「那智の滝」と「飛瀧神社」は、和歌山県東牟婁郡にある滝と神社。
特に、那智の滝は「日本三名瀑」のひとつで、落差133m、幅13m、滝壺の深さは10mと日本最大級の滝。熊野那智大社の別宮である飛瀧神社のご神体でもあります。
1972年に国の名勝指定、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として、ユネスコ世界遺産に登録されてます。
今回は、そんな那智勝浦を訪れた際には鉄板の参拝スポット「那智の滝」と「飛瀧神社」の全貌をご紹介します。
那智の滝と飛瀧神社|落差・水量日本一!迫力の大滝は大己貴神(大国主)の御神体!那智の滝と飛瀧神社の全貌を詳しくまとめ!
目次
那智の滝にまつわる日本神話
まずは当サイトならでは、那智の滝にまつわる日本神話からご紹介。
創建経緯にも関わるディープな日本神話アリ。これを知れば那智の滝に奥行きがぐっと出てきます!
那智の滝は、実は、日本の建国神話である「神武東征神話」が起源。
日本最古の英雄譚であり、サクセスストーリー。ドラマチックな展開と練りに練られた設定は、物語としても非常に読み応えアリ。激しくオススメです。
で、
九州からやってきた神武天皇は、大阪で敗戦し、紀伊半島をぐるっと回って東から西へ大和に入ろうとします。そのとき上陸したのが「熊野荒坂津」。ココから、熊野の山を越えて奈良へ。
那智の滝、飛瀧神社の創建経緯に関わるのもコレ。
なんでも、神武一行が険しい山道を進んでいるとき、光輝く山を発見。その山を目指して進んでいったら那智の滝を発見!!!コレはスゴイぞと、瀧を「大己貴命の現れたる御神体」としてお祀りしたとか、、、
「大己貴命」といえば、「大国主神」の別名。国造りを行ったスゴイ神なので、那智の滝の巨大や神霊さと重なったのも納得です。
きっと神武一行もビビったことでしょう。突然あんな巨大な瀑布が現れたら、、、
ということで、実は、那智の滝は神武天皇一行が発見したから、、ということでチェックされてください。コレ、あくまで熊野那智大社的伝承ですが。。
詳細はコチラでも是非。
那智の滝と飛瀧神社の場所
和歌山県東牟婁郡に属し、那智山の中腹にあります。
那智の滝と飛瀧神社の先には、熊野三山の一つ、熊野那智大社があります。
飛瀧神社は熊野那智大社の別宮として位置づけられてますので2か所は鉄板でチェック。
周辺の地図は、コチラ↓が分かりやすいかも。
▲地図右手。滝の絵が描いてあるところが那智の滝と飛瀧神社。地図左手に熊野那智大社です。
飛瀧神社の入口前には、駐車スペースがあります。
その目の前に、、、
▲どーん!と飛瀧神社&那智の滝への入口があります!!!
那智の滝と飛瀧神社の創建経緯
巨大な「那智の滝」を中心とする自然崇拝や山岳信仰をベースに、日本神話体系や仏教体系が導入されていく経緯。社伝曰く、
当社は神日本磐余彦命の御東征を起源としています。 西暦紀元前662年、神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(現在の那智の浜)に上陸されました。一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、那智御瀧を探りあてられ、その御瀧を大己貴命の現れたる御神体としてお祀りされました。神日本磐余彦命の一行は天照大神より使わされた八咫烏の先導により無事、大和の橿原の地へお入りになられ、西暦紀元前660年2月11日に初代天皇、神武天皇として即位されました。先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は石に姿を変えて休んでいるといわれています。(烏石)
その後、熊野の神々が光ヶ峯に降臨され、御滝本にお祀りしておりましたが、仁徳天皇5年(317年)、山の中腹にあらためて社殿を設け、熊野の神々・御瀧の神様をお遷し申し上げました。これが熊野那智大社の始まりとされております。 那智の御瀧は熊野那智大社の別宮、飛瀧神社の御神体としてお祀り申し上げています。 (熊野那智大社説明文より)
との事で、
ポイントは、
- 創建経緯に神武東征神話が関連。丹敷浦(現在の那智の浜)に上陸した神武一行は、光り輝く山を見つけ進んで行くと、那智の滝を探りあてた。そして、滝を大己貴命の御神体としてお祀りした。
- 後代、「熊野の神々」が光ヶ峯に降臨され、滝にお祀りしていたが、仁徳天皇5年(317年)、現在の熊野那智大社にお遷し申し上げた。
- 現在、那智の滝は、熊野那智大社の別宮「飛瀧神社」の御神体としてお祀りしている。
ということで、
もともとあった「那智の滝」を中心とする自然崇拝や山岳信仰が、日本神話体系と結びつき、こうした伝承に。。国造りを行ったスゴイ神が「大己貴命」なんで、那智の滝の巨大や神霊さと重なっていったのも納得ですよね。
さて、後代になって「熊野の神々」が光ヶ峯に降臨されたとありますが、こちら、全国的にも有名な「熊野権現」のお話。
光ヶ峯は、那智三峰(大雲取山、烏帽子山、光ヶ峯)のひとつで、那智権現が天下った山。「紀伊国名所図絵」には「神光を放ちしによりて。光ヶ峯と名づけし」との記載あり。社伝的東征神話でも「光り輝く山」とあるので、結構ピッカピカな感じが周辺の山にあったのでしょう。
少し長くなりますが、
「熊野権現」についてココでご紹介。本社のご祭神理解には欠かせない要素なので。
「熊野権現」とは、今でいうと「熊野三山に祀られる神」のことで、「熊野神」とか「熊野大神」とも呼ばれます。コレ、本地垂迹思想のもとで神が「権現」と呼ばれるようになった名前。
「本地垂迹」とは、仏教が全国展開&興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つ。日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として、この地に現れた「権現」である、と。
本体である仏や菩薩が「本地」、仮に神となって現われることが「垂迹」。二つ合わせて「本地垂迹」。そして、仮に現れた神のことを「権現」という訳です。
もともと在地にあった神様や自然崇拝の対象が、仏教的体系の中に組み込まれてしまうという恐るべき思想。信仰していた神様が、ある日、実はそれは仏さまが化身として現れたんだよ、こっちが本元だよって言われるのって、、、汗
流石に無理筋なので、新しい名前を生み出して融合させたわけで、それが「権現」。ココ熊野はまさに神仏習合のホットスポットでもあります。
そんなこんなで奈良時代の末期になると、
「熊野権現」の3神、
- 「熊野速玉大神(伊奘諾尊)」は衆生の苦しみや病気を癒す「薬師如来」とされ、「過去世の救済」ご利益を獲得。
- お妃の「熊野夫須美大神(伊奘冉尊)」は「現世利益」を授ける「千手観音菩薩」
- 「家津美御子大神(素戔嗚尊)」は「来世浄土」へ導く「阿弥陀如来」
として位置づけられるように。。。スゴ。。。
以後、山伏や熊野比丘尼らの活躍により「熊野権現信仰」は大きなムーブメントとして広がり、全国に数千に及ぶ御分社が祀られるようになります。
これが、全国に三千社以上と言われる熊野神社が成立した経緯。なんせ、「過去・現在・未来の3つの時間軸」と「対応するご利益」を得た訳で。
中世になると「ごんげんさん」はさらに庶民の間でも広く信仰を集めるように。
過去世救済、現世利益、来世加護を説く「三熊野詣」こそ、滅罪・甦りへの道である!として、「蟻の熊野詣」の名のごとく熊野街道はめちゃくちゃ賑わったという次第。熊野古道も、こうして確立された訳ですね。
尚、この中世のころには、速玉、本宮、那智大社の3つセットで「熊野三社」も確立されていたようです。永保3年(1083年)の『熊野本宮別当三綱大衆等解』が現存する中で熊野三山とする記述の最初。
自然崇拝の原始的な形から、日本神話体系を経て本地垂迹のもとで仏教体系と習合、過去・現在・未来のご利益を獲得し最強のパワーを得たことで「熊野権現全国展開の道を拓いた」経緯を理解しておく感じかと思います。
そんな中で、当社の御祭神である「大己貴命」も「飛瀧権現」という名前を獲得。本地仏は「千手観音」とされました。
ちなみに、熊野那智大社の御祭神「熊野夫須美大神(伊奘冉尊)」も「千手観音」とされてます。もう、いろんな感じで融合しまくりですね。。
そして、当社に関しては、仁徳天皇五年(317年)に、那智の滝を「別宮飛瀧大神」とし、それとは別に、現在の熊野那智大社の地に新社殿を建立、コチラご祭神には「夫須美大神」を中心に、国づくりに縁の深い12の神々をお祭りした訳です。
直近では、1972年に国の名勝指定、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として、ユネスコ世界遺産に登録されています。
あー長かった。。。そんなこんなの経緯でした。
- 創建経緯は神武東征神話から。丹敷浦(現在の那智の浜)に上陸した神武一行は、光り輝く山を見つけ「那智の滝」を探りあてた。そして、滝を大己貴命の御神体としてお祀りした。
- 「大己貴命」は国造り神話で有名な「大国主神」。国造りを行ったスゴイ神なので、那智の滝の巨大や神霊さと重なっていったのも納得です。
- 後代になって仏教体系が導入され神仏習合。「大己貴命」も「飛瀧権現」という名前を獲得。本地仏は「千手観音」とされました。
- 仁徳天皇五年(317年)に、那智の滝を「別宮飛瀧大神」とし、それとは別に、現在の熊野那智大社の地に新社殿を建立。以後、当社は熊野那智大社の別宮として位置づけられてます。
那智の滝と飛瀧神社の境内
▲鳥居をくぐると、そこは杉の木樹海。。。とても深い森です。マイナスイオンがサイコーだ!
石段を進むと、、、
見えてきました! 奥に那智の滝、手前に飛瀧神社です!!
那智の滝と飛瀧神社の御祭神とご利益
御祭神:大己貴神(本地仏は千手観音)
御利益:延命息災、衆生を漏らさず救済する「千手観音」として「現世利益」
その昔、那智の滝に詣でる人々は、写経を経筒に入れ、お滝入口の大鳥居をくぐり左側にある「那智経塚」に、写経を納めたとか。
▲参拝時、ちょうどお祓い?祈祷?をされてました。
▲熊野那智大社の別宮である「飛瀧神社」。そのご神体が那智の滝。高さ・水量ともに日本一で日本三名瀑のひとつ。本当に圧巻の圧倒的瀑布であります。
もともと那智山に48ある滝(那智四十八滝)の総称で、そのうちの「一の滝」とされる大滝が「那智の滝」。修験道では、瀧修行の場として、最高の霊場とされ、有名どころでは、文覚上人の荒行ですね。文覚さんは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士、からの真言宗のお坊さんです。19歳で出家。
お瀧拝所
神社で通行料を納めると境内の「お瀧拝所」と呼ばれる場所へ行けます。那智の滝にぐぐっと近づくことができるんです!
お瀧拝所は、7:00~16:30。大人300円、小・中200円也。
▲「お瀧拝所」へ続く石段。那智の滝がぐっと近づき、迫力が倍増です!
延命長寿のお瀧水。是非、ゲットされてください!
さらに進むと、、、
お瀧拝所が見えてきました!
滝のしぶきがかかるんじゃないかくらいの近さ。マイナスイオンをビシビシ感じます!
▲この巨大さ!!! 実際は写真のイメージの3倍増しくらい。落差133mの滝、そして水しぶきは圧巻であります!!!
ちなみに、銚子口の岩盤に切れ目があって、3つの筋に分かれて流れ落ちるところから、「三筋の滝」ともよばれているそうです。下の方、確かに3つに分かれてなくもない。。。
修験道における修行の地でもある「那智の滝」。有名なのは「那智四十八滝回峰寒行」ですね。那智の滝を中心とする周辺の四十八滝を巡る修行のこと。真冬の1月とかに行われています。スゴ。。。
お瀧拝所から出口へ向かう途中に神社あり。
祈願所
ご祭神である「大己貴神」のほか、観世音菩薩、不動明王等の皆さんが安置されています。
おまけ
苔むす感じがステキです♪
その他
光り石
光ヶ峯を遥拝する石。通称「光り石」。
光ヶ峯は、那智三峰(大雲取山、烏帽子山、光ヶ峯)のひとつで、那智権現が天下った山とされ、「紀伊国名所図絵」には「神光を放ちしによりて。光ヶ峯と名づけし」と記されていたりします。
石段を下りたところにちょこんとありますが、結構重要な石であります。
お守りの皆さん
▲延命長寿が多いです。大瀧に神威を感じるところとリンクしますね。
亀山上皇建立の碑
中世以後、上皇や法皇による熊野詣でが非常に盛んになりました。これは、亀山上皇が弘安4年(1281年)に建てた碑の写し。
皇室の那智山にたいする信仰を知る資料として貴重。
那智山原始林
▲天に向かって真っすぐに伸びる木々。那智山原生林の風。世界遺産であり国指定天然記念物です。
- 那智の滝は、高さ・水量ともに日本一で「日本三名瀑」のひとつ。圧巻の圧倒的瀑布であります。修験道では、瀧修行の場として「最高の霊場」とされてきました。
- お瀧拝所は、是非チェック。通行時間は7:00~16:30で大人300円ながら、延命長寿のお瀧水の他、那智の滝を、しぶきがかかるくらいの距離で見ることができます。
- 光り石は、見逃しがちですが創建経緯から超重要アイテム。ここから光る山を拝み、創建経緯ならびに神武東征神話に想いを馳せましょう。
- 周囲に広がる那智山原生林は、世界遺産であり国指定天然記念物。深く高い木々から自然のエネルギーをいただきましょう。
まとめ
那智の滝と飛瀧神社
創建経緯は神武東征神話から。丹敷浦(現在の那智の浜)に上陸した神武一行は、光り輝く山を見つけ「那智の瀧」を探りあて、大己貴命の御神体としてお祀りしました。
「大己貴命」は国造り神話で有名な「大国主神」。国造りを行ったスゴイ神なので、「那智の滝」の巨大や神霊さと重なっていったのも納得ですね。
後代になって仏教体系が導入され神仏習合。「大己貴命」も「飛瀧権現」という名前を獲得。本地仏は「千手観音」とされました。
仁徳天皇五年(317年)に、那智の滝を「別宮飛瀧大神」とし、それとは別に、現在の熊野那智大社の地に新社殿を建立。以後、当社は熊野那智大社の別宮として位置づけられてます。
那智の滝は、高さ・水量ともに日本一で「日本三名瀑」のひとつ。圧巻の圧倒的瀑布。神聖な空気とマイナスイオンが最高なパワースポットとして、那智勝浦を訪れた際には鉄板です!是非チェックされてください。
住所 | 〒649-5301 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山 |
駐車場 | あり 10台前後 |
アクセス | 那智の滝に電車で行く場合は、まずはJR「紀伊勝浦駅」を目指しましょう。 駅からは熊野交通バス「神社お寺前駐車場行き」で「滝前バス停」下車です。 |
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