多彩で豊かな日本神話の世界へようこそ!
正史『日本書紀』をもとに、
最新の文献学的学術成果も取り入れながら、どこよりも分かりやすい解説をお届けします。
今回は、『日本書紀』巻第一(神代上)第五段の一書の第1。
第四段から続く新時代。男女の性の営みによる「生みなす新時代」の第二章。その名は、神生み!!!
第五段は『日本書紀』神代の中でも、最も多い異伝併載の段。その数、なんと11!
今回は、その中から最初の異伝〔一書1〕を解説。
概要で全体像をつかみ、ポイント把握してから本文へ。最後に、解説をお届けしてまとめ。
現代の私たちにも多くの学びをもらえる内容。日本神話から学ぶ。日本の神髄がここにあります。それでは行ってみましょう!
- 日本神話研究の第一人者である榎本先生監修。確かな学術成果に基づく記事です
- 日本神話全体の流れや構造を解き明かしながら解説。他には無い分かりやすい記事です
- 現代語訳のほか原文も掲載。日本神話編纂当時の雰囲気を感じてもらえます
- 登場する神様や重要ワードへのリンク付き。より深く知りたい方にもオススメです
『日本書紀』巻第一(神代上)第五段 一書第1「御寓之珍子」生み
目次
『日本書紀』巻第一(神代上)第五段 一書第1の概要
前回、『日本書紀』巻第一(神代上)第五段の本伝、からの続き。
下図、赤枠部分。第五段〔一書1〕。
上図を見てのとおり、
第五段は、『日本書紀』神代の中で、最も異伝が多い段。こんな伝承もある、あんな伝承もある、と計11パターン。
『日本書紀』最大の特徴である、一書の存在。本伝と一書の関係についてはコチラ↓をチェック。
- 本伝の内容をもとに多角的、多面的に展開する異伝、それが一書。
- 本伝があっての一書であり、一書あっての本伝というように、お互いにつながり合って、関連し合って、踏まえ合って、多様で豊かな日本神話世界を構築している。
で、
第五段は異伝である〔一書〕が11個もあるって話。
それもそのはず。第五段は超重要テーマが目白押し。
特に、天下之主者生み、生と死の断絶、そして三貴神の誕生と分治など。今後の日本神話展開の起点となる設定がたくさん埋め込まれてる。
神ならではのワザ(神業)、神ならではの極端な振れ連発、基本的に意味不明。でも、ご安心を。当サイトならではの分かりやすいガイドがあれば迷うことはございません!
ということでコチラ
全11もある異伝も、大別すれば2通り。整理しながら読み進めるのが〇。
- 本伝踏襲 差違化型・・・〔一書1~5〕
- 書6踏襲 差違化型・・・〔一書6~11〕
※踏襲・・・踏まえるってこと。前段の内容、枠組みを。
※差違化・・・(踏まえながら)変えていくこと、違いを生んでいくこと。神話に新たな展開をもたらし、多彩で豊かな世界観を創出する。
で、今回解説する〔一書1〕は、本伝踏襲・差違化型の最初。そんな位置づけで。
そのテーマは、
「天下之主者」生み〜異伝編〜
経緯として、第四段から第五段へ、国土も生んだ、山川草木も生んだ、さーいよいよ天下の統治者を生もうぜ、という話なんだが、コレまでに(本伝で)誕生したのは、「過度にスゴすぎる子(尊)」&「過度に酷すぎる子(卑)」。。。と、極端に振れてしまった次第で、、、親の責任として、子の持つ資質に応じた処遇を与えるものの、結局、統治者は誕生しない。。。
ってことでした。
今回の、第五段〔一書1〕は、こうした背景を踏まえての神話。異伝編。
最初に、本伝との対応比較でチェック。
| 本伝 | 一書1 |
| 山川草木生み | ー |
| 協議 | ー |
| 諾冉の二神による神生み 尊:2神 卑:2神 処遇 あり |
伊奘諾単独による神生み 尊:2神 卑:1神 処遇 あり |
要は、第五段〔一書1〕は、第五段〔本伝〕の神生みの部分を集中的に取り上げ、さらに差違化させてる訳です。特に、伊奘諾単独による神生みであり、誕生神の数を変化させてる。ってことで、まずはチェック。
『日本書紀』巻第一(神代上)第五段 一書1のポイント
第五段〔一書1〕の日本神話全体の中での位置付けやテーマが掴めたところで、以下ポイント4つ。
①(本伝)「天下之主者」生み→(一書1)「御寓之珍子」生み
本伝では、伊奘諾尊・伊奘冉尊の二神による「天下之主者」生みだったのが、〔一書1〕では、伊奘諾尊単独による「御寓之珍子」生みへ差異化。
この「御寓之珍子」は、「天下を統治すべき尊貴な子」と訳出。「寓」=「宇」=大きなやねの下。天地四方。天下。「御」=御する、統治する。「珍」=珍しい、尊貴な「子」。ちんこではなくうづこ。
つまり、統治をミッションとして持つ子のことで。本伝の「主者」以上にムキムキ感が上がってます。
「天下を統治すべき尊貴な子」て、、、コレは失敗は許されん、、まずはこの緊張感上がってる件、チェック。
次!
②(本伝)夫婦協議による生殖→(書1)は陽神単独による化出!生む方法の違いに注目!
生むのは「天下を統治すべき尊貴な子」。失敗は許されない緊張感。だからこそ〔一書1〕では、伊奘諾単独で、しかも特別な方法で神生みを行います。
以下、本伝との比較をチェック。
| 本伝 | 一書1 | |
| 主体 | 陽神+陰神 | 陽神 |
| 方法 | 協議と出産 | 化出 |
| 誕生した神 | 日神・月神、蛭子・素戔嗚尊 | 大日孁尊、月弓尊、素戔嗚尊 |
| 処遇 | あり | あり |
- 〔本伝〕が、伊奘諾尊、伊奘冉尊の「男女神の、生殖による神生み」
- 〔一書1〕は、伊奘諾尊という「陽神単独の、化出による神生み」
スゴイ明確に分けてある。。。確かにコレ、すんごい大きな違いなんす。
生殖による神生みは、生まれてくる子について、その性質はコントロールできません。出産ってそういうもの。偶然が大きく関与する世界。
実際、両神の期待とは裏腹に、過度に素晴らしい子、過度に酷い子が生まれてました。で、もともと生みたかった「天下之主者」は生まれない、、、(第五段本伝参照)
一方、
化出による神生みは、陽神単独によるもの。生まれてくる子は、化出させる陽神の霊威を踏襲。ある意味、必然的な世界。
伊奘諾尊の霊威に裏打ちされた性質を持った子が必然的に誕生(化出)。うん、全然ちがーう。
この、生殖と化出、協議と単独の違いに注目してチェックです。
次!
③まさに神業!鏡で霊威が実体化するミラクル化生!
第五段一書1では、伊奘諾尊が、単独で、神を誕生(化出)させるわけですが、その方法はまさに神業。それは、、
白銅鏡を手に持って化出させる。
ってことで、コレつまり、
鏡が映す神像を、いわば自分の分身として化出させる!
ってことで、コレはこれでスゲー!!!
神ワールドでは、尊貴な神が鏡に映ると、その姿には霊威がある、という話があって。なぜって鏡は自分を映すわけだから、で、鏡に映った姿が化出によって神になるんだと。どろどろんと出現するんだと。これが神業。
鏡が持つ神秘的なチカラ。伊勢神宮(斎鏡)を始め神社の多くが鏡を御神体とする理由もココにあります。激しくチェック。
次!
④「尊卑先後の序」に基づく生まれ方の違いに注目!
左手に持った白銅鏡から「大日孁尊」を、右手に持った白銅鏡からは「月弓尊」を、それぞれ化出する訳ですが、
この、化出する神をめぐる左右の違いは、易をベースにした、尊と卑の関係が設定されてます。これ、「尊卑先後の序」。
実は、国生みをつたえる第四段〔本伝〕と対応。「陽神左旋、陰神右旋」。この柱巡りの、陽=左、陰=右、の対応関係。
「尊卑先後の序」は、どこまでも相対的なもの。
今回でいえば、「大日孁尊」は、先に生まれ、日であり、あかるく麗しい。「月弓尊」は、後に生まれ、月であり、あかるく麗しさは日に次ぐ。この関係を、左と右にあてこめたってことですね。
さらに、素戔嗚尊は首を廻らせて見た時に生まれますが、これも「尊卑先後の序」でいうと、両目という尊に対して、首を廻らせては卑の側に位置付けられる訳です。
まとめます。
- (本伝)「天下之主者」生み→(一書1)「御寓之珍子」生み
- (本伝)夫婦協議による生殖→(書1)は陽神単独による化出!生む方法の違いに注目!
- まさに神業!鏡で霊威が実体化するミラクル化生!
- 尊卑先後の序に基づく生まれ方の違いに注目!
以上4点をチェックした上で本文をどうぞ!
『日本書紀』巻第一(神代上)第五段 一書1の本文
国立国会図書館デジタルコレクションより慶長4(1599)刊版 ある書はこう伝えている。伊奘諾尊が「私は天下を統治する優れて貴い子を生もうと思う」と言い、左手で白銅鏡を持つと化し出る神があった。これを、大日孁尊と言う。右手に白銅鏡を持つと化し出る神があった。これを、月弓尊と言う。また首を廻らせて見たその時に化す神があった。これを、素戔嗚尊と言う。
大日孁尊および月弓尊は、並んで性質が明るく麗しかったので天地を照らさせた。素戔嗚尊は、残酷で害悪なことを好む性格であったので根国に下して治めさせた。
珍、ここでは「うづ」と言う。顧眄之間、ここでは「みるまさかりに」と言う。
一書曰 伊奘諾尊曰 吾欲生御㝢之珍子 乃以左手持白銅鏡 則有化出之神 是謂大日孁尊 右手持白銅鏡 則有化出之神 是謂月弓尊 又廻首顧眄之間 則有化神 是謂素戔嗚尊 即大日孁尊月弓尊 並是質性明麗 故使照臨天地 素戔嗚尊 是性好殘害 故令下治根國 珍 此云于圖 顧眄之間 此云美屢摩沙可梨爾 (『日本書紀』巻第一(神代上)第五段 一書1より)
『日本書紀』巻一 第五段 一書1 解説
第五段〔一書1〕は、〔本伝〕踏襲しつつ差違化展開の書。
読み解きにあたっては、本伝の内容を押さえつつ、前半と後半の2段構成で捉えるのが◯。
- 前半:三神化出
- 後半:三神分治
てことで、それぞれ分けて詳細解説。
前半:三神化出
後半:三神分治
- 大日孁尊および月弓尊は、並んで性質が明るく麗しかったので天地を照らさせた。素戔嗚尊は、残酷で害悪なことを好む性格であったので根国に下して治めさせた。
- 即大日孁尊月弓尊 並是質性明麗 故使照臨天地 素戔嗚尊 是性好殘害 故令下治根國
→生みなす新時代は、親と子の関係発生。親は子に対して責任を持つ。それが処遇。
さらに、ここ、〔一書1〕のテーマは「御㝢之珍子」生み!コレ「天下統治」を使命として持つ名前でした。だからこそ、初めて、統治領域の設定が発生します。
その時に重要なのが、
性質に応じて分治するんや!
ってことで。分治とは、分けて治めること。統治する領域や場所を分担しましょうと。その際に、生まれた子の性質を根拠として分治する領域が設定されるんす。
一覧にしてまとめてみる
| 区分 | 化出神 | 性質 | 処遇 |
| 尊 | 大日孁尊、月弓尊 | 明麗 | 照臨天地 |
| 卑 | 素戔嗚尊 | 好殘害 | 治根國 |
大日孁尊および月弓尊は、明るく麗しい、なので天地を照らさせる(照臨)。素戔嗚尊は、残酷や害悪を好む、ゆえに根国に下して治める。
と、まーよくできてる。てことで、生まれた子の性質を根拠として分治領域が設定されてること、激しくチェック。
その上で、、
「並んで性質が明るく麗しかった(原文:並是質性明麗)」とあります。素晴らしい性質を持った子が生まれたんですが、改めて、この理由は主に2つ
- 陽神単独であること
- 化出という生み方であること
神話的には、陽神は「陰神の間違いを正す存在」として位置づけられてるんで、陽神単独での神生みに基本的には間違いは無いという話で。だからこその「明麗」という性質。
そして、「天地を照らさせた(原文:故使照臨天地)」とあります。これ、天地を照らしてるだけで統治をしてる訳じゃない、ってことがポイント。
もし統治、治めるなら、素戔嗚尊と同じように「治」という字が使われてるはず。この
照臨すれど統治せず
というスタンス、非常に奥ゆかしい感じがありつつ、実は、別の意味でめっちゃ重要だったりします。それが「わたり」。
第七段で登場する岩戸神話への「わたり」になってるって事。
天地を照臨する。コレ、つまり、天上と地上両方に影響を与える、ってことで。
天と地が繋がっていて、天と地の両方に照臨している、という前提があるからこそ、岩戸に隠れると天も地も暗くなるという事態が発生するんです。
いずれにしても、
第五段一書1では、本伝を引き継ぎ、「御㝢之珍子」を生むことを望みながら、結局、天地を照臨する明麗な子が誕生したが、統治までは行き切らなかったってことでチェック。
次!
「素戔嗚尊は、残酷で害悪なことを好む性格であったので根国に下して治めさせた。(原文:素戔嗚尊 是性好殘害 故令下治根國)」とあります。
先ほども解説しましたが、素戔嗚尊は「首を廻らせて見たその時に化す神があった」ってことで、ふと振り返って見たら化出した、鏡で自分の姿も映ってないし、もともと生もうとしてない神。
なので、大日孁尊や月弓尊の「尊」に対して「卑」にあたる側。なので、「残酷で害悪なことを好む性格(原文:是性好殘害)」。
その性質を根拠として、「根国に下して治めさせた(原文:故令下治根國)」と。ここでは、はっきりと「治」=治める、統治する、という漢字が使われてます。
「根国」について。
ポイントは、地下にある。本伝と決定的に違う位置関係ってこと。
- 本伝 :固当遠適之根国矣
- 一書1:下治根国
つまり、
- 〔本伝〕の根国は、水平方向の「遠」、すなわち僻遠の地にある
- 〔一書1〕の根国は、垂直方向の「下」、地下にある国(もちろん僻遠感あり)
という違い。
世界構造として、大日靈尊と月弓尊とが照臨する天地。これとは別の「下」ってことなので、ここで言う「根国」は地下以外にはありえません。
昼夜の別はあるにせよ、天地が光明の地上だとすれば、根国は暗黒の地下に当たり、二神と素戔嗚尊とを、地上と地下とに対立的に対応させてますよね。統治領域の分担において、この設定は非常に重要です。
また、今後の神話展開においても起点となる設定で。天地は伊奘諾ー天照大神系、地下=根国は素戔嗚系(今後、伊奘冉がここに入る)と。ここでの設定をもとに展開していくことになります。
ということで、性質に応じた分治という枠組みの中で、素戔嗚尊の根国は地下にあるってこと、それは、天地と地下という統治領域分担でもあって、今後の神話展開の起点になる、ってことで激しくチェック。それにしても、、素戔嗚尊、意図せず化した子とはいえ、処遇もまー酷い。。。
最後に、まとめとして。
「御㝢之珍子」生みの結果判定は、、。。
半分成功半分失敗!
と考えられて。つまり、結果だけを見ると非常にビミョー。。。
ただし、大日靈尊と月弓尊が天地を照臨する(けど統治はしない)、つまり、天上と地上両方に影響を与えてる、という設定は非常に重要で。岩戸神話につながる「わたり」になってる以上に、地上世界の統治者は不在のままなので、この後の神話展開を通じて、名実ともにふさわしい統治者誕生へ向けて環境整備がされた、とも言える訳です。
そう考えると、この半分成功半分失敗はむしろ、絶妙な落とし所に落としてあるとも言えて、神話全体構想の中で練りに練られた着地になってるんじゃないかと思います。
まとめ
『日本書紀』巻一 第五段 一書1
第四段から続く「生みなす新時代の第二章〜異伝編〜」。
第五段本伝では、伊奘諾尊、伊奘冉尊の二神による「天下之主者」生みだったのが、一書1では、伊奘諾尊単独による「御寓之珍子」生みへ変化。
まとめると
| 本伝 | 一書1 | |
| 主体 | 陽神+陰神 | 陽神 |
| 方法 | 協議と出産 | 化出 |
| 誕生した神 | 日神・月神、蛭子・素戔嗚尊 | 大日孁尊、月弓尊、素戔嗚尊 |
| 処遇 | あり | あり |
- 〔本伝〕が、伊奘諾尊、伊奘冉尊の「男女神の、生殖による神生み」
- 〔一書1〕は、伊奘諾尊という「陽神単独の、化出による神生み」
全体を通して、
一番のポイントは「化出」。
本伝が生殖による出産スタイルなので、生まれる子は偶然の産物。それを、「生む」から「化す」に改めた上で、関連する物品(鏡)や行為と化した子の性質とを因果の関係のもとに結びつけたところに〔書一1〕の独自性があります。
偶然の結果としての「尊」「卑」の対立を、因果の必然の関係にそれを転換したというのが〔一書1〕の実態であり、そこに「尊卑先後之序」の、より徹底したあらわれをみることができます。
白銅鏡を持つ手の左右と日月との対応、またその大日尊と月弓尊の天上と素戔嗚尊の地下との対応などを含め、もはや〔書一〕全体が「尊卑先後之序」をもとに成りたつといっても過言ではなく。
日本ならではの創意工夫のスゴさ。歴史書編纂チームがめっちゃ考えて考えて考え抜いた結果つくりだした神話世界。その創意工夫の痕跡がここにある。ココ、激しくチェックされてください。
次は、いよいよ第五段〔一書2〜5〕卑の極まりと祭祀による鎮魂!
続きはコチラ↓で!
神話を持って旅に出よう!
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佛教大学名誉教授 日本神話協会理事長 榎本福寿
埼玉県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程国語学国文学(S53)。佛教大学助教授(S58)。中華人民共和国西安外国語学院(現西安外国語大学)文教専家(H1)。佛教大学教授(H6)。中華人民共和国北京大学高級訪問学者(H13)。東京大学大学院総合文化研究科私学研修員(H21)。主な書籍に『古代神話の文献学 神代を中心とした記紀の成りたち及び相関を読む』がある。『日本書紀』『古事記』を中心に上代文学における文献学的研究成果多数。
参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)
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→伊奘諾が一人で鏡を使って神を誕生させた、、だと??
「伊奘諾尊が「私は天下を統治する優れて貴い子を生もうと思う」と言い、(原文:伊奘諾尊曰 吾欲生御㝢之珍子)」とあります。
ポイント3つ。
①本伝では伊奘諾尊・伊奘冉尊による出産→〔一書1〕では伊奘諾尊単独による化出へ
「伊奘諾尊が〜生もうと思う」とあり、伊奘諾による「単独・化出」が企図されてます。コレ、本伝&コレまでの「協議・出産」とは全く別の神生み方法。
背景理解として、第五段〔本伝〕では当初狙ってた「天下之主者」生みが尊卑極端に振れてしまい成功に至らなかった、、てのがあり、、なので今回、陽神単独方式に差異化されてる訳です。
構造的に整理すると、生殖による神生みは、生まれてくる子について、その性質はコントロールできない。出産ってそういうもの。偶然が大きく関与する世界。
一方、化出による神生みは、陽神単独によるもの。生まれてくる子は、化出させる陽神の霊威を踏襲。ある意味、必然的な世界。と言えて、それこそ、天下統治をミッションに持つ子を生むからこそ、この方式が選択されてると考えられます。
いずれにせよ、この「協議と単独」「生殖と化出」の各違いは激しく重要なのでしっかりチェック。
そして!
②時代に逆行?だからこそ、生み方の違いには重要な意味がある!
第一段の天地開闢から第三段までは、道由来の神々が、道が持つ働きによって化生する展開でした。それが、第四段からは、男女神の結婚と出産によって国や神が誕生する展開へ。
大きな時代変化の中にあって、本来であれば、出産による神誕生であるべきなんですが、
この3つに限って、単独による神化成イベントが発生します。
①の場合は、化出させる神自身の神威を根拠として。②の場合は、その事件の激烈さ・劇的さを根拠として。③の場合は、その儀式の神聖さを根拠として、それぞれ単独神化成。
要は、それだけ特別で重要だということを強調してる、ってこと。
今回のケースは①に該当。特別で重要な事由は、天下を統治するスペシャルチルドレンを生もうってことだから!!超重要局面!!!ってことでチェック。
そして!
③「天下之主者」生み→「御寓之珍子」生みへ変化
伊奘諾尊が生もうとするのは「御㝢之珍子」。
「寓」=「宇」=大きなやねの下。天地四方。天下。
「宇」は、部首の「宀(うかんむり)」と、音符の「于(ウ)」が組み合わさった形声文字。もともとは「屋根」や「家」を意味。そこから「軒」「家屋」「屋根のように覆うもの」、さらに転じて「天地四方」「天下」といった意味に。
「御」=御する、統治する。
「御」は、「馬をあやつる人」や「馬を操る」という意味で、転じて「御する」「統治する」。右側の「卸」は「車を止めて馬を車から外す」という意味があります。
「珍」=珍しい、尊貴な。
なので、「御㝢之珍子」は、「宇を御する珍しい子」が直訳で、意訳すると「天下を統治すべき尊貴な子」。
この名前のポイントは、「御寓(=御宇)」で。
コレ、例えば、「泊瀬朝倉宮御宇天皇(雄略天皇)代」などのように、万葉集では時代を表すタイトルに使われます。「御宇」、一般的に「天の下治めたまふ」あるいは「天の下知らしめす」と訓む。
また、日本神話最終、神武東征神話の橿原造営発議において、神武が「そして世界をひとつに合わせ、都を開き、天下を覆ってひとつの家とするのだ(原文:然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇)」と宣言するのですが、ココで使われる「宇」への「わたり」にもなってます。壮大なリンク設定。
以上のことから、この「御㝢之珍子」は「天下統治」を使命として持つ名前だということ。第五段の超重要テーマとしてチェック。
だからこそ、、この後で、性質に応じた処遇、つまり統治領域を分担する=分治という展開になっていくんす。
一応、本伝と比較して整理するとこんな感じ。
過度に卑(蛭子、スサノオ)→放棄、追放
過度に卑(意図せず素戔嗚尊)→下治根國
〔一書1〕的「御㝢之珍子」生みの結果判定は、、、後ほど!
次!
「左手で白銅鏡を持つと化し出る神があった。これを、大日孁尊と言う。右手に白銅鏡を持つと化し出る神があった。これを、月弓尊と言う(原文:乃以左手持白銅鏡 則有化出之神 是謂大日孁尊 右手持白銅鏡 則有化出之神 是謂月弓尊)」とあります。
ポイント2つ。
①鏡で霊威が実体化するミラクル展開!これは道由来の陽神だからできるワザ
鏡を持つと神が生まれた、ってことなんだけど、、どゆこと???
って、コレ、まずは類例からご紹介。いきなり飛びますが、第九段〔書2〕。有名な天孫降臨の場面。降臨する「吾児」に天照大神が鏡を授けるのですが、その一節がこちら。
ということで、
宝鏡に映るわが形像を、さながらそこに座す現身を視るように視なさい、ってことを申し伝えるわけです。鏡に映る姿は天照大神の神像そのものだと。
これを参考に解釈していくと、、、鏡を持つ=鏡に自分の姿が映るってことで。そこから化出したってことだから、つまり、鏡に映った伊奘諾尊の神像から神が化出した、ってことになる訳です。
言い方変えると、伊奘諾尊は鏡に映った自身の神像から神を化出させた、ってことで。自分の分身として化出させるくらいの勢い。コレ、神業。
大事なのは、これ、誰でもできる訳じゃなく、道由来の神世七代の神&陽神だからできるワザ(業)ってこと。道由来=自ら化すという働きを持ってる。ってことでチェック。
だからこそ、生まれる子は、伊奘諾尊の霊威(「乾道独化」の「乾(天)」に由来)をしっかり受け継ぐ。なので、「照臨天地」に相応しい性質をもった子が、間違いもなく生まれる、、という展開になっていきます。
そして!
②左右の違いは尊卑の違い
「左手で白銅鏡を持つと〜、右手に白銅鏡を持つと〜」とあります。
それぞれ化出したと。
これ、明確に左と右を使い分けてますが、なんでこんなことやってるかというと、「尊貴な神の中にも優先順位(尊卑)がある」ってことを言ってるんです。
実は、この左と右の構造は、国生みをつたえる第四段〔本伝〕と対応していて。柱巡りの「陽神左旋、陰神右旋」。そこには、易をベースにした尊卑の関係が設定されてました。ま、尊卑というより、主導すべきなのは陽であり、左であると言ったニュアンスですが。
なので、ここでも、、
といった位置付けになります。ちなみに、実際は活動シーンは無いですが、もし大日孁尊と月弓尊がこのあと活動することになったら、当然、大日孁尊が主導していくはずで。尊卑、左右、ってそういうことなんす。
次!
→伊奘諾が振り返ってみたら素戔嗚が生まれた、、、だと??
「廻首顧眄之間」について。注を付して「顧眄之間、ここでは「みるまさかりに」と言う。(原文:顧眄之間 此云美屢摩沙可梨爾)」とあります。意味は「振り返って見るちょうどその時に」。
『万象名義』に「 顧、視也」「眄、一目偏合也」とあり、顧=見る、眄=ちらりと見るの意。なので、「廻首顧眄之間」は「首を回してチラリとみるその間に」という意味になります。
なんのこっちゃ感満載ですが、これ、実は、意図せず生まれた卑の神=素戔嗚尊ってことを言ってるんです。
先ほどの、大日孁尊や月弓尊の生み方との違いが分かりやすくて。
大日孁尊や月弓尊は、「生もうと思う」と言表した上で鏡に映った自身の神像から化出させてました。一方で素戔嗚尊は「首を廻らせて見たその時に化す神があった」ってことで、ふと振り返って見たら化出した、ってことで、鏡で自分の姿も映ってないし、もともと生もうとしてない!んです。
解釈としては、大日孁尊や月弓尊はやっぱり過度に素晴らし過ぎた、、結果的に「御㝢之珍子」にハマらなかった、、それは、この後の処遇である「天地を照らさせた(統治ではない)」に表れてる。その、当初の狙いに外れた結果を得て、恐らく不審を募らせてたのではないか?そんなとき、ふと振り返ったその瞬間、いわば取り憑くように卑の側の神が化した、ということで。
だからこそ、ここで生まれた素戔嗚尊は、先に生まれた尊貴な神に対して卑なる存在になる。なんせ、鏡に映ってないし、この後に出てくる性質を加味すると「絶対的な卑」として位置づけられる訳です。
ということで、生まれ方の違いを通じて尊卑を表現してるってことでチェック。