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神武東征神話を分かりやすく解説するシリーズ
シリーズでお伝えしている神武東征神話。
日本神話.comでは、天地開闢から橿原即位までを「日本神話」として定義中。
東征神話は、その中で最大のクライマックスを彩るアツく奥ゆかしい建国神話であります。
言うと、
これを知らずして、日本も神話も語れない!m9( ゚Д゚) メーン!
ということで、今回は5回目。孔舎衛坂激戦の神話をお届けします。
孔舎衛坂激戦、敗退|スネの長い関西人に初戦敗退。神策めぐらし紀伊半島を迂回することにした件
孔舎衛坂激戦、敗退を読むにあたって
「白肩の津」にて1カ月滞在した後、いよいよ世界の中心である「中洲=大和平野」向けて進軍を開始します。徒歩にて。
まず、「竜田」を通って行こうとしますが、狭くて険しくて断念。「並んで行くことができなかった」と伝えてるので、相当狭かったのでしょう。。。汗
一度引き返し、今度は生駒山を越えて行くルートを目指しますが、大和最強の敵「長髄彦」が行く手を遮り、孔舎衛坂で激しい戦闘となります。
ところが初戦敗退。。。Σ(゚Д゚;マジデ!?
しかも長兄の「五瀬命」が負傷します。
- 入念な準備を行ってきたにもかかわらず敗戦した理由はなんだったのか?
- 負けが確定したときの対処はどうだったのか?
これらの謎を探ることで、東征神話における「孔舎衛坂敗戦の意味」を考えます。
今回も『日本書紀』巻三「神武紀」をもとにお伝えします。ちなみに、前回の内容、これまでの経緯はコチラ↓をご確認ください。
神武東征ルートと場所
まず、2つのルートを確認ください。
当初、「白肩の津」から「世界の中心地」へは「竜田」を通って行こうとしますが、狭いわ険しわで断念します。これが「第一ルート」。
そこで、一度引き返して、生駒山を越えて行くルートを目指します。これが「第二ルート」です。
が、大和最強の敵「長髄彦」が行く手を遮り、「孔舎衛坂」で激しい戦闘へ。
図示すると以下の通り。
【googleMapsより加工】
「長髄彦」は、名前をそのまま解釈すると「スネの長い男」。大和一帯を支配し、先に天から降ってきた「饒速日命」を自分の妹と結婚させていたお方です。
東征軍は、この「スネの長い男」の軍に手痛い敗戦、撤退を余儀なくされます。
意気揚々と進軍し、岡山で3年も準備し、満を持して臨んだ初戦は完敗に終わったのです。
孔舎衛坂激戦、敗退
夏[1]、4月9日[2]に、東征軍は兵卒・武器を整備して、徒歩で竜田[3]に向かった。
しかし、その路は狭くて険しく、大軍はおろか人が並んで行くことさえできなかった。そこで引き返し、改めて東方、胆駒山を越えて中洲に入ろうとした。
その時、「長髄彦」がこれを聞きつけ、
天神の子等がこの大和に来る理由は、我が国を奪おうとするためだろう。
と言い、配下の兵をことごとく起こし、「孔舎衛坂」で遮った。
この孔舎衛坂では激しい戦闘となり、東征軍は先に進むことができなかった。
この時、流れ矢が「五瀬命」の肘・脛に当たり重傷を負った。
「彦火火出見」は、この状況を憂えて、胸中に神策をめぐらした。
今、私は「日神」の子孫でありながら、日に向って敵を攻撃している[4]。これは、日を敵にまわしているのと同じで「天の道」に逆らうことだ。
ここは引き返して、かなわないと見せかけ、神祇を敬い祭り、日神の神威を背に負い[5]、自分の前にできる影に従って襲いかかり、敵を圧倒するのがよいだろう。
こうすれば、少しも血を流さずに、敵は必ず自ら敗れるはずだ。
この秘策に対し、皆は「まさにそのとおりです。」と賛同。
そこで全軍に対し「しばらく停れ。これ以上、進軍してはならない。」と軍命を下し、さらに軍を引いて引き返した。
敵もまた、敢えて追ってはこなかった。
退却して「草香津」に到り、盾を立てて雄誥をする[6]。これにより、その津の名を改めて「盾津」という。(今、「蓼津」というのは、訛りである。)
さて、この「孔舎衛の戦い」において、大樹に隠れて難を免れ得た者がいて、その樹を指して「ご恩は母のようだ[7]」と言った。(当時の人は、その地を名付けて「母木邑」といった。今、「悶廼奇」というのは訛りである。)
注釈
[1] 旧暦では、1~3月を春、4~6月を夏、7~9月を秋、10~12月を冬とします。
[2] 丙申(ひのえさる)が朔(つひたち)にあたる甲辰(きのえたつ)
[3] 龍田山は、奈良県王寺町の龍田大社の西から、大阪府柏原市の東端にかけての山をいいます。白肩の津からはだいぶ南。結局、ここは道が狭くて険しいため引き返すことになります。
[4] 大阪から橿原に向かって攻め込む事は、西から東へ進軍する事になります。東は太陽が昇る方角ですね。これは、日に向かって矢を向ける事であり、日の神の子孫である神武にとっては天の道、道理に逆らう事だという事です。
[5] 逆に、東から西へ攻め込む事で、日の神の威光を背に勝ち進むことができるという事。昇る太陽の光を背に受けて、自分の影が前にできます。その影に従って進軍することで勝利できるという訳です。
[6]雄々しく声をあげ、戦意を鼓舞する事。手痛い敗戦という逆境を、雄誥(おたけび)によって鼓舞しようとしたのです。
[7] この「母」とは、生みの母親ではなく、育ての乳母を言います。古代では高貴な子女の養育にはもっぱら乳母が担当していた事を踏まえた言葉。ここでいう「恩母の如し」とは、自分を養育してくれた乳母の恩と、命拾いさせてくれた樹への恩を重ねているのです。
※写真は、橿原神宮で公開中の「神武天皇御東征絵巻」より。
原文
夏四月丙申朔甲辰、皇師勒兵、步趣龍田。而其路狹嶮、人不得並行、乃還更欲東踰膽駒山而入中洲。
時、長髄彥聞之曰「夫天神子等所以來者、必將奪我國。」
則盡起屬兵、徼之於孔舍衞坂、與之會戰。有流矢、中五瀬命肱脛。皇師不能進戰、天皇憂之、乃運神策於沖衿曰「今我是日神子孫而向日征虜、此逆天道也。不若、退還示弱、禮祭神祇、背負日神之威、隨影壓躡。如此、則曾不血刃、虜必自敗矣。」僉曰「然。」於是、令軍中曰「且停、勿須復進。」乃引軍還。虜亦不敢逼、却至草香之津、植盾而爲雄誥焉。雄誥、此云烏多鶏縻。因改號其津曰盾津、今云蓼津訛也。
初、孔舍衞之戰、有人隱於大樹而得兔難、仍指其樹曰「恩如母。」時人、因號其地曰母木邑、今云飫悶廼奇訛也。
『日本書紀』巻三 神武紀より
まとめ
孔舎衙激戦、敗退
地に詳しくなく、敵を知らず、日の神の子孫であるという己のアイデンティティに無自覚のまま戦えば、敗北は必至です。
初戦敗退の原因は、一言で言うと「情報不足と無自覚(≒おごり)」にあったと言えます。
例えば、
孫子は「彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し(あやうし)」(謀攻)と教えます。有名な言葉「彼を知り、己を知れば百戦殆からず」もその一つ。
この孔舎衛坂の戦いは、「彼を知らず己も知らず」の状態だったと言えますね。確かに勝てる訳がなく。。。
結果的にその代償は、この後に続く「兄の死」という形で払う事になります。
一方で、
敗戦が決定的になったときの「対処方法」も注目すべきです。
状況を客観的に分析し、「神策」をめぐらせ迂回ルートを決断しました。そして決めたら即行動。全軍に撤退を命令し、盾津で雄叫びをあげて士気を鼓舞します。
初戦敗退のショックは大きかったはずですが、くよくよしません。流石。
これはこれで神武の真骨頂とも言えて。試練や苦境におかれたときにリーダーはどう決断し行動すべきかを教えてくれます。
オススメ関連伝承地
神武東征神話のもう一つの楽しみ方、それが伝承地を巡る旅です。以下いくつかご紹介!
気になる激戦の地の考察はこちら。
委員会の皆さんお墨付きの顕彰碑はコチラ!
雄叫びをあげたのはコチラ!
竜田の地には、龍田大社があります!気の守護神。コレはこれでかなりユニークです。
つづきはコチラ!
目次はコチラ!
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本記事監修:(一社)日本神話協会理事長、佛教大学名誉教授 榎本福寿氏
参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)、他
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