたまま他人の家の屋内に入ることをむのである。また束ねた草を負って他人の家の内に入ることも諱む。これを犯す者があれば、必ず解除はらへ(祓えの具)を出してつぐなわさせる。これは、太古から残されてきたきまり・制度である。

 この後に、素戔嗚尊は「諸神もろもろのかみたちが私を追放した。私は、今ここから永久に去ろうと思うけれども、どうして姉と会うことも無く、自分勝手にただちに去ることができようか。」と言い、また天地を揺るがして天に昇った。この時、天鈿女あまのうずめが見て、日神ひのかみに報告した。日神は「私の弟が天に昇って来る理由は、決して好意ではない。必ず我が国を奪おうとしているのではないか。私は婦女だが、どうして避けようか。」と言い、みずから戦いのそなえを身に装った。云云うんぬん(省略を表す語。前出)。

 そこで素戔嗚尊はうけひをして「私がもし善くない心を懐いて再度ここに昇って来たのであれば、私がいま玉を噛んで生む児は、必ずや女であるはずです。そうだとしたら、この女の児を葦原中国に降すことができます。もし清い心があるのであれば、必ずや男を生むはずです。そうだとしたら、この男の児に天上を統治させることができます。また姉の生むのも(生む児の男女とその処遇との対応)、またこの誓いと同じです。」と言った。ここにおいて、日神が先に十握剣とつかのけんを噛み、云云。

 素戔嗚尊は、そこでもくるくるとその左のみずらいている五百箇統いほつみすまるの緒を解き、瓊の触れ合う音もさやかに天渟名井あまのぬないすすぎ浮かべ、その瓊の端を噛み、吐き出して左のたなごころに置いて児の正哉吾勝勝速日天忍穂根尊まさかあかつかちはやひあまのおしほねのみことを生んだ。また右の瓊を噛み、吐き出して右の掌に置いて、児の天穂日命あまのほひのみことを生んだ。これが、出雲臣いずものおみ武蔵国造むさしのくにのみやつこ土師連等はじのむらじら遠祖とほつおやである。次に天津彦根命あまつひこねのみこと。これが、茨城国造うばらきのくにのみやつこ額田部連ぬかたべのむらじの遠祖である。次に活目津彦根命いくめつひこねのみこと。次に熯速日命ひのはやひのみこと。次に熊野大角命くまののおほすみのみこと。合わせて六男むはしらのひこかみである。そこで素戔嗚尊は日神に「私の再び天上に昇って来た理由は、多くの神神が私を根国ねのくにに追放処分したことです。今そこに退去しなければならず、もし姉とお会いしなければ、とうてい別離にたえられません。それゆえ、本当に清い心で再び昇って来ただけなのです。今はもうお目見えもすみました。多くの神神の意向に従い、これより永久に根国に赴くべきなのです。どうか姉上には天国あまつくに(語構成上は天の国であり、高天原たかあまはらとみるのが通説だが、存疑。天上と葦原中国との対応上は、天地に通じる天と国との熟合の可能性もある)に照臨しょうりん(四方を照らし、君臨すること)し、おのずから平安でおられるのがよろしい。私は、清い心で生んだ児らもまた姉上に奉ります。そうしたあと、再び、葦原中国に還り降った。「廃渠槽」は、ここでは「秘波鵝都ひはがつ」と云う。「捶籤」は、ここでは「久斯社志くしざし」と云う。「興台産霊」はここでは「許語等武須毘こごとむすひ」と云う。「太諄辞」はここでは「布斗能理斗ふとのりと」と云う。「○轤然」はここでは「乎謀苦留留爾おもくるるに」と云う。「瑲瑲」は、ここでは「奴儺等母母由羅爾ぬなとももゆらに」と云う。

 

『日本書紀』第八段 現代語訳

〔本伝〕

 この時(諸神に追放されて高天原を降る時)、素戔嗚尊は天より降り、出雲国いずものくにかわほとりに至った。その際、川の上に死をいたんできさけぶような声がするのを聞いたので、その声を尋ね求めて往けば、老翁おきな老婆おうなが中に少女を置いてでながら哭いていた。素戔嗚尊が「なんじらは誰か、どうしてそんなありさまで哭いているのか。」と問うと、これに対して「私は国神くにつかみで、名を脚摩乳あしなづちと申します。私の妻は手摩乳てなづちと申します。この童女をとめは私の児で、奇稲田姫くしいなだひめと申します。哭く理由というのは、過去に私の児は八人の少女をとめがいましたが、年ごとに一人ずつ八岐大蛇やまたのをろちに呑み込まれてしまいました。今、この少女が大蛇をろちに呑み込まれようとしています。なんともがれる手立てがありません。それで(この少女の死を)悲しみいたんでいるのです。」と答えた。素戔嗚尊がちょくして「もしそうだとするならば、汝はむすめを私にたてまつるか。」と言うと、「勅に従って奉ります。」と答えた。

 それゆえ、素戔嗚尊はたちまち奇稲田姫を湯津爪櫛ゆつつまくし(神聖な爪を立てた形状の櫛(くし))に化身させて、御髻みみずらした。そこで脚摩乳と手摩乳に八醞やしほをりの酒(醸造を何度もくり返した強い酒)を造り、あわせて仮庪さずき(桟敷)を八間やま(八つの仮の棚)作り、「仮庪」は、ここでは「佐受枳さずき」と云う。そのおのおのに一つの酒桶さかおけを置いて酒をそれに盛らせ、大蛇の到来を待ったのである。

 その時期に至ると、はたして大蛇が姿を現した。頭と尾は、それぞれ八岐やまたに分かれ、眼は赤酸醤あかかがち(ほうずき)のようであり、「赤酸醤」は、ここでは「阿箇箇鵝知あかかがち」と云う。松や柏(かや。常緑高木)がその背に生えて、八つの丘、八つの谷の間に蛇体をいわたらせていた。酒を得ると、八岐の頭をそれぞれ酒桶に突っ込んで飲み、酔っててしまった。この時を見はからって、素戔嗚尊はびていた十握剣とつかのつるぎを抜き、細かくその大蛇を斬り刻んだ。尾に至ったところで、その剣の刃が少し欠けた。それでその尾を切り裂いて見れば、中に一振りの剣があった。これが、いわゆる草薙剣くさなぎのつるぎである。「草薙剣」は、ここでは「俱裟那伎能都留伎くさなぎのつるぎ」と云う。ある書には、「もとは名を天叢雲剣あまのむらくものつるぎという。思うに、大蛇のいる上には、常に雲気うんきがただよっている。それゆえに、そう名付けたのではないか。日本武皇子やまとたけるのみこに至って、名を改めて草薙剣という」とつたえている。素戔嗚尊は「是は神剣あやしきけんである。私がどうしてあえて自分のものとして置こうか。」と言い、そこで天神あまつかみに献上したのである。

 その後、素戔嗚尊は奇稲田姫くしいなだひめと結婚するのに最適な場所を求めて探し訪ね、その果てに遂に出雲の清地すがに到った。「清地」は、ここでは「素鵝すが」と云う。そこで「私の心は清清すがすがしい」と言い、この次第で、今この地を「すが」と言う。その場所に宮を建てた。ある説には、時に武素戔嗚尊たけすさのをのみことが「八雲やくもたつ出雲いづも八重垣やへがき 妻籠つまごめに 八重垣作る その八重垣ゑ」と歌ったと伝えている。そこで結婚して児の大己貴神おほあなむちのかみを生んだ。これにより、勅して「私の児の宮を管理するつかさ(司長)は、脚摩乳と手摩乳である。」と言い、それで、この二神ふたはしらのかみに名号を賜り、稲田宮主神いなだのみやぬしのかみと言うのである。そうしたあと、素戔嗚尊は根国ねのくにに行った。

 

〔一書1〕

 ある書はこうつたえている。素戔嗚尊は天から降り、出雲のの川のほとりに到った。そうして稲田宮主簀狹之八箇耳いなだみやぬしすさのやつみみの子女、稲田媛いなだひめに会い、そこで奇御戸くみど(隠処、寝所)に睦事むつごとを始めて児を生み、清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠すがのゆやまぬしみなさもるひこやしましのと名付けた。一説に清之繫名坂軽彦八嶋手命すがのゆひなさかかるひこやしまでのみことと云う。また一説に、清湯山主三名狹漏彦八嶋野すがのゆやまぬしみなさもるひこやしまのと云う。この神の五世の孫が大国主神おほくにぬしのかみである。「篠」は「小竹ささ」である。ここでは「斯奴しの」と云う。

 

〔一書2〕

 ある書はこうつたえている。この時、素戔嗚尊は天から下り、安芸国あきのくに可愛の川のほとりに到ったのである。そこに神がいた。名を脚摩手摩あしなづてなづと言う。その妻は名を稲田宮主簀狹之八箇耳いなだのみやぬしすさのやつみみと言う。この神はまさに妊娠中であった。夫と妻は共に愁え、そこで素戔嗚尊に「私の生んだ児は多かったのですが、生むたびに、八岐大蛇が来て呑み込んでしまい、一人も生き残ることができていません。いま私は児を産もうとしていますが、おそらくはまた呑まれてしまいます。それで悲しみいたんでいるのです。」と告げた。

 素戔嗚尊はそこで二神ふたはしらのかみに教えて「汝は多くの木の実で酒を八甕やかめ醸造したらよい。私が汝のためにをろちを殺してやる。」と言った。二神はこの教えどおり、酒を設けそなえた。いよいよ産む時に至ると、確かにあの大蛇をろちが戸につき当たって児を呑みこもうとした。素戔嗚尊は蛇に勅して「汝は恐れ敬うべき神だ。是非とも酒を供えてもてなさなければならない。」と言い、そこで八つのかめの酒を、大蛇の八つの口ごとに注ぎ込んだ

するとその蛇は、酒に酔っててしまった。素戔嗚尊は剣を抜いて斬った。尾を斬る時に至ったところで、剣の刃が少し欠けた。尾を割いて見れば、中に剣があった。名を草薙剣と言う。これがいま尾張国おはりのくに吾湯市村あゆちのむらにある。熱田祝部あつたはふり管掌かんしょうする神がこれである。その蛇を断ちきった剣は、名を蛇之麁正おろちのあらまさと言う。これが、今は石上いそのかみにある。

 この後、稲田宮主簀狹之八箇耳いなだのみやぬしすさのやつみみの生んだ児、真髪触奇稲田媛まかみふるくしいなだめを出雲のの川のほとりに遷し置き、養育して、成長させた。そうした後に素戔嗚尊が妃となして生んだ児の六世の孫が、名を大己貴命おほあなむちのみことと言うのである。「大己貴」は、ここでは「於褒婀名娜武智おほあなむち」と云う。

 

〔一書3〕

 ある書はこうつたえている。素戔嗚尊が奇稲田媛をめとろうと思って乞うた。脚摩乳あしなずち手摩乳てなずちはこれに答えて「どうか先にあのをろちを殺して下さい。その後に娶るというのであればよろしいでしょう。あの大蛇をろちは、頭ごとにそれぞれ岩松いはまつがあり、両脇ふたつのわきに山があって、甚だ恐るべきです。なにで殺すのでしょうか。」と言った。

 素戔嗚尊は、そこで計略をめぐらし、毒酒あしきさけを醸造して大蛇に飲ませた。蛇は酔って睡ってしまった。素戔嗚尊は、そこで蛇韓鋤之剣をろちのからさひのけんで頭を斬り、腹を斬った。その尾を斬る時に、剣の刃が少し欠けた。それゆえ尾を裂いて見ると、別に一振ひとふりの剣があった。名を草薙剣とした。この剣は、昔は素戔嗚尊のもとにあったが、今は尾張国をはりのくににある。その素戔嗚尊が蛇を断ち斬った剣は、今は吉備きび神部かむとものを(神職)のもとにある。出雲の簸の川のほとりの山がこれである。

 

〔一書4〕  

 ある書はこうつたえている。素戔嗚尊の所業が暴虐極まりなかった。それゆえ、諸神は千座置戸(罪過を贖う莫大な賠償品)を素戔嗚尊に科して、遂に天上から追放した(第七段 [本伝]の抄録)。

 この時、素戔嗚尊は子の五十猛神いたけるのかみをひき連れて新羅国しらぎのくにに降り到って、その曽尸茂梨そしもりという所に居住した。そこで声高こわだかに言葉を発して「この地は、私は居たいとは思わない。」と言い、遂に埴土はにで舟を作り、これに乗って海を東に渡り、出雲国いずものくにの川のほとりに所在する鳥上とりかみたけに到った。まさにこの時、そこには人を呑み込む大蛇をろちがいた。素戔嗚尊はそこで、天蠅斫之剣あまのははきりのつるぎでその大蛇を斬った。その際、蛇の尾を斬ったところで、刃が欠けた。すぐに裂いてよく見ると、尾の中に一振りの神剣あやしきけんがあった。素戔嗚尊は「これは、私が自分一人だけで使用してはならないものだ。」と言い、そこで、五世の孫に当たる天之葺根神あまのふきねのかみを遣わして天に献上した。これが、今にいう草薙剣くさなぎのつるぎである。

 当初、五十猛神いたけるのかみが素戔嗚尊に伴って天降あまくだった時に、多く木の種を持って下った。しかし韓地からくに(新羅)にはそれを一切植えることなく、全て東渡の際に持ち帰り、遂に筑紫つくしから始め大八洲国おほやしまのくにの国内すべてのところにき植え、ことごとく青山あをやまに成した。このはたらき、功績により、五十猛命いたけるのみこと有功之神いさをしのかみと称するのである。すなわち紀伊國きのくにに鎮座する大神おほかみ(和歌山市伊太祈曾いたきそ伊太祁曾神社いたきそじんじゃ)がこれである。

 

〔一書5〕

 ある書はこうつたえている。素戔嗚尊が「からくに(地方)に所在する嶋には金銀がある。もし私の児(第八段[本伝]に「生児大己貴神おほあなむちのかみ」と伝える)の支配する国に浮く宝(船)がなければ、それは良くない(金銀のある嶋に渡れない)と言い、そこであごひげほほひげを抜いて播いた。すると、それがたちまち杉に成った。また胸の毛を抜いて播くと、これがひのきに成った。尻の毛はまきに成り、眉の毛が櫲樟くすに成った。そうして、あとでその用途を定めた。そこで「杉および櫲樟くすは、二つの樹とも浮く宝(船)にすべきだ。ひのきは、瑞宮みづみや(宮殿)の用材とすべきだ。まきは、顕見蒼生うつしきあをひとくさ(現にこの世に生きる民草たみくさ。人民)の奧津棄戸おきつすたへ(墓所)に臥す具(棺)とすべきだ。さて食用にすべき八十木種やそこだね(数多くの果実の種)は、どれも播いて生かすことができた。」ととなえた。

 この時、素戔嗚尊のみこ(児とは違う)は名を五十猛命いたけるのみことと言い、その妹は大屋津姫命おほやつひめのみことであり、次が枛津姫命つまつひめのみことである。みなこの三柱みはしらの神も、木の種を広く播いた。そこで紀伊国きのくにに渡し奉ったのである。そうした後、素戔嗚尊は熊成峰くまなりのたけに居住し、遂に根国ねのくにに入ったのである。「棄戸」は、ここでは「須多杯すたへ」と云う。「柀」は、ここでは「磨紀まき」という。

 

 



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