多彩で豊かな日本神話の世界へようこそ!
正史『日本書紀』をもとに、
最新の文献学的学術成果も取り入れながら、どこよりも分かりやすい解説をお届けします。
前回、橿原宮即位をもって神武東征神話は一旦終了となりましたが、
今回は、エピローグとして、その後の歴史をお届けします。
『日本書紀』巻三(神武紀)の最後。論功行賞と国見、そして天皇崩御。これをもって巻三は終了し、巻四以降の歴史が続いていきます。
- 日本神話研究の第一人者である榎本先生監修。確かな学術成果に基づく記事です
- 日本神話全体の流れや構造を解き明かしながら解説。他には無い分かりやすい記事です
- 現代語訳のほか原文も掲載。日本神話編纂当時の雰囲気を感じてもらえます
- 登場する神様や重要ワードへのリンク付き。より深く知りたい方にもオススメです
論功行賞と国見|エピローグ!論功行賞を行い、国見をして五穀豊饒の国「秋津洲」を望み見た件
目次
論功行賞と国見の概要
前回の内容はこちら。
念願の東征を成就、橿原宮で即位。天日嗣の大業を創始した神武天皇。
まずは、東征で功績のあった者に対して褒章を与える、論功行賞を行います。本文「功を定め賞を行う」。
コレ、報いる対象が2つあって。
- 東征に功績のあった臣下
- 神助を賜った天神
人と神、て事ですね。で、それぞれ、
- 臣下対しては、土地や住宅や官職を与え報いる。
- 天神に対しては、祭祀をもって報いる。
といった内容。
①功績のあった臣下の皆さんへの報酬
将軍「道臣命」や兵士達「大来目」には、宅地を与え、近くに居住させて寵愛。
特に、道臣命は、全ての戦闘に携わり、熊野から大和入りの道案内、兄猾誅殺、丹生川上祭祀で斎主をつとめたこと、忍坂での残党掃討等、功績甚大であります。
さらに、官職に任じた者としては、
- 椎根津彦(旧名:珍彦)→倭国造
- 弟猾 →猛田県主
- 弟磯城 →磯城県主
さらに、、烏にも!
- 頭八咫烏→恩賞
などなど、恩顧の臣下に手厚く報いております。大事やね。
そして、もっと大事なのはコチラ。
②神助を賜った天祖たる天神への祭祀
神助とは、東征の途中、いろいろ助けていただいた事。詳しくはこちら。
天神そのものではありませんが、こちらも天の支援ということで。
いや、ホント、お世話になってばかりで。。。で、その内容は、「天神を郊祀し、用ちて大孝を申すべし。」という、「郊祀(郊外で天を祭る儀礼)」による「大孝(最大の孝行)」の実践。
具体的には、
靈畤を鳥見山に立てて天神を祭る
というもの。
「靈畤」とは、斎場のこと。鳥見山に、お祭りする祭壇のようなものを立てた訳です。古代、天を祭るには円丘を、地を祭るには方丘を築く形式でした。
天神をお祭りするわけで、極めて重要な祭祀。発想を広げると、鳥見山全体を祭祀場として位置づけ、そこに祭壇を建てて祭ったといった解釈のほうがいいかも。
実際、天神の助けなしには東征は成就できなかった訳で。その「恩」に対する「孝」としてお祭りした次第。
これは一方で、「即位した天皇のありかたそのもの」を物語っているのです。現在の天皇が、宮中で祭祀を行っている根拠はココにあって、、、何度も申し上げますが、超重要事項。
神話から続く歴史と伝統を今に引き継いでいる日本ってスゴイ。ホント。奥ゆかしさ度合がヤバい。激しくチェック。
さて、
それから30年後に、天皇としての統治について、その成果を巡幸によって確認しています。
コレ、いわゆる「国見」というもので、統治者が広く域内を見渡せる高い所に登り、地勢や民の生活状況を見ること。統治者ならではの行い。ここから「秋津洲」という日本の美称が起こります。コレも超重要。
以上のポイントをもとに本文をチェックです。
論功行賞と国見の現代語訳と原文
2年(紀元前659年)春2月2日、神武天皇は臣下の功績を評定して褒賞を行った。道臣命には、宅地を与え築坂邑に居所を与えられて、ことに寵愛された。また大来目には、畝傍山より西の川辺の地に居所を与えられた。今、来目邑というのは、これがその由縁である。そして、珍彦を倭国造とされた。また、弟猾に猛田邑を与えられ、それで猛田県主とされた。これは菟田主水部の遠祖である。弟磯城、名は黒速を磯城県主とされた。また剣根という者を葛城国造とされた。また、八腿烏も褒賞にあずかった。その子孫は葛野主殿県主部である。
4年(紀元前657年)春2月の23日、神武天皇は勅して仰せられた。「我が皇祖の神霊が天から地上をご覧になって、我が身を照らし助けてくださった。今、すでに諸々の賊は平定され、国内は平穏である。天神を郊祀って、大孝の志を申しあげねばならぬ。」そこで、鳥見山の中に斎場を設けて、その地を名付けて上小野の榛原・下小野の榛原といい、もって皇祖である天神を祭った。
31年夏4月1日に、神武天皇は国中を巡幸された。その時、腋上の嗛間丘に登って、国の状況を眺めめぐらせ「ああ、なんと美しい国を得たことよ。山に囲まれた小さな国ではあるが、あたかも蜻蛉が交尾している形のようだ。」と仰せられた。これにより、初めて「秋津洲」という名が起こったのである。
昔、伊奘諾尊がこの国を名付けて、「日本は浦安の国、細戈の千足る国、磯輪上の秀真国」と仰せられた。また、大己貴大神は名付けて、「玉牆の内つ国」と言われた。饒速日命が天磐船に乗って虚空を飛翔して、この国を見おろして天降ったので、名付けて、「虚空見つ日本の国」と言われた。
42年(紀元前619年)春正月の3日に、神武天皇は、皇子の神淳名川耳尊を立てて皇太子とされた。
76年(紀元前585年)春3月11日、神武天皇は橿原宮で崩御された。時に御年百二十七であった。
翌年秋9月12日に、畝傍山東北陵に葬った。
二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定功行賞。賜道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之。亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。以珍彥爲倭國造。又給弟猾猛田邑、因爲猛田縣主、是菟田主水部遠祖也。弟磯城、名黑速、爲磯城縣主。復以劒根者、爲葛城國造。又、頭八咫烏亦入賞例、其苗裔卽葛野主殿縣主部是也。
四年春二月壬戌朔甲申、詔曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉。
卅有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰「姸哉乎、國之獲矣。雖內木錦之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉。」由是、始有秋津洲之號也。昔、伊奘諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。」復、大己貴大神目之曰「玉牆內國。」及至饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是鄕而降之、故因目之曰「虛空見日本國矣。」
卌有二年春正月壬子朔甲寅、立皇子神渟名川耳尊、爲皇太子。
七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮、時年一百廿七歲。明年秋九月乙卯朔丙寅、葬畝傍山東北陵。 (『日本書紀』巻三 神武紀より)
論功行賞と国見の解説
東征を終え、建国を果たした神武。天神への大孝を実践し、理想的な政治を行うことで、人々は平安に、国は豊かになっていく。。国見のシーンでは、そんな様子をはるかに望み見つつ、胸中、様々な想いが去来していたことでしょう。。そんなロマンに想いを致しながら。。
以下詳細解説。
- 2年(紀元前659年)春2月2日、神武天皇は臣下の功績を評定して褒賞を行った。道臣命には、宅地を与え築坂邑に居所を与えられて、ことに寵愛された。また大来目には、畝傍山より西の川辺の地に居所を与えられた。今、来目邑というのは、これがその由縁である。そして、珍彦を倭国造とされた。また、弟猾に猛田邑を与えられ、それで猛田県主とされた。これは菟田主水部の遠祖である。弟磯城、名は黒速を磯城県主とされた。また剣根という者を葛城国造とされた。また、八腿烏も褒賞にあずかった。その子孫は葛野主殿県主部である。
- 二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定功行賞。賜道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之。亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。以珍彥爲倭國造。又給弟猾猛田邑、因爲猛田縣主、是菟田主水部遠祖也。弟磯城、名黑速、爲磯城縣主。復以劒根者、爲葛城國造。又、頭八咫烏亦入賞例、其苗裔卽葛野主殿縣主部是也。
→一般に皇紀と呼ばれる2年、春2月の「甲辰」が朔の「乙巳」は2日。
東征で功績のあった者に対して褒章を与える、論功行賞。本文「功を定め賞を行う(定功行賞)」。
これ、報いる対象が2つあって。
- 東征に功績のあった臣下
- 神助を賜った天神
人と神、て事ですね。
まずはその筆頭。道臣命。「宅地を与え築坂邑に居所を与えられて、ことに寵愛された」とあり、「築坂邑」は現在の橿原市鳥屋町辺りとされてます。畝傍山の南エリア。
続いて、東征軍たる大来米の皆さんに「畝傍山より西の川辺の地に居所を与えられた」と。これ、橿原市久米町辺り。畝傍山の西に高取川がありますが、その東岸。
さらに、「珍彦を倭国造とされた」とあり、コレ、かなり破格の恩賞。倭国は、後世の「大倭国(大和国)」。要は現在の奈良県に相当する領域。国の中心地となる場所を与えた訳なんで、珍彦=椎根津彦への恩賞の大きさが伺えます。確かに、あの日、あの時、あの場所で君に出会わなかったら~♪
東征は成しえなかったことは間違いない!ありがとう!
この時点で、明確なのは、東征において「武」担当の道臣命はじめ大来米の皆さんは、橿原宮の近くに配置し、天子、都の警備・警護を。「文」担当の珍彦=椎根津彦は政治の中心を担当させてるってことですね。分担がしっかり効いてます。
さらにさらに!「弟猾に猛田邑を与えられ、それで猛田県主とされた。」とのことで、コチラは現在の宇陀。菟田野、榛原、大宇陀一帯。良かったね弟猾。あのままだと一生、兄猾の下で日の目を見ないで終わってたかも。。
さらにさらにさらに!「弟磯城、名は黒速を磯城県主とされた」とのことで、こちらは桜井市、天理市の一部。三輪山の西、初瀬川流域までの地域のあたりとされてます。
で、「剣根という者を葛城国造とされた」とあり、コレ、今まで登場してなかったお方。赤銅八十梟帥を誅滅した功績者のことと推定されてます。
以下、ざっくりとしたイメージ図。
最後に「八腿烏も褒賞にあずかった。その子孫は葛野主殿県主部である。」とあり、なんと巨大なカラスにも恩賞が、、、「葛野」は、京都府葛野郡(京都市北区の一部、右京区・西京区含む)と愛宕郡(京都市左京区・東山区・北区を含む)の地域。「主殿」は「殿守」のことで、宮中の清掃・燭火・薪炭などを司ります。カラスは清掃係に任命されたのか、、、
次!
- 4年(紀元前657年)春2月の23日、神武天皇は勅して仰せられた。「我が皇祖の神霊が天から地上をご覧になって、我が身を照らし助けてくださった。今、すでに諸々の賊は平定され、国内は平穏である。天神を郊祀って、大孝の志を申しあげねばならぬ。」そこで、鳥見山の中に斎場を設けて、その地を名付けて上小野の榛原・下小野の榛原といい、もって皇祖である天神を祭った。
- 四年春二月壬戌朔甲申、詔曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉。
→皇紀4年、春2月の「壬戌」が朔の「甲申」は23日。
東征でお世話になった恩に報いるシリーズ、その2。神助を賜った天神の皆さんへ。
「我が皇祖の神霊が天から地上をご覧になって、我が身を照らし助けてくださった。」とあり、確かに、思い起こせば、さまざまな神助をいただきました、、
天神の直接支援ではないけれど、天からいただいた祥瑞ということで、コチラも。
いや、ホントに、お世話になりっぱなしで。。。本当にありがとうございました。NO神助、NO建国。この価値は計り知れないものがある。。
ということで、天神へのご恩返しはズバリ、「郊祀(郊外で天を祭る儀礼)」による「大孝(最大の孝行)」の実践であります。
具体的には、
靈畤を鳥見山に立てて天神を祭る
というもの。
「鳥見山の中に斎場を設けて、その地を名付けて上小野の榛原・下小野の榛原といい、もって皇祖である天神を祭った(立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉)」とあり、鳥見山とは桜井市外山にある山。現在、等彌神社がある場所です。
ちなみに、「上小野の榛原・下小野の榛原」については、そのような名前を付けたという事で、宇陀郡榛原のことではありません。
「靈畤」とは、斎場のこと。鳥見山に、お祭りする祭壇のようなものを立てた訳です。古代、天を祭るには円丘を、地を祭るには方丘を築く形式だったようで、そんな形の祭壇を築いたと想定されます。
天神をお祭りするわけで、極めて重要な祭祀。発想を広げると、鳥見山全体を祭祀場として位置づけ、そこに祭壇を建てて祭ったといった解釈のほうがいいかもしれません。
実際、天神の助けなしには東征は成就できなかった。その「恩」に対する「孝」としてお祭りした。これは一方で、「即位した天皇のありかたそのもの」を物語っている訳です。現在の天皇が、宮中で祭祀を行っている根拠はココにあって、、、
宮中祭祀の原点がココに!
何度も申し上げますが、激しく重要事項。神話から続く歴史と伝統を今に引き継いでいる日本ってスゴイ。ホント。奥ゆかしさ度合がヤバい。
次!
- 31年夏4月1日に、神武天皇は国中を巡幸された。その時、腋上の嗛間丘に登って、国の状況を眺めめぐらせ「ああ、なんと美しい国を得たことよ。山に囲まれた小さな国ではあるが、あたかも蜻蛉が交尾している形のようだ。」と仰せられた。これにより、初めて「秋津洲」という名が起こったのである。
- 卅有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰「姸哉乎、國之獲矣。雖內木錦之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉。」由是、始有秋津洲之號也。
→皇紀31年、夏4月の「乙酉」が朔、つまり1日。
即位して30年が経過、、この時間の流れをしっかりチェック。
平和な時代が30年続き、正しい政治が行われ、人々も国も豊かになっていたはずです。また、正しきを養うという御心を弘めてきたことで、人々の文化的レベルも上がっていたはず。訳の分からない「もののけ」たちは消え、人の住む村が増えてきた。その村には、ごはんをつくる煙があちこちから立ちのぼっている、、、的な感じでしょうか。。
国見について。コレ、超重要事項。
天皇として統治、その成果を巡幸によって確認した訳です。即位後31年目の巡幸。
コレ、例えば、万葉集が収載する、舒明天皇の「望国」の歌に
大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鷗立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は(2番)
大和には多くの山があるけれど とりわけ立派な天の香具山 その頂に登って大和の国を見渡せば 土地からはご飯を炊く煙がたくさん立っているよ 池には水鳥たちがたくさん飛び交っているよ ほんとうに美しい国だ この蜻蛉島大和の国は
とあるように、国見する地は豊饒な世界が広がっています。
これは、実際そうだったというより、むしろ、そうあってほしい、あるいは、そうなるという願望を込めた予祝の儀礼的意味が強いのですが、、、
神武天皇も「国状」をはるかに望みみて「妍哉、国を獲つること。内木綿の真迮国と雖も猶し蜻蛉の臀呫せるが如もあるかも。」と言い、これにより「秋津洲」の名が生じたと伝えています。
トンボが交尾してつながり飛ぶ五穀豊饒の国を「秋津洲」の名が象徴的に表現しているわけですね。天皇の統治するめでたい世のあり方をここに込めているのです。
次!
- 昔、伊奘諾尊がこの国を名付けて、「日本は浦安の国、細戈の千足る国、磯輪上の秀真国」と仰せられた。また、大己貴大神は名付けて、「玉牆の内つ国」と言われた。饒速日命が天磐船に乗って虚空を飛翔して、この国を見おろして天降ったので、名付けて、「虚空見つ日本の国」と言われた。
- 昔、伊奘諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。」復、大己貴大神目之曰「玉牆內國。」及至饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是鄕而降之、故因目之曰「虛空見日本國矣。」
→祝福だ、、、これは。。
伊奘諾尊が名付けたとする「日本は浦安の国、細戈の千足る国、磯輪上の秀真国(日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國)」の意味は、日本は、心が穏やかに平安で、国生みのときに使われた瓊矛のように細く美しい矛(呪具)が充分にあり、たくさんの石で囲んだ高い祭壇を持つ国。政治的にも文化的にも最もすぐれた国である。てこと。
大己貴大神が名付けたとする「玉牆の内つ国(玉牆內國)」の意味は、美しい青垣に囲まれた大和の国。
饒速日命が名付けたとする「虚空見つ日本の国(虛空見日本國矣)」の意味は、空から見て天降ったぞ、この大和の国に、てこと。
で、問題は、なぜここで伊奘諾尊や大己貴大神、饒速日命の予祝的日本の美称が登場してるのか? ってことなんですが、、
これはつまり、
先駆者だから!
てことなんです。
- 伊奘諾尊は、国生みの主人公(伊奘冉尊の過誤をとがめやり直しさせる。正しい手順で国生みを主導したエライお方)
- 大己貴大神は、国造りの主人公(少彦名神と共働し国造りを行い、最終的に単独で完遂させたエライエライお方)
- 饒速日命は、東征の目的地に降下して、理想の地を教示したエライエライエライお方、
ということで、、みんなとってもエライ先駆者たちなんです!
だから、ここで登場。いわば、権威付け的な位置づけで登場してるんですね。
次!
- 42年(紀元前619年)春正月の3日に、神武天皇は、皇子の神淳名川耳尊を立てて皇太子とされた。
- 卌有二年春正月壬子朔甲寅、立皇子神渟名川耳尊、爲皇太子。
→皇紀42年、春正月=1月の「壬子」が朔の「甲寅」は3日。
神淳名川耳尊を皇太子として擁立。神淳名川耳尊は、神武天皇が崩御した3年後の11月、異母兄の手研耳命を誅殺し、翌年1月に第二代「綏靖天皇」として即位します。
次!
- 76年(紀元前585年)春3月11日、神武天皇は橿原宮で崩御された。時に御年百二十七であった。翌年秋9月12日に、畝傍山東北陵に葬った。
- 七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮、時年一百廿七歲。明年秋九月乙卯朔丙寅、葬畝傍山東北陵。
→皇紀76年、春3月の「甲午」が朔の「甲辰」は11日。
秋九月の「乙卯」が朔の「丙寅」は12日。「畝傍山東北陵に葬った」とあり、この畝傍山の陵が神武天皇陵とされてます。橿原神宮の北側に隣接。
神武天皇はココから、現在の「日本」のあり方を、成り行きを見守っているように思います。問われているのは今を生きる私たちですね。
まとめ
論功行賞と国見
天神祭祀について、再度まとめておきます。
やはり超重要事項なので。
位置づけは、東征途上で賜った神助、つまり「恩」に対する「孝」として報いたということ。
その意義は2つ。
- 「郊祀」をもって天神を祭り、この祭りを「大孝の実践」とする事により、天神の子(=天子に相当)として自らを位置づけたこと。
- 天皇の「天神の子」という位置づけが、「郊祀」による「大孝の実践」に由来するところに、日本の天皇的存在の際立つ特質があること。
この2点はしっかりチェック。
東征を終え、建国を果たした神武。
天神への大孝を実践し、理想的な政治を行うことで、人々は平安に暮らし、国は豊かになっていく。。そんな様子をはるかに望み見つつ、胸中さまざまな想いが去来していたことでしょう。
彼が抱いていた夢はそのまま引き継がれ、現在も「日本国」として存在しています。今、私たちが生きるこの国は、神武の目指した国のあり方に近づけているのでしょうか?
神武東征神話、そして神武天皇は、現在の私たちの国のあり方を問うているように思います。
神話をもって旅に出よう!
神武東征神話のもう一つの楽しみ方、それが伝承地を巡る旅です。以下いくつかご紹介!
●等彌神社:背後にある鳥見山が郊祀の超絶パワースポット
●神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤 顕彰碑
●橿原神宮 神武天皇陵:神武天皇を葬ったとされる場所
目次はコチラ!
佛教大学名誉教授 日本神話協会理事長 榎本福寿
埼玉県生まれ(S23)。京都大学大学院文学研究科博士課程国語学国文学(S53)。佛教大学助教授(S58)。中華人民共和国西安外国語学院(現西安外国語大学)文教専家(H1)。佛教大学教授(H6)。中華人民共和国北京大学高級訪問学者(H13)。東京大学大学院総合文化研究科私学研修員(H21)。主な書籍に『古代神話の文献学 神代を中心とした記紀の成りたち及び相関を読む』がある。『日本書紀』『古事記』を中心に上代文学における文献学的研究成果多数。
参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)
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