日本神話に登場する、重要ワード、重要エピソードをディープに掘り下げる「日本神話解説シリーズ」。
今回は、
『裴松之 注』
をもとに、歴史の相対化といった壮大なテーマでお届けいたします。
『裴松之 注』とは、
「裴 松之」さんが作った『三国志』の「注釈」書。元嘉6年(西暦429年)。
中国、南北朝時代、宋の「文帝」という傑出したお方が、
臣下の「裴松之」に、『三国志』の「注釈」を作るようにを命じ、この命をうけて「裴松之」さん(西暦372~451年)が編纂した書物です。
「裴松之」が作った『三国志』の「注釈」。なので、一般的に「裴松之注」と呼ばれます。
実は、『日本書紀』編纂にあたっては、この「裴松之注」がモデルになっており、書紀と同様、確かに、当時の常識では考えられないとんでもない編纂スタイルをもつ書物。
以下、そんな『裴松之注』のスゴいポイントを、実例もあわせてご紹介します。
裴松之注|『三国志』の注釈書!『日本書紀』編纂のモデルになった??歴史書
『裴松之注』とは
「裴松之」が作った『三国志』の「注釈」書。
中国、南北朝時代、
宋の「文帝」が、臣下の「裴松之」に、『三国志』の「注釈」を作るように命じました。
この命をうけて「裴松之」さんが編纂、元嘉6年(西暦429年)に完成。
そもそも、なんで文帝がそんな命をくだしたか?
ここを理解しないと『裴松之注』のスゴさは理解できません。
なので、まずは『三国志』のアレコレからご紹介。
『三国志』と言えば、中国・西晋代の「陳寿」の撰による、魏・呉・蜀の三国時代について書かれた歴史書。後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの時代を扱う、有名なアレ。
で、
『三国志』自体は、「陳寿」編纂として伝わっているのですが、
当の「陳寿」さん、『三国志』を記述するにあたって、信憑性の薄い史料をとことん排除したようで、結果、『三国志』自体はめっちゃ簡潔な内容になっていたのです。
なので、「文帝」は臣下の「裴松之」に「注釈」を作るよう命じた。
要は、すごいこといっぱいあったのに、歴史書としてはえらい端折られてるから、ちょっと注釈つけてちゃんと分かるようにしてや、ということで、、、「裴 松之」さん、がんばって作ったのが『三国志』の「注釈」という訳。
↑コレもコレで端折りすぎか、、、
でだ、
『裴松之注』、著者である「裴 松之」さんが、とにかくスゴくて。。。
もともとの『三国志』の簡略すぎる部分を補うために、『三国志』の筆者である陳寿の使わなかった史料も含めて、異同のあるものは全て載せるという方針で書かれました。
もう一回言います。
異同のあるものは全て掲載する、という方針で書かれた。
こ、これがどんだけすんげーことか!!!
しかも歴史書として、注釈とは言え、どれだけ革命的なことか!!!
ヤバいで!マジで!!!! 、、、て、あんまり伝わらないとは思うのですが、
編纂当時に伝わっていた、または、残されていた史料の全てを集めて、掲載。中でもスゴイのは、その一つひとつに検証作業(史料批判)を加えてるんです!
検証!!!!!
この史料(または伝承)は、こういう理由で正しい、とか、怪しい、とか、信用できない、とか!一つひとつに対して徹底的にツッコミ入れてる訳です。
これにより、歴史の事実性はともかくも、おおもとの『三国志』に比べて、格段に面白くなっていて、、、そら「ボケとツッコミ」のオンパレードですから。
ちなみに、コレ、講釈師(噺家)のネタとして使われるようになり、ここから有名な『三国志演義』(明代の小説)の誕生につながってゆくことになったりします。さらにちなみに、『三国志演義』は、『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』と並んで中国の「四大奇書」でもあります。
ポイントは、比較検討の材料をすべて記録に残すことで、
- 著者の立場や時代によって、様々な伝承や説、主張が生まれること、
- そして立場や時代が違うと、往々にして様々な食い違いが発生すること
が分かるようになっていること。
ある意味、「歴史は一つでない」ということがビシビシ感じられる書物。まーとにかくスゴイんす『裴松之注』。
『裴松之注』の中身
ココからは、実際にどんなもんかを見ていこうと思います。
一番、『裴松之注』らしい部分を厳選してお届け。
まずは形式をチェック。基本的には、
- 本伝
- 異伝
- 注釈
の3つのパートで構成。
本伝とは、『三国志』本編で伝えている内容
異伝とは、裴松之によって集められた、当時残っていた・伝えられていた史料・伝承の数々
注釈とは、裴松之による検証・批判・ツッコミ
といった感じです。
では早速行きましょう。
以下、本伝は途中からの抜粋とし、主に、異伝や注釈に注目して読み進めてみてください。
まずは、『裴松之注』武帝紀から
【本伝】
かくて東に赴き劉備を攻撃してこれを破り、その将「夏侯博」を生けどりにした。劉備は袁紹のもとに逃亡し、〔公は〕その妻子をとらえた。劉備の将「関羽」が下邳に駐屯していたのでさらに軍を進めてこれを攻撃し、関羽は降伏した。昌豨がそむいて劉備に味方したので、また攻めてこれを破った。公は官渡に戻ったが、袁紹はけっきょく出撃して来なかった。
【異伝】
孫盛の『魏氏春秋』にいう。〔公は〕諸将に答えていった、「劉備は人傑である。将来わしを悩ませるだろう。」
【解釈(注釈)】
臣裴松之は考える。歴史家が言葉を記す場合、潤色が多いものだ。したがって先行の書物に述べられていることには事実でないものがある。後の作者がまた勝手な考えを起してそれを改める。真実を失うという点で、ますます距離があくというものではないか。およそ孫盛は書物を作るとき、『左氏伝』の文を用いてもとの文章をかえる場合が多く、そのようなことは一つに止まらない。ああ、後の学者はいったい真実をどうしてつかんだらよいのだ。それに、魏の武帝はまさに天下のため志をふるいたたせているところだ。それを〔呉王〕夫差の死を覚悟したときの言葉を用いている。もっとも見当ちがいの選択である。
出典:『裴松之注』武帝紀 訳:世界古典文学全集 三国志Ⅰ
ということで。
本伝『三国志』に対して、異伝を併載、さらに解釈(注釈)を加える、という流れ。
『裴松之注』は全体を通して、こうした構成になっています。(今回ご紹介した箇所は、異伝はひとつでしたが、もっとたくさん併載している箇所もあります)
ココでのポイントは、
解釈(注釈)部分の、裴松之の史料批判の目。非常に厳しいものをもっています。
「歴史家は潤色が多く、事実でないものがある。のみならず、後の作者がまた勝手な考えを起してそれを改めてしまう。どんどん真実から離れていってしまう。」
といった解説を付していますよね。裴松之が、どのような考えで史料を見ていたかよく分かる部分だと思います。
裴松之の考え方が窺える箇所を他にもいくつかご紹介します。
「三少帝記」より
臣裴松之は考える。習鑿歯の書(『漢晋春秋』)は最後にできたものであるとはいえ、この事件の叙述においてはほぼ筋道が立っている。だからまず習鑿歯の記録を掲載した。その他の書物のうち少しく異動のあるものを次に掲載する。
『世語』にいう。王沈と~ 後略
『晋諸公賛』にいう。王沈・王業は~ 後略
干宝の『晋紀』にいう。成済が~ 後略
『魏氏春秋』にいう。戊子の日の夜~ 後略
出典:『裴松之注』三少帝記 訳:世界古典文学全集 三国志Ⅰ
ココでは、異伝を掲載した理由を説明。
つまり、史料価値の高い順にあげていくよ、と。史料はランダムではなく、ちゃんと史料価値の高い順に沿って掲載しているよ、と。
で、実際の史料を併載していくスタイル。スゲーよマジでΣ(゚Д゚;!?
裴松之の厳しさが分かるところから。「董二袁劉伝」より
【解釈(注釈)】
楽資(筆者)の『山陽公戴記』と袁暐(筆者)の『献帝春秋』は双方とも、太祖の軍勢が城中に入ると、審配(将軍の名前)は門の中で戦った、破れた後、井戸の中に逃げ込み、井戸で捕らえられた、と言っている。
臣裴松之は考える。審配は一代の烈士であり、袁氏の死をも惜しまぬ忠臣である。いったい命数がきわまった日に、井戸に逃げ込むことなどあろうか。この記事の信じがたいことは、実際簡単にわかるであろう。楽資・袁暐といった連中は、けっきょくどんな人物なのかわからぬが、その説の是否を識別する能力もなしに、軽々しく筆をもてあそび、いいかげんに異端の説を作って、その著書をはやらせたのである。このような類のものは、まさに人の視聴をあざむき、後の世人々をまどわせ誤らせるに充分である。まことに史書における罪人であり、学問に熟達した人々なら問題としない書物である。
出典:『裴松之注』董二袁劉伝 第六 訳:世界古典文学全集 三国志Ⅰ
ということで。
裴松之の厳しさ、今回の例で言うと、怒り的なものも含めて伝わってきますよね。恐らく、史実をねじ曲げたであろう楽資・袁暐という両名に対して、「史書における罪人」として痛烈な批判を展開しています。スゴ、、、(゚A゚;)ゴクリ
ただ、コレは実は「筆誅」と呼ばれるもので、中国の伝統的なものであったりします。
「筆誅」とは、罪悪・過失などを書きたてて、責めること。中国の歴史書の最初、孔子が編集したとされる『春秋』の筆法なのです。
最後に、「魏書」より
臣裴松之は考える。蔡邕は董卓に親任されていたが、心情においは、けっしてその一味ではなかった。董卓の凶悪ぶりが、天下の人人の憎悪をかっていたことを知らないはずはなく、董卓の死亡したことを聞いて、哀惜する道理がない。たとえそうであったとしても、王允の席でわざわざそんな発言をするはずがない。これは恐らく謝承のいいかげんな記事であろう。(中略)これらはみなでたらめな作り事で、つじつまが合わぬこと甚だしい。
出典:『裴松之注』「魏書」 訳:世界古典文学全集 三国志Ⅰ
こちらも激しい批判を展開。「~するはずがない」「道理がない」「いいかげんな記事であろう」などなど。史実を都合良く書き換えてしまうことを激しく批判しているのです。
ということで、いかがでしたでしょうか?
編纂当時に伝わっていた、残されていた史料の全てを集めて、掲載して、、、
というのもスゴイんだけど、
やっぱり一番スゴイのは、一つひとつに裴松之的検証作業を加えている、という所。
きちんと根拠を示しながら、
この史料(または伝承)は、こういう理由で正しい、とか、怪しい、とか、信用できない、とか!
一つひとつに対して徹底的にツッコミ、、、
ほんとスゴイ。
比較検討の材料をすべて記録に残すことで、
- 著者の立場や時代によって、様々な伝承や説、主張が生まれること、
- そして立場や時代が違うと、往々にして様々な食い違いが発生すること
が分かるようになっている。
「歴史は一つでない」ということをビシビシ感じますよね。是非チェックいただきたいと思います。
まとめ
『裴松之注』とは、「裴松之」さんが作った『三国志』の「注釈」書。元嘉6年(西暦429年)。
中国、南北朝時代、宋の「文帝」という傑出したお方が、臣下の「裴松之」に、『三国志』の「注釈」を作るよう命じ、この命をうけて「裴松之」さんが編纂した書物。
「裴松之」が作った『三国志』の「注釈」。なので、一般的に「裴松之注」と呼ばれます。
異同のあるものは全て掲載する、という方針で編纂された書物は、当時としてはまさに革命的。特にスゴイのは、一つひとつに検証を加えている、ということ。
きちんと根拠を示しながら、この史料(または伝承)は、こういう理由で正しい、とか、怪しい、とか、信用できない、とか!一つひとつに対して徹底的にツッコミを入れてます。
これにより、
- 著者の立場や時代によって、様々な伝承や説、主張が生まれること、
- そして立場や時代が違うと、往々にして様々な食い違いが発生すること
が分かるようになっている。
「歴史は一つでない」ということがビシビシ感じられる書物。
それが『裴松之注』なのです。
そして、この
本伝と異伝を併載する
という独特の相対化構造は『日本書紀』の構造と同じであり、
むしろ、『日本書紀』編纂チームは、こうした東アジアの最先端叡智をもとに、それを神話世界に持ち込んで、本来的に超自然、不可知に属するような内容を説明しようとした、それにより、結果的に日本という国のスゴさ、多彩さ、奥深さが伝わるように工夫された、というのが『日本書紀』編纂の実態として見えてくる訳です。
参考:「『日本書紀』の「一書」とは?『日本書紀』本伝と一書の読み解き方法を徹底解説!」
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