『古事記』の神武東征神話の現代語訳。
中つ巻をもとに、東征発議から建国までの神武東征神話について、解説用のリンク付きでお届けいたします。是非参考にされてください。
『古事記』中つ卷 神武東征神話 現代語訳
1.東征の発議と開始
神倭伊波禮毘古命と其の伊呂兄五瀬命と二柱、高千穗宮にいらっしゃって相談し、「何地にいれば、平安に天の下の政をお治めになるだろうか。猶東に行こうと思う。」と言って、すぐに日向より出発し、筑紫にお行きなされた。
ゆえに、豐國の宇沙に到った時に、其の土人、名は宇沙都比古・宇沙都比賣の二人、足一騰宮を作って、大御饗を奉った。其地より遷移って、竺紫岡田宮に一年いらっしゃった。亦、其の國より上り幸でまして、阿岐國の多祁理宮に七年いらっしゃった。亦、其の國より遷り上り幸でまして、吉備の高島宮に八年いらっしゃった。
ゆえに、其の國から上りいらっしゃった時に、龜の甲に乘って釣をしながら、羽ばたくように袖を動かしてくる人と、速吸門で出会った。そこで、喚び歸て「汝は誰だ。」とお問いになると、答へて「僕は、國つ神である。」と言った。又、お問いになるには、「汝は、海道を知っているか。」と問うたところ、「能知っている。」と言った。又、「(私に)從って仕へ申し上げないか。」と問うたところ、答へて「お仕え申し上げましょう。」と申し上げた。ゆえに、爾に槁機(棹)を指し渡して、其の御船に引き入れて、即ち名を賜いて槁根津日子と名付けた。此れは、倭國造等の祖である。
2.五瀬命の戦死
ゆえに、其の國より上りいく時、浪速の渡を經て、青雲の白肩津に停泊なされた。此の時、登美能那賀須泥毘古が、軍を興し、待ちむかえて戰った。爾に御船に入れていた楯を取って下り立ちなされた。故に、其地を號て楯津という。今には、日下の蓼津と云う。
是に、登美毘古と戰った時、五瀬命が、御手に登美毘古が痛矢串を負いなされた。
故に、爾に詔て「吾は、日神の御子として、日に向かって戰うことは良くない。故に、賎しき奴から痛手を負ったのである。今よりは、行き廻って背に日を負うて撃とう。」と誓って、南の方より廻りいらっしゃった時、血沼海に到って、其の御手の血をお洗いになされた。故に、血沼海と謂う。其地より廻りいらっしゃって、紀國の男之水門に到って、詔、「賎しき奴から受けた傷で死ぬのか。」と、男建して崩(薨去)なされた。故に、其の水門を號て男水門と謂ふ。陵は、即ち紀國の竃山に在る。
3.熊野の高倉下
故に、神倭伊波禮毘古命、其地より廻りいらっしゃって、熊野の村に到った時、大きな熊が、ちらりと出てまた入り、すぐにいなくなった。爾に、神倭伊波禮毘古命はたちまちに正気を失われ、及、御軍も皆正気を失って伏してしまった。此の時、熊野の高倉下、一横刀を䝴って、天つ神御子の伏しておられる地に到って獻った時、天つ神御子、即ち寤め起きて、「長く寢てしまったものだ。」とおっしゃった。故に、其の横刀を受け取った時、其の熊野の山の荒ぶる神、自ずから皆、切り倒された。爾に、其の錯乱氏伏せっている御軍、はすべて寤め起きた。
故に、天つ神御子、其の横刀を獲えた理由をお問いになると、高倉下は答えて「私の夢に、天照大神・高木神、二柱の神の命をもって、建御雷神を召してお詔なさるには、『葦原中國は、ひどく騒いでいる音が聞こえる。我が御子等は病気の様子だ。其の葦原中國は、專ら汝が服従させた國だ。故に、汝建御雷神、降くだるべし』とおっしゃいました。爾に答へて、『僕は降らなくとも、其の國を平た横刀があります。是の刀を降すのがよいでしょう。(此の刀たちの名は、佐士さじ布ふ都つ神のかみと云ふ、亦またの名は甕みか布ふ都つ神のかみと云ふ。亦の名は布ふ都つ御魂のみたま。此の刀は石上神宮に坐す。) 此の刀を降そうとする様子は、高倉下が倉の頂に穴をあけ、其れより墮し入れよう。故に、朝起きがけによい物をみると縁起が良い、とばかりにその霊剣をみつけて、汝、取り持って、天つ神御子に獻』と仰られました。故に、夢の教のように、旦に己が倉を見ると、信に横刀が有りました。故に、是の横刀を以って奉ったのです。」と申し上げた。
4.八咫烏の先導
是に、亦、高木大神の命をもって、覺して、「天つ神御子、此より奧の方に入らないでください。荒ぶる神が、非常に多い。今、天より八咫烏を遣そうと思う。其の八咫烏が、引道てくれるでしょう。其の烏の飛び行く後から行幸するのがよいでしょう。」と申し上げた。
故に、其の教覺った通りに、其の八咫烏が後からいらっしゃると、吉野河の河尻に到りなさった時、筌(川の瀬などに仕掛けて魚を取る道具)を作りて魚を取る人がいた。爾に、天つ神御子、「汝は誰ぞ」とお問いになると、「僕は國つ神、名は贄持之子と謂う。此は、阿陀鵜飼が祖」と申し上げた。其地より幸で行けば、尾が生えている人が、井戸から出で來た。其の井戸に光が有った。爾に、「汝は誰ぞ」とお問いになると、「僕は國つ神で、名は井氷鹿と謂う。此は、吉野首等が祖」と申し上げた。即ち其の山にお入りになると、亦、尾が生えている人に遇った。此の人は、巖を押し分けて出で來た。爾に、「汝は誰ぞ」とお問いになると、「僕は國つ神で、名は石押分之子と謂う。今、天つ神御子が幸行ましたと聞いた。ゆえに、参上しに向ってきたのだ。此は、吉野の國巣が祖」と申し上げた。其地より蹈穿て、宇陀に越ていらっしゃった。ゆえに、宇陀の穿と曰ふ。
5.兄宇迦斯と弟宇迦斯
そして、爾に、宇陀に兄宇迦斯・弟宇迦斯の二人がいた。故に、先八咫烏を遣して、二人に問うて、「今、天つ神御子がいらっしゃった。汝等は仕へ申し上げるか。」と言ったき。是に、兄宇迦斯、鳴鏑をもって其の使を待ち射て追い返した。故、其の鳴鏑の落ちたる地を、訶夫羅前と謂ふ。
「待ちぶせて撃とう。」と云って、軍を集めた。しかし、軍を集めることが出来なかったので、仕へ申し上げると欺陽って、大殿を作り、其の殿の内に押機を作って待っていた時に、弟宇迦斯、先づ參向えて、拜んで申し上げるには、「僕が兄、兄宇迦斯、天つ神御子の使を射返し、将に待ち伏せして攻めようとして軍を集めています。ところが、聚めることができなかったので、殿を作り、其の内に押機を張って、待ち命を取ろうとしています。故に、参上して策略を暴露する次第です。」と申し上げた。
爾に、大伴連等が祖の道臣命・久米直等が祖大久米命の二人が、兄宇迦斯召して、ののしって云うには、「いが作り仕へ申し上げた大殿の内には、おのれが、先入って、其の将に仕へ申し上げようとする様子をはっきり申し上げろ。」といって、すぐに横刀の手上を握り、矛をしごき矢刺して、追ひ入れた時、乃ち己が作った押に打たれ死んだ。爾に、控出して斬り散らした。故、其地を宇陀の血原と謂う。然して、其の弟宇迦斯が獻った大饗は、悉く其の御軍にお与えになった。此の時に、歌ひて曰く、
宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鯨障る
前妻が 肴乞はさば 立ち柧棱 實の無けくを こきし削ね
後妻が 肴乞はさば 厳榊 實の多けくを こきだ削ね
ええしやごしや 此は、いのごふそ ああしやごしや 此は、嘲咲ふぞ
とうたった。故に、其の弟宇迦斯、此は、宇陀の水取等が祖である。
6.久米歌
其地より幸行まして、忍坂の大室に到った時、尾が生えている土雲八十建、其の室にいて、待ちぶせしている。ゆえに、爾に、天つ神御子の命をもって、饗を八十建にお与えになった。是に、八十建に宛て、八十膳夫を設けて、人毎に刀をつけさせ、其の膳夫(食事係)等に誨て、「歌を聞かば、一時共に斬れ。」と言った。ゆえに、其の土雲を打とうとすることを明せる歌に曰はく、
忍坂の 大室屋に 人多に 來入り居り 人多に 入り居りとも
厳々し 久米の子が 頭槌い 石槌いもち 撃ちてし止まむ
厳々し 久米の子等が 頭槌い 石槌いもち 今撃たば宜し
如此歌ひて、刀を拔いて一時に打ち殺した。
然して後、登美毘古を撃とうとした時、歌って曰はく、
厳々し 久米の子等が 粟生には 香韮一本 其が本 そね芽繋ぎて
撃ちてし止まむ
又、歌ひて曰はく、
厳々し 久米の子等が 垣本に 植し山椒 口疼く 吾は忘れじ
撃ちてし止まむ
又、歌ひて曰はく、
神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻ほろふ 細螺の い這ひ廻ほり
撃ちてし止まむ
又、兄師木・弟師木を撃たむとせし時、御軍、暫く疲れき。爾に、歌ひて曰はく、
楯並めて 伊那佐の山の 樹の間よも い行き目守らひ 戰へば 吾はや飢ぬ
島つ鳥 鵜養が伴 今助けに來ね
故、爾に、邇藝速日命が参上してやってきて、天つ神御子に「天つ神御子が天降っていらっしゃったと聞きました。ゆえに、追って参上し降り來たのです。」と申し上げて、即ち天津瑞を獻ってお仕え申し上げた。故に、邇藝速日命、登美毘古の妹、登美夜毘賣を娶って生んだ子は、宇摩志麻遲命である。此は、物部連・穗積臣、婇臣が祖。
故に、このように荒ぶる神等を言向平和し、伏したがはぬ人等を退りぞけ撥ひて、畝火の白檮原宮にいらっしゃって、天の下を治めた。
本シリーズの目次はコチラ!
参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)
日本神話編纂の現場!奈良にカマン!
コメントを残す