素戔鳴尊とは?生まれながらの無道者で根国へ追放された神。日本神話をもとに素戔鳴尊を分かりやすく解説します。
目次
『日本書紀』第五段 現代語訳
〔本伝〕天下之主者生み(神生み)
次に海を生んだ。次に川を生む。次に山を生む。次に木の祖、句句廼馳を生む。次に草の祖、草野姫を生む。またの名を野槌と言う。
そして伊奘諾尊・伊奘冉尊は共に議り、「我々はすでに大八洲国をはじめ山川草木まで生んでいる。どうして地上世界の統治者を生まないでいようか。」と言った。
そこで、共に日神を生む。名を大日孁貴と言う。(大日孁貴、ここでは於保比屢咩能武智と言う。孁は、音は力丁の反である。ある書には、天照大神と言う。ある書には、天照大日孁尊と言う。)この子は、光り輝くこと明るく色とりどりで、世界の内を隅々まで照らした。それで、二柱の神は喜び「我々の子供は多いけれども、まだこのように霊妙不可思議な子はいない。長くこの国に留め置くのはよくない。すぐに天に送り、天上の事を授けるべきだ。」と言った。この時は、天と地がまだたがいに遠く離れていなかった。それで天柱を使って、天上に送り挙げたのである。
次に、月神を生んだ。(ある書には、月弓尊、月夜見尊、月読尊と言う。)その光りの色どりは日神に次ぐものであった。日神とならべて天上を治めさせるのがよいとして、また天に送った。
次に蛭児を生んだが、三歳になっても脚が立たなかった。それゆえ天磐櫲樟船に乗せ、風のまにまに捨てた。
次に素戔鳴尊を生んだ。(ある書には、神素戔鳴尊、速素戔鳴尊と言う。)この神は勇ましく残忍であった。そして、いつも哭くことをわざとしていた。このため、国内の多くの民を早死にさせ、また青々とした山を枯らしてしまった。それゆえ父母の二神は素戔嗚尊に勅して、「お前は、全く道に外れて乱暴だ。この世界に君臨してはならない。当然のこと、はるか遠く根国へ行かなければならない。」と命じ、遂に放逐したのである。
〔一書1〕御寓之珍子生み
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊が「私は天下を統治する優れて貴い子を生もうと思う。」と言い、左の手で白銅鏡を持つと、そこから化し出る神があった。これを大日孁尊と言う。右手に白銅鏡を持つと、また化し出る神があった。これを、月弓尊と言う。また首を廻らせて見たその瞬間に、化す神があった。これを、素戔嗚尊と言う。
先に化し出た大日孁尊および月弓尊は、ともに性質が明るく麗しかった。それゆえ、伊奘諾尊は両神に天地を照らし治めさせた。素戔嗚尊は、生まれつき残酷で害悪なことを好む性格であった。それで根国に下して治めさせた。
〔一書2〕卑の極まりと祭祀による鎮魂
ある書はこう伝えている。日と月は既に生まれた。次に蛭児を産んだ。この子は三年経っても足腰が立たなかった。これは初めに、伊奘諾・伊奘冉尊が御柱を巡った時に、陰神が先に喜びの声を発したからである。陰陽の原理に背いてしまったのだ。そのせいで今蛭児が生まれた。
次に素戔鳴尊が生まれた。この神は、神としての性質が悪く、常に哭いて怒りを露にしてばかりいた。それで国の民がたくさん若死にし、青々とした山は枯れた。そのため父母は、「もしお前がこの国を治めたならば、必ず多くの人々を殺し傷つけるだろう。だからお前はここから遠く離れた根国を治めよ」と命じた。
伊奘諾尊は黄泉から辛うじて逃げ帰り、そこで後悔して「私は今しがた何とも嫌な見る目もひどい穢らわしい所に行ってしまっていたものだ。だから我が身についた穢れを洗い去ろう。」と言い、そこで筑紫の日向の小戸の橘の檍原に至り、禊祓をした(身の穢れを祓い除いた)。
こういう次第で、身の穢れをすすごうとして、否定的な言いたてをきっぱりとして「上の瀬は流れが速すぎる。下の瀬はゆるやかすぎる。」と言い、そこで中の瀬で濯いだ。これによって神を生んだ。名を八十枉津日神と言う。次にその神の枉っているのを直そうとして神を生んだ。名を神直日神と言う。次に大直日神。
また海の底に沈んで濯いだ。これによって神を生んだ。名を底津少童命と言う。次に底筒男命。また潮の中に潜ってすすいだ。これに因って神を生んだ。名を中津少童命と言う。次に中筒男命。また潮の上に浮いて濯いだ。これに因って神を生んだ。名を表津少童命と言う。次に表筒男命。これらを合わせて九柱の神である。その中の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、これが住吉大神である。底津少童命、中津少童命、表津少童命は、安曇連らが祭る神である。
そうして後に左の眼を洗った。これによって神を生んだ。名を天照大神と言う。また右の眼を洗った。これに因って神を生んだ。名を月読尊と言う。また鼻を洗った。これに因って神を生んだ。名を素戔嗚尊と言う。合わせて三柱の神である。
こういう次第で、伊奘諾尊は三柱の御子に命じて「天照大神は、高天原を治めよ。月読尊は、青海原の潮が幾重にも重なっているところを治めなさい。素戔嗚尊は天下を治めなさい。」と言った。
この時、素戔嗚尊はすでに年が長じていて、また握りこぶし八つもの長さもある鬚が生えていた。ところが、天下を治めようとせず、常に大声をあげて哭き怒り恨んでいた。そこで伊奘諾尊が「お前はどうしていつもそのように哭いているのだ。」と問うと、素戔嗚尊は「私は根国で母に従いたいのです。だから、哭いているだけなのです。」と答えた。伊奘諾尊は不快に思って「気のむくままに行ってしまえ。」と言って、そのまま追放した。
『日本書紀』第六段 現代語訳
〔本伝〕
そこで(根国への追放処分を受け)、素戔嗚尊は伊奘諾尊に請い、「私はいま勅命を奉じて根国に行こうとしています。ですから、しばらく高天原に出向き、姉(天照大神)とお会いしてその後、永久にこの世界から退去することにしたいと思います。」と言った。伊奘諾尊はこの請願を勅許した。そこで、素戔嗚尊は天に昇り、天照大神のもとに詣でたのである。
この後、伊奘諾尊は、はかり知れない仕事をすでにやり遂げ、霊妙な命運が遷るべきであった。それで終の住み処となる幽宮を淡路の洲に構え、ひっそりと身をとこしえに隠したのである。またこうした伝えもある。伊奘諾尊は、その仕事がすでに行き届き、德も偉大であった。そこで天に登り、天神に報告した。これにより、日の少宮に留まり宅むのである。少宮、ここでは「倭柯美野」と云う。
はじめ素戔嗚尊が天に昇った時、大海がそれで激しく波打って揺れ動き、山岳はそのため鳴りとどろいた。これは、神の本性の雄々しく猛々しいことがそうさせているのである。天照大神は、もとよりその神の暴悪を知っていた。素戔嗚尊の天に昇って来るさまを聞くに及んで、顔色をにわかに変えて驚き、「私の弟の来るのは、よもや善意ではあるまい。思うに、きっと国を奪う意志があるはずではないか。そもそも父母がすでにどの子をも任じ、だからそれぞれが統治する境界をもっている。それなのにどうして赴くべき国を棄て置き、ことさら此処(高天原)を奪い取ろうなどとするのか。」と言った。そこで防禦すべく、髪を結って髻(男の髪型)とし、裳(女の上下組み合わせた衣と裳、裳は腰から下をおおう衣服)を縛って袴とした上で、八坂瓊の五百箇御統(大きな玉をいくつも紐で通してつなげた玉飾り)で、(御統 ここでは「美須磨屢」と云う)その髻・鬘(髪飾り)および腕に巻き付け、また背には千箭(数多くの矢)(千箭 ここでは「知能梨」と云う)の靫(矢を入れる武具)と五百箭の靫を負い、臂に稜威(相手を恐れさせる強盛な威力)(稜威 ここでは「伊都」と云う。)の髙鞆(弓を射るさい弦の当たるのを防ぐ一方、当たって高い音を出すために左手首の内側に巻き付ける武具)を著け、弓彇(弦をかける弓の両端部。上端を末弭、下端を本弭という)を振りたて、剣の柄を力強く握りしめて、堅い大地を踏んで股までのめり込ませ、そのまま淡雪のように蹴散らかし、(蹴散 ここでは「倶穢簸邏邏箇須」と云う)稜威の雄詰(相手を威圧する雄壮な声)(雄詰 ここでは「烏多稽眉」と云う)を奮わせ、稜威の嘖譲(責め叱りたてる言葉)を発して、面と向かい問い詰めた。
素戔嗚尊は、これに対して「私には、もともと邪悪な心(具体的には高天原の乗っ取り)はない。ただ、すでに父母の厳しい勅命があり、永久に根国に行こうとしているのです。それでもし姉にお会いしなければ、私はどうしてあえて去くことができるでしょう。それですから雲や霧のなかを跋渉し、遠路はるばる参り来たのです。姉上が喜ぶどころか、厳しいお怒りの顔をなさるとは思いもしませんでした。」と答えた。その時、天照大神がまた「もしそうだとしたら、何をもって爾の赤き心(潔白)を証明しようとするのか。」と問うと、これには「姉と共に誓(事前に決めておいた通りの結果になるか否かをもって、神意を判定する占い)することをお願いします。この誓約の中では、(誓約之中 ここでは「宇気譬能美難箇」と云う)必ずや子を生むでしょう。もし私の生むのが女であれば、濁きこころがあるとしてください。もし男であれば、清き心があるとしてください。」と答えた。
そこで、天照大神が素戔嗚尊の十握剣(握は拳一つの幅。大剣)を索め取り、これを三段に打ち折り、天の真名井(神聖な井)に濯いで、噛みに噛んで(○然咀嚼 ここでは「佐我弥爾加武」と云う)砕き、吹き棄てた息吹によってできた細かな霧に(吹棄気噴之狭霧 ここでは「浮枳于都屢伊浮歧能佐擬理」と云う)生まれた神が、名を田心姫と言う。次に湍津姫、次に市杵嶋姫。合わせて三女である。今度は、素戔嗚尊が天照大神の髻・鬘および腕に纏いている八坂瓊の五百箇御統を乞い取り、これを天の真名井に濯いで、噛みに噛んで砕き、吹き棄てた息吹の細かな霧に生まれたのが、名を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊と言う。次に天穂日命、是は出雲臣・土師連等の祖である。次に天津彦根命。是は凡川内直・山代直等の祖である。次に活津彦根命。次に熊野櫲樟日命。合わせて五男である。
この時、天照大神は勅して「その物実(子としてうまれるそのもとの根源)を原ねると、八坂瓊の五百箇御統は、間違いなく私の物である。だから、そちらの五男神はすべて私の子である。」と言い、そうして引き取って子として養育した。また勅して「その十握剣は、まぎれもなく素戔嗚尊の物である。だから、こちらの三女神はすべて爾の児である。」と言い、素戔嗚尊に授けた。三女神は、筑紫の胸肩君等の祭る神がこれである。
〔一書1〕
ある書はこう伝えている。日神は、もともと素戔嗚尊に勇猛で物を突き抜けてその上に出るような意のあることを知っていた。その天に昇り至るに及んで、思うようは、「弟の来たわけは、決して善意ではあるまい。必ずやわたしの天の原を奪うに違いない。」と。そこで大夫の武の装備をととのえ、身には十握剣・九握剣・八握剣を帯び、背に靫を負い、また臂には稜威の髙鞆を著け、手に弓と箭をつかみ、みずから迎え防禦した。この時素戔嗚尊が日神に告げて「私はもともと悪い心(国を奪い取る反逆心)などありません。ただ姉とお会いしたいと思い、ただそれだけで少しの間来たに過ぎないのです。」と言った。そこで日神は、素戔嗚尊と共に向き合って誓を立て「もし爾の心が明浄で、国を力づくで奪い取る意志がないのならば、汝の生む児は、必ず男のはずだ。」と言い、そう言い終わると、先に身に帯びている十握剣を食べて児を生んだ。名を瀛津島姫と言う。また九握剣を食べて児を生んだ。名を湍津姫と言う。また八握剣を食べて児を生んだ。名を田心姫という。合わせて三女神である。
そうしたあと今度は素戔嗚尊がその頸にかけている五百箇御統の瓊(数多くの玉を数珠つなぎした美玉)を天渟名井、またの名は去来の真名井に濯いで食べ、そうして子を生んだ。名を正哉吾勝勝速日天忍骨尊と言う。次に天津彦根命。次に活津彦根命。次に天穂日命。次に熊野忍蹈命。合わせて五男神である。
それゆえ、素戔嗚尊はすでに勝の験(証拠)を得た。そこで、日神は、素戔嗚尊にもともと悪意がなかったことをまさに知り、そこで日神の生んだ三女神を筑紫の洲に降した。これにより、三女神に教えて「汝三神は、道中(〔一書 第三〕に「海の北の道中」という海路をいう。この玄界灘の沖ノ島に沖津宮、大島に中津宮、宗像に返津宮がある)に降り居て、天孫(後に降臨する火瓊瓊杵尊)を助け奉り、天孫に祭られなさい。」と言った。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。素戔嗚尊が天に昇ろうとする時に、名を羽明玉という神が迎え奉り、めでたいしるしの八坂瓊曲玉(大きな美しい珠の湾曲した玉)を進呈した。それで、素戔嗚尊はその瓊玉を持って天上に到ったのである。
この時、天照大神は、弟に悪い心(国を奪い取る邪悪な心)があることを疑い、軍兵を動員して問い詰めた。素戔嗚尊はこれに対して「私の来た理由は、実際に姉とお会いしたいと思ったからです。また珍宝の瑞八坂瓊曲玉を献上しようとしただけです。それ以外にことさら意図などありません。」と答えた。この時また天照大神が「汝のその言葉が嘘か実か、何を験(証拠)とするのか。」と問うと、答えて「私が姉と共に誓約を立てることを要請します。この誓約の間に、女を生めば黒心(国を奪い取る謀反の心)であり、逆に男を生んだら赤心(潔白な心)です。」と答えた。そこで天真名井を三処掘り、ともに向き合って立った。
この時、天照大神が素戔嗚尊に向かって「私の帯びる剣を、今汝に奉ろう。汝の持っている八坂瓊曲玉を私に授ければよい。」と言った。このように約束し、共に所持品を交換して取った。そうしたあと天照大神は八坂瓊曲玉を天真名井に浮かべ寄せて、瓊の端を噛んで断ち切り、口から吹き出した気息の中に神を化生した。名を市杵嶋姫命という。これが大海の遠い沖(沖津宮)に居る神である。また瓊の中ほどをかんで断ち切り、口から吹き出した
気息の中に神を化生した。名を田心姫命という。これが中ほどの沖あい(中津宮)に居る神である。また瓊の尾(尻に当たる部分)をかんで断ち切り、口ちから吹き出した気息の中に神を化生した。名を湍津姫命という。これが浜辺(辺津宮)に居る神である。合わせて三女神である。
そこで今度は素戔嗚尊が持っている剣を天(あまの)真(ま)名井(ない)に浮かべ寄せて、剣の末(すえ)(切っ先)をかんで断ち切り、口ちから吹き出した気息の中に神を化生した。名を天穂日命という。次に正哉吾勝勝速日天忍骨尊。次に天津彦根命。次に活津彦根命。次に熊野櫲樟日命。合わせて五男神であると、爾云う(「爾」が以上の記述全体を指す。「一書曰」に対応する締め括り辞)。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。日神は素戔嗚尊と天安河を隔てて向き合い、そこで誓約を立て「汝にもし姧賊之心(国を奪い取る邪悪な心)がないのであれば、汝の生む子は必ず男である。もし男を生めば、私は子として天原を治めさせる。」と明言した。さてそこで、日神が先にその帯びている十握剣を食べて児の瀛津嶋姫命を化生した。亦の名を市杵嶋姫命という。また九握剣を食べて児の湍津姫命を化生した。また八握剣を食べて児の田霧姫命を化生した。
そうして今度は素戔嗚尊がその左手の髻に纏きつけている五百箇統の瓊を口に含み、吐き出して左手の掌中に著けて男を化生した。そこでこれを称えて「なんとまさしくも、私が勝ったのだ。」と言った。だから、それによって名付け、勝速日天忍穂耳尊と言う。また右の髻の瓊を口に含み、吐き出して右手の掌中に著け、天穂日命を化生した。また頸にかけている瓊を口に含み、吐き出して左臂の中に著け、天津彦根命を化生した。また右臂の中から活津彦根命を化生した。また左足の中より熯之速日命を化生した。また右足の中から熊野忍蹈命を化生した。亦の名を、熊野忍隅命という。その素戔嗚尊の生んだ児は、皆まさに男である。
それゆえに、日神はまさに素戔嗚尊にもともと赤心(潔白な心)があったことを知った。そこでその六男を引き取って日神の子とし、天原を治めさせた。同時に、日神の生んだ三女神は、葦原中国の宇佐嶋に降して居らせた。今、海の北の道中に在って、名を道主貴と言う。これは、筑紫の水沼君等の祭る神がこれである。「熯」は、「干」である。ここでは「備」と云う。
『日本書紀』第七段 現代語訳
〔本伝〕
この後には、素戔嗚尊の行うことが、甚だ常軌を逸脱したものであった。何かといえば、天照大神は天狭田・長田を御田としていたが、その時、素戔嗚尊が春にはその御田のすでに種子を播いた上にさらに種子を播き、「重播種子」は、ここでは「璽枳磨枳」と云う。しかもまたその畔を壊しなどする。秋には、天斑駒を放ち、稲の実る田の中に伏せさせ、また天照大神が新嘗(新穀を神に供えかつ食する祭祀)をする時を見計らっては、新造した宮(新嘗を行う殿舎)にこっそり糞を放ちかける。また天照大神がまさに神衣を織って斎服殿(機を織る神聖な殿舎)に居るのを看ると、天斑駒の皮を剥ぎ、その殿の甍を穿って投げ込んだ。この時、天照大神は驚愕して、織り機の梭で身を傷つけてしまった。これによって激怒し、そこで天石窟に入り、磐戸を閉じて籠もってしまった。それゆえ、この世界中が常闇(はてしなく続く闇)となり、昼と夜の交代も分からなくなってしまった。
この時、八十万神が天安河辺に会合して、その祈るべき方法を計画した。それゆえ、思兼神は深謀遠慮をめぐらせ、遂に常世(神仙境)の長鳴鳥(鳴き声を長くのばして暁を告げる鶏)を集めて互いに長鳴きさせ、また手力雄神を磐戸の側に立たせた。そうして中臣連の遠祖天児屋命と忌部の遠祖太玉命が、天香山の五百箇真坂樹(神域を画するりっぱな境木)を根こそぎ掘り出し、上の枝には八坂瓊の五百箇御統をかけ、中の枝には八咫鏡(咫は開いた手の親指と中指の間の長さ)をかけ、あるいは「真経津鏡」と云う。下の枝には青和幣、「和幣」は「尼枳底」と云う。白和幣をかけ、一緒にその祈祷に尽くした。また猨女君の遠祖天鈿女命は、手に茅を纏いた矟を持ち、天石窟戸の前に立って巧みに俳優(独特の所作を伴う舞踊。演者を倡優という)をした。また天香山の真坂樹を鬘(髪飾り)にし、蘿(蘿蔓で、常緑のシダ類)「蘿」は、ここでは「比舸礙」と云う。を手繦にして、「手繦」は、ここでは「多須枳」と云う。かがり火を焚き、覆槽(逆さに伏せた桶)を伏せ置き、「覆槽」は、ここでは「于該」と云う。顕神明之憑談(神の憑依による神託を顕現すること)した。「顕神明之憑談」は、ここでは「歌牟鵝可梨」と云う。
この時、天照大神はこれを聞いて「私がこのごろ石窟を閉じて籠もっている以上、豊葦原中国は必ず長く続く夜であるのに、どうして天鈿女命はこのように大笑いして楽しんでいるのだろうか。」と言い、そこで御手で磐戸を少しだけ開いて窺った
その時とばかり、手力雄神が天照大神の手を承け奉り、引いて石窟からお出し申し上げた。そこで、中臣神と忌部神がただちに端出之縄(しめなわ。通常とは逆に左捻りにわらの端を出したまま綯う)を石窟の入り口に引き渡して境とし、「縄」また「左縄端出」と云う。ここでは「斯梨倶梅儺波」と云う。そこで「二度とお戻りなさってはいけません。」と請い申しあげた
その後諸神は罪過を素戔嗚尊に帰して、千座置戸(物を置く数多くの場所。そこに置く莫大な賠償品)を科し、遂に督促して徴収した。これに応じないため、髪を抜いてその罪を購わせるに至った。また別に、その手足の爪を抜いて購ったと言う。こうしたあと、遂に放逐して降したのである。
〔一書1〕
ある書はこう伝えている。誓約の後に、稚日女尊が齊服殿に坐して神の御服を織っていた。素戔嗚尊はこれを見ると、生きたまま班駒を逆剥ぎ(尻のほうから皮を剥ぐこと)に剥いで、その殿内に投げ入れた。稚日女尊は、これに驚いて機から墜ち、持っていた梭で体を傷つけて死去した。それゆえ、天照大神は素戔嗚尊に対して「汝はやはり黒心がある。汝と会おうとは思わない。」と言い、そこで天石窟に入り、磐戸を固く閉じてしまった。ここにおいて天下は常に闇となり、昼と夜の交替も無くなってしまった。
それゆえ、八十万神を天高市(交易する市のように神の集う小高い場所)に会し(主語を明示しない)、善後策を問うた。この時、高皇産霊尊の子息の思兼神という者がいた。思慮の智があったので、思いをめぐらして「あの神の象をかたち造って、招き禱り奉るのがよい。」と申しあげたのである。それゆえさっそく石凝姥を鍛冶工とし天香山の金を採って日矛を作った。また真名鹿(愛子の愛で、愛らしい鹿)の皮を丸剥ぎにして天羽鞴(火を起こすさい風を送る道具、ふいご)を作った。これらを用いて天照大神の像を造り奉った神が、紀伊国に鎮座する日前神である。「石凝姥」は、ここでは「伊之居梨度咩」と云う。「全剥」、ここでは「宇都播伎」と云う。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。日神尊が天垣田を御田としていた。この時、素戔嗚尊は、春にはその田の渠を埋め、畦を壊し、また秋の穀物がすでに成熟すれば、横取りあるいは収穫を妨害するため勝手に絡縄(丈夫な縄)をその田に引き渡した。また日神が織殿に居た時には、班駒を生きたまま皮を剥いでその殿内に投げ込んだ。おしなべてこの諸事は、ことごとくが暴虐であった。そうではあっても、日神は、情け深い親愛の意があり、怒らず恨まずに、すべて穏やかな心で容認した。
それでも、日神が新嘗に当たっている(新穀を神に供え、神と共食する神聖な行事のさなか)時に及ぶと、素戔嗚尊はそれを見計らってその新嘗を行う新宮の日神の御席の下にひそかに糞をした。日神は、なにも知らないまま、じかにその席の上に坐った。これにより、日神は全身が病んでしまった。それゆえ、たいそう怒り恨み、ただちに天石窟に籠もってその磐戸を閉じた。
この時、諸神は憂慮し、そこで鏡作部の遠祖である天糠戸には鏡を造らせ、忌部の遠祖である太玉には幣を造らせ、玉作部の遠祖である豊玉には玉を造らせた。また山雷(山の神)には五百箇真坂樹の八十玉籤(神にささげる祭具、玉串)を採らせ、野槌(野の神霊)には五百箇野薦の八十玉籤を採らせた。おしなべてこの諸諸の物が皆来て集まった。その時に中臣の遠祖である天児屋命が日神の祝い言を言葉の限り称えあげた。ここにおいて、日神はまさに磐戸を開いて出た。この時に鏡をその石窟に入れたので、戸に触れて鏡に小さな瑕ができてしまった。その瑕は、今もなお残っている。これがつまり、伊勢のあがめ敬う神秘な大神である。
そうしたあと、罪を素戔嗚尊に科して、その罪を祓うためのものを出させた。こうして手端の吉棄物(祓えの具として切った手の爪)、足端の凶棄物(祓えの具として切った足の爪)があり、また唾を白和幣(唾液の供え物)とし、洟を青和幣(鼻水の供え物)とし、これらを用いて解除(罪穢れを除去する祓え)をやり終え、遂に神逐(神の追放)の理によって追放した。「送糞」は、ここでは「俱蘇摩屢」と云う。「玉籤」は、ここでは「多摩俱之」と云う。「祓具」は、ここでは「波羅閉都母能」と云う。「手端吉棄」はここでは「多那須衛能余之岐羅毘」と云う。「神祝祝之」は、ここでは「加武保佐枳保佐枳枳」と云う。「逐之」は、ここでは「波羅賦」と云う。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。この後に([一書 第一]と同じ書き出しのかたちをとるが、誓約の後ではなく、先行する内容は不明)、日神の田は三カ所あった。名を天安田・天平田・天邑并田という。これは皆良田であった。長雨や干魃に見舞われても、損なわれたり壊れたりなどしない。一方、その弟の素戔嗚尊の田も、また三カ所あった。名を天樴田・天川依田・天口鋭田 という。これは、どこも土地がやせて狭小であり、石も多い。雨が降れば流れ、また旱であれば焦けてしまう。それゆえ、素戔嗚尊は姉の田を妬んで害を加えた。春には、田の用水路をだめにし、溝を埋め、畔を壊し、またすでに種子を播いた上に重ね播きする。秋には、収穫前の田に串を刺して自分のものとしたり、馬を入れて腹這いにさせたりする。すべてこの悪事の止む時がまったく無かった。それにもかかわらず、日神は怒らず、いつも穏やかで思いやりの心で容認していた。云云。(省略を表す語。その省略は、日神の天石窟閉居を導く素戔嗚尊の悪辣な行為を主な内容とする先行[一書 第二]を前提とする)。
日神が天石窟にとじ籠もるに及んで、諸神は中臣連の遠祖である興台産霊の児の天児屋命を遣わして祈らせた。そこで天児屋命は、天香山の真坂木を根ごと掘り出し、その上の枝には、鏡作の遠祖である天抜戸の児の石凝戸辺が作った八咫鏡を掛け、中の枝には、玉作の遠祖である伊奘諾尊の児の天明玉が作った八坂瓊の曲玉を掛け、下の枝には、粟国の忌部の遠祖である天日鷲が作った木綿(木の繊維を糸状にした祭器。榊に掛け、襷にして神事に使う)を掛け、そうして忌部の首の遠祖である太玉命にこの真坂木を手に取り持たせ、壮大・重厚に賛美するたたえごとを祈り申し上げた。時に、日神はこれを聞いて「このごろ人が何度も石窟から出るように誓願するが、いまだこんなにも麗美しい言葉はない。」と言い、そこで磐戸を細めに開けて外を窺った。この時、天手力雄が磐戸の側にひかえていたので、ただちに磐戸を引き開けると、日神の光が世界の隅々まで満ちた。
それゆえ、諸神は大いに喜び、さっそく素戔嗚尊に千座置戸の解除(罪穢れを祓うためのもの、祓えの具)を科し、手の爪を吉爪棄物とし、足の爪を凶爪棄物とした。そこで、天児屋命にその解除のこの上なく荘重・厳粛な祝詞を掌り、唱えさせた。世人が自分の爪を慎重に収めるのは、これがその縁(ことの起こり)なのである。
そうしたあと、諸神は素戔嗚尊を責めとがめて「汝が所行は甚だ常軌を逸している。だから天上に住んではならない。また葦原中国にも居てはならない。今すぐに底根之国に往くがよい。」と言い、そこで共に天上から逐い降り去かせた。
ちょうどこの時、霖雨が降っていた。素戔嗚尊は青草を結い束ねて笠や蓑とし、宿を多くの神に乞うた。神神は「汝は、みずからの所行が濁って悪辣だから追い払われ流されるのだ。それなのに、どうして宿を私に乞うのか。」と言い、結局みな同じように拒絶した。そこで、風雨は甚だしかったけれども、留まり休むことができずに、つらく苦しみながら降った。それ以来、世の人では、笠や蓑を着けたまま他人の家の屋内に入ることを諱むのである。また束ねた草を負って他人の家の内に入ることも諱む。これを犯す者があれば、必ず解除(祓えの具)を出して償わさせる。これは、太古から残されてきたきまり・制度である。
この後に、素戔嗚尊は「諸神が私を追放した。私は、今ここから永久に去ろうと思うけれども、どうして姉と会うことも無く、自分勝手にただちに去ることができようか。」と言い、また天地を揺るがして天に昇った。この時、天鈿女が見て、日神に報告した。日神は「私の弟が天に昇って来る理由は、決して好意ではない。必ず我が国を奪おうとしているのではないか。私は婦女だが、どうして避けようか。」と言い、みずから戦いの備えを身に装った。云云(省略を表す語。前出)。
そこで素戔嗚尊は誓をして「私がもし善くない心を懐いて再度ここに昇って来たのであれば、私がいま玉を噛んで生む児は、必ずや女であるはずです。そうだとしたら、この女の児を葦原中国に降すことができます。もし清い心があるのであれば、必ずや男を生むはずです。そうだとしたら、この男の児に天上を統治させることができます。また姉の生むのも(生む児の男女とその処遇との対応)、またこの誓いと同じです。」と言った。ここにおいて、日神が先に十握剣を噛み、云云。
素戔嗚尊は、そこで緒もくるくるとその左の髻に纏いている五百箇統の瓊の緒を解き、瓊の触れ合う音もさやかに天渟名井に濯ぎ浮かべ、その瓊の端を噛み、吐き出して左の掌に置いて児の正哉吾勝勝速日天忍穂根尊を生んだ。また右の瓊を噛み、吐き出して右の掌に置いて、児の天穂日命を生んだ。これが、出雲臣・武蔵国造・土師連等の遠祖である。次に天津彦根命。これが、茨城国造・額田部連等の遠祖である。次に活目津彦根命。次に熯速日命。次に熊野大角命。合わせて六男である。そこで素戔嗚尊は日神に「私の再び天上に昇って来た理由は、多くの神神が私を根国に追放処分したことです。今そこに退去しなければならず、もし姉とお会いしなければ、とうてい別離にたえられません。それゆえ、本当に清い心で再び昇って来ただけなのです。今はもうお目見えもすみました。多くの神神の意向に従い、これより永久に根国に赴くべきなのです。どうか姉上には天国(語構成上は天の国であり、高天原とみるのが通説だが、存疑。天上と葦原中国との対応上は、天地に通じる天と国との熟合の可能性もある)に照臨(四方を照らし、君臨すること)し、おのずから平安でおられるのがよろしい。私は、清い心で生んだ児らもまた姉上に奉ります。そうしたあと、再び、葦原中国に還り降った。「廃渠槽」は、ここでは「秘波鵝都」と云う。「捶籤」は、ここでは「久斯社志」と云う。「興台産霊」はここでは「許語等武須毘」と云う。「太諄辞」はここでは「布斗能理斗」と云う。「○轤然」はここでは「乎謀苦留留爾」と云う。「瑲瑲」は、ここでは「奴儺等母母由羅爾」と云う。
『日本書紀』第八段 現代語訳
〔本伝〕
この時(諸神に追放されて高天原を降る時)、素戔嗚尊は天より降り、出雲国の簸の川の上に至った。その際、川の上に死を痛んで哭きさけぶような声がするのを聞いたので、その声を尋ね求めて往けば、老翁と老婆が中に少女を置いて撫でながら哭いていた。素戔嗚尊が「汝らは誰か、どうしてそんなありさまで哭いているのか。」と問うと、これに対して「私は国神で、名を脚摩乳と申します。私の妻は手摩乳と申します。この童女は私の児で、奇稲田姫と申します。哭く理由というのは、過去に私の児は八人の少女がいましたが、年ごとに一人ずつ八岐大蛇に呑み込まれてしまいました。今、この少女が大蛇に呑み込まれようとしています。なんとも脱がれる手立てがありません。それで(この少女の死を)悲しみいたんでいるのです。」と答えた。素戔嗚尊が勅して「もしそうだとするならば、汝は女を私に奉るか。」と言うと、「勅に従って奉ります。」と答えた。
それゆえ、素戔嗚尊はたちまち奇稲田姫を湯津爪櫛(神聖な爪を立てた形状の櫛(くし))に化身させて、御髻に挿した。そこで脚摩乳と手摩乳に八醞の酒(醸造を何度もくり返した強い酒)を造り、あわせて仮庪(桟敷)を八間(八つの仮の棚)作り、「仮庪」は、ここでは「佐受枳」と云う。そのおのおのに一つの酒桶を置いて酒をそれに盛らせ、大蛇の到来を待ったのである。
その時期に至ると、はたして大蛇が姿を現した。頭と尾は、それぞれ八岐に分かれ、眼は赤酸醤(ほうずき)のようであり、「赤酸醤」は、ここでは「阿箇箇鵝知」と云う。松や柏(栢。常緑高木)がその背に生えて、八つの丘、八つの谷の間に蛇体を這いわたらせていた。酒を得ると、八岐の頭をそれぞれ酒桶に突っ込んで飲み、酔って睡てしまった。この時を見はからって、素戔嗚尊は帯びていた十握剣を抜き、細かくその大蛇を斬り刻んだ。尾に至ったところで、その剣の刃が少し欠けた。それでその尾を切り裂いて見れば、中に一振りの剣があった。これが、いわゆる草薙剣である。「草薙剣」は、ここでは「俱裟那伎能都留伎」と云う。ある書には、「もとは名を天叢雲剣という。思うに、大蛇のいる上には、常に雲気がただよっている。それゆえに、そう名付けたのではないか。日本武皇子に至って、名を改めて草薙剣という」とつたえている。素戔嗚尊は「是は神剣である。私がどうしてあえて自分のものとして置こうか。」と言い、そこで天神に献上したのである。
その後、素戔嗚尊は奇稲田姫と結婚するのに最適な場所を求めて探し訪ね、その果てに遂に出雲の清地に到った。「清地」は、ここでは「素鵝」と云う。そこで「私の心は清清しい」と言い、この次第で、今この地を「清」と言う。その場所に宮を建てた。ある説には、時に武素戔嗚尊が「八雲たつ出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣ゑ」と歌ったと伝えている。そこで結婚して児の大己貴神を生んだ。これにより、勅して「私の児の宮を管理する首(司長)は、脚摩乳と手摩乳である。」と言い、それで、この二神に名号を賜り、稲田宮主神と言うのである。そうしたあと、素戔嗚尊は根国に行った。
〔一書1〕
ある書はこうつたえている。素戔嗚尊は天から降り、出雲の簸の川の上に到った。そうして稲田宮主簀狹之八箇耳の子女、稲田媛に会い、そこで奇御戸(隠処、寝所)に睦事を始めて児を生み、清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠と名付けた。一説に清之繫名坂軽彦八嶋手命と云う。また一説に、清湯山主三名狹漏彦八嶋野と云う。この神の五世の孫が大国主神である。「篠」は「小竹」である。ここでは「斯奴」と云う。
〔一書2〕
ある書はこうつたえている。この時、素戔嗚尊は天から下り、安芸国の可愛の川の上に到ったのである。そこに神がいた。名を脚摩手摩と言う。その妻は名を稲田宮主簀狹之八箇耳と言う。この神はまさに妊娠中であった。夫と妻は共に愁え、そこで素戔嗚尊に「私の生んだ児は多かったのですが、生むたびに、八岐大蛇が来て呑み込んでしまい、一人も生き残ることができていません。いま私は児を産もうとしていますが、おそらくはまた呑まれてしまいます。それで悲しみいたんでいるのです。」と告げた。
素戔嗚尊はそこで二神に教えて「汝は多くの木の実で酒を八甕醸造したらよい。私が汝のために蛇を殺してやる。」と言った。二神はこの教えどおり、酒を設けそなえた。いよいよ産む時に至ると、確かにあの大蛇が戸につき当たって児を呑みこもうとした。素戔嗚尊は蛇に勅して「汝は恐れ敬うべき神だ。是非とも酒を供えてもてなさなければならない。」と言い、そこで八つの甕の酒を、大蛇の八つの口ごとに注ぎ込んだ
するとその蛇は、酒に酔って睡てしまった。素戔嗚尊は剣を抜いて斬った。尾を斬る時に至ったところで、剣の刃が少し欠けた。尾を割いて見れば、中に剣があった。名を草薙剣と言う。これがいま尾張国の吾湯市村にある。熱田祝部の管掌する神がこれである。その蛇を断ちきった剣は、名を蛇之麁正と言う。これが、今は石上にある。
この後、稲田宮主簀狹之八箇耳の生んだ児、真髪触奇稲田媛を出雲の簸の川の上に遷し置き、養育して、成長させた。そうした後に素戔嗚尊が妃となして生んだ児の六世の孫が、名を大己貴命と言うのである。「大己貴」は、ここでは「於褒婀名娜武智」と云う。
〔一書3〕
ある書はこうつたえている。素戔嗚尊が奇稲田媛を娶ろうと思って乞うた。脚摩乳・手摩乳はこれに答えて「どうか先にあの蛇を殺して下さい。その後に娶るというのであれば宜しいでしょう。あの大蛇は、頭ごとにそれぞれ岩松があり、両脇に山があって、甚だ恐るべきです。なにで殺すのでしょうか。」と言った。
素戔嗚尊は、そこで計略をめぐらし、毒酒を醸造して大蛇に飲ませた。蛇は酔って睡ってしまった。素戔嗚尊は、そこで蛇韓鋤之剣で頭を斬り、腹を斬った。その尾を斬る時に、剣の刃が少し欠けた。それゆえ尾を裂いて見ると、別に一振りの剣があった。名を草薙剣とした。この剣は、昔は素戔嗚尊の許にあったが、今は尾張国にある。その素戔嗚尊が蛇を断ち斬った剣は、今は吉備の神部(神職)のもとにある。出雲の簸の川の上の山がこれである。
〔一書4〕
ある書はこうつたえている。素戔嗚尊の所業が暴虐極まりなかった。それゆえ、諸神は千座置戸(罪過を贖う莫大な賠償品)を素戔嗚尊に科して、遂に天上から追放した(第七段 [本伝]の抄録)。
この時、素戔嗚尊は子の五十猛神をひき連れて新羅国に降り到って、その曽尸茂梨という所に居住した。そこで声高に言葉を発して「この地は、私は居たいとは思わない。」と言い、遂に埴土で舟を作り、これに乗って海を東に渡り、出雲国の簸の川の上に所在する鳥上の峯に到った。まさにこの時、そこには人を呑み込む大蛇がいた。素戔嗚尊はそこで、天蠅斫之剣でその大蛇を斬った。その際、蛇の尾を斬ったところで、刃が欠けた。すぐに裂いてよく見ると、尾の中に一振りの神剣があった。素戔嗚尊は「これは、私が自分一人だけで使用してはならないものだ。」と言い、そこで、五世の孫に当たる天之葺根神を遣わして天に献上した。これが、今にいう草薙剣である。
当初、五十猛神が素戔嗚尊に伴って天降った時に、多く木の種を持って下った。しかし韓地(新羅)にはそれを一切植えることなく、全て東渡の際に持ち帰り、遂に筑紫から始め大八洲国の国内すべてのところに播き植え、ことごとく青山に成した。このはたらき、功績により、五十猛命を有功之神と称するのである。すなわち紀伊國に鎮座する大神(和歌山市伊太祈曾の伊太祁曾神社)がこれである。
〔一書5〕
ある書はこうつたえている。素戔嗚尊が「韓の郷(地方)に所在する嶋には金銀がある。もし私の児(第八段[本伝]に「生児大己貴神」と伝える)の支配する国に浮く宝(船)がなければ、それは良くない(金銀のある嶋に渡れない)と言い、そこで鬚・髯を抜いて播いた。すると、それがたちまち杉に成った。また胸の毛を抜いて播くと、これが檜に成った。尻の毛は柀に成り、眉の毛が櫲樟に成った。そうして、あとでその用途を定めた。そこで「杉および櫲樟は、二つの樹とも浮く宝(船)にすべきだ。檜は、瑞宮(宮殿)の用材とすべきだ。柀は、顕見蒼生(現にこの世に生きる民草。人民)の奧津棄戸(墓所)に臥す具(棺)とすべきだ。さて食用にすべき八十木種(数多くの果実の種)は、どれも播いて生かすことができた。」と称えた。
この時、素戔嗚尊の子(児とは違う)は名を五十猛命と言い、その妹は大屋津姫命であり、次が枛津姫命である。みなこの三柱の神も、木の種を広く播いた。そこで紀伊国に渡し奉ったのである。そうした後、素戔嗚尊は熊成峰に居住し、遂に根国に入ったのである。「棄戸」は、ここでは「須多杯」と云う。「柀」は、ここでは「磨紀」という。
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