霧島神宮は、鹿児島県霧島市にある神宮。
ご祭神は「瓊瓊杵尊」。天照大神から三種の神器を授かり、天壌無窮の神勅により葦原中国の統治を命じられました。
現在の社殿は高千穂の峰の南麗にありますが、もともとは高千穂峰付近にありました。しかし、高千穂峰の噴火と火災・消失ののちに、1715年に現在の地に重建された経緯アリ。
今回は、そんな天孫降臨の聖地ともいうべき霧島神宮を日本神話とあわせてご紹介します。
霧島神宮|御祭神は瓊瓊杵尊!高千穂峰に鎮座する霧島神宮を天孫降臨神話とあわせてご紹介!
目次
霧島神宮にちなむ日本神話
まずは、霧島神宮にかかわる日本神話からご紹介。
『日本書紀』第九段〔一書1〕の天孫降臨から。
そこで天照大神は、天津彦彦火瓊瓊杵尊に八坂瓊曲玉と八咫鏡、草薙劒の三種宝物を授けた。
また、中臣の祖神である天児屋命、忌部の祖神である太玉命、猿女の祖神である天鈿女命、鏡作の祖神である石凝姥命、玉作の祖神である玉屋命、併せて五部神々をお供として付き従わせた。
そして皇孫に勅して、「葦原千五百秋之瑞穂國は、我が子孫が君主たるべき地である。汝、皇孫よ、行って治めなさい。さあ、行きなさい。天祚の栄えることは、天地とともに窮まることがないであろう。」と言った。
ということで、
降臨する「瓊瓊杵尊」に、三種の神器を授け、天児屋命はじめ五部神を付き従わせ、天壌無窮の神勅により葦原中国の統治を命じる、という天孫降臨フルラインナップバージョンであります。
そして、その後、いくつかのすったもんだを経て、、最終的に
そこで、皇孫は天磐座を押し離し、天の幾重もの雲を押し分け、威風堂々とよい道を選り分け選り分けて天降った。はたして、先の約束通り、皇孫は筑紫の日向の高千穂串触之峯に辿り着いた。
ということで、
筑紫の日向の高千穂串触之峯に降臨する次第。この高千穂串触之峯が、現在の高千穂峰とされている次第。頂上には、天逆鉾が突き刺さってますね。
そんな経緯から、霧島神宮は当初、高千穂峰付近、脊門丘にあったのですが、高千穂峰、、、噴火してしまいまして、、、悉く炎上消失。その後、950年に少し離れた高千穂河原に再興。したものの、再度、高千穂峰噴火により被害を受ける、さらに別の火災で全焼するなど、まー、よく燃えてこられた経緯アリ。
それを憂いた第21代島津藩主の島津吉貴により1715年に現在の地に重建という形で、ただし主要機能はすべて移管されて現在に至っております。
霧島神宮への道
霧島神宮は、鹿児島県霧島市霧島田口にあります。
霧島神宮の創建経緯
天孫降臨の地、高千穂峰の山岳信仰から始まった神社。
元は、瀬多尾にあったとされ、火口に近い場所であったため社殿は噴火でたびたび炎上、延暦7年(788年)の火常峰(御鉢)の噴火で焼失したそうで。
天慶3年(940年)、あるいは村上天皇の御代の天暦4年(950年)、性空上人により瀬多尾越(現在の高千穂河原・古宮址)に再興されましたが、ここもたびたび噴火の巻き添えで炎上。
文暦元年(1234年)の火常峰(御鉢)の大噴火により社殿、僧坊等がことごとく焼失したため、霧島市霧島田口の待世(霧島中学校の隣、霧島町グランドとの境)に「仮宮」を建てて、約250年間祭っていたそうです。
文明16年(1484年)、島津忠昌の命により兼慶(けんけい)上人が再興したのが、現在の霧島神宮。
ただし、社殿はその後も幾度も炎上し、現在の社殿は正徳5年(1715年)、島津吉貴の奉納により再建した物とされてます。
明治の神仏分離令までは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一面観音でした。別当寺に華林寺を有します。霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしていた。 近代社格制度のもと、1874年(明治7年)2月に官幣大社に列格されました。
霧島神宮の境内
以下、現地の様子をレポ。
参拝当日は雨でしたが、逆に、とても神秘的で厳かな雰囲気に包まれておりました。
霧島神宮の御祭神
ご祭神:天饒石国饒石 天津日高 彦 火瓊瓊杵尊
相殿神
- 木花開姫尊(お后)
- 彦火火出見尊(子)
- 豊玉姫尊(子のお后)
- 鵜茅葺不合命(孫)
- 玉依姫尊(孫のお后)
- 神倭磐余彦尊(ひ孫)
神武天皇まで連なるファミリー全員をお祀りされてるなんて!コレ、日本神話的に超重要です。こちらご参考に。
霧島神宮の山神神社
霧島神宮 若宮神社
霧島神宮 亀石坂
霧島神宮 鎮守神社
霧島神宮その他の見どころ
御神木
招霊木
坂本龍馬・おりょう新婚旅行記念
展望台からの眺め
どこよりも分かりやすい日本神話解説シリーズはコチラ!
日本神話編纂の現場!奈良にもカマン!
コメントを残す