狭野神社は、宮崎県 西諸県郡 高原町にある神社。
コチラ、元は、神武天皇誕生の地「皇子原神社」だったのが、度重なる霧島山の噴火による社殿炎上の憂き目に遭ってきたことから、慶長15年(1610)、現在の地に社殿を造営還座された経緯あり。なので、狭野神社は「皇子原神社」とセットで参拝が必須。
境内は、400年以上の杉の大木が鬱蒼と立ち並んでいて、とても神秘的な空気に満ちています。
今回は、そんな神武天皇誕生の地「皇子原神社」をルーツにもつ狭野神社をご紹介します。
狭野神社(宮崎神社別宮)御祭神は神武天皇!皇子原神社をルーツに持つ狭野神社は静謐な空気が満ちてます
目次
狭野神社にまつわる日本神話
まずは、当サイトならでは。狭野神社に関連する日本神話をご紹介。
狭野神社のルーツは皇子原神社。つまり、神武天皇誕生の地とされてる訳で。
今回は、そこから、「狭野」と言う言葉が登場する箇所をご紹介。
まず彦五瀬命を生んだ。次に稲飯命。次に三毛入野命。次に狭野尊。または神日本磐余彦尊と言う。狭野というのは、年少の時の名である。後に天下を平定して八洲を治めた。そのため、名を加えて神日本磐余彦尊と言う。 (『日本書紀』第十一段〔一書1〕より一部抜粋)
ということで、
「次に狭野尊。狭野というのは、年少の時の名である。後に天下を平定して八洲を治めた。そのため、名を加えて神日本磐余彦尊と言う。」とあり、幼少期は「狭野尊」と呼ばれていたことを伝えてます。
この「狭野尊」は、この地の名である「狭野」からきているとされてます。
『日本書紀』ではこれ以上のことは詳しくは伝えてません。それ以上のあれこれは、それこそ神話ロマンとしてチェック。
狭野神社の創建経緯

狭野神社のルーツは、皇子原神社です。
皇子原神社は、第5代孝昭天皇(前475-前393)の時、神武天皇生誕の霊跡として創祀したのが初め。
で、皇子原神社は、霧島連峰の麓にあるため何度も火山噴火の災禍に見舞われてきた歴史あり。
第50代桓武天皇代、延暦7年(788年)高千穂霧島嶽が噴火。その後も何度も災禍に遭った記録あり。さらに、文暦元年(1234年)にも噴火発生、降ってきた熱石により社殿が焼失、、、
そんなこんなで、慶長15年(1610)現在の場所に社殿を造営・還座、以後、当地で鎮座し続けております。
ちなみに、、歴史的に、薩摩藩主の島津氏より尊崇篤く、社殿の改築、社領の寄進等が行われてきました。おかげさまで、旧社領地は東西2000間、南北1000間もあったとか。。1間は約1.82mとされてるので、要は東西約4km、南北約2kmの広大な領地を持つ神社だったってことです。
文禄年間の豊臣秀吉の朝鮮の役では、島津義弘が出陣にあたって戦勝祈願が行われたようで。さらに、凱旋の後、慶長4年(1599年)には祈願奉賽として境内に杉を植栽しました。その数300本!とも言われてます。この杉は「狭野の杉並木」「狭野杉」として、現在は国の天然記念物に指定。境内には他にもホントたくさんの杉が生えてます。
さらに時代はくだり、
明治6年に県社に列し、大正4年には官幣大社宮崎神宮の別宮に指定されましたが、その後、昭和 27 年に分立し、単独の狭野神社となってます。なお、同じ神武天皇を祭祀する神社であることから「宮崎神宮の別宮」という名は現在でも残されてます。
他には、、
霧島修験道の霊場として位置づけられてきた歴史もあり、高千穂峰の周辺にある神社6社をまとめて「霧島六所権現」、そのうちの一社として数えられてます。
※霧島六所権現=狭野神社、霧島神宮、霧島岑神社、霧島東神社、東霧島神社、夷守神社
てことでまとめると、
- 狭野神社のルーツは、皇子原神社。皇子原神社は、第5代孝昭天皇の時、神武天皇生誕の霊跡として創祀したのが初め。
- 皇子原神社は、霧島連峰の麓にあるため何度も火山噴火の災禍に見舞われてきた。そのため、慶長15年(1610)、現在の地に社殿を造営還座された。これが現在の狭野神社。
- 歴史的に、薩摩藩主の島津氏より尊崇篤く、社殿の改築、社領の寄進等が行われてきた。この結果、東西約4km、南北約2kmの広大な領地を持つ神社だった。
- 慶長4年(1599年)朝鮮出兵を機に、杉が植栽される。この杉は「狭野の杉並木」「狭野杉」として、国の天然記念物に指定。境内にはたくさんの杉が生えてる。
- 明治6年に県社に列し、大正4年には官幣大社宮崎神宮の別宮に指定。昭和 27 年に分立し、単独の狭野神社へ。同じ神武天皇を祭祀する神社であることから「宮崎神宮の別宮」という名は残っている。
ということでチェックです。
狭野神社の境内
ココからは、狭野神社の境内の様子をご紹介。
まず、ポイントとなるのは、創建経緯から、薩摩藩主の島津氏より尊崇篤く社領の寄進等が行われてきた経緯から、広大な社領を持っていたこと。
これは、現在「日本で一番長い直線参道」として残っています。国道の第一鳥居から、1300m!メイン境内までずーっとまっすぐな参道が続いてます。

▲狭野神社の第一鳥居。ココから1300mに渡ってまっすぐな参道が続きます。

まっすぐだー!!!
からの、、、

▲コチラが第二鳥居。この先が表参道。両側に、鬱蒼と生い茂る杉並木が続きます。

▲狭野神社のポイント2つ目は、「狭野の杉並木」としても有名な杉!コレも創建経緯から、慶長4年(1599年)朝鮮出兵を機に、杉が植栽されたことによるもの。
この杉は「狭野の杉並木」「狭野杉」として、国の天然記念物に指定されてます。かつ、みやざきの巨樹百選にも選定。古代から自生しているかのような長い歴史を感じます。。。

▲ちょうど、雨上がりに参拝したので、とても神秘的な、静謐な空気が漂ってました。ステキ。。。

▲表参道を進んだ先に、狭野神社境内の入り口があります。

▲右手に、修祓殿があります。幣が置いてありますのでご自身でお祓いされてください。

▲ココから、狭野神社のメイン境内に入っていきます。

▲狭野神社メイン境内の様子。奥行きのあるとても落ち着いた雰囲気があります。

▲狭野杉。見事な大木です。ドーンと天まで伸びてます。
慶長四年薩摩藩主島津義弘公、重臣新納武蔵守忠元を遣はし当神社別当寺神徳院の住職宥淳法印と協力し植栽せるものと伝ふ。樹齢正に四百年に垂んとす。大正13年国の天然記念物に指定せらる。樹高61.3m 目通り6~7m 根元9m (説明板より)

▲狭野神社の外拝殿。どっしりとした重厚感あり。萬歳旗が掲げられてます。官幣大社との関連を感じさせます。

御祭神:神武天皇(幼名:狭野尊)
配祀: 吾平津姫命、天津彦火瓊瓊杵尊、木花開耶姫命、彦火火出見尊、豊玉姫命、鵜葺草葺不合尊、玉依姫命
御神徳:事始め、交通安全、安産、長寿、心願成就の神
御祭神:神武天皇の詳しい人柄とか神格とかはコチラで!

▲東門守社。祭神は、豊盤門戸神(武甕槌神)。

▲西門守社。祭神は、櫛盤門戸神(経津主神)。

▲水神社。御祭神は、罔象女神、大山祇神、大山昨神、白山媛神。

▲社殿左手には、皇太子裕仁親王殿下御手植の杉が立っております。後の昭和天皇ですね。


▲官幣大社宮崎神宮の別宮であることを感じさせる格式。社殿は、明治40年に宮崎宮(現在の宮崎神宮)の旧社殿を移築したものです。

▲それにしてもスゴイ。。狭野杉、デカすぎ。

▲社務所

▲車祓所。社務所で申し込みをされてください。
狭野神社には他にも、、
神徳神社

1734 年建立。狭野神社の別当寺だった神徳院に由来する神社。「大豆の神様」「足腰の神様」といわれてるそうで。ご神徳がありそうだ!


仁王さんは、神徳院の守護神として位置づけられてるようです。

駐車場もあります。

狭野神社まとめ
狭野神社
宮崎県 西諸県郡 高原町にある神社で、元は、神武天皇誕生の地「皇子原神社」だったのが、度重なる霧島山の噴火による社殿炎上の憂き目に遭ってきたことから、慶長15年(1610)、現在の地に社殿を造営還座された経緯あり。以後、神武天皇の幼少時の名前「狭野尊」から狭野神社とされてます。
狭野神社には、是非「皇子原神社」とセットで参拝されてください。
住所 | 〒889-4414 宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田117 |
駐車場 | あり |
トイレ | あり |
主な祭典
・祈年祭(2月18日・特殊神事、苗代田祭)
・御田植祭(5月16日)
・例祭(10月23日)
・新嘗祭 (11月23日)
・狭野神楽(12月の第一土曜日)
特に、、、
苗代田祭が有名。県重要無形文化財に指定。春祭(祈年祭)の後に行われる行事で、別名「ベブがハホ」とも呼ばれてます。「ベブ」は牛、「ハホ」は主婦(妊婦)の意。

農業にちなみ、予祝祈願の田遊びとして発達したもので、神社の境内や社殿・広場を田んぼに見立て、作り物の牛を使って田ならし・種蒔き等の田作りをユーモラスに演じる神事。
また、
5月16日の御田植祭りも特色があり、、御田植踊(棒踊り)は、覆面をした30名程の青年が六尺棒と鎌を持って、歌に合わせて勇壮な踊りを奉納。五穀豊穣を願って行われる踊りです。
他には、狭野神楽もチェック。平成22年3月11日に「高原の神舞」として国重要無形文化財に指定。毎年、12月第1土曜日の19時頃から第二鳥居近くの広場を舞庭として、真剣を使用した勇壮な舞や面を着用したユーモラスな舞などが翌朝7時頃まで、全33番が夜を徹して舞い納められます。
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