『古事記』は誰が書いたのか?分りやすく解説します。
『古事記』を編纂したのは太安萬侶。
稗田阿礼が誦習していた「帝紀(帝の系譜)」や「本辞(神話や縁起などの伝承)」をまとめた、とされてます。
今回は、太安萬侶のほかにも、謎の人物稗田阿礼も含めて、分かりやすく解説していきます。
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古事記はだれが書いた?編者でありイノベーター太安萬侶と、特殊スペックホルダー稗田阿礼の人物像を探ってみる
目次
古事記はだれが書いた?太安萬侶とは?稗田阿礼とは?
『古事記』の編者として登場するのは、二人のお方。太安萬侶と稗田阿礼です。
まずは、天武天皇の代。天武天皇の命によって「帝紀(帝の系譜)」や「本辞(神話や縁起などの伝承)」の誦習事業が開始されるのですが、この時に登場するのが、稗田阿礼。
その後(約30年後)、元明天皇の代。元明天皇の命(「稗田阿礼が誦んでいる勅語の旧辞を撰録して献上せよ」)によって『古事記』としてまとめたのが太安萬侶。
詳しい経緯は、『古事記』序にて。コチラ↓でチェック。
以下、メインどころの太安萬侶と謎多き稗田阿礼の2名について、人物像やロマンも含めて解説。
まずは、太安萬侶について。
太安萬侶のポイントは3つ。
- 昭和54年(1979)に太安萬侶の遺骨と墓誌その他が発見されるまでは謎の人物だった。
- 太安萬侶さんは上級官人。氏は「太」、姓は「朝臣」。
- 公的な文章を漢文体で書くのがお仕事だったので、その膨大な知識と技術をもとに、日本の古語・古意(発想法)によって古代を語ろうとしたイノベーターだった。
ということで、
『古事記』は、序文である「序」の末尾の署名によって、太安萬侶による編纂とされながら、それを裏付ける傍証(間接の証拠)が無く、存在そのものが謎であり、謎は謎を生み、さまざまな説が行われてきた経緯がありました。
ところが、昭和54年(1979)1月20日、奈良市田原町此瀬の茶畑から、太安萬侶の遺骨と墓誌が偶然、発見されたんです!!
竹西さんという、茶畑をいとなんでおられた方が、畑作業中に鍬で引き抜いたのが炭。。なんじゃこれ?と、炭を触ってみると中から小さな骨と箱の底板が見つかったそうです。。当時の詳しい資料等はコチラで→奈良県立図書館の「太安麻呂の墓発見」ページ
太安萬侶の墓の場所がコチラ↓
めっちゃ山の中やん、、、 今は史跡になっとります。村を上げてアピール中。
で、発掘された墓誌の銘には、
左京四条四坊 従四位下勲五等太朝臣安萬侶 以癸亥/年七月六日卒之 養老七年(723年)十二月十五日乙巳
とあり、居住地、位階、勲等、死亡年月日、埋葬年月日が記載されてた次第。
発見の経緯や考古学的な見解を総合した上で、この墓・墓誌は太安萬侶のものであるとされ。つまり、それまで謎だった太安萬侶が、実在の人物として確認された訳です。
なお、冒頭の「左京四条四坊」は、太安萬侶の本籍地のこと。現在の、奈良市三条添川町・三条宮前町・三条大宮町付近。JR奈良駅の近く。
次の「従四位下勲五等太朝臣安萬侶」は、亡くなった時の位階が「従四位下」ということで、太安萬侶さんは上級官人であります。氏は「太」、姓は「朝臣」。
この氏姓と位階は、『古事記』序の署名「和銅五年正月廿八日正五位上勲五等太朝臣安萬侶」の記述とも大きく違ってないので、矛盾はないと考えられてます。
いずれにしても、
上級官人として、公的な文章を漢文体で書くのがお仕事であり、なんなら得意だったはず。実際、『古事記』序でも、『文選』や『玉編』などを出典にして四六駢儷体の文章を作ったりしてます。
「四六駢儷体」というのは、四字・六字の句を基本として対句を用いる華美な文体のこと。漢や魏の時代に起こり、六朝から唐にかけて流行した、いわば国際的なスタンダード。日本でも、奈良時代から平安時代にかけて盛んに用いられました。奈良時代でコレを駆使できるというのは、相当な知識量でありスマートさです。
さらに太安萬侶さん、帝紀・旧辞を一体のものとしてアレンジしながら、文章を均整化し、完結統一体としての『古事記』を生み出した訳で。すごいチャレンジですよね。
しかも、中国語でも読めるような漢文体で日本の古代を描くのではなく、日本の古語・古意(発想法)によって古代を語ろうとした訳です。当時としては、非常に画期的な取り組みだったと思いますし、あるべき姿を構想し、文章の読みやすさを考えて創意工夫を取り入れながらカタチにできる力があった訳ですね。
まさに、イノベーター太安萬侶。
太安萬侶さんが生み出した創意工夫、イノベーションの詳細はコチラで詳しく。
次に、稗田阿礼について。
稗田阿礼については、「舎人がいました。姓(氏)は稗田、名は阿礼、年は28。人となりは聡明で、ひと目見れば口で暗唱し、耳に聞けば記憶した。音訓も瞬間に判断して話し言葉に直し意味の分かる言葉で読み上げられることができました。」と伝えるように、
- 舎人である
- 姓(氏)は稗田、名は阿礼、である
- 人となりは聡明で、ひと目見れば口で暗唱し、耳に聞けば記憶した。音訓も瞬間に判断して話し言葉に直し意味の分かる言葉で読み上げられることができた
の3つがポイント。が、それ以外は全て謎。
もともと、「舎人」というのは、知力・武力・体力など他に秀でた能力に応じて天皇の近くで奉仕する官職を言います。
なので、稗田阿礼は「ひと目見れば口で暗唱し、耳に聞けば記憶した。」という聡明さによって、舎人として天武天皇に近侍奉仕していたと思われます。
そして、28歳のとき、誦習事業に抜擢されたわけで、、ちなみに、、稗田氏は、天宇受売命の子孫の猿女君の一族。大和国稗田の在とされてますので、、特殊スペックもこの血筋のせいかもしれませんね。。
ちなみに、、稗田阿礼は女性だとする説があるのですが、これは誤りです。舎人は中国でも日本でも女性であった例はないからです。しかも、もし女性なら「阿礼売」という名であるべきですが、そうはなってません。
いずれにしても、その特殊スペックにより、歴代天皇の皇位継承の次第及び古代からの伝承を読み慣わされたのがスペックホルダー舎人稗田阿礼だったということで、チェック。
古事記はだれが書いた?天武天皇による編纂指令と稗田阿礼
『古事記』の編者である太安萬侶、そして、天皇家の歴史を誦習した稗田阿礼をチェックできたところで、ココからは実際の、編纂指令の現場をチェック。
まずは、天武天皇の代。天武天皇の命によって「帝紀(帝の系譜)」や「本辞(神話や縁起などの伝承)」の誦習事業が開始されるのですが、この時に登場するのが、稗田阿礼です。
そこで、天皇は仰せられましたのは「朕が聞くところでは、『諸家(諸氏族)が持つ帝紀(帝の系譜)および本辞(神話や縁起などの伝承)は、もはや真実と違っており、多くは嘘偽りを加えられている』と聞いた。今日の時点で、その失りを改めなかったら、何年も経たぬうちに、その本旨はきっと滅びるだろう。この帝紀・旧辞は国家組織の根本であり、天皇政治の基礎である。そこで、帝紀を撰録し、旧辞を詳しく調べて、偽りを削り真実を定めて後の世に伝えようと思う。」
たまたま、舎人がいました。姓(氏)は稗田、名は阿礼、年は28。人となりは聡明で、ひと目見れば口で暗唱し、耳に聞けば記憶した。音訓も瞬間に判断して話し言葉に直し意味の分かる言葉で読み上げられることができました。
そこで、阿礼に勅して、歴代天皇の皇位継承の次第及び古代からの伝承を読み慣わされました。しかしながら、運は移り世は異り(天武天皇崩御により)、未だその事業は行われませんでした。 (引用:『古事記』序文より一部抜粋)
ということで。
「たまたま、舎人がいました。姓(氏)は稗田、名は阿礼、年は28。人となりは聡明で、ひと目見れば口で暗唱し、耳に聞けば記憶した。音訓も瞬間に判断して話し言葉に直し意味の分かる言葉で読み上げられることができました。」と、たまたまいた舎人が稗田阿礼で、超絶スペックホルダーだったことを伝えてます。
天武天皇からの勅により、歴代天皇の皇位継承の次第及び古代からの伝承を読み慣わしがスタートしたのですが、天皇崩御によりプロジェクトは頓挫してしまったようです。。稗田阿礼については、これ以外は伝えておらず、謎。
古事記はだれが書いた?元明天皇による編纂指令と太安萬侶
その後(約30年後)、元明天皇の代。元明天皇の命(「稗田阿礼が誦んでいる勅語の旧辞を撰録して献上せよ」)によって『古事記』としてまとめたのがイノベーター・太安萬侶です。
旧辞の誤り違っているのを惜しまれ、先紀の誤りが錯綜しているのを正そうとされて、和同4年9月18日に、臣・安万侶に詔し、「稗田の阿礼が誦んでいる勅語の旧辞を撰録して献上せよ」と仰されたので、謹んで、詔旨のまにまに細かに採り拾いました。 (引用:『古事記』序文より一部抜粋)
ということで。
天武天皇のときから約30年経過してる訳で、、あのときうら若かった稗田阿礼も60手前のおじいちゃんになっとりました。。。誦習したやつ全部覚えてたの?? そんな稗田阿礼が誦んでいる勅語の旧辞を撰録して献上せよと、元明天皇から勅下り、、、ヒアリングしながら『古事記』としてまとめていったのが太安萬侶だった訳ですね。
古事記はだれが書いた?まとめ
『古事記』は誰が書いたのか?
『古事記』を編纂したのは太安萬侶。
稗田阿礼が誦習していた「帝紀(帝の系譜)」や「本辞(神話や縁起などの伝承)」をまとめた、とされてます。
上級官人として、公的な文章を漢文体で書くのをお仕事にしていた背景があるからこそ、帝紀・旧辞を一体のものとしてアレンジしながら、文章を均整化し、完結統一体としての『古事記』を生み出せた訳です。
しかも、中国語でも読めるような漢文体で日本の古代を描くのではなく、日本の古語・古意(発想法)によって古代を語ろうとした訳で。当時としては、非常に画期的な取り組みだったと思いますし、文章の読みやすさを考えて創意工夫を取り入れながら構想し、実際にカタチにできる力があった、いわば、イノベーターとしての太安萬侶はしっかりチェック。
稗田阿礼については、舎人であり、姓(氏)は稗田、名は阿礼、であり、人となりは聡明で、ひと目見れば口で暗唱し、耳に聞けば記憶した。音訓も瞬間に判断して話し言葉に直し意味の分かる言葉で読み上げられることができた、ということで超絶スペックホルダー。
「ひと目見れば口で暗唱し、耳に聞けば記憶した。」という聡明さによって、舎人として天武天皇に近侍奉仕していたところ、28歳のとき、誦習事業に抜擢されたわけです。ちなみに、、稗田氏は、天宇受売命の子孫の猿女君の一族。大和国稗田の在とされてますので、、特殊スペックもこの血筋のせいかもしれません。。
『古事記』序文の分かりやすい解説はコチラで!
佛教大学名誉教授 日本神話協会理事長 榎本福寿
埼玉県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程国語学国文学(S53)。佛教大学助教授(S58)。中華人民共和国西安外国語学院(現西安外国語大学)文教専家(H1)。佛教大学教授(H6)。中華人民共和国北京大学高級訪問学者(H13)。東京大学大学院総合文化研究科私学研修員(H21)。主な書籍に『古代神話の文献学 神代を中心とした記紀の成りたち及び相関を読む』がある。『日本書紀』『古事記』を中心に上代文学における文献学的研究成果多数。
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