神武東征神話まとめ|神武天皇御一代記御絵巻をもとに物語の概要を分かりやすくまとめてみた

 

「神武東征神話」は『日本書紀』『古事記』に記されている「日本建国神話」。

書紀では、巻三の「神武紀」で。古記では、中巻の冒頭で、それぞれ伝えます。

実は「日本最古の英雄譚」。日本神話の中でも最もドラマチックな構成となってます。

米神話学者ジョセフ・キャンベルにより提唱された、世界の神話における共通構造である「旅立→試練→帰還(達成・成就)」にも通じる枠組みを持ち、建国の経緯を壮大なスケールで描きます。

2016年は、神武天皇が崩御されてから2600年の記念年。4月3日には「神武天皇二千六百年大祭」が開催されました。

とはいえ、神武東征神話はほとんどの方が御存知でないと思いますので、ここでその概要を分かりやすくご紹介します。

 

神武東征神話まとめ|神武天皇御一代記御絵巻をもとに物語の概要を分かりやすくまとめてみた

今回はエントリー用として、ストーリーの流れを分かりやすくまとめました。ベースは日本の正史『日本書紀』です。

より詳しく知りたい方はこちらからどうぞ♪

まずは、具体的な東征ルートを確認。

コチラ、橿原神宮で公開されていた「神武天皇御一代記御絵巻」から。

神武天皇御一代記御絵巻

宮崎を出て、瀬戸内海を東へ進み、東大阪からぐるっと紀伊半島をまわって、三重県大泊おおどまりのあたりから陸地を進み、奈良県宇陀市榛原はいばらから橿原へ進むルート。

物語全体の展開としては、

1.旅立(東征発議~高嶋宮準備)

2.試練(孔舎衙敗退~丹生川上儀式)

3.帰還(国見丘の戦い~凱旋・橿原即位)

こんな感じでまとめると分かりやすいと思います。米神話学者のキャンベルさん提唱の「世界の神話に共通する構造」を持ってるんですね。

以下、概要です。折角なので「神武天皇御一代記御絵巻」でご説明。まずは物語の流れに触れてみてください。

 

1.旅立

①神武誕生

神武東征神話絵巻

神日本磐余彦天皇かんやまと いわれひこ の すめらみこと」は4番目の皇子として誕生。生前の名前は「彦火火出見ひこほほでみ」。15歳で皇太子。

特に、出生の背景が重要。位置づけとしては、天照大神の第五世代子孫であり、海神の孫でもある、という建てつけになってます。これが、最終的に日本建国&初代天皇として即位する大きな根拠とか正統性とかバックボーンになっていく訳です。

 

②東征発議

神武東征神話絵巻1

彦火火出見ひこほほでみ」45歳のとき、兄たちや諸臣を集め中洲ちゅうしゅう(=世界の中心)」を目指す「東征の発議」と「建国の決意」をアツく語ります。全員激しく同意。早速、東征の旅に出ます。

 

③速吸之門(はやすい の と)

神武東征神話絵巻2

日向(宮崎)を出発した東征一行は、速吸之門はやすいのと豊予ほうよ海峡)へ到ります。ここで、「珍彦うづひこ」と出会い「水先案内人」とし、宇佐(大分)へ向かいます。

この「珍彦うづひこ」は「椎根津彦しいねつひこ」という名前を賜り、東征後半で大活躍します。ココ要チェック。

その後、遠賀川おんががわ(福岡)→埃宮えのみや(広島)→岡山へ進軍。岡山では「高嶋たかしまの宮」を建てて3年の間、兵糧備蓄・軍船建造を行います。

 

2.試練

④孔舎衛坂(くさえさか)激戦・敗退

神武東征神話絵巻4

岡山からいよいよ大和の地へ。目指すは「中洲ちゅうしゅう(=世界の中心)」、奈良盆地というか大和平野です。

まず「難波なにわみさき」に到着。「白肩しらかたの津」を経て生駒山から中洲ちゅうしゅうを目指そうとします。しかし、大和最強の敵「長随彦ながすねびこ」軍と孔舎衛坂くさえさかで激戦となり敗退。

、、、いきなり敗退するわけですね。

コレ、彦火火出見ひこほほでみの生い立ちに起因する深淵しんえんなテーマが背景にあります。

天照大神の子孫、つまり、日の神の子孫。

なので、そもそも「東に向かって敵と戦う=日に向かって矢を向ける=負け確定」ということであり、この「愚」に負ける事で初めて気づく訳です。

そこですぐに作戦変更。

「神策」をめぐらし「日を背に戦う」事を決意。つまり、「西から東へ攻め込む」と。そのために紀伊半島をまわって大和に入るルートへ変更します。

そこで、再度海路にて和歌山方面へ。紀伊半島南下。この後、和歌山の「竈山かまやま」で長兄「五瀬命いつせのみこと」を亡くします。

 

⑤海難・陸難遭遇

神武東征神話絵巻5

紀伊半島をぐるっとまわり、和歌山県新宮市付近の「熊野灘くまのなだ」に至ります。

すると海難(大嵐・暴風雨)に遭遇、残り2人の兄も失います。なんてこった。これで兄達の全てを失った訳です。

それでもめげずに進軍。ところが、熊野荒坂あらさか(三重県熊野市大泊付近の急坂)で突然、神が毒気を吐いて全軍意識昏倒。

イキナリの展開ですが、仕方ない。絶体絶命のピンチを、天照大神の救援と神剣ゲットによって切り抜けます。

 

⑥八咫烏(やたがらす)の先導

神武東征神話絵巻6

さらに、進軍。熊野の険しい山中(大台ケ原)で道に迷い進退窮まります。

このとき、再び天照大神の救援により、頭八咫烏やたがらすが飛来。道案内を担当します。

また、将軍「日臣命ひのおみのみこと」が山を穿うがち道を通し、やっとのことで宇陀宇賀志うかしにたどり着きます。この活躍により「日臣命ひのおみのみこと」は「道臣命みちのおみのみこと」という名前を賜ります。

 

⑦兄猾(えうかし)誅殺

神武東征神話絵巻7

宇陀の「穿邑うがちむら」まで進み、在地豪族の「兄猾えうかし」「弟猾おとうかし」兄弟に対峙。

兄は抵抗、弟は帰順。流石弟。昔から空気をしっかり読んでます。

恭順せず神武(彦火火出見ひこほほでみ)を暗殺しようとした「兄猾えうかし」を誅殺。ここでも将軍「道臣」が大活躍。

恭順した弟「弟猾」は神武一行に饗宴を供しねぎらいます。どこまで流石なんだ弟よ。。。

 

⑧丹生川上での祈(うけひ)の儀式

神武東征神話絵巻8

宇陀の高倉山に登って遥か中洲を眺めやります。

すると、四方要所はすべて賊(敵)に囲まれていることが判明。神武激怒。なんてこった。

と、その夜、夢に天照が現れ「勝利の方法」を授かります。

それは、「天香山の土で祭器をつくり、それで天神地祇を祭れ」と言う内容。

神武はそのとおり実行し、丹生川上で神祇祭祀を行います。そして神威を背景とした無敵のパワーをゲット。

この丹生川上の神事を経て形勢は一変。以後連戦連勝で橿原即位へ展開します。東征神話の中でも最重要なポイントであります。

 

3.敵撃破~帰還(凱旋)

⑨国見丘の戦い

神武東征神話絵巻9

神威を背景とした最強パワーをゲットした神武に向かうところ敵なし。国見山に陣取っている大勢の敵屈強戦士集団「八十梟帥やそたける」を攻撃し撃破します。

 

⑩忍坂(おさか)大室で撃破。さらに兄磯城(えしき)誅殺

神武東征神話絵巻10

榛原と大和平野の間にある「忍阪おっさか」で敵の掃討作戦実行。

大室おおむろ(大きな家というか御殿)を作らせて饗宴に誘い、そのたけなわ、敵が油断した時に全て殲滅。さらに進み、兄磯城えしきを誅殺。

 

⑪金鵄(きんし)飛来

神武東征神話絵巻11

遂に前回敗戦を喫した大和最大の敵にリベンジ。長髄彦ながすねびこを猛攻撃。しかし苦戦。

そんな折も折、突然、天曇り氷雨ひさめが降るなか、「金色のとび」が飛来し天皇の弓に止まります。長髄彦ながすねびこ軍は眩惑げんわくして力戦不能に陥ります。

この金鵄の出現を「鵄瑞とびのみつ」と言います。これは、天が神武の東征に味方しているという証拠。

 

⑫長随彦(ながすねびこ)誅殺

神武東征神話絵巻12

有利に立った神武は、長髄彦ながすねびこと交渉。神武が「天神子あまつかみこ」たる「証拠」を示し帰順を促します。しかし翻意しない愚かな長髄彦ながすねびこ

ちょうど、長髄彦ながすねびこのもとにいた天神の子「饒速日命にぎはやひのみこと」は、彼を見限って殺し神武に帰順。流石、にぎはやひ。空気読んでる。

 

⑬橿原造営

神武東征神話絵巻13

畝傍山うねびやまのほとりに全軍招集。橿原造営の「みことのり」を宣言。その後、曰くつきの神の娘を正妃として迎えます。

 

⑭橿原即位

神武東征神話絵巻14

そして遂に「紀元元年1月1日(新暦2月11日)」、初代天皇として橿原の宮にて即位します。東征完結。日本という国の建国の瞬間でした。

 

まとめ:神武東征神話とは

「東征」は、宮崎の日向を出発して橿原即位まで、およそ6年もの月日をかけた一大プロジェクトでした。

45歳で東征発議してからの道のりは、決して平たんなものではなく、幾多の困難と兄の全てを亡くすという悲劇を乗り越えて成し遂げられたのです。

「日本」建国の経緯ですね。

改めて、「神武東征神話」は良くできた物語だと思います。ドラマチックに組み立てられてます。

旅立ちから孔舎衙直前までは順風満帆。世界(国)の中心をめざし東へ、「建国」という夢と希望にあふれていました。

ところが、大和の地に入り「長随彦ながすねびこ」という最大の敵に蹴散らされて以降、苦難の連続です。しかしあきらめずに、勝利する方法を思考し、臣下の活躍と、高皇産霊尊や天照大神という天上の最高神の加護・助力を得て難局を突破。最終的に、一度戦って敗れた最大のライバルを撃破する訳です。

その上で、橿原の地に宮殿を建設し初代「天皇」として即位。

まさに「旅立→試練→帰還(達成・成就)」という流れで構築されていて、ドラマ性たっぷり

 

橿原神宮には、お時間があれば是非足を運んでみてください。

橿原神宮

日本建国の地。日本のはじまりの地です。ご祭神は神武天皇。荘厳さと美しさを兼ね備えた社殿は必見。

⇒「橿原神宮|初代神武天皇が即位した「日本建国」の地!おごそかな空気漂うパワースポットで東征神話に思いを馳せる至福を是非。

 

そして、2016年は、神武崩御2600年の記念の年。4月3日に橿原神宮で大祭が催されました。

詳しくはコチラで⇒「神武天皇二千六百年大祭|参拝レポ|神武崩御2600年目の節目にあたる奉祝大祭は紀元祭以上におごそかな雰囲気があった件

 

勿論、2月11日の「建国記念の日」も要チェックです。

⇒「橿原神宮紀元祭|2月11日「建国記念の日」レポ|天皇勅使から〇〇の方まで様々な人々がいらっしゃった件

 

思想的に右とかなんだとかではなく、日本に生まれ育った者として建国の経緯を知る事、先人の経験から学ぶ事はとても大事なことだと思います。

このエントリが皆さんの知見を広げるきっかけになれば幸いです。最後までお読みいただきありがとうございました。

 

次はコチラを是非!詳細の読み解きシリーズ!
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東征神話、超おもしろいぞー。是非。

 

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1件のコメント

神武天皇二千六百年の慶賀の年(平成28年2月11日)
本日は好天の日和となり、日の丸を掲揚し自宅から一時間余りの途につき、橿原神宮にて斎行された紀元祭に参列してまいりました。
皇紀2600年に当たる昭和15年は、国家をあげて奉祝致しました。国家の記念行事として、御鎮座当時の神域一万六千坪から十六万坪に拡張され、大和三山の一つ畝傍山を背景にして全面に深田池を眺める雄大なる森厳きわみなき宮観の整備が行なわれ、建国の大祖神を奉斎するにふさわしい佇まいが完成されました。11月10日、宮城前広場にては内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催され、「皇紀二千六百年奉祝曲」が作られ、「記念切手」の発行、「記念映画」の上映もあり、国民こぞって歌い、提灯行列が催されるなど、祝賀ムードは最高潮に達したといいます。
「浦安の舞」もこのときに始まり、全国の神社では昭和8年に昭和天皇が御詠みになった御製「天地の神にぞ祈る朝凪の海の如くに波立たぬ世を」を扇舞・鈴舞の振り付けで二度繰り返し歌われ、先帝の大御心に添い奉らむとの鎮魂の祈りが捧げられ、全国の神社で一斉に奉奏され、現在も各地の大祭などで舞われています。
ところが、敗戦の憂き目にあったことからGHQが乗り込み、歴史の断絶という事態に陥り、戦後70年を経た現在もなお、日本の歴史伝統文化の断絶から回復できておりません。それが証拠に今年平成28年という年は、建国の御祖、神武天皇2600年という慶賀に堪えぬ奉祝の年でありながら、2600年大祭は国をあげて斎行されることはなく(勿論宮中では斎行されますが)、狭野神社(2/11紀元祭)・宮崎神宮(4/3神武天皇祭)・橿原神宮(2/11紀元祭・4/3神武天皇2600年大祭)の崇敬会を中心とした式年祭・記念行事が行なわれるだけで、国家をあげて国民こぞってというわけではありません。
我が人生において2600年に出くわしながら、日本人として何の奉祝感謝の意も捧げることなくこの一年を過ごすわけにはまいらず、紀元節の佳き日には必ず橿原神宮への参拝にと念じておりました。行けば、流石に全国からの崇敬者が大勢集い、勅使をお迎えして厳かな祭典が斎行されるなか、賑々しく盛大に執り行なわれました。神楽にては、明治陛下御製「橿原のとほつみおやの宮柱 たてそめしより国はうごかず」が吟じられるなか、「扇舞」が奉納されました。ありがたい一日でした。

国はじまりの地に思いを馳せて(平成28年2月19日)
橿原神宮は、初代神武天皇が橿原宮で御即位されたという日本書紀の記述に基づき、明治陛下の御聖慮により明治23年4月2日に御鎮座あそばされた。明治陛下は「橿原のとほつみおやの宮柱 たてそめしより国は動かず」とお詠みになった。御本殿は明治陛下から京都御所の賢所を下賜されたものである。爾来、毎年四月三日は神武天皇祭が斎行されている。当日は宮中の皇霊殿にて儀式が行なわれるとともに、勅使を差遣して畝傍山東北陵(神武天皇御陵)に幣帛が奉られる。
昭和15年2月11日、昭和天皇は神武天皇御陵へ御親詣の後、橿原神宮に御親詣なさっている。成年皇族となられた方は、奉告のため伊勢神宮(外宮・内宮)へ御参拝、翌日に神武天皇御陵への御参拝をなさることが、皇室の慣例である。また、御成婚の際も同様である。
現在の宮中祭祀は『皇室祭祀令』に基づいて斎行される。なかでも、大祭は陛下御親らが祭典をなされ、拝礼の後に「御告文」を奏上あそばす。初代の神武天皇と先帝(昭和天皇)には、毎年大祭として斎行され、百年毎に斎行される祭典は式年祭と呼ばれる。天皇祭・式年祭は、皇霊殿および御陵で斎行される。
平成28年4月3日、大正五年以来百年ぶりとなる神武天皇二千六百年式年大祭の日、今上陛下は午前九時半に畝傍山東北御陵に御親詣の後、御装束御召替えされて午後、橿原神宮に御親詣あそばす御予定と承る。皇霊殿における式年祭には、皇太子殿下が陛下の御名代として拝礼あそばすとのこと。
このように、御歴代の陛下は宮中祭祀を重んじられ、宮中三殿【賢所・皇霊殿・神殿】において「民安かれ国平らかなれ」との平和の祈りを捧げあそばす。また、皇室の遠祖天照大御神が御鎮座になる伊勢神宮、国家建設を成就なされた初代の天皇が御鎮座になる橿原神宮をはじめ各地へも行幸され、国民がお迎えする各所へも御足を運ばれて事情を聞こし召され、労い・励ましのお言葉もおかけになる。つねに国民と苦楽をともにされ、国民と共に歩まれている。
御歴代の陛下が、御親ら皇室の御祖霊を大切に思われ、お祀りごとは欠かすことなく斎行あそばすのである。その尊い御姿に私たち国民も神習って、伊勢神宮をはじめ各自の産土神社を大切にし、また各自の御先祖のお祀りをしっかり行なっていくことが、氏子として子孫としての務めではなかろうか。

 神武天皇さま―日本の歴史はここから始まった。神武天皇の御存在を疑う人もあるが、学者の得手勝手な邪説に迷ってはいけない。私たちは信仰団体に所属する者であるから、学術論争のような低レベルは相手にする必要がない。御存在を否定するなら、なぜ歴代陛下の御陵が存在するのだ。というよりも神武天皇を否定する者は、即天照大御神さまへの大不敬となる。私たち日本人は遠い先祖の昔から、初代の天皇さまを神武天皇と申し上げ、尊崇し、神宮や御陵への参拝を行なってきたことは紛れも無い民族の歴史的事実なのである。御存在を否定する者は、神武天皇さまを尊崇して歩んできた先祖をも侮辱することになる。
 縄文・弥生などという原始時代を得て勝手にでっち上げた考古学者や歴史学者は、古伝承というものを無視した歴史の創作者であり、その罪は極めて大きい。彼らは古代の天皇さまには御歳が百歳を越える方が多いこと[*]を疑問視する。しかし、日本人による記録ではない『魏志倭人伝』の記述においてすら、「其人寿考、或百年、或八九十年」とあるではないか。
 教育現場では、神代の出来事を語らず、古代の記録にはない愚にも付かぬ原始時代の作り話を展開した揚げ句、突然邪馬台国を登場させ、そこからはつながりのない大和朝廷の話に移るという混乱ぶりである。
[*]  さて上代の天皇たち、百歳(ももとせ)に多く余らせ給ふが数(あまた)坐ましけるは、人ノ代にては御壽(みいのち)長かりし例(ためし)なれども、神代の人の壽のなほ長かりし時を以て云へば甚く短きなり。瓊瓊杵尊より後に、彦穂々出見命は高千穂の宮坐すこと五百八十歳、と有れども、此なほ以前に比べては不長(ながからざ)りしなり。(平田篤胤『玉襷』四之巻p.247)

二千六百年式年大祭に参列させていただき(平成28年4月3日)
本年は皇紀2676年、神武天皇二千六百年大祭の慶賀の年に当たり、「日本の始まり」といわれる橿原神宮に思いを馳せ、私の新しい年も始まりました。
そしていよいよ本日は、待ちに待った百年に一度の「神武天皇二千六百年大祭」が橿原神宮にて斎行される日です。私は朝一番に乗り込んで参列させていただきました。全国からの参列者は三千人を超え、神社関係の方々も多数いました。参列席に座れない人たちも多くあり、外拝殿で立ったまま参列されていました。
曇天でしたが、不思議なことに午前十時の祭典開始を告げる大太鼓が打ち鳴らされる直前になりますと、煌々たる日の光が差し始めました。宮司の祝詞奏上で建国の精神に思いを致し、明治大帝御製「橿原のとほつみおやの宮柱 たてそめしより国は動かず」が吟じられるなかの扇舞で鎮魂致しました。まことに有り難い一日でした。

四月五日、部屋の整理をしていたところ、棚から本が一冊落ちてきた。見るとカバーを施した文庫本であったが、それが岩波文庫『日本書紀(中巻)』であった。めくってみると、最初の頁が巻第三「神日本磐余彦天皇」でp.24に帝都
の経営の記述があり、「我れ東(ひむがし)を征(う)ちしより茲に六年(むとせ)になりぬ。皇天(あまつかみ)の威(みいきほひ)を頼(かうふ)りて、凶徒(あだども)就戮(ころ)されぬ。邊土(ほとりのくに)未だ清(しづ)まらず、余妖(のこりのわざはひ)尚梗(こは)しと雖も、中洲(うちつくに)の地に復た風塵(さわぎ)無し。誠に宜しく皇都(みやこ)を恢廓(ひらきひろ)め大壮(みあらか)を規(はか)りつくるべし。(中略)且(ま)た當(まさ)に山林を披拂(ひらきはら)ひ宮室(おほみや)を経営(をさめつく)りて、恭(つつし)みて寶位(たかみくらゐ)に臨み、以て元元(おほむたから)を鎮むべし。上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまふ徳(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫(すめみま)の正(ただしきみち)を養ひたまふ心(みこころ)を弘めむ。然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、亦可(よ)からずや。夫の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)橿原(かしはら)の地(ところ)を観れば、蓋し国の墺區(もなか)か。治(みやこつく)るべし。」という一節が目に付いた。これは、一昨日の式年大祭に参列した折に戴いた記念品のなかにあった「奠都の詔」が刻まれた
楯の内容であった。何とも有難く畏れ多いことであった。

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参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)他
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