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日本神話に登場する神神を、リアルな神話をもとに徹底解説。
今回は、道敷大神。
黄泉往来譚の中で登場し、『古事記』『日本書紀』で微妙に違う意味を持つ神です。
コレを読めば「道敷大神」の全貌が分かります。それではいってみましょう。
道敷大神|道で追いついた神&道を治める神!道敷大神の意味、活動を徹底解説!
道敷大神の名義
『古事記』と『日本書紀』で名義の意味が微妙に違います。
『古事記』:道を追いついた大神
「敷」は「及」の借訓。伊耶那岐命が黄泉国から逃走した時、伊耶那美命が黄泉比良坂で追いついたところから。
また、『古事記』で「その追ひしきしをもちて、道敷の大神といふ」と伝えているのは、伊耶那美命の黄泉道の支配力の表象とも言えます。
一方の『日本書紀』は、、、
『日本書紀』:道一面に力を及ぼし、その道を治める神
伊奘諾尊が黄泉から脱出する時、履を投げ捨てた時に化成した神。この履の投げ捨ては、伊奘諾尊の身に付けていたものを投げ捨てる一連の行為の中にあり、つまり、黄泉との断絶を図るための儀式の一つ。故に、黄泉から続く道を治める神として、黄泉からの影響を封じる意味が本質。
別の説では、「履が道一面に力を及ぼす」意味であり、履による歩行力の表象とされる。
道敷大神を伝える日本神話
①『古事記』から。
黄泉国で、伊耶那美命が課した「見るなの禁」を破り、伊耶那美命の正体が露見したところから。
是に伊耶那岐命、見畏みて逃げ還る時、其の妹伊耶那美命が、「吾に辱をかかせましたね。」と言って、即ち豫母都志許賣を遣わして追わせた。爾に伊耶那岐命、黒御縵を取って投げ棄てれば、乃ち蒲の子が生った。(豫母都志許賣が)是を摭って食む間に逃げ行くのを、猶も追ってくる。また、其の右の御美豆良に刺せる湯津爪櫛を引き折って投げ棄てれば、乃ち笋が生えた。(豫母都志許賣が)是を拔き食む間に、逃げて行った。
且、その後には、八くさの雷神に、千五百の黄泉軍を副えて追わせた。そこで身に帯びていた十拳劒を拔いて、後手に振りながら逃げ来るのを、なおも追いかけて、黄泉比良坂の坂本に到った時、其の坂本に在る桃子三箇を取って、待ち撃ったところ、悉に逃げ返った。 ー中略ー
ゆえに、其の伊耶那美命を号けて黄泉津大神という。また言うには、其の追って来たのをもって道敷大神というと伝える。また、其の黄泉の坂に塞いだ石は、道反之大神と名付け、また塞り坐す黄泉戸大神ともいう。故に、其のいわゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂という。
伊耶那美命が黄泉比良坂で追いついたことを持って「道敷大神」とされます。
②『日本書紀』から
泉津平坂で絶縁宣言。その後で、伊奘諾尊が黄泉との断絶を図るための儀式の中で登場。
この時には、伊奘諾尊はすでに泉津平坂に至っていた。そこで、伊奘諾尊は千人力でやっと引けるくらいの大きな磐でその坂路を塞ぎ、伊奘冉尊と向き合って立ち、遂に離縁を誓う言葉を言い渡した。
その時、伊奘冉尊は「愛しい我が夫よ、そのように言うなら、私はあなたが治める国の民を、一日に千人縊り殺しましょう。」と言った。伊奘諾尊は、これに答えて「愛しい我が妻よ、そのように言うならば、私は一日に千五百人生むとしよう。」と言った。
そこで「これよりは出て来るな。」と言って、さっと杖を投げた。これを岐神と言う。また帯を投げた。これを長道磐神と言う。また、衣を投げた。これを煩神と言う。また、褌を投げた。これを開齧神と言う。また、履を投げた。これを道敷神と言う。
履の投げ捨ては、伊奘諾尊の身に付けていたものを投げ捨てる一連の行為の中にあります。
つまり、黄泉との断絶を図るための儀式の一つとしてあり、故に、黄泉から続く道を治める神として、黄泉からの影響を封じる意味が本質となります。
道敷大神を伝える文献
道敷大神・・・『古事記』上巻
道敷神・・・『日本書紀』神代上 巻1第五段〔一書6〕
参考文献:新潮日本古典集成『古事記』より 一部分かりやすく現代風修正
コチラも是非!日本神話の流れに沿って分かりやすくまとめてます!
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