神武東征神話をもとに「東征ルート」を辿り、書紀文献とあわせて検証するシリーズ。
本企画は、
シリーズでお伝えしている神武東征神話、その物語をもとに、
神話からリアルへ、各地の伝承地を巡って「実際のところどうなのよ?」的なところを検証する、極めて奥ゆかしくマニアックな内容であります。
●まとめはコチラ→ 神武天皇聖蹟顕彰碑・伝承碑まとめ|実際に行ってみて、確かめてみたところを全部まとめてみた!(マニア限定)
今回は、
埃宮・多祁理宮顕彰碑 in 広島!
ここは、神武天皇が九州から大和へ向かう途中、立ち寄って滞在したとされる場所。
『日本書紀』では「埃宮に居住した」と伝え、『古事記』では「阿岐国(安芸国)の多祁理宮に7年間坐す」と伝えます。
今回は、そんな神武天皇が立ち寄り滞在したことを顕彰する「神武天皇聖跡顕彰碑
聖蹟埃宮/多祁理宮顕彰碑|多家神社がある「誰曽廼森」の裏手、閑静な住宅街そばにひっそりと建っていた件
目次
埃宮顕彰碑に関わる神話
「神武天皇 聖蹟 顕彰碑」のマニアックな詳細はコチラ↓でご確認いただくとして、
埃宮にまつわる神話はコチラ↓で確認ください。
『日本書紀』では「埃宮
書紀ではさらっとしか触れておらず、にんともかんともしがたいのが実情。
ちなみに、
古代、現在でいう広島湾は、平野の奥深くまで海が入り込んでいて、顕彰碑が建つ誰曽廼森
大船団を率いていた神武はきっと、船のままこの顕彰碑近くまでやってきて、そのまま上陸したのかも。
そんな神話ロマンを感じながら目指しましょう。
埃宮顕彰碑への道
まずは、多家神社
広島県安芸郡府中町にあります。御祭神には神武天皇も。まさにこの辺り、神武神武した土地なわけです。顕彰碑が建つ場所は、この裏手。墓地のさらに奥になります。
▲多家神社の入口の交差点、ここから多家神社を右手に少し先に進むと、公園沿いに右に入る小道があります。
▲細い道を進むと、墓地を越えて、多家神社の裏手に回ります。
▲小道の突き当り。すこし開けた視界が。
突き当りのところで振り返ると・・・
あ!あれだ!!!
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
神武天皇甲寅年十二月舟師ヲ帥ヰ安藝國ニ至リマシテ埃宮ニマシマセリ阿岐國之多祁理宮モ蓋シ此ノ宮ナラン聖蹟ハ此ノ地附近ニアリト傳ヘラル
と。
なしか、他の顕彰碑の文言よりも「多分・・・」的な雰囲気を強く感じます。。。
ま、確かに、特に書紀は具体的な記述が無く、単に「埃宮」としか伝えてないのでそうなりますわな。。。
と、ここでそのまま終われない!
当サイトならではの無駄に深堀りコーナー!!
ズバリ、「埃宮
「埃
また、『日本書紀』と『古事記』では宮のイメージが全然違うという事も注目です。
『古事記』が「多祁理宮
『日本書紀』では、伊奘諾尊
その「相手を讃える言葉」が「可愛
この「可愛
つまり、「え」の宮は、「可愛
何を称えているか?
それは、
この地の景観。
筑紫の岡水門
それは瀬戸内海でも屈指の良港だったという訳。
待ちに待った上陸を果たし、その第一声が「可愛」だったのでしょう。
これ、まさに神話ロマン。
と、
いうことで、
行きましょう。恒例の。。。
勝手に認定結果
委員会の皆様には大変恐縮ではございますが、
コチラ、
とさせていただきます。
御査収の程、何卒よろしくお願い申し上げます。
根拠となる材料が何もなくて、、、きっと多家神社がもともとあって、その近辺の空いてる土地ということでこの場所が選ばれたのだと思います。ま、そんな雰囲気というか、空気を読んでのことで。。。
まとめ
聖蹟埃宮/多祁理宮顕彰碑
広島県安芸郡府中町の「埃宮」。ここは、神武天皇が九州から近畿へ向かう途中、立ち寄ったと伝えられる場所。
『日本書紀』では「埃宮
ちなみに、
古代、現在でいう広島湾は、平野の奥深くまで海が入り込んでいて、顕彰碑が建つ誰曽廼森は湾内に突きだす岬だったと考えられています。
大船団を率いていた神武はきっと、船のままこの顕彰碑近くまでやってきて、そのまま上陸したのでしょう。そんな神話ロマンを感じながら訪れると良いと思います。
聖蹟埃宮/多祁理宮顕彰碑
住所 |
広島県安芸郡府中町山田1丁目6-15 一方通行の道もあるので注意。多家神社方面からは大丈夫ですが、顕彰碑から先は一方通行です。 |
駐車場 | なし |
トイレ | なし |
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