国造と県主|行政区画の明確化と治める長の任命は神武即位以降の重要課題「版図拡大」における一つの到達点だった件

 

国造くにのみやつこ県主あがたぬし、ともに、古代「行政区画」の「首長」の名称です。

当サイトで紹介している神武東征神話や全国の神社の御祭神に、「国造くにのみやつこ」「県主あがたぬし」といった言葉が出てきますので、ここでその概要をまとめておきます。

 

国造と県主|行政区画の明確化と治める長の任命は神武即位以降の重要課題である版図拡大の到達点だった件

 本件、2つの観点からお伝えします。

  1. 大きな背景
  2. 実際の内容

背景を理解していただき、その上で実際のところをご紹介。

 

大きな背景~版図拡大と確定~

 まずは背景から。

一言で言うと、「版図はんと拡大と確定」。

版図拡大とは、勢力圏の拡大の事。

神武天皇が東征の末に橿原宮で即位したものの、王朝としての確立はまだまだ課題があったという事。

コチラ↓参考に。

『日本書紀』 巻第三(神武紀)

大きく2つを行う必要がありました。

  1. 勢力圏を拡大する事
  2. 拡大した地域で行政区画を整備し首長を立てる事

まずは広げて、広げたところに線をひいて、治める長を任命する、という感じですね。

 

  1. については、12代の景行けいこう天皇の時代。
  2. については、13代の成務せいむ天皇の時代。

 にそれぞれ行われています。

 

第12代、景行天皇の時代は、有名な「蕃夷平定ばんいへいてい」、つまり熊襲征伐くまそせいばつ日本武尊やまとたけるのみことの征西・東征がありました。

ちなみに、日本武尊やまとたけるのみことは13代の成務天皇の義兄です。

この蕃夷平定ばんいへいていにより王朝の版図は大きく広がりました。そして、これを受けて平定した地方の統治を、景行天皇の子である成務天皇が成し遂げたという訳です。

 

第13代、成務天皇の時代には以下内容。

成務4年、「人民が無秩序で野心を改めないのは、国郡や県邑にそれらを取り締まる長おさや首かみがいないからであり、以後は、当国の長としてふさわしい者を首長に任じよう。それによって王域の地の垣根として守ろう。」

翌5年「国郡に造長みやつこおさを立て、県邑あがたむら稲置いなきを置く。」

とあり、行政区画とし「国郡くにこおり」「県邑あがたむら」定め、それぞれ「造長みやつこおさ」「稲置いなき」を任命しております。

 

神武天皇が橿原宮で即位して以降、国内の版図はんと拡大が重要課題でありました。

その一つの到達点が、成務天皇による行政区画の明確化と、その行政単位を治める首長の任命だった、という訳です。

 「国造くにのみやつこ」「県主あがたぬし」については、まず、こうした大きな背景を理解する必要があります。

続いて、その中身をご紹介します。

 

実際の内容~国-県の2段階からなる地方行政制度~

上記、成務天皇の時代の行政区画明確化と首長任命は、歴史物語といった感じです。

つまり歴史的事実かどうかは不明。

ただし、ちょっと飛びますが、大化の改新のころには、地方制度として「国造・県主」などが設置されていた事は確かなようです。

 諸説ありますが、

  • 国-あがた の2段階からなる地方行政制度。
  • 国については、地域の豪族が支配した領域が国として設定され、その長が「国造くにのみやつこ」。
  • あがたについては、中央の直轄領であり、その長が「県主あがたぬし」。

 といったところ。

ただし、中央の影響力が強いところでは国県制が浸透していたものの、弱いところでは、地方の小国や勢力圏の連合が県の組織を欠いたまま国になるといったような状況もあったようです。

 ちなみに、神武東征神話で登場する

  • 椎根津彦しいねつひこ(旧名:珍彦うづひこ)→倭国造やまとのくにのみやつこ
  • 弟猾おとうかし →猛田県主たけたのあがたぬし
  • 弟磯城おとしき →磯城県主いそきのあがたぬし

も、こうした内容をもとに見てみると名称の違いがきちんと設定されていることが分かりますよね。

コチラ参考までに。

『日本書紀』 巻第三(神武紀)

 つまり、

  • 椎根津彦しいねつひこ・・・神武東征初期のころから東征に貢献し数々の戦歴をあげた

だからこそ、国造くにのみやつこ

  • 弟猾おとうかし弟磯城おとしき・・・東征後半で帰順した

だから、県主あがたぬし

貢献度によって任命に違いを設けている訳ですね。

 このへんからも、国(国造)-県(県主)の違いと朝廷との関係の違いみたいなものが見えてくるのではないでしょうか。

 

ま、一方で、

  • 県の地域分布は畿内を中心に中国・九州に多く、県の存在は3世紀から5世紀にかけての朝廷の勢力拡大過程を反映、
  • 5世紀から6世紀にかけて新しく国造制による支配体制が成立すると、県は実質的な意味を失った、

とする説も。

 このあたりは歴史の分野なので当サイトとしてはどうのこうのは申し上げにくいです。

ちなみに、成務天皇発令の「造長みやつこのおさ稲置いなき」については、時代の変遷によって名称も変化していったものと思われます。

 

ということでお伝えしてまいりました国造と県主のマニアックな内容。

当サイトとしては、神話理解の参考になれば幸いです。

 

まとめ

国造と県主

「国造」、「県主」ともに、古代「行政区画」の「首長」の名称。

背景には、神武橿原即位以後の、王朝としての版図拡大と確定という課題がありました。

第12代景行天皇、続く13代成務天皇の時代でそれらは一つの到達点へたどり着きます。

それが、行政区画の明確化と、行政単位を治める長の任命。国造、県主もそうした背景のなかから生まれてきたという事です。

その実態は、国-県の2段階地方行政制度であり、地方の豪族との関係や中央との関係によっていろいろあったというお話。

いずれにしても、『日本書紀』や『古事記』をベースにすると、歴史物語としての位置づけとして理解しておきましょう。

 

こちらの記事もどうぞ。オススメ関連エントリー



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

ABOUT US
アバター画像
さるたひこ

日本神話.comへお越しいただきありがとうございます。
『日本書紀』や『古事記』をもとに、最新の文献学的学術情報を踏まえて、どこよりも分かりやすく&ディープな日本神話の解釈方法をお届けしています。
これまでの「日本神話って分かりにくい。。。」といったイメージを払拭し、「日本神話ってオモシロい!」「こんなスゴイ神話が日本にあったんだ」と感じていただける内容を目指してます。
日本神話研究の第一人者である佛教大学名誉教授の榎本先生の監修もいただいているので情報の確かさは保証付き!文献に即して忠実に読み解きます。
豊かで多彩な日本神話の世界へ。是非一度、足を踏み入れてみてください。
参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)他
error: Content is protected !!