道臣命(日臣命)とはどんな人物だったのか?
正史『日本書紀』をもとに、最新の文献学的学術成果も取り入れながら、道臣命(日臣命)の人物像をディープに解説します。
- 日本神話全体の流れや構造を解き明かしながら解説。他には無い分かりやすい記事です
- 現代語訳のほか原文も掲載。日本神話編纂当時の雰囲気を感じてもらえます
- 登場する神様や重要ワードへのリンク付き。より深く知りたい方にもオススメです
道臣命(日臣命)とは?天忍日命の子孫で大伴氏の祖!神武東征神話で武官として活躍した道臣命を分かりやすくまとめ!
道臣命(日臣命)とは?
まずは、道臣命(日臣命)とは?という、根本のところをサラッと解説。
道臣命とは、日本の建国神話「神武東征神話」で、東征の軍隊である久米部を率いて活躍した武将。
天忍日命の子孫として、もともとは「日臣命」という名前でしたが、神武天皇と東征に同行し、武将として数々の功績をあげる。なかでも、八咫烏の先導により久米部を率いて菟田(宇陀)への道を拓いたことで、神武天皇から「道臣命」という名前を賜ります。
また、神武天皇即位の翌年、東征の論功行賞として築坂邑(現在の橿原市鳥屋町辺り)に宅地を賜る。天皇のすぐそばに住み、宮都の警護にもあたったことで、その後、道臣命の子孫である大伴氏は朝廷の軍事を管掌するようになります。
その他、概要をまとめると以下の通り。
誕生年 | 不明 |
父 | 不明(説には、刺田比古神とも) |
母 | 不明 |
元の名 | 日臣命 |
出身 | 日向?(天忍日命からずっと天孫に随行?) |
主な活躍 | ・八咫烏の導きによる熊野越え ・兄猾誅殺 ・丹生川上儀式での顕斎で斎主を務める ・忍坂邑掃討作戦 |
住んだ場所 | 築坂邑 |
没年 | 不明 |
子孫 | 大伴氏 |
道臣命(日臣命)の活躍を伝える神武東征神話
続けて、道臣命が何に、どこに登場するのか?基本的なところをチェック。
道臣命の活躍を伝えるのは、『日本書紀』と『古事記』。いずれも冒頭部分で日本神話を伝える日本最古の書物、歴史書です。神の時代からそのまま建国神話に流れ込むので、いろいろ神イベントが発生。
今回のエントリでは、日本の正史である『日本書紀』をもとにお届け。理由は、正史であること、多くの事蹟伝承が『日本書紀』をもとにしてること、『古事記』はかなり端折られていて、しかも最後は歌を歌って終わり、、的な感じでどうなのよ?状態だからです。
『日本書紀』、具体的には『日本書紀』巻三をもとに道臣命を深堀りすることで、道臣命の全貌が見えてくることは間違いない!安心して読み進めてください。
ということで、道臣命とはどんな人物だったのか?以下6つのポイントをまとめます。
- モノスゴイ血筋と天孫降臨の再現
- 忠実で勇猛な道の開拓者・先導者
- 荒々しい武将すぎてバラバラにしてしまう
- 斎主も務められる流石な武将
- 歌も歌えるステキな武将
- 秘術も使えるマジカルな武将
尚、『日本書紀』巻三、「神武東征神話」の概要はコチラでまとめてますのでチェックされてください。
道臣命(日臣命)とはどんな人物だったのか?モノスゴイ血筋と天孫降臨の再現
まずチェックすべきは、道臣命の血筋。
一言で言うと、
天神の直系。天忍日命の子孫。
『日本書紀』巻三(神武紀)では、道臣命に関連する最初の伝承は「東征発議」。神武天皇が語るなかで、以下のように伝えてます。
昔、我が天神である高皇産霊尊・大日孁尊は、この豊葦原瑞穂の国のすべてを我が天祖である彦火瓊瓊杵尊に授けた。 そこで火瓊々杵尊は、天の関をひらき、雲の路をおしわけ、日臣命らの先ばらいを駆りたてながらこの国へ来たり至った。 (『日本書紀』巻三(神武紀)より一部抜粋)
この、「火瓊々杵尊は、天の関をひらき、雲の路をおしわけ、日臣命らの先ばらいを駆りたてながらこの国へ来たり至った。」というところ、コレ、まさに天孫降臨のことで。
この「日臣命」が、道臣命のご先祖様って事になってるんです。
彦火瓊瓊杵尊が地上に降臨するにあたって、先ばらいを務めるのが「仙蹕」。「蹕」はさきばらいの意。「仙蹕」とは、行幸の行列。天子の車駕の列のこと。日臣命らがこの行列の先頭に立って導いたんですね。
実際に、『日本書紀』巻二の第九段〔一書4〕、天孫降臨のシーンをチェック。ここでは、次のように伝えてます。
(高皇産霊神が瓊々杵尊を天降らせた時)天忍日命は、来目部の祖先神の天槵津大来目をひきいて、背に天磐靫(矢を入れる容器)を負い、腕に稜威高鞆(弓を射るとき左手首に着けるもの)を着け、手に天梔弓(山漆で造った弓)と天羽羽矢(大蛇をもたおす強力な矢)をもち、八目鳴鏑の矢をそえ持ち、また頭槌剣を帯びて天孫の先導をされた。(『日本書紀』巻二 第九段〔一書4〕より一部抜粋)
天忍日命が、天槵津大来目を率いて、きらびやかに武装し天孫の先導を行ったと伝えてます。
つまり、、
『日本書紀』巻二・第九段〔一書4〕天孫降臨のシーンで伝える「天忍日命」が、『日本書紀』巻三(神武紀)東征発議で語られた「日臣命」ということ。「天忍日命」=「日臣命」。
日本神話では詳しくは伝えてませんが、おそらく、瓊々杵尊の降臨を先導した天忍日命は、その後も天孫に付き従っていたと推測され、、その後、時は流れ、瓊々杵尊→彦火火出見尊→鸕鷀草葺不合尊→神武天皇と系譜が受け継がれていく間ずっと、天忍日命の子孫も付き従ってたんじゃないかと、、推定されます。
そのうえで、いよいよ神武天皇が東征するときに道臣命として登場し、活躍するという流れ。実際は、後ほど解説しますが、「日臣命」として初登場。あれ??同じ名前じゃない??
ってことで、そうなんです。(東征発議で伝える)ご先祖様「日臣命」と同じ名前になってるんです。
と、ココで、道臣命解説とはズレますが、重要なところなので突っ込んで解説。
(東征発議で伝える)ご先祖様「日臣命」と、東征神話で活躍する道臣命のもともとの名前「日臣命」が同じになってるのは、なんでか? というと、、、
「天忍日命(日臣命)」が瓊々杵尊の降臨を先導したように、その子孫である「道臣(日臣命)」が神武東征を先導して大活躍し勝利をもたらす。そういう構造が埋め込まれてる、ってこと。
日本神話的解釈論でいうと、つまり、神話を歴史につなげる正当化をはかった、ということなんです。
語りだすと止まらなくなるのですが、、大きく言うと、歴史記述のなかに神代伝承を引き継ぐ内容をいれることで、神代伝承が、つまり神話が歴史の中に組み込まれるようになった、てことなんです。神話だったのが、後付けで神話じゃなくなる。。。((;゚Д゚))))ガクブル
「日臣命」という同じ名前も、そういった壮大な仕掛けの中で使われてるんです。
ちなみに、、、天孫降臨で伝える「天槵津大来目」も、同じく東征の軍隊「大来目」の祖先として位置付けられており、これも「日臣命」と同じ意味あいで使われてます。「天槵津大来目」も瓊々杵尊の降臨を先導、その子孫である「大来目」も神武東征を先導する。
こうした細工は、言い方をかえると、東征神話的伏線であり、
神代を起点に考えると、東征神話を通じて、天孫降臨で活躍した天神の子孫が、神武の先導をすることで天孫降臨を再現、回収するという仕掛け。
この場面を起点に考えると、これから展開する天孫降臨の再現を予兆する伏線であり、東征神話を通じて回収されていく訳です。
壮大。。。
ということで、いずれにせよ、まずココでは、
「道臣命」の血筋は、天神の直系。「天忍日命(日臣命)」の子孫であること。そして、それは天孫降臨にさかのぼる、ってこと、しっかりチェックされてください。
次!
道臣命(日臣命)とはどんな人物だったのか? 忠実で勇猛な道の開拓者・先導者
続いて、道臣命初登場のシーンをご紹介。
登場するのは、神武東征神話の中盤。頭八咫烏の導きと熊野越えのシーン。最初なので、「日臣命」として登場です。
東征一行は中洲に向かおうとした。しかし、山中は険しく、進むべき道もなかった。進退窮まり、踏みわたるべきところも分からない。
そのような状況の時、ある夜、彦火火出見は夢をみた。その中で、天照大神が現れ、「私が、今から八咫烏を遣わそう。それを道案内とするがよい。」と教えた。
果たして、八咫烏が空から飛んできて舞い降りた。彦火火出見は感嘆の声をあげ「この烏の飛来は、めでたい夢のとおりだ。なんと偉大なことよ、輝かしいことよ。我が皇祖の天照大神が、東征の大業を成し遂げようと助けてくれたのだ。」と言った。
そこで、臣下の大伴氏の遠祖「日臣命」が、久米部を率いて、大軍の将として、山を踏みわけ道を通しながら、烏の飛び行く先を尋ね、仰ぎ見ながら追っていった。そうしてついに、菟田の下県にたどり着いた。道を穿ちながら進んだので、その場所を名付けて菟田の穿邑という。(穿邑は、ここでは「うかちのむら」という。)
この時、彦火火出見は勅して日臣命を褒め称えて言った。「お前は、忠実で勇猛な臣下だ。その上、よく先導の功を立てた。この功績をもとに、お前の名を改めて『道臣』とする。」 (『日本書紀』巻三(神武紀)より一部抜粋)
ということで、
「臣下の大伴氏の遠祖「日臣命」が、久米部を率いて、大軍の将として、山を踏みわけ道を通しながら、烏の飛び行く先を尋ね、仰ぎ見ながら追っていった。」てところが「道臣命」初登場の箇所。
ポイント3つ。
- もともとの名前は「日臣命」であること
- 大軍の将として、東征の軍隊である久米部を率いていたこと
- 山を踏みわけ道を通していった、つまり、神武天皇=天孫を先導したこと(天孫降臨の再現)
特に、
3つ目のポイントは、先ほど解説した、神代とのつながり、東征神話的伏線回収の内容です。
さらに、
「彦火火出見は勅して日臣命を褒め称えて言った。「お前は、忠実で勇猛な臣下だ。その上、よく先導の功を立てた。この功績をもとに、お前の名を改めて『道臣』とする。」」とあり、
- 忠実で勇猛な臣下であること
- 先導の功を立てたことにより「道臣命」という名前を賜った
ことが分かります。
▲熊野上空から。奥深く険しい山々、、、「道を穿ちながら進んだので」とあり、「穿つ」=(穴を)あける。掘る。つきぬく。ってことなんで、相当な感じだったと推測されます。コレ、神話ロマン。
ということで、まとめます。
- もともとの名前は「日臣命」であること
- 大軍の将として、東征の軍隊である久米部を率いていたこと
- 山を踏みわけ道を通していった、つまり、神武天皇=天孫を先導したこと(天孫降臨の再現)
- 忠実で勇猛な臣下であること
- 先導の功を立てたことにより「道臣命」という名前を賜った
以上の5つ。しっかりチェック。
次!
道臣命(日臣命)とはどんな人物だったのか? 荒々しい武将すぎて敵をバラバラにしてしまう
続けて、道臣命活躍シリーズその2.荒々しいにも程がある、をお届け。
菟田の穿邑(現在の、宇陀宇賀志周辺)に出てきた神武一行を待ち構えていたのは、地元の勢力である兄猾・弟猾ブラザーズ。このうち、兄は反抗、弟は恭順、対照的な反応を見せる。
兄の兄猾は、からくり仕掛けの圧殺機をしかけて神武天皇を殺そうとするのですが、我らが道臣命がそこで大活躍。以下。
彦火火出見はただちに道臣命を遣わし、その反逆の様子を窺わせた。
道臣命は、兄猾には確かに害意を抱いていることを詳しく察知し、激怒して責めなじり「卑しい敵め!うぬが造った宮に、うぬが自分で入ってみろ!」と荒々しい声で言った。さらに剣の柄に手をかけ、弓を強く引きしぼって追い立て、兄猾を建物に入らせた。
兄猾は、天によって罰を受けるのと同じようにどうにも言い訳ができなくなり、ついに自ら中に入りからくり機を踏み、押しつぶされて死んだのである。それから道臣命は兄猾の屍を引きずり出してバラバラに斬った。流れ出る血は踝まで達した。それゆえ、その地を名づけて「菟田血原」という。 (『日本書紀』巻三(神武紀)より一部抜粋)
ということで、
「激怒して責めなじり「卑しい敵め!うぬが造った宮に、うぬが自分で入ってみろ!」と荒々しい声で言った。」とあり、『日本書紀』原文では「大怒誥嘖之」。大いに怒る、「誥」は上から下に申し渡す、「嘖」は怒り責める。これでもか!と怒り表現連発です。。道臣命、怖ー(||゚Д゚)
「卑しい敵め!うぬが造った宮に、うぬが自分で入ってみろ!」と荒々しい声で言った、って。。。相当な剣幕だったんじゃないかと。。その激しい勢いに押され、自分で仕掛けた圧殺機に入って死ぬ兄猾。。
スゴイのは、「道臣命は兄猾の屍を引きずり出してバラバラに斬った」とあり、ぐちゃっと潰れた兄猾の死体を引きずり出してバラバラに切り刻んだ我らが道臣命、やっぱり怖すぎる、、(||゚Д゚)
ポイント2つ。
- 敵に対して激怒して責めなじる荒々しい道臣命であること
- 死体をバラバラに切り刻むなど徹底的にやっつけてしまう道臣命であること
以上、道臣命の人物像としてチェックです。
次!
道臣命(日臣命)とはどんな人物だったのか? 斎主も務められる流石な武将
荒々しい武将として描かれる道臣命ですが、ココからは、こんなこともできるぞシリーズをお届け。
まずは、斎主も務められる道臣命です。
宇陀攻略のあと、国見の丘を中心とする強大な敵勢力(八十梟帥)を討伐するのですが、その際、天神パワーを加護につける神武天皇。そのために、『顕斎』という祭祀を行うのですが、ココで我らが道臣命が活躍。
その時、彦火火出見は道臣命に勅して言った。「これから『高皇産霊尊』を祭神として、私自身が『顕斎』 を執り行う。お前を斎主として、『厳媛』の名を授ける。そして、祭りに置く埴瓮を『厳瓮』と名付け、また火を『嚴香來雷』と名付け、水を『嚴罔象女』、食べものを『厳稲魂女』、薪を『厳山雷』、草を『厳野椎』と名付けよう。」 (『日本書紀』巻三(神武紀)より一部抜粋)
ということで、
『顕斎』自体は、高皇産霊尊を降臨させ顕現した「斎神」とし、道臣命を「斎主」とし奉斎させる儀式のこと。
想定としては、祭壇に降臨した高皇産霊尊と祭器、それを斎主として奉斎する道臣命、という構図。
という感じだったと想定されます。なぜ『厳媛』の名を授けているか?含め、詳細はコチラで↓
我らが道臣命は、斎主として奉斎するお役目を果たされます。斎主が中心になって儀式を行うわけで、祭祀の主宰、最高位のお役目であります。
もちろん、これは、天孫降臨の先導に対応して、神武東征の先導をつとめ、これにより「よく先導の功を立てた。この功績をもとに、お前の名を改めて『道臣』とする。」と名を賜った功績から。まさにぴったりの役回り。
ということでまとめると、
荒々しさだけじゃない。重要な祭祀の斎主も務められる流石な道臣命、ということでチェックです。
次!
道臣命(日臣命)とはどんな人物だったのか? 歌も歌えるステキな武将
続けて、道臣命こんなこともできるぞシリーズその2.歌も歌える、をお届け。踊れたか、、までは知りません。。
天神パワーをゲットして国見の丘を中心とする強大な敵(八十梟帥)を撃破した神武天皇。ですが、残党が山奥に逃げ込んでしまう。。そこで登場するのがまたまた我らが道臣命。忍坂掃討作戦を決行します。
そこで、彦火火出見は振り返って道臣命に命じた。「お前は「大来目部」を率いて、忍坂邑に大きな室を造り、盛大に饗宴を催し、賊どもをおびき寄せて討ち取れ。」
道臣命はこの密命を承り、忍坂に地面に穴ぐらを掘って室とし、大来目部の勇猛な兵を選び、賊のあいだに紛れこませた。そして、密かに手筈を定め命じた。「酒宴が盛りをすぎたあと、私が立ち上がって歌を歌おう。お前たちは私の歌う声を聞いたと同時に、一斉に賊どもを刺し殺せ。」
いよいよ皆が座り酒杯をめぐらせた。賊はこちらにひそかな計略があることも知らず、心にまかせて酔いしれた。その時、道臣命が立ち上がって歌った。
忍坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の子らが 頭槌い 石椎い持ち 撃ちてし止まむ
(忍坂の大きな室屋に、人が大勢いても、人が大勢入っていようとも、勇猛な来目の者たちが、 頭槌の太刀、石槌の太刀を持って(敵を)撃たずに止むものか)その時、こちらの兵士はこの歌を聞き、一斉に頭槌の剣を抜き、一気に賊を斬り殺した。賊の中に生き残る者は一人もいなかった。 (『日本書紀』巻三(神武紀)より一部抜粋)
ということで、
忍坂邑に大きな室を造り、盛大に饗宴を催し、賊どもをおびき寄せ、酒でベロベロにしたところを討ち取った訳ですね。「賊の中に生き残る者は一人もいなかった。」とあり、あたりはおびただしい死体と血の海だったと思われます。
この忍坂掃討作戦は、構図的には、神武天皇がプロデュースした内容をもとに実行する忠実な道臣命、というもの。
その中でも、「大来目部の勇猛な兵を選び、賊のあいだに紛れこませた。そして、密かに手筈を定め命じた。「酒宴が盛りをすぎたあと、私が立ち上がって歌を歌おう。お前たちは私の歌う声を聞いたと同時に、一斉に賊どもを刺し殺せ。」」とあるように、道臣命がみずから考えた作戦がキラリと光ります。リーダーの命令をそのまま実行するのではなく、自ら思考し、作戦の成功確度を上げてるわけです。このあたりが、道臣命らしいところと言えます。
さらに、
「忍坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の子らが 頭槌い 石椎い持ち 撃ちてし止まむ」とあり、道臣命、歌も歌えたようです。しかもこの歌、実は忍坂掃討作戦の前に、神武天皇が歌を歌うのですが、その内容が踏まえられてる。一番最後の、「撃ちてし止まむ」という言葉がまさにそれ。
直前の神武天皇の御歌は、「神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻る 細螺の 吾子よ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ」とあり、同じ言葉が使われてますよね。このあたりも流石です。詳しくはコチラで↓
まとめます。
- リーダーの命令をそのまま実行するのではなく、自ら思考し、作戦の成功確度を上げる工夫を入れてる流石な道臣命。
- 神武天皇の歌った歌を踏まえて歌を歌える機転の利く流石な道臣命。
以上2点、しっかりチェック。
次!
道臣命(日臣命)とはどんな人物だったのか? 秘術も使えるマジカルな武将
最後に、道臣命こんなこともできるぞシリーズその3.秘術も使えるマジカル道臣命、をお届け。
国見の丘の残党も討伐し、その後も、兄磯城や長髄彦をやっつけ大和平定を成し遂げた神武天皇。ついに、天皇として即位し、日本建国を果たします。その日、道臣命は秘術を承る。以下。
初めて、天皇が天日嗣の大業を草創した日、大伴氏の遠祖である道臣命は、大来目部を率いて秘策を承り、諷歌や倒語を巧みに用いて災いや邪気を全て払った。倒語が用いることは、ここに初めて起こったのである。 (『日本書紀』巻三(神武紀)より一部抜粋)
ということで、
「大伴氏の遠祖である道臣命は、大来目部を率いて秘策を承り、諷歌や倒語を巧みに用いて災いや邪気を全て払った。」とあり。
「諷歌」は、物事を直接に歌わずに、他のことに喩えて歌う歌。「諷」は、添える、なぞらえるの意味。
「倒語」は、敵に悟られないように言い換えて、あるいは逆に用いる言葉。暗号みたいなものです。
いずれも、建国と即位に合わせ、災いや邪気を全て払うための秘術として使われてます。マジカルマジカル道臣命。
まとめます。
災いや邪気を払うための秘術、「諷歌」「倒語」を駆使するマジカルな道臣命。
ということでチェック。
次!
おまけ:道臣命のその後
神武東征において多大なる功績をあげた我らが道臣命。建国の翌年、神武天皇より直々に褒賞をいただいておられます。
2年(紀元前659年)春2月2日、神武天皇は臣下の功績を評定して褒賞を行った。道臣命には、宅地を与え築坂邑に居所を与えられて、ことに寵愛された。また大来目には、畝傍山より西の川辺の地に居所を与えられた。今、来目邑というのは、これがその由縁である。 (『日本書紀』巻三(神武紀)より一部抜粋)
ということで、
東征で功績のあった者に対して褒章を与える、論功行賞。本文「功を定め賞を行う(定功行賞)」。
我らが道臣命は、その筆頭。「宅地を与え築坂邑に居所を与えられて、ことに寵愛された」とあり、「築坂邑」は現在の橿原市鳥屋町辺りとされてます。畝傍山の南エリア。
補足として、道臣命が率いた東征軍たる大来米の皆さんにも「畝傍山より西の川辺の地に居所を与えられた」と。これ、橿原市久米町辺り。畝傍山の西に高取川がありますが、その東岸。
ポイントは、天皇のすぐそばで警護のお役目をいただいたってことで。それだけ信頼・信用が厚かったことが分かりますよね。
そして、これをもとに、道臣命の子孫である大伴氏は、朝廷の軍事を管掌するようになります。ちなみに、歌でも有名な大伴家持も、歌も歌える道臣命の血筋をひいていたからかもしれませんね。
まとめ
道臣命(日臣命)とは?
『日本書紀』巻三をもとに道臣命をディープに解説してきましたが、いかがでしたでしょうか?
改めて、ポイントを列挙すると以下の通り。
- 道臣命の血筋は、天神の直系。天忍日命の子孫であること。そして、それは天孫降臨にさかのぼる。
- もともとの名前は「日臣命」である。
- 大軍の将として、東征の軍隊である久米部を率いていた。
- 山を踏みわけ道を通していった、つまり、神武天皇=天孫を先導した(天孫降臨の再現)。
- 敵に対して激怒して責めなじる荒々しい道臣命である。
- 死体をバラバラに切り刻むなど徹底的にやっつけてしまう道臣命である。
- 重要な祭祀の斎主も務められるステキな道臣命。
- リーダーの命令をそのまま実行するのではなく、自ら思考し、作戦の成功確度を上げる工夫を入れてる流石な道臣命。
- 神武天皇の歌った歌を踏まえて歌を歌える機転の利く流石な道臣命。
- 災いや邪気を払うための秘術、「諷歌」「倒語」を駆使するマジカルな道臣命。
ということで、
たしかにこう見てくると、なかなかスゴイ武将であります。築坂邑に居所を与えられて、ことに寵愛されたのも納得です。
道臣命をお祀りする神社がこちら!
● 住吉大伴神社
〒616-8006 京都府京都市右京区龍安寺住吉町1
● 刺田比古神社
〒640-8139 和歌山県和歌山市片岡町2丁目9
● 伴林氏神社
〒583-0007 大阪府藤井寺市林3丁目6−30
コチラも是非!日本神話の流れに沿って分かりやすくまとめてます!
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参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)、他
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日本神話編纂の現場!奈良にカマン!
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