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神武東征神話を分かりやすく解説するシリーズ
シリーズでお伝えしている神武東征神話。
日本神話.comでは、天地開闢から橿原即位までを「日本神話」として定義。東征神話は、その中で最大のクライマックスを彩るアツく奥ゆかしい建国神話であります。
言うと、
これを知らずして、日本も神話も語れない!m9( ゚Д゚) ドーン!
ということで、今回は4回目。大和入りから孔舎衛坂激戦直前までの神話をお届けします。
難波碕から白肩の津へ|生駒山の白い崖を目印にドキドキしながら進軍した件
難波碕から白肩の津へを読むにあたって
日向を出発し、瀬戸内を進んできた神武東征一行。
岡山「高嶋の宮」で3年間準備した東征軍は、いよいよ大和に入ります。まず、「難波の碕」に到り1カ月滞在。更に遡って河内国草香邑の「白肩津 」に上陸。「津」は港の事。
- 初めて上陸した大和の地。神武はどんな想いでいたのでしょうか?
そんな神話ロマンに想いを馳せながら読み進めましょう。
今回も『日本書紀』巻三「神武紀」をもとにお伝えします。ちなみに、前回の内容、これまでの経緯はコチラ↓をご確認ください。
東征ルートと場所の確認
今回ご紹介するシーンは、現在の大阪府が舞台。
まず、「難波の碕」に到り1カ月滞在。更に遡って河内国草香邑の「白肩の津 」に上陸します。ココ、現在の日下周辺と言われてます。
『書紀』をもとに地名を辿ると神武が「当初」目指した橿原へのルートは以下の通り。

「高嶋の宮」から大阪湾を抜け「難波の碕」へ、更に「白肩の津」に上陸し、そこから陸路で橿原へ進軍するルート。
ここでのポイントは3つ。
①古代の大阪湾は、湾が平野の奥深くまで入り込んでいた
なんと、現在の姿とは全然ちがっていて、この周辺は、大阪湾から東へ「生駒山」西麓までいたる広大な潟湖が広がっていたのです。
潟湖とは、現在は「ラグーン」と呼ばれ、湾が砂州によって外海から隔てられて湖沼化した地形のこと。上町台地が半島のように突き出ており、「難波の碕」はこの潟湖の入口付近にある岬でした。
神話の時代のお話なので、なんとも言えないのは前提で、それでも、例えば、7世紀前後の古代想定地図と重ねてみると以下の通りになります。
こちら↑は当時の地形をあらわした地図(枚方市教育委員会主催「シンポジウム淀川流域の交通史」より)から、進軍のイメージ図。あくまで7~8世紀ごろの地形なので、神話の時代は別の形というのが大前提。ですが、参考にはなると思います。
②神武はまず「難波の碕」に上陸し、1カ月過ごす。いきなり攻め込まない。
「難波の碕」と次の目的地「白肩の津」は15キロほどしか離れていないのに、わざわざ1カ月も滞在したという事は、入念に大和の土地を調査、または作戦を練っていたと思われます。初めての土地にドキドキしながら進もうとしていた神武がイメージされます。
③生駒山山麓の「白い砂礫の崖」が目印になっていた
「白肩の津」付近は生駒山山麓の「白い砂礫の崖」となっていて、神武はこれを目印に草香江(潟湖の中の地名)を進軍します。
詳しくはコチラ!
神武にとって「大和」は右も左もわからない土地。そこで必要なのは「目立つ目標物」であり、生駒の白い崖は進軍するうえでの目印になったと思われます。
以上のポイントと位置関係・地形等をつかんだうえで読み進めるようにしましょう。
難波から白肩の津へ
「戊午」の年、春2月の11日[1]に、東征軍は遂に東に向けて出発する。
前の船の「とも」と、後ろの船の「さき」が互いに接するほど多くの船が続く。
いよいよ「難波の碕[2]」に到ると、非常に速い潮流に遭遇した。そこで、その国を名付けて「浪速の国」という。(また「浪花」ともいう。今、「難波」と言うのは、訛である。)
3月10日[3]に、その急流をさかのぼり、河内の国の「草香の邑」の青雲の「白肩の津[4]」に到る。
注釈
[1]丁酉(が朔にあたる丁未
[2]現在の、大阪府「浪速区」や「難波」の地名はこれが由来です。つまり、とても速い潮流=浪が速い=浪速、という事。
[3]丁卯が朔にあたる丙子
[4]東征軍が目印とした生駒山山麓の「白い砂礫の崖」。実際、万葉集においても『白真砂 御津の埴生の 色に出でて 言はなくのみぞ 我が恋ふらくは (万葉集2725番)』と謳われ、白い砂礫が形成する浜辺が草香江一帯に広がっていたことを伝えています。
※写真は、橿原神宮で公開中の「神武天皇御東征絵巻」より。
原文
戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以名爲浪速國、亦曰浪花、今謂難波訛也。訛、此云與許奈磨盧。
三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河內國草香邑靑雲白肩之津。
『日本書紀』巻三 神武紀より
まとめ
難波から白肩の津へ
いよいよ大和いりした「彦火火出見」こと神武。
「前の船の「とも」と後ろの船の「さき」が互いに接するほど多くの船が続く」という表現から、大軍を率いて進軍した様子が目に浮かびます。
一方で、実際はひと月ごとに少しずつ進軍しているということは、慎重にこの地を調査しながら進めようとしていたと思われます。
そして、当時の地形が現在とは全然違ったというところも興味深いですよね。広大なラグーンが広がっていたなんて。。。
これによって、大船団は内陸まで入り込むことができたという事なんですね。良くできてます。現在の日下付近まで来たはずで、それはそれでビックリです。
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神武東征神話のもう一つの楽しみ方、それが伝承地を巡る旅です。以下いくつかご紹介!
「難波の碕」が大阪天満宮の敷地内に!
つづきはコチラ!
目次はコチラ!
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本記事監修:(一社)日本神話協会理事長、佛教大学名誉教授 榎本福寿氏
参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)、他
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