神武東征ルートを行くシリーズ
目次
神武東征神話をもとに、その伝承地を辿る大人気シリーズ。
今回は、「をどの 血原」を取り上げます。
「をどの 血原」
今となっては、誰も知らねーよ状態ですが、東征神話においてはまあまあ重要スポット。
- 「をどの 血原」の地が持つ意味とは?神武東征神話においてどのような意味があるのか?
この謎を探ることで、この地が伝える神話的意味を明らかにします。
をどの 血原|兄猾を追いこんで自滅させ、引きずり出して斬ったら、その血はくるぶしまで、、、ってなんて恐ろしい場所な件
をどの 血原 が持つ意味
この地は、将軍「道臣命(みちのおみのみこと」が「兄猾(えうかし)」を滅ぼした場所。
『日本書紀』が伝える詳細はこちら↓でご確認ください。
ここでのポイントは2つ。
- 本シーンは、これ以降、大和入りへ向けた「在地豪族の制圧」が主要テーマになる転換点である事。
- 制圧にあたっては、臣下が活躍。これは、「神代から人代への大転換」を象徴している事。
です。結構重要なんです。
尚、住所にもなってる小字「をどの」というのは『古事記」にちなむ場所です。古事記の記述を以下ご紹介します。
古事記(原文)
「待ち撃たむ」と、云ひて、軍を集めき。然れども、軍を集むこと得ねば、仕へ奉らむと欺陽りて(いつはりて)、大き殿を作り、其の殿の内に押機(おし)を作りて待ちし時に、、、
訳文
兄猾(兄宇迦斯)は「迎え撃とう」と言って軍勢を集めた。しかし軍勢をうまく集めることができなかった。そこで、神武にお仕え申し上げることにしようと偽って、大きな御殿を造り、その御殿のなかに押機(おし)をしかけて待ち構えていた時に、、、
ということで、
文中の「大き殿(との)」が、「おおきとの」→「おきとの」→「おとの」→「をどの」といった感じで現在の地名へ。そこに宇陀市観光協会が目を付けてこの地を「神武ゆかりの地」として認定したという経緯。身もふたも無くてすみません。
いずれにしても、このあたりに在地豪族の「兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)兄弟」がいたようですし、それを制圧する中で「臣下の活躍=神代から人代への転換」が行われるという象徴的な場所という事ですね。
をどの 血原 伝承地
場所はコチラ。
榛原街道から離れ、南東へ戻る感じですね。
「穿邑顕彰碑」からさらに奥へ進むとあります。穿邑はコチラ↓
ここからさらにこんな感じの道を進みます。
▲見えてきました。真ん中の木がもっさと生えてるところ
▲このあたりが「血原」。兄猾を切り刻んでその血がくるぶしまで。。。(;´Д`)ハァハァ
さらに進むと、、、
▲ありました!このあたりが「をどの」。要は兄猾が神武抹殺用の御殿を建てたところとのこと。
▲なにやら、まがまがしさを感じる。。。(;´Д`)ハァハァ
この上、どうなってんの?
ということで上がって確かめてみた。
▲普通に畑ですね。ここに建ってたのかなー
▲パノラマビュー。 平和な田舎風景。。。
と、いうことで。
恒例の、いきましょう。
勝手に認定結果
関係各位のみなさま、
こちら、
と、させていただきます。ご確認の程、何卒よろしくお願い申しあげます。
おまけ!
宇賀神社
▲なんだか、集会所のような神社です
▲子宝に恵まれそうな「こもうけ石」
をどの 血原 お越しの際にはどうぞ!
まとめ
をどの 血原 伝承地
このあたりに在地豪族の「兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)兄弟」がいたようですし、それを制圧する中で「臣下の活躍=神代から人代への転換」が行われるという象徴的な場所だという事です。ポイント2つ。
- 本シーンは、これ以降、大和入りへ向けた「在地豪族の制圧」が主要テーマになる転換点である事。
- 制圧にあたっては、臣下が活躍。これは、「神代から人代への大転換」を象徴している事。
是非チェックしておいてください。
をどの 血原 伝承地
榛原街道から離れ、南東へ戻る感じ。「穿邑顕彰碑」からさらに奥へ進むとあります。まずは「宇賀神社」を目指しましょう。
駐車場:あり
トイレ:あり
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