「饒津神社」は、広島県広島市にある神社。
ご祭神は、藩祖である「浅野家の皆さん」。江戸時代創建。
「饒津」という言葉の意味は、「広島の町が物が豊かな水の都となるように」ということで、流石、藩祖を祭る神社として広島の発展を祈願した神社です。
今回は、そんな浅野家な感じが全開の、人が神様になっちゃった典型的な神社をご紹介します。
饒津神社|藩祖「浅野家の皆さん」がご祭神!「広島の町が物が豊かな水の都となるように」と願い命名された神社
目次
饒津神社への道
住所は、広島県広島市東区二葉の里2丁目。
広島市駅北口から西へ、徒歩15分ほどの所にあります。
▲神社入り口の目の前は、新幹線のガード。駅チカな感じであります。
このあたり、「二葉の里 歴史の散歩道」として、散歩道コースが整備されております。
東区には本市唯一の国宝である不動院金堂をはじめ、数多くの文化遺産が今も残っています。その中で、牛田新町~矢賀駅までの間に点在する、由緒ある神社・仏閣・史跡などを結んだコースが「二葉の里歴史の散歩道」です。 (広島市東区役所HPより
とのことで、そういうことであります。
お時間があれば是非。
▲参拝の日は雨、しかも工事中、、、とのことで。工事が終われば、雨もあがり、まっすぐに伸びる参道がきれいな感じの神社になるでしょう。
饒津神社の創建経緯
宝永3年(1706年)綱長公(浅野家第6代・芸州浅野家藩主第4代)の時に、広島城の「艮」(東北鬼門)の方位に当る明星院客殿西方に長政公の位牌堂を建立。
さらに長政公200回御忌に当る文化7年(1810年)に斎賢公(浅野家第10代)、前藩主重晟公(浅野家9代)と共に新たに壮麗な位牌堂を建立した。この位牌堂は饒津神社の先駆的なものであり、この時奉納された文化年間の燈篭や大石水盤等は後に饒津神社創立と共に境内に移されて現存している。長政公を神として奉祀することは重晟公以来内慮があり、天保6年(1835年)11月斎粛公(浅野家11代)が祖先追孝のため社殿を現在地(明星院西方)に造営、二葉山御社と称した。
二葉山の名は饒津神社創祀の際に金葉集・摂政左大臣藤原忠通卿の歌「いかばかり 神もうれしと 三笠山 二葉の松の 千代のけしきを」 新続古今集・後徳大寺左大臣の歌「住吉の 松は昔の 二葉より 久しき事の ためしにぞひく」より藩執政関蔵人らによって命名されたものである。これより明星院山であった背後の山は二葉山と呼ばれるようになった。
御神号は京都・吉田良長に草案を依頼し、「蒼垣・饒津・功健・瑞国・振玉」の五通りが示され、長懋公(斎粛公の叔父)の御選択により「饒津大明神」と定められた。 (饒津神社説明文より
とのことで、
背景理解としては、関ヶ原の戦いから続く江戸幕府統治が関連しています。
もともと、関ヶ原の戦い以前は、広島城主として「毛利家」がいたのですが、西軍(豊臣側・石田三成側)に加勢してしまい、見事に敗北。結果、当然、領地没収の憂き目にあいます。
毛利さん、完全に見誤ってしまった感じですね。
東軍が勝利し、徳川による統治へ移行していくなかで、徳川から任命されて広島城主になったのが、「福島正則」であります。
福島氏、1600~1619年の約19年間、広島城主だったのですが、1619年に事件発生。
この年、台風水害があり、広島城が被害を受けます。そこで、本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を修繕したところ、これが「無断修繕」にあたり、武家諸法度違反でござる。
本人的にはいろいろ事情説明したようですが、あまり上手に交渉できず、二代目将軍・徳川秀忠の怒りを買う羽目に。。
で、結局、福島氏、領地没収と減封・転封の処罰を受けることになります。
これによって、新たに任命された広島城主が「浅野長晟」だったわけで、このお方から以後、広島は浅野家が治めることになる訳です。
で、浅野家第6代の時に、広島城の東北鬼門である「艮」の方位に、浅野家の初代である長政公の位牌堂を建立。
で、11代のときに社殿を現在の地に移し、神社として確立させたという次第。
当初は「二葉山御社」と称していたようですが、1873年(明治6年)饒津神社と改称しております。
▲門にある提灯に描かれているのは浅野家の家紋であります。堂々した向唐門。
境内にはいると、やや広めの空間がひろがります。奥、右手が本殿です。なしかお寺のお堂のような雰囲気がありますね。
「饒津」の意味は、
- 饒…豊・食物やものが十分である。土地が肥えている。
- 津…港・船着場・川辺・海辺。
を組み合わせ、「広島の町が物が豊かな水の都となるように」という願いを込めて命名されたとの事。
饒津神社の御祭神
- 浅野長政命
浅野家初代・近江国浅井群小谷生れ・浅野長勝の養子・近江の国・五奉行筆頭・若狭の国小浜城主・甲斐の国二十二万五千石・常陸国真壁筑波二群五万石へ隠居・慶長16年(1611)4月7日帰幽 65歳。
- 浅野末津姫命
長政公の奥方・良良(やや)・・・豊臣秀吉の奥方・寧寧(ねね)の妹・明治元年合祀。
- 浅野幸長命
浅野家二代・長政長男・奥方は加賀の国・前田利家の娘米姫・紀伊の国三十七万六千五百六十石を領す・慶長18年(1613)8月25日帰幽 38歳・大正14年合祀。
- 浅野長晟命
浅野家三代・長政次男・芸州浅野家初代藩主 奥方は家康の三女振姫 元和5年(1619年)広島入国安芸および備後国八群の計四十二万六千五百石を領す・寛永9年(1632)9月3日帰幽 47歳・大正14年合祀。
- 浅野長勲命
浅野家十四代・芸州浅野家最後の藩主・初代広島県令・昭和12年(1937)2月1日帰幽 96歳・昭和15年合祀。
神社説明文より
とのことで。
人が神になるのに、どれくらいの時間がかかるのか、考えさせられてしまいました。。。
最後のご祭神「浅野長勲命」は、1937年没とのことで、100年も満たないなかでのご祭神入りであります。初代と初代の奥さん、さらに、2,3代のご祭神入りは、まー江戸時代前後の背景から理解できなくもないのですが、、、14代だけ突出して、つい最近のコト、、、きっと、なんかあったんでしょうね。
境内には、他にお稲荷さんもあります。
稲荷大明神
▲コンパクトなサイズながら、「正一位」の位ありであります。商売繁盛等ご利益を是非。
向唐門
▲原爆で全壊したあと、もともとの彫刻の美しさや細部を忠実に復元した門。屋根のカーブがとても特徴的です。
七福神めぐり:恵比須天
▲広島二葉山の山麓にある神社等をめぐる「七福神めぐり」。当社は、恵比須天であります。商売繁盛の神!
まとめ
「饒津神社」
広島県広島市にある神社で、ご祭神は、藩祖である「浅野家の皆さん」。
「饒津」という言葉の意味は、「広島の町が物が豊かな水の都となるように」ということで、流石、藩祖を祭る神社として広島の発展を祈願した神社です。
JR広島駅北口から徒歩15分。広島の歴史にふれる神社。是非チェックされてください。
住所:広島県広島市東区二葉の里2丁目6−34
駐車場あり
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