日本神話に登場する、重要ワード、重要エピソードをディープに掘り下げる「日本神話解説シリーズ」。
今回は、
人間モデルの神による新たな展開
をテーマにお届けいたします。
ただ、、、予めお断りしておきますが、
日本神話的には、神をもとに人ができてる、っていうスタンスなので、
これからご紹介する「人間モデルの神」も、
神がそうだから、人間もそうなんだ。という体(体裁)。
神が先、人が後。
この先後、順番はお間違えなく。以下、全てコレに倣え。
で、
『日本書紀』第五段〔一書6〕から初めて登場する「人間モデルの神」。
コレ、活動するのは「神」として。だが、その実態は「人」っていうニュータイプで。日本神話的には革命的イベント。
みんなの頭に「?」フラグが立ちまくる大事件。なんでだ? てか、なんだこの「パッと見は神、だけど、中身は人」みたいな存在は・・・???
人間モデルの神。その主な特徴は、
「理」ではなく「情」によって動くこと。
うん、すごい人間っぽい。でも神。
今回は、〔一書6〕で突如発生した「人間モデルの神」の中身とその影響について、それでも神が先で人が後、というスタンスは保ちつつ、現地から生々しくお届けして参ります。
人間モデルの神による新たな展開|理から情による行動へ。これは日本神話的革命だ
目次
「人間モデルの神」発生の時代背景
何事も経緯や理由があって。
第五段で革命的に誕生する「人間モデルの神」の発生理由を探るためにも、まずは、日本神話的時代背景をチェックです。
- 天地開闢、乾道独化によって純男神が誕生(第一段)→革命的
- 乾坤道相参によって男女対耦神が誕生(第二段)→革命的
- これらは神世七代という尊い神様カテゴリでした(第三段)
- 伊奘諾尊・伊奘冉尊の結婚と出産により大八洲国が誕生(第四段)→革命的
と。
振り返ってみると、天地開闢から全て、革命的イベントばっかり。激動の創成期。
この大きな時代のうねりを感じろ。
天地が開闢、神が誕生、男女の神が結婚して出産、国の土台ができた! 、、っていう経緯や背景の中で誕生したのが「人間モデル神」。
やっぱ「革命的大事件」として、その重要性を捉えていきたい。
で、その誕生した理由とは、、。
それは、
道由来神の限界を突破すること。
これだ。
道由来神とは?
乾の道により誕生した純男神、乾と坤の道が参じて誕生した男女神。道から生まれた、道由来の100%天然オーガニック神。
そして、伊奘諾尊も伊奘冉尊も、乾と坤の道から化生した神であり、ゆえに、宇宙法則である「尊卑先後の序」を内在している。
宇宙法則である「尊卑先後の序」を内在しているとは、先後や次序に則る、ということ。拘束されるってこと。
例えば、陽神が左旋&陰神が右旋、陽神が先唱&陰神が後和、などなど、
決まってるんすよ。全部。
外れたら、おかしいんすよ。
予定調和的神様行動として表現される訳ですね。
これはつまり、
神話的限界に直結するんす。つまり、そのままだと 物語に広がりが生まれない。予定調和のストーリー。簡単に言うと
予想外の展開が生まれない!
つまらん!日本つまらん!
ってなる。
これは、、、マズイ。。。
日本神話、何のために編纂してんの? って言えば、日本のスゴさや豊かさを打ち出すためなのに、このままでは真逆の結果に、、、マズい。。
だからこそ、
道由来の100%天然オーガニック神ではない別の存在の神登場が必要だった訳です。それが「人間モデルの神」!
原理を外れる、情動で動く、何しでかすか分からない、そんな不確実性を内在する存在。コレ、ニュータイプ。でもそこからは新たな展開が見えてくる、、、
ということで、
「人間モデルの神」発生経緯や理由、まとめると
道由来神の限界を突破すること。
予定調和的神様行動 から 不確実的神様行動へ。大転換。
これにより、
予想外の展開が生まれる!
おもろい!日本おもろいやん!
ってなる。そんな背景や理由があったんですね。
「人間モデルの神」ってどんな神?
天地開闢から全て革命的イベントばっかり。激動の創成期に、
さらに大きな展開を生み出そうと誕生した「人間モデルの神」。
ここでは、その中身について簡単に解説。実例は後ほど、現場を見ていただき感じてください。
「人間モデルの神」の特徴は
情に基づく行動原理を持つ。
ってこと。
登場したタイミングも絶妙で。〔一書〕というめっちゃ便利な場所。なんか許されてしまう新概念勝手に入れときましたの巻。
今回登場する代表的な情の例としては、
「恨」
、、(;゚Д゚)ヒエエー
伊奘諾尊も、伊奘冉尊も、素戔嗚尊も、、、みんな「恨」をもとに行動してて、まー人間的。情動。原理原則なんて関係なし。感じるままに。
でもね、、
人間モデルの神。実は突然登場するわけじゃないんです。
しっかりプロセス、段階を踏んでの登場だったりします。
その段階とは、
伊奘諾と伊奘冉が一緒になった経緯 @第四段
といったかんじで、
実は、そもそもの始め、プロセスから「夫婦」になってる。つまり、人間になぞらえてるんですね。
いわば「人間モデル」で「夫婦の役割」を演じてきたうえで、
ココ、第五段〔一書6〕で炸裂。これまでの形式的な人間モデルから、内面的な人間モデルへ。それは例えば、妻を不慮の死によって喪った悲痛。そして恨み。。。
再度確認。
段 | 内容 | モデル種別 | 行動の拠り所 |
第四段 | 夫婦となり洲を生む | 形式的人間モデル | 理 |
第五段 | 感情によって行動する | 内面的人間モデル | 情 |
って、こうしてみてみると、段階的導入方法であり、納得感がある。
物語として破綻してない。
〔一書6〕から突然人間になったよ、クララが立ったよ、
ではなく、
ステップ踏んでる。
そのうえで、
これまでの「理」を拠りどころにする行動から、
「情」に駆られた行動へ。変化を際立たせていく。
練りに練られた神話展開。古代日本人の創意工夫度合いがマジでスゴい。全体を俯瞰しながらマネジメント入れてる感じがするよね。
「人間モデルの神」を象徴する「恨フレーム」
さて、そんなに言う「人間モデル神」、実際にどんな感じなのか?
いよいよ現場を、『日本書紀』巻一の第五段〔一書6〕をチェック。いただきたいのですが、その前に、代表的な「枠組み・フレーム」を確認しておきましょう。
「人間モデル神」を象徴する超重要ワードが
「恨」、ということで。
この、
「恨」を起点とした展開フレームを是非チェック。
いずれも〔一書6〕に伝えます。コチラ。
- 于時、伊奘諾尊恨之曰「唯以一児替 我愛之妹者乎。」則 匍匐頭辺、匍匐脚辺 而哭泣流涕焉。
- 于時、伊奘冉尊恨曰「何不 用 要言 、令 吾恥辱。」乃 遣泉津醜女八人、追留之。
おもろくないすか?
同じフレーム、枠組みですよね。
主語+恨曰+「言表」+行動
いわば、「神様コンピテンシー」とも言える行動モデル。
以下3つの要素で構成されてて
- 思いがけないタイミングで、受け入れ難いイベントが発生、
- その事態を「恨」みとして言表する、言い表す
- 受け入れ難いだけに、それが「則」「乃」以降の「次の行動」を引き起こす
といった
いわば、ホップステップジャンプの3段構成。
イベント→情動→行動
フツー?あたりまえ??
いやいや、神様がこうだから人間もそうなんだ、という話で。起源ですよ。起源。コレ。私たちが感情をもち、ともすれば感情をもとに行動するのも、元をたどればココ。神様がそうだから、という話で。そういう重要感をもってチェックやで!
さらにさらに、
もう少し広げて見てみると、こんな枠組みも浮かび上がります。
- 伊奘諾尊:(愛妻を殺され悲痛)恨 →追(伊奘冉尊) →共語
- 伊奘冉尊:(正体を見られ恥辱)恨 →追(伊奘諾尊) →別離
と。
伊奘諾尊の場合は、火神に最愛の妻を殺され恨む。そして伊奘冉尊を追いかけていき、黄泉で共に語る。
伊奘冉尊の場合は、最愛の夫に正体を見られて恨む。そして伊奘諾尊を追いかけていき、平坂で別離する。
どーでもいいかもしれんが、
この重なりは、偶然じゃない。
いずれも「恨」に始まり、
- かたや「共語」をもたらすのに対し、もう一方が「別離」をもたらすという対照性
- さらに、一方(伊奘諾尊)から他方(伊奘冉尊)へ継起的につながる
という構造を持ってて、まー良くできてる。神話ファンとしては泣いて喜ぶ局面です。
人間モデル神とはいえ、何でもかんでもやっちゃうのではなく、枠組みを持たせて暴走しないようにしてる。とも言える。
うまく調整されてる、マネジメントが入ってる訳です。
人間モデル神の事例たち
と、いうことで、ずいぶん前置きが長くなりました。ここから、いよいよ人間モデル神の「人間っぽい現場」へお連れ致します。
『日本書紀』巻一 第五段〔一書6〕から、
情動発動箇所を重点的にお届け。よく見といてね
まずはこちらから。
①愛する妻を喪失した悲痛と、愛する妻を殺した息子への恨みの巻
日本神話でも有名なシーン。二神の子である火神「軻遇突智尊」が生まれ、伊奘冉尊がその火に焦かれ死んでしまう。。。
母親殺しの重大犯罪をしでかす息子の巻。
伊奘諾にしてみたら、ざけんなフラグ立ちまくりの案件で。
その現場がコチラ
その火神の軻遇突智が生まれるに至って、その母の伊奘冉尊は焦かれ、化去った。その時、伊奘諾尊は恨み「このたった一児と、私の愛する妻を引き換えてしまうとは。」と言った。そこで、伊奘冉尊の頭の辺りを腹ばい、脚の辺りを腹ばいして、哭いて激しく涕を流した。 ー中略ー 遂に、帯びていた十握剣を抜き、軻遇突智を三段に斬った。
至於火神軻遇突智之生也 其母伊奘冉尊 見焦而化去 于時 伊奘諾尊恨之曰 唯以一兒 替我愛之妹者乎 則匍匐頭邊 匍匐脚邊 而哭泣流涕焉 ー中略ー 遂抜所帶十握劒 斬軻遇突智爲三段
人間モデルポイントは2つ。
- 愛する妻を喪失した悲痛
- 愛する妻を殺した息子への恨み
この情動、まさに人間そのものやね。これを承けて、
- 悲痛の表現として「腹這う」「哭く」
- 恨みの表現として「斬殺」
となる。まさに、「情動→行動フレーム」。
特に、悲痛の表現。頭のところで腹這って、脚のところで腹這って、それから大声で哭くと、まースゴイ。
人間以上に激しい。
ん?それが神か。ま、いいや。
実は、このあたりの表現には類例があって、
古代における喪や殯。つまり、葬送儀礼、死者を送る特別な儀礼です。
で、
恨みの表現。わが子を斬断、、、3つに、、、壮絶。。。(;゚д゚)ゴクリ…どっかの凶悪殺人事件?ある意味、めっちゃ人間臭い、、?
一方で、恨みの言葉のなかに「私の愛する妻(我愛之妹)」と、妻への「愛情」を強く寄せる言葉も使われてます。
対比が鮮やか。
この愛情ゆえに諦めきれず、
黄泉まで追う行動に駆りたてていくんすね。
感情の揺れ動き、
その表現に着目して物語を追いかけていくと、なんだか文学的な雰囲気も漂い始めるこの頃です。
情動→行動の人間モデル。ということで要チェック。
次!
②愛する妻を追いかけて死者の國へ。そこで情を交わす二人。。。でもアイツは僕をなじるんだ
無事、息子を三段に切り刻んだところで、伊奘諾尊は黄泉へ向かいます。
伊奘諾尊は伊奘冉尊を追って黄泉に入り、共に語った。その時、伊奘冉尊が言った。「私の愛しい夫よ、どうして来るのが遅かったのですか。」と。
然後 伊奘諾尊 追伊奘冉尊 入於黄泉 而及之共語 時伊奘冉尊曰 吾夫君尊 何來之晩也
人間モデルポイントは1つ。
- 死者と情を交わす「共語」。からの、、、遅い旦那をなじる妻(?)
といった対比的な構造。
ここは解釈の翼を広げる局面。伊奘諾としては、愛する妻を追いかけていった訳で、実際、訪れた先で「共語」。つまり、生きていたあの頃のように、二神は語り合うわけです。情を交わす。いい雰囲気。なのに、このとき妻は旦那を「どうして来るのが遅かったの?」となじる。コレ、なじりとして解釈していいと思います。とすると、、、もしかして、柱巡りのときのように、伊奘冉は一人盛りあがってしまい先に声を出しちゃったのかも?
この再会と共語の場面、原則論から言うと、陽神である伊奘諾から声をかけるべきですが、陰神の伊奘冉から声をあげてる。これはこれで原理からフツーに逸脱してる、つまり人間モデルならでは。
伊奘冉の内面を考えると、愛する旦那が追いかけてきてくれた、再会してあの頃のように情を交わせた、、、って経緯からの「なんで遅かったの」発言。このとき、彼女はどのような想いだったのでしょうか?
③神様もご飯食べる
「(伊奘冉尊は)私は黄泉で煮炊きした物をすでに食べてしまったのです。」
吾已泉之竈矣
だって人間モデルだもの。そら、、ご飯だって食べないと。お腹空いちゃうからね。
④気になりだしたら止まらない??見るなの禁を破ってしまうオレ様
「(伊奘冉尊は)私はこれから寝ようと思います。お願いですから、けっして私をご覧にならないでください。」と言った。伊奘諾尊はそれを聴かず、こっそり湯津爪櫛を取り、櫛の端の雄柱を引き折り松明として見ると、膿がわき、蛆虫がたかっていた。
雖然 吾當寝息 請勿視之 伊奘諾尊不聽 陰取湯津爪櫛 牽折其雄柱 以爲秉炬 而見之者 則膿沸蟲流
人間モデルポイントは3つ。
- 神様も寝る
- 見るなの禁を課す異類の女、それを破る男、それにより女の正体が露見する
- 陽神としては陰神の頼み事なんて、ハナから「聴かない」スタンス
- だから見る。もともと聴く気なんてないんだから、当然のように見る
まず、
神様も寝るらしい。だけど、問題は「なぜ伊奘冉は寝ると言い出したのか?」ということ。唐突な感じしません?共に語って、遅いってなじって、寝るわ、って。。。
なので、まず、なんのために「寝る」のかを考えます。
死者が寝るとは?
そう、それは棺桶の中。てことは、伊奘冉は棺桶に戻ろうとした、ってこと。なぜか?
それは、体の回復を図ろうとしたから。コレ、中国の志怪小説の中に似たような話があって、死んだ女が夜な夜な通ってくるんですが、その通ってる間に墓場の遺体が蘇生していくというお話。
棺桶に戻って体を蘇生させようと寝に行った、という話。てことは、、、伊奘冉は元の世界へ戻ろうとしてた、ってことになりますよね。
だけど、蘇生途中の醜い自分の姿を見られたくない。だから見ないでくださいと。
それに対しての伊奘諾尊の対応がポイント。「不聴」とあり、要は「聴かなかった」ってこと。この聴かないっていうスタンス、結構、上からな感じありません?似たところでは、第四段本伝。
ココでの伊奘諾尊は、伊奘冉の頼み事を聴かずにこっそりと火を点けた、という感じ。どちらかというと、男の勝手な理論で行動する伊奘諾像を感じてしまうのは私だけでしょうか?
見るなの禁を破ったのも、伊奘諾尊の中での理屈による「気になるから見るぜ」といった感じ。共に語った時間はどこへやら、この時点では、かみ合ってない感が結構ありますよね。
次!
⑤恥をかかせたとブチ切れる。手下(お付きの者)を派遣して追いかけさせる
その時、伊奘諾尊はおおいに驚き、「私は、思いもよらず何と嫌な汚穢い国に来てしまったことだ。」と言い、すぐに急いで走り帰った。その時、伊奘冉尊は恨んで「どうして約束を守らず私に恥をかかせたのか。」と言い、泉津醜女八人を遣わし、追い留めようとした。
時伊奘諾尊 大驚之曰 吾不意到於不須也凶目汚穢之國矣 乃急走廻歸 于時 伊奘冉尊恨曰 何不用要言 令吾恥辱 乃遣泉津醜女八人追留之
人間モデルポイントは2つ。
- 伊奘諾尊は、汚さに(今更ながら)びっくりする
- 伊奘冉尊は、恥をかかせたと恨む、追いかけさせる
というように、それぞれがそれぞれの人間らしい反応をされてる対照的な雰囲気を感じでね。だって人間だもの。
先にご案内した「恨」フレームが登場してます。
- 于時、伊奘冉尊恨曰「何不 用 要言 、令 吾恥辱。」乃 遣泉津醜女八人、追留之。
主語+恨曰+「言表」+行動
次!
⑥離婚する=「絶妻の誓い」をたてる
この時には、伊奘諾尊はすでに泉津平坂に至っていた。 ー中略ー そこで、伊奘諾尊は千人力でやっと引けるくらいの大きな磐でその坂路を塞ぎ、伊奘冉尊と向き合って立ち、遂に離縁を誓う言葉を言い渡した。
是時 伊奘諾尊 已到泉津平坂 ー中略ー 伊奘諾尊 已至泉津平坂 故便以千人所引磐石 塞其坂路 與伊奘冉尊相向而立 遂建絶妻之誓
人間モデルポイントは1つ。
- 離婚する=「絶妻の誓い」をたてる
一方的なんです。ここでの離婚方法は。「絶妻の誓い」をたてるって、、いかにも男側からの理論と言葉ですよね。現代の社会課題にもなりがちな離婚問題、そもそもはココに起源があるってことなんですね。
最後!
⑦後悔する。あんな嫌な汚らわしいとことに行ったもんだから、、、オレ汚れちまったよ・・・
伊奘諾尊は黄泉から辛うじて逃げ帰り、そこで後悔して「私は今しがた何とも嫌な見る目もひどい穢らわしい所に行ってしまっていたものだ。だから我が身についた穢れを洗い去ろう。」と言い、そこで筑紫の日向の小戸の橘の檍原に至り、禊祓をした(身の穢れを祓い除いた)。
伊奘諾尊既還 乃追悔之曰 吾前到於不須也凶目汚穢之處 故當滌去吾身之濁穢 則往至筑紫日向小戸橘之檍原 而祓除焉
人間モデルポイントは1つ。
- 後悔する
神様も後悔するんですね。やらなきゃよかった、、、いかなきゃよかった、、、的な。
補足ですが、神様は後悔しても禊祓をやってキレイさっぱり後腐れ無し。これはこれでいいですよね。ずーと引きずってくよくよするより、祓うことで断ち切る感じ。コレは、一つに、穢れというものが付着する概念だから、というのもあります。体が汚れる=穢れが付着する、だから祓ってしまうことによってキレイになるってことだから。そんな考え方も合わせてチェックです。
と、
まとめてみると、、、
- 悲しむ、恨む:愛する妻を喪失した悲痛と、愛する妻を殺した息子への恨みの巻
- 愛する妻を追いかけて死者の國へ。そこで情を交わす二人。。。でもアイツは僕をなじるんだ
- 神様もご飯食べる
- 気になりだしたら止まらない??見るなの禁を破ってしまうオレ様
- 恥をかかせたとブチ切れる。手下(お付きの者)を派遣して追いかけさせる
- 離婚する=「絶妻の誓い」をたてる
- 後悔する。あんな嫌な汚らわしいとことに行ったもんだから、、、オレ汚れちまったよ・・・
コレ、ホント人間そのものだよね。。。
人間モデル導入が与える日本神話への影響と効果
ということで、チェックしてまいりました「人間モデル神」。
いかがでしたでしょうか?
パッと見は神だけど中身は人間。原理を外れる、情動で動く、何しでかすか分からない、そんな不確実性を内在する存在。コレ、ニュータイプ。そんな神の新登場により、時代は大きく変化していく。
ということで、最後のまとめとして、
ニュータイプ登場による日本神話への影響と効果を考えていきます。
神そのものの、存在としての文脈でいえば、
道由来神の限界を打破
「予定調和的神様行動」から「不確実的神様行動」へと。
大転換。
そして、このニュータイプの登場により、日本神話に起こった影響とは、、、
予想外の展開が生まれた!
って事。
今までにない展開が生み出された。多様性の創出。であります。
神だとできない、ありえないことが、
人間モデルだとできる、ありえる。
その最たる例であり、
日本神話的に絶対外せないキッカケ伝承が、、
素戔嗚尊の謀叛。
直前の、伊奘諾尊による分治指令からお届けします。
こういう次第で、伊奘諾尊は三柱の御子に命じて「天照大神は、高天原を治めよ。月読尊は、青海原の潮が幾重にも重なっているところを治めなさい。素戔嗚尊は天下を治めなさい。」と言った。
この時、素戔嗚尊はすでに年が長じていて、また握りこぶし八つもの長さもある鬚が生えていた。ところが、天下を治めようとせず、常に大声をあげて哭き怒り恨んでいた。そこで伊奘諾尊が「お前はどうしていつもそのように哭いているのだ。」と問うと、素戔嗚尊は「私は根国で母に従いたいのです。だから、哭いているだけなのです。」と答えた。伊奘諾尊は不快に思って「気のむくままに行ってしまえ。」と言って、そのまま追放した。
已而伊奘諾尊 勅任三子曰 天照大神者 可以治高天原也 月讀尊者 可以治滄海原潮 之八百重也 素戔嗚尊者 可以治天下也 是時素戔嗚尊 年已長矣 復生八握鬚髯 雖然不治天下 常以啼泣恚恨 故伊奘諾尊問之曰 汝何故恆啼如此耶 對曰 吾欲從母於根國 只爲泣耳 伊奘諾尊 惡之曰 可以任情行矣 乃逐之
と。
- 伊奘諾尊が三貴神へ分治の委任命令。天照は高天原、月読は青海原、素戔嗚は天下を。
- 天照、月読は従順。素戔嗚は反抗。治めない。
- 理由を聞くと母=伊奘冉尊に従いたいと。生と死の断絶を果たした伊奘諾にとっては謀叛と同様。
といった流れ。
ポイントは、
素戔嗚尊の謀叛。
道由来神の「限界」を打破した「人間モデル神」。
その実態がココ、って事。
つまり、道由来の神のままだとできないことをやってのけてる。もう少し具体的に言うと、道由来神は「尊卑先後の序」に拘束される訳で。例えば、息子が父親に反抗する、謀叛を企てる、とか、そんなのあり得ない。
理に基づき行動するのが道由来神の特徴なので、
親と子、君と臣、男と女、といった次序を崩すなんてあり得ないんすよね。
また、例えハプニング的に事件発生したとしても、例えば第四段で「陰神の間違いと陽神の修正指導」として伝えるように、必ず修正が入るようになっているのです。
ということで、、、
ココで伝えているように、
と、
もともとの神世界では、あり得ないことをやってのける・言ってのける素戔嗚。による「あり得ない展開」が生まれてるのは、まさに「人間モデル神」だから許されてる、とも言えて。
神なんだけど人。
そんな絶妙な立ち位置の獲得により、
素戔嗚尊が「狂言回し」的役回りを担い、日本神話を大きく展開させていくことになる。
素戔嗚尊が反抗するから追放された。素戔嗚尊が追放されるから高天原に行くことになった。素戔嗚尊が高天原へ行ったから誓約や天照の子が誕生することになった。誓約から勝ちさびにはいり、田んぼや機織殿を破壊した、からの岩戸幽居になった。素戔嗚尊が高天原から追放されるから出雲が登場した、素戔嗚尊が出雲に降り立ったから八岐大蛇退治イベントが発生した、クシナダヒメと結婚した、子供を生んだ、大己貴命が生まれた、国造りされ国譲りがされて天孫が降臨する、、、と
素戔嗚尊の立ち回り無くして日本神話はあり得ない、
と言ってもいいくらい、超重要キャラクターになっていく。それもこれもすべて、ココ、〔一書6〕の人間モデル神が契機、きっかけになっていて、
その意味で、めっちゃ重要な位置づけだったりするんですよね。
まとめ
人間モデルの神による新たな展開についてお届けしてきましたが、いかがでしたでしょうか?
何度もお断りしておきますが、
日本神話的には、神をもとに人ができてる、っていうスタンスなので、
ご紹介してきた「人間モデルの神」をもとに人間が、
神がそうだから、人間もそうなんだ。という体(体裁)であります。
神が先、人が後。
で、
「人間モデルの神」発生経緯や理由はズバリ
道由来の神の限界を突破すること。
予定調和的神様行動から不確実的神様行動へ。大転換させること。
これにより、
予想外の展開が生まれる!
おもろい!日本おもろいやん!
ってなる。そんな背景や理由があったってこと、しっかりチェックです。
人間モデルだからこそ、本来の神世界では、あり得ないことをやってのけられる・言ってのけられる。これによる「あり得ない展開」が生まれていくんです。
これが、日本神話に大きな展開を与えていくんですね。
以後の神話世界、上記のような視点で眺めてみると、今まで以上に奥行きのある、オモロー!な神話世界が立ち上がってくると思います。是非。
参考文献
『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)
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