『日本書紀』巻第一(神代上)を徹底解説!
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『日本書紀』巻第一(神代上)
目次
『日本書紀』巻第一(神代上)第一段
〔本伝〕天地開闢と三柱の神の化生
昔々、天と地がまだ分れず、陰と陽も分れていなかった。混沌として、まるで鶏の卵のようであり、ほの暗くぼんやりとして、事象が芽生えようとする兆しを内に含んでいた。
その中の清く明るいものが薄くたなびいて天となり、重く濁ったものがよどみ滞って地となるに及んでは、その軽やかで妙なるものは集まりやすく、重く濁ったものは凝り固まりにくい。だから、まず天ができあがり、その後で地が定まったのである。
そうして天と地が成り立った後に、その天地の中に神が生まれた。
それゆえに、具体的にいえばこういうことになる。天と地ができる初めには、のちに洲となる土壌が浮かび漂う様は、まるで水に遊ぶ魚が水面にぷかりぷかり浮いているようなものだった。
まさにその時、天地の中に一つの物が生まれた。それは萌え出る葦の芽のような形状であった。そして、変化して神と成った。この神を国常立尊と言う。次に国狭槌尊。さらに豊斟渟尊。あわせて三柱の神である。天の道は、単独で変化する。だから、この純男、つまり男女対ではない純粋な男神が化生したのである。
〔一書1〕体系性を持つ一書群が展開
ある書はこう伝えている。天地が初めて分かれ、その間のガランとした中に一つの物があった。その物のかたちは言い表しがたい。その中に物が変化して生まれた神があった。名を国常立尊と言う。また国底立尊とも言う。その次に国狭槌尊。また国狭立尊とも言う。さらに豊国主尊。また豊組野尊とも言う。また豊香節野尊、浮経野豊買尊、豊国野尊、豊齧野尊、葉木国野尊、或いは見野尊とも言う。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。昔、国も土地もできて間もなく幼かったころは、例えるなら水に浮かんだ脂の状態で漂っていた。そんな時、国の中に物が生まれた。その形は葦の芽が突き出たようであった。これにより変化して生まれた神があった。その名を可美葦牙彦舅尊と言う。次に国常立尊。次に国狭槌尊。葉木国は、ここでは「はこくに」という。可美は、ここでは「うまし」という。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。天と地が混じり合って成った時、初めに神人(神である人、神そのものとも言うべき人)がいた。その名を可美葦牙彦舅尊と言う。次に国底立尊。彦舅は、ここでは「ひこぢ」という。
〔一書4〕
ある書はこう伝えている。天地が初めて分かれ、初めに倶に生まれた(双生の)神がいた。名を国常立尊と言う。次に国狭槌尊。またこうも伝えている。高天原に生まれた神の名は、天御中主尊と言う。次に高皇産霊尊。次に神皇産霊尊。皇産霊は、ここでは「みむすひ」という。
〔一書5〕
ある書はこう伝えている。天と地がまだ生まれる以前の時、例えるなら海上に浮かんでいる雲に根ざしつながる所がないような様だった。その中に一つの物が生まれた。葦の芽が初めて泥の中に生え出たようである。それが変化して人となった。名を国常立尊と言う。
〔一書6〕
ある書はこう伝えている。天地が初めて分かれ、物があった。葦の芽が空中に生じたようであった。これによって変化した神は、天常立尊と言う。次に可美葦牙彦舅尊。また、物があった。浮かぶ脂が空中に生じたようであった。これによって変化した神は、国常立尊と言う。
『日本書紀』巻第一(神代上)第二段
〔本伝〕男女耦生の八神
次に現れた神は、泥土煑尊※1、沙土煑尊※2。次に現れた神は、大戸之道尊※3、大苫辺尊※4。次に現れた神は、面足尊・惶根尊※5。次に現れた神は、伊奘諾尊・伊奘冉尊。
※1:土、これを「うひぢ」と読む。
※2:沙土、これを「すひぢ」と読む。別名は、泥土根尊・沙土根尊。
※3:ある書では、大戸之辺と言う。
※4:または大戸摩彦尊・大戸摩姫尊・大富道尊・大富辺尊とも言う。
※5:または吾屋惶根尊・忌橿城尊・青橿城根尊・吾屋橿城尊と言う。
※注の1~5は、本来は文中に。ココでは分かり易いように切り出して列挙してます
ある書はこう伝えている。この二柱の神は、青橿城根尊の御子である。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。国常立尊が、天鏡尊を生んだ。天鏡尊が、天万尊を生んだ。天万尊が、沫蕩尊を生んだ。沫蕩尊が、伊奘諾尊を生んだ。沫蕩、これを「あわなぎ」と読む。
『日本書紀』巻第一(神代上)第三段
〔本伝〕神世七代
合わせて八柱の神である。これは陰の道と陽の道が入り混じって現れた。それゆえ男と女の性となったのである。そして、国常立尊から、伊奘諾尊・伊奘冉尊に至るまでを、神世七代と言う。
〔一書1〕新しい時代へ向けた準備
ある書はこう伝えている。男女が対になって現れた神は、まず泥土煮尊・沙土煮尊。次に角樴尊・活樴尊。次に面足尊・惶根尊。次に伊奘諾尊・伊奘冉尊。樴は杭の意味。
『日本書紀』巻第一(神代上)第四段
〔本伝〕聖婚、洲国生み
伊奘諾尊と伊奘冉尊の二柱の神は、天浮橋の上に立って共に計り、「この下の底に、きっと国があるはずだ。」と言った。そこで、天之瓊矛(瓊とは玉である。ここでは努という)を指し下ろして探ってみると海を獲た。その矛の先から滴り落ちた潮が自然に凝り固まり、一つの嶋と成った。それを名付けて「磤馭慮嶋」といった。
二柱の神は、ここにその島に降り居ると、共に夫婦となり、国を産もうとした。そこで、磤馭慮嶋を、国の中心である柱(柱、ここでは美簸旨邏という)とし、陽神は左から巡り、陰神は右から巡った。分かれて国の柱を巡り、同じ所であい会したその時、陰神が先に唱え、「ああ嬉しい、いい若者に会ったことよ。」と言った。(少男、日本では烏等孤という)。陽神はそれを悦ばず、「私が男だ。理の上では、まず私から唱えるべきなのだ。どうして女が理に反して先に言葉を発したのだ。これは全く不吉な事だ。改めて巡るのがよい。」と言った。
ここに、二柱の神はもう一度やり直してあい会した。今度は陽神が先に唱え、「ああ嬉しい。可愛い少女に会ったことよ。」と言った。(少女、ここでは烏等咩という)。そこで陰神に「お前の身体には、なにか形を成しているところがあるか。」と問うた。それに対し、陰神が「私の身体には女の元のところがあります。」と答えた。陽神は「私の身体にもまた、男の元のところがある。私の身体の元のところを、お前の身体の元のところに合わせようと思う。」と言った。ここで陰陽(男女)が始めて交合し、夫婦となったのである。
産む時になって、まず淡路洲を胞としたが、それは意に不快なものであった。そのため「淡路洲」と名付けた。こうして大日本豊秋津洲(日本、日本では耶麻騰という。以下すべてこれにならえ)を産んだ。次に伊予二名洲を産んだ。次に筑紫洲を産んだ。そして億歧洲と佐渡洲を双児で産んだ。世の人に双児を産むことがあるのは、これにならうのである。次に越洲を産んだ。次に大洲を産んだ。そして吉備子洲を産んだ。これにより、はじめて八洲を総称する国の「大八洲国」の名が起こった。このほか、対馬嶋、壱岐嶋、及び所々の小島は、全て潮の泡が凝り固まってできたものである。また水の泡が凝り固まってできたともいう。
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〔一書1〕天神ミッションと無知な二神
ある書はこう伝えている。天神が伊奘諾尊・伊奘冉尊に、「豊かな葦原の永久にたくさんの稲穂の実る地がある。お前達はそこへ行き国の実現に向けた作業をしなさい。」と言って、天瓊戈を下された。そこで二柱の神は、天上の浮橋に立ち、戈を投げて地を求めた。それで青海原をかき回し引き上げると、戈の先から滴り落ちた潮が固まって島となった。これを磤馭慮嶋と名付けた。
二柱の神はその島に降り居て、八尋之殿を化し作った。そして天柱を化し立てた。そして陽神が陰神に、「お前の身体は、どんな形を成しているところがあるのか。」と問うた。それに対して「私の身体に備わっていて、陰(女)の元と称するところが一カ所あります。」と答えた。そこで陽神は、「私の身体にも備わっていて、陽(男)の元と称するところが一カ所ある。私の身体の元を、お前の身体の元に合わせようと思う」と言った。
さっそく天柱を巡ろうとして約束し、「お前は左から巡れ。私は右から巡ろう。」と言った。さて、二柱の神が分かれて天柱を巡り、半周してあい会すると、陰神は先に唱えて「ああ、なんとすばらしい、いい少男(若者)ではないか。」と言った。陽神は後に和して、「ああ、なんとすばらしい、いい少女ではないか。」と言った。ついに夫婦となり、まず蛭児を産んだ。そこで葦船に載せて流した。次に淡洲を産んだ。これもまた子供の数には入れなかった。
こうしたことから、また天に詣り帰って、こと細かに天神に申し上げた。その時、天神は太占で占い、「女の言葉が先に揚がったからではないか。また帰るがよい。」と教えた。そして帰るべき日時を定め、二柱の神を降らせた。
かくて二柱の神は、改めてまた柱を巡った。陽神は左から、陰神は右から巡り、半周して二柱の神があい会した時に、今度は陽神が先に唱えて、「ああ、なんとすばらしい、いい少女ではないか。」と言った。陰神がその後に和して「ああ、なんとすばらしい、いい少男ではないか。」と言った。
このあと、同じ宮に共に住み、子を産んだ。その子を大日本豊秋津洲と名付けた。次に淡路洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に億歧三子洲。次に佐渡洲。次に越洲。次に吉備子洲。これにより、この八洲を大八洲国と言う。
瑞、ここでは弥図と言う。妍哉、ここでは阿那而恵夜と言う。可愛、ここでは哀と言う。太占、ここでは布刀磨爾と言う。
〔一書2〕多彩に展開する国生み
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊と伊奘冉尊の二柱の神は天霧の中に立って、「私は国を得ようと思う。」と言い、天瓊矛を指し下ろして探り、磤馭慮嶋を得た。そこで矛を抜き上げると、喜んで「良かった。国がある。」と言った。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。伊奘諾・伊奘冉尊の二神は高天原に座して、「国があるはずだ」と言った。そこで天瓊矛でかきまわして磤馭慮嶋を成した。
〔一書4〕
ある書はこう伝えている。伊奘諾と伊奘冉の二柱の神は互いに言った。「物がある。浮かんでいる油のようだ。その中に国があると思う」。そこで、天瓊矛で探って一つの嶋を成した。名付けて「磤馭慮嶋」という。
〔一書5〕
ある書はこう伝えている。陰神が先に唱えて、「ああ、なんとすばらしい、いい少男ではないか。」と言った。その際、陰神が先に言葉を発したので、不吉とした。もう一度改めて国柱を巡ると、陽神が先に唱え、「ああ、なんとすばらしい、いい少女ではないか。」と言った。そしてついに交合しようとしたが、その方法を知らなかった。その時、鶺鴒が飛んで来て、その首と尾を揺り動かした。二柱の神はそれを見て学び、すぐに交合の方法を得た。
〔一書6〕
ある書はこう伝えている。二柱の神は交合して夫婦となった。まず淡路洲・淡洲を胞として、大日本豊秋津洲を生んだ。次に伊予洲、次に筑紫洲、そして億歧洲と佐渡洲とを双児で生んだ。次に越洲、次に大洲、そして子洲。
〔一書7〕
ある書はこう伝えている。まず淡路洲を生んだ。次に大日本豊秋津洲、次に伊予二名洲、次に佐渡洲、次に筑紫洲、次に壱岐洲、次に対馬洲。
〔一書8〕
ある書はこう伝えている。磤馭慮嶋を胞(えな)として、淡路洲を生んだ。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に億歧洲と佐渡洲を双児で生んだ。次に越洲。
〔一書9〕
ある書はこう伝えている。淡路洲を胞として、大日本豊秋津洲を生んだ。次に淡洲。次に伊予二名洲。次に億歧三子洲。次に佐渡洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に大洲。
〔一書10〕
ある書はこう伝えている。陰神が先に唱えて、「ああ、なんとすばらしい、いい少男ではないか。」と言った。そこで陽神の手を握り、遂に夫婦となって、淡路洲を生んだ。次に蛭児。
『日本書紀』巻第一(神代上)第五段
〔本伝〕天下之主者生み(神生み)
次に海を生んだ。次に川を生む。次に山を生む。次に木の祖、句句廼馳を生む。次に草の祖、草野姫を生む。またの名を野槌と言う。
そして伊奘諾尊・伊奘冉尊は共に議り、「我々はすでに大八洲国をはじめ山川草木まで生んでいる。どうして地上世界の統治者を生まないでいようか。」と言った。
そこで、共に日神を生む。名を大日孁貴と言う。(大日孁貴、ここでは於保比屢咩能武智と言う。孁は、音は力丁の反である。ある書には、天照大神と言う。ある書には、天照大日孁尊と言う。)この子は、光り輝くこと明るく色とりどりで、世界の内を隅々まで照らした。それで、二柱の神は喜び「我々の子供は多いけれども、まだこのように霊妙不可思議な子はいない。長くこの国に留め置くのはよくない。すぐに天に送り、天上の事を授けるべきだ。」と言った。この時は、天と地がまだたがいに遠く離れていなかった。それで天柱を使って、天上に送り挙げたのである。
次に、月神を生んだ。(ある書には、月弓尊、月夜見尊、月読尊と言う。)その光りの色どりは日神に次ぐものであった。日神とならべて天上を治めさせるのがよいとして、また天に送った。
次に蛭児を生んだが、三歳になっても脚が立たなかった。それゆえ天磐櫲樟船に乗せ、風のまにまに捨てた。
次に素戔鳴尊を生んだ。(ある書には、神素戔鳴尊、速素戔鳴尊と言う。)この神は勇ましく残忍であった。そして、いつも哭くことをわざとしていた。このため、国内の多くの民を早死にさせ、また青々とした山を枯らしてしまった。それゆえ父母の二神は素戔嗚尊に勅して、「お前は、全く道に外れて乱暴だ。この世界に君臨してはならない。当然のこと、はるか遠く根国へ行かなければならない。」と命じ、遂に放逐したのである。
〔一書1〕御寓之珍子生み
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊が「私は天下を統治する優れて貴い子を生もうと思う。」と言い、左の手で白銅鏡を持つと、そこから化し出る神があった。これを大日孁尊と言う。右手に白銅鏡を持つと、また化し出る神があった。これを、月弓尊と言う。また首を廻らせて見たその瞬間に、化す神があった。これを、素戔嗚尊と言う。
先に化し出た大日孁尊および月弓尊は、ともに性質が明るく麗しかった。それゆえ、伊奘諾尊は両神に天地を照らし治めさせた。素戔嗚尊は、生まれつき残酷で害悪なことを好む性格であった。それで根国に下して治めさせた。
珍、ここでは「うづ」と言う。顧眄之間、ここでは「みるまさかりに(顧みるまさにその瞬間に)」と言う。
〔一書2〕卑の極まりと祭祀による鎮魂
ある書はこう伝えている。日と月は既に生まれた。次に蛭児を産んだ。この子は三年経っても足腰が立たなかった。これは初めに、伊奘諾・伊奘冉尊が御柱を巡った時に、陰神が先に喜びの声を発したからである。陰陽の原理に背いてしまったのだ。そのせいで今蛭児が生まれた。
次に素戔鳴尊が生まれた。この神は、神としての性質が悪く、常に哭いて怒りを露にしてばかりいた。それで国の民がたくさん若死にし、青々とした山は枯れた。そのため父母は、「もしお前がこの国を治めたならば、必ず多くの人々を殺し傷つけるだろう。だからお前はここから遠く離れた根国を治めよ」と命じた。
次に鳥磐櫲樟橡船を産んだ。この船に蛭児を乗せ、流れにまかせ棄てた。次に、火神軻遇突智を産んだ。しかし、伊奘冉尊はこの時、軻遇突智の火に焼かれ終った。その、まさに臨終する間、倒れ臥し糞尿を垂れ流し、土神埴山姫と水神罔象女を産んだ。
そこで、軻遇突智は埴山姫を娶って稚産霊を産んだ。この神の頭の上に、蚕と桑が生じた。また、臍の中に五穀が生じた。
罔象、これを「みつは」という。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。伊奘冉尊は火産霊を産む時に、子のために焼かれ神退った。又は神避ると言う。その神退る時に、水神 罔象女と土神 埴山姫を生み、また天吉葛を産んだ。
天吉葛は「あまのよさづら」と言う。又は「よそづら」とも言う。
〔一書4〕
ある書はこう伝えている。伊奘冉尊は火神 軻遇突智を産もうとした時に、その火の熱に悶絶懊悩した。それにより嘔吐した。これが神に化成した。名を金山彦と言う。次に小便を漏らした。これも神と成った。名を罔象女と言う。次に大便を漏らした。これも神と成った。名を埴山媛と言う。
〔一書5〕
ある書はこう伝えている。伊奘冉尊は火の神を生んだ時に焼かれ死んだ。そこで紀伊国の熊野の有馬村に葬った。その土地では、習俗としてこの神の魂を祭る時には、花をもって祭り、そして鼓や笛や旗を用いて歌い舞って祭るのである。
〔一書6〕人間モデル神登場による新たな展開
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊と伊奘冉尊は共に大八洲国を生んだ。
その後に、伊奘諾尊は、「私が生んだ国は朝霧だけがかすんで立ちこめ満ちていることよ。」と言った。そこで吹き払った気が化して神となった。名を級長戸辺命と言う。また級長津彦命と言う。これが、風の神である。また飢えた時に子を生んだ。名を倉稲魂命と言う。また、海神等を生んだ。名を少童命と言う。山神等は名を山祇と言い、水門神等は名を速秋津日命と言い、木神等は名を句句迺馳と言い、土神は名を埴安神と言う。その後に、悉くありとあらゆるものを生んだ。
その火神の軻遇突智が生まれるに至って、その母の伊奘冉尊は焦かれ、化去った。その時、伊奘諾尊は恨み「このたった一児と、私の愛する妻を引き換えてしまうとは。」と言った。そこで伊奘冉尊の頭の辺りを腹ばい、脚の辺りを腹ばいして、哭いて激しく涕を流した。その涕が落ちて神と成る。これが畝丘の樹下に居す神である。名を啼沢女命と言う。
遂に、帯びていた十握剣を抜き、軻遇突智を三段に斬った。それぞれ化してその各部分が神と成った。また剣の刃から滴る血は、天安河辺にある五百箇磐石と成った。これが経津主神の祖である。また、剣の鐔から滴る血がほとばしって神と成った。名付けて甕速日神と言う。次に熯速日神。その甕速日神は武甕槌神の祖である。(または、甕速日命、次に熯速日命、次に武甕槌神と言う。)また、剣の先から滴る血がほとばしって神と成った。名付けて磐裂神と言う。次に根裂神。次に磐筒男命。(一説には磐筒男命と磐筒女命と言う。)また、剣の柄から滴る血がほとばしって神と成った。名付けて闇龗と言う。次ぎに闇山祇。次に闇罔象。
こうした後に、伊奘諾尊は伊奘冉尊を追って黄泉に入り及びいたって共に語った。その時、伊奘冉尊は「私の愛しい夫よ、どうして来るのがこんなに遅かったのですか。私は黄泉で煮炊きした物をすでに食べてしまったのです。でも、私はこれから寝ようと思います。お願いですから、けっして私をご覧にならないでください。」と言った。伊奘諾尊はそれを聴かず、こっそり湯津爪櫛を取り、櫛の端の雄柱を引き折り松明として見ると、膿がわき、蛆虫がたかっていた。今、世の人が夜に一つ火を灯すことを忌み、また夜に投げ櫛をすることを忌むのは、これが由縁である。
その時、伊奘諾尊はおおいに驚き、「私は、思いもよらず何と嫌な汚穢い国に来てしまったことだ。」と言い、すぐに急いで走り帰った。その時、伊奘冉尊は恨んで「どうして約束を守らず私に恥をかかせたのか。」と言い、泉津醜女(一説では泉津日狭女と言う)八人を遣わし、追い留めようとした。ゆえに、伊奘諾尊は剣を抜き、後ろ手に振りながら逃げた。さらに、黒い蔓草の頭飾りを投げた。これがたちまち葡萄と成った。醜女はこれを見て採って食べた。食べ終えると、更に追った。伊奘諾尊はまた湯津爪櫛を投げた。たちまち竹の子に成った。醜女はまたも、これを抜いて食べた。食べ終えるやまた追ってきた。最後には、伊奘冉尊もまた自ら来て追ってきた。この時には、伊奘諾尊はすでに泉津平坂に至っていた。(一説では、伊奘諾尊が大樹に向かって小便をした。するとこれがすぐに大河と成った。泉津日狭女がその川を渡ろうとしている間に、伊奘諾尊はすでに泉津平坂に至った、という。)そこで、伊奘諾尊は千人力でやっと引けるくらいの大きな磐でその坂路を塞ぎ、伊奘冉尊と向き合って立ち、遂に離縁を誓う言葉を言い渡した。
その時、伊奘冉尊は「愛しい我が夫よ、そのように言うなら、私はあなたが治める国の民を、一日に千人縊り殺しましょう。」と言った。伊奘諾尊は、これに答えて「愛しい我が妻よ、そのように言うならば、私は一日に千五百人生むとしよう。」と言った。そこで「これよりは出て来るな。」と言って、さっと杖を投げた。これを岐神と言う。また帯を投げた。これを長道磐神と言う。また、衣を投げた。これを煩神と言う。また、褌を投げた。これを開齧神と言う。また、履を投げた。これを道敷神と言う。その泉津平坂、あるいは、いわゆる泉津平坂はまた別に場所があるのではなく、ただ死に臨んで息の絶える間際、これではないか、とも言う。
伊奘諾尊は黄泉から辛うじて逃げ帰り、そこで後悔して「私は今しがた何とも嫌な見る目もひどい穢らわしい所に行ってしまっていたものだ。だから我が身についた穢れを洗い去ろう。」と言い、そこで筑紫の日向の小戸の橘の檍原に至り、禊祓をした(身の穢れを祓い除いた)。
こういう次第で、身の穢れをすすごうとして、否定的な言いたてをきっぱりとして「上の瀬は流れが速すぎる。下の瀬はゆるやかすぎる。」と言い、そこで中の瀬で濯いだ。これによって神を生んだ。名を八十枉津日神と言う。次にその神の枉っているのを直そうとして神を生んだ。名を神直日神と言う。次に大直日神。
また海の底に沈んで濯いだ。これによって神を生んだ。名を底津少童命と言う。次に底筒男命。また潮の中に潜ってすすいだ。これに因って神を生んだ。名を中津少童命と言う。次に中筒男命。また潮の上に浮いて濯いだ。これに因って神を生んだ。名を表津少童命と言う。次に表筒男命。これらを合わせて九柱の神である。その中の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、これが住吉大神である。底津少童命、中津少童命、表津少童命は、安曇連らが祭る神である。
そうして後に左の眼を洗った。これによって神を生んだ。名を天照大神と言う。また右の眼を洗った。これに因って神を生んだ。名を月読尊と言う。また鼻を洗った。これに因って神を生んだ。名を素戔嗚尊と言う。合わせて三柱の神である。
こういう次第で、伊奘諾尊は三柱の御子に命じて「天照大神は、高天原を治めよ。月読尊は、青海原の潮が幾重にも重なっているところを治めなさい。素戔嗚尊は天下を治めなさい。」と言った。
この時、素戔嗚尊はすでに年が長じていて、また握りこぶし八つもの長さもある鬚が生えていた。ところが、天下を治めようとせず、常に大声をあげて哭き怒り恨んでいた。そこで伊奘諾尊が「お前はどうしていつもそのように哭いているのだ。」と問うと、素戔嗚尊は「私は根国で母に従いたいのです。だから、哭いているだけなのです。」と答えた。伊奘諾尊は不快に思って「気のむくままに行ってしまえ。」と言って、そのまま追放した。
〔一書7〕激烈なシーンで化成する激烈な神
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊は剣を抜き軻遇突智を斬り、三つに刻んだ。そのうちの一つは雷神となった。もう一つは大山祇神と成り、一つは高龗と成った。
また別の言い伝えではこう伝えている。軻遇突智を斬った時に、その血がほとばしり、天八十河中にあった五百箇磐石を染めた。それによって神が化成した。名付けて磐裂神と言う。次に根裂神、次に磐筒男神、次に磐筒女神、そして経津主神。
倉稲魂、これを「うかのみたま」と読む。少童、これを「わたつみ」と読む。頭辺、これを「まくらへ」と読む。脚辺、これを「あとへ」と読む。熯は火のことである。音は「じぜん」の反。龗これを「おかみ」と読む。音は「りょくてい」の反。吾夫君、これを「あがなせ」と言う。泉之竈、これを「よもつへぐい」と読む。秉炬、これを「たひ」と読む。不須也凶目汚穢、これを「いなしこめききたなき」と読む。醜女、これを「しこめ」と読む。背揮、これを「しりへでにふく」と読む。泉津平坂、これを「よもつひらさか」と読む。尿、これを「ゆまり」と読む。音は「だいちょう」の反。絶妻之誓、これを「ことど」と読む。岐神、これを「ふなとのかみ」と読む。檍、これを「あはき」と読む。
〔一書8〕
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊は軻遇突智命を斬り、五つにばらした。これがそれぞれ五つの山祇に化成した。一つは首で大山祇と成った。二つは身体で中山祇と成った。三つは手で麓山祇と成った。四つは腰で正勝山祇と成った。五つは足で䨄山祇と成った。
この時、斬った血がほとばしり流れ、石や礫、樹や草を染めた。これが草木や砂礫がそれ自体に火を含み燃えるようになった由縁である。
麓は、山のふもとのことを言う。これを「はやま」と読む。正勝、これを「まさか」と読む。ある書では「まさかつ」とも読まれる。䨄これを「しぎ」と読む。音は烏含の反。
〔一書9〕一方的な絶縁スタイル
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊は妻に会いたくなり、殯斂のところへ行った。すると伊奘冉尊は、まだ生きているかのように、伊奘諾尊を出迎え共に語った。そして伊奘諾尊に、「私の愛しい夫よ、どうかお願いです、私を決して見ないで下さい。」と言った。そう言い終わると忽然と姿が見えなくなった。このとき暗闇となっていた。伊奘諾尊は一つ火を灯してこれを見た。すると、伊奘冉尊の身は膨れあがっていて、その上に八色の雷がいた。
伊奘諾尊は驚き逃げ帰った。その時、雷達が皆起きあがり追いかけてきた。すると、道端に大きな桃の樹があった。伊奘諾尊はその樹の下に隠れ、その実を採って雷に投げると、雷達はみな退き逃げていった。これが、桃で鬼を追い払う由縁である。そして、伊奘諾尊は桃の木の杖を投げつけ、「これよりこちら側には、雷は決して来るまい。」と言った。この杖を岐神と言う。元の名は来名戸之祖神と言う。
いわゆる八色の雷とは、首にいたのは大雷といい、胸にいたのは火雷といい、腹にいたのは土雷といい、背にいたのは稚雷といい、尻にいたのは黒雷といい、手にいたのは山雷といい、足の上にいたのは野雷といい、陰の上にいたのは裂雷という。
〔一書10〕黄泉との完全なる断絶
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊は後を追って、伊奘冉尊のいる所に至った。
そして語って、「お前を失った事が切なく悲しくてやって来たのだ。」と言った。伊奘冉尊は、「親族のあなたよ、どうか私を見ないで下さい。」と答えた。伊奘諾尊はそれには従わず伊奘冉尊を猶も見た。それ故、伊奘冉尊は恥じ恨んで、「あなたは私の様子を見てしまった。私もあなたの様子を見る。」と言った。このとき伊奘諾尊も自らを恥じた。
そこで、そこを出て帰ろうとした。この時、ただ黙って帰らず、盟って「必ず離縁しよう」と言った。そしてまた「親族のお前には負けない。」と言った。そこで誓いを固めるために唾を吐いた。その唾から生まれた神を、名付けて速玉之男と言う。次に、次に、これまでの事柄を一掃したことから生まれた神を、泉津事解之男という。合わせて二柱の神である。
その妻と泉平坂で相戦う時になって、伊奘諾尊は、「始め、私が親族のお前のために悲しみ、また慕ったのは、私が弱かったからだ。」と言った。すると、泉守道者が、「伊奘冉尊のお言葉があります。『私はすでにあなたと国を生みました。どうしてさらに生きる事を望みましょうか。私はこの国に留まります。あなたと一緒にこの国を去ることはしません。』と仰いました。」と言った。この時、菊理媛神からも言葉があった。伊奘諾尊はそれを聞いて褒めた。そして、去って行った。
しかし、伊奘諾尊は自ら泉国を見た。これは全く良くないことだった。この穢れを濯ぎ払おうと思い、すぐに粟門や速吸名門を見に行った。しかしこの二つの海峡は潮の流れが非常に速かった。それ故、橘小門に帰り、穢れを濯ぎ払った。
その時に、水に入って磐土命を吹き生んだ。水から出て、大直日神を吹き生んだ。また入って、底土命を吹き生んだ。水を出て、大綾津日神を吹き生んだ。また入って、赤土命を吹き生んだ。そして水から出て、大地・海原の諸々の神々を吹き生んだ。
不負於族、これを「うがらまけじ」と読む。
〔一書11〕天照大神の天上統治と農業開始
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊は、三柱の子それぞれに「天照大神は、高天原を治めよ。月夜見尊は、日と並んで天を治めよ。素戔嗚尊は、海原を治めよ。」と勅任した。
こうしてすでに天照大神は天上にあり、月夜見尊に対して「葦原中国に保食神がいると聞く。月夜見尊よ、そこに行き様子をうかがってきなさい。」と言った。
月夜見尊がその勅命を受けて降り、保食神のもとに到ると、保食神はさっそく首を巡めぐらし、国に向かえば口から飯を出し、また海に向かえば大小さまざまな魚を口から出し、また山に向かえば大小さまざま獣を口から出した。それらのありとあらゆる品物を備え、数え切れないほどたくさんの机に積み上げて饗応した。この時、月夜見尊は怒りをあらわにして、「なんと汚らわしい、卑しい。口から吐いた物なんかを、敢えて私に喰わせてよいはずはないだろう。」と言い、剣を抜いて打ち殺した。
そうして後に復命して詳しくこの事を報告した。この時、天照大神は激怒し、「汝は悪い神だ。もう顔など見たくもない。」と言った。こうして、天照大神は月夜見尊と、日と夜と時を隔てて住んだ。
この後に、天照大神は天熊人を遣わし、往って様子を看させた。この時、保食神は実際すでに死んでいた。ただ、その神の頭頂部は化して牛馬と成り、額の上に粟が、眉の上に蚕が、眼の中に稗が、腹の中に稲が、陰には麦と大豆、小豆が生じていた。天熊人はそれを全て取って持ち去り、天照大神に奉った。
時に天照大神は喜び、「この物は、この世に生を営む人民が食べて活きるべきものである。」と言って、粟・稗・麦・豆を陸田(畑)の種とし、稲を水田の種とした。またこれにより天邑君(村長)を定めた。そこでさっそくその稲の種を、天狭田と長田に始めて植えた。その秋には、垂れた稲穂が握り拳八つほどの長さにたわむほどの豊作であり、たいへん快よい。また、口の中に蚕を含み、糸を抽き出すことができた。これをとり始めて養蚕の道が拓けたのである。
保食神、ここでは「うけもちのかみ」と言う。顕見蒼生、ここでは「うつしきあをひとくさ」と言う。
『日本書紀』巻第一(神代上)第六段
〔本伝〕
そこで(根国への追放処分を受け)、素戔嗚尊は伊奘諾尊に請い、「私はいま勅命を奉じて根国に行こうとしています。ですから、しばらく高天原に出向き、姉(天照大神)とお会いしてその後、永久にこの世界から退去することにしたいと思います。」と言った。伊奘諾尊はこの請願を勅許した。そこで、素戔嗚尊は天に昇り、天照大神のもとに詣でたのである。
この後、伊奘諾尊は、はかり知れない仕事をすでにやり遂げ、霊妙な命運が遷るべきであった。それで終の住み処となる幽宮を淡路の洲に構え、ひっそりと身をとこしえに隠したのである。またこうした伝えもある。伊奘諾尊は、その仕事がすでに行き届き、德も偉大であった。そこで天に登り、天神に報告した。これにより、日の少宮に留まり宅むのである。少宮、ここでは「倭柯美野」と云う。
はじめ素戔嗚尊が天に昇った時、大海がそれで激しく波打って揺れ動き、山岳はそのため鳴りとどろいた。これは、神の本性の雄々しく猛々しいことがそうさせているのである。天照大神は、もとよりその神の暴悪を知っていた。素戔嗚尊の天に昇って来るさまを聞くに及んで顔色をにわかに変えて驚き、「私の弟の来るのは、よもや善意ではあるまい。思うに、きっと国を奪う意志があるはずではないか。そもそも父母がすでにどの子をも任じ、だからそれぞれが統治する境界をもっている。それなのにどうして赴くべき国を棄て置き、ことさら此処(高天原)を奪い取ろうなどとするのか。」と言った。そこで防禦すべく、髪を結って髻(男の髪型)とし、裳(女の上下組み合わせた衣と裳、裳は腰から下をおおう衣服)を縛って袴とした上で、八坂瓊の五百箇御統(大きな玉をいくつも紐で通してつなげた玉飾り)で、(御統 ここでは「美須磨屢」と云う)その髻・鬘(髪飾り)および腕に巻き付け、また背には千箭(数多くの矢)(千箭 ここでは「知能梨」と云う)の靫(矢を入れる武具)と五百箭の靫を負い、臂に稜威(相手を恐れさせる強盛な威力)(稜威 ここでは「伊都」と云う。)の髙鞆(弓を射るさい弦の当たるのを防ぐ一方、当たって高い音を出すために左手首の内側に巻き付ける武具)を著け、弓彇(弦をかける弓の両端部。上端を末弭、下端を本弭という)を振りたて、剣の柄を力強く握りしめて、堅い大地を踏んで股までのめり込ませ、そのまま淡雪のように蹴散らかし、(蹴散 ここでは「倶穢簸邏邏箇須」と云う)稜威の雄詰(相手を威圧する雄壮な声)(雄詰 ここでは「烏多稽眉」と云う)を奮わせ、稜威の嘖譲(責め叱りたてる言葉)を発して、面と向かい問い詰めた。
素戔嗚尊は、これに対して「私には、もともと邪悪な心(具体的には高天原の乗っ取り)はない。ただ、すでに父母の厳しい勅命があり、永久に根国に行こうとしているのです。それでもし姉にお会いしなければ、私はどうしてあえて去くことができるでしょう。それですから雲や霧のなかを跋渉し、遠路はるばる参り来たのです。姉上が喜ぶどころか、厳しいお怒りの顔をなさるとは思いもしませんでした。」と答えた。その時、天照大神がまた「もしそうだとしたら、何をもって爾の赤き心(潔白)を証明しようとするのか。」と問うと、これには「姉と共に誓(事前に決めておいた通りの結果になるか否かをもって、神意を判定する占い)することをお願いします。この誓約の中では、(誓約之中 ここでは「宇気譬能美難箇」と云う)必ずや子を生むでしょう。もし私の生むのが女であれば、濁きこころがあるとしてください。もし男であれば、清き心があるとしてください。」と答えた。
そこで、天照大神が素戔嗚尊の十握剣(握は拳一つの幅。大剣)を索め取り、これを三段に打ち折り、天の真名井(神聖な井)に濯いで、噛みに噛んで(○然咀嚼 ここでは「佐我弥爾加武」と云う)砕き、吹き棄てた息吹によってできた細かな霧に(吹棄気噴之狭霧 ここでは「浮枳于都屢伊浮歧能佐擬理」と云う)生まれた神が、名を田心姫と言う。次に湍津姫、次に市杵嶋姫。合わせて三女である。今度は、素戔嗚尊が天照大神の髻・鬘および腕に纏いている八坂瓊の五百箇御統を乞い取り、これを天の真名井に濯いで、噛みに噛んで砕き、吹き棄てた息吹の細かな霧に生まれたのが、名を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊と言う。次に天穂日命、是は出雲臣・土師連等の祖である。次に天津彦根命。是は凡川内直・山代直等の祖である。次に活津彦根命。次に熊野櫲樟日命。合わせて五男である。
この時、天照大神は勅して「その物実(子としてうまれるそのもとの根源)を原ねると、八坂瓊の五百箇御統は、間違いなく私の物である。だから、そちらの五男神はすべて私の子である。」と言い、そうして引き取って子として養育した。また勅して「その十握剣は、まぎれもなく素戔嗚尊の物である。だから、こちらの三女神はすべて爾の児である。」と言い、素戔嗚尊に授けた。三女神は、筑紫の胸肩君等の祭る神がこれである。
〔一書1〕
ある書はこう伝えている。日神は、もともと素戔嗚尊に勇猛で物を突き抜けてその上に出るような意のあることを知っていた。その天に昇り至るに及んで、思うようは、「弟の来たわけは、決して善意ではあるまい。必ずやわたしの天の原を奪うに違いない。」と。そこで大夫の武の装備をととのえ、身には十握剣・九握剣・八握剣を帯び、背に靫を負い、また臂には稜威の髙鞆を著け、手に弓と箭をつかみ、みずから迎え防禦した。この時素戔嗚尊が日神に告げて「私はもともと悪い心(国を奪い取る反逆心)などありません。ただ姉とお会いしたいと思い、ただそれだけで少しの間来たに過ぎないのです。」と言った。そこで日神は、素戔嗚尊と共に向き合って誓を立て「もし爾の心が明浄で、国を力づくで奪い取る意志がないのならば、汝の生む児は、必ず男のはずだ。」と言い、そう言い終わると、先に身に帯びている十握剣を食べて児を生んだ。名を瀛津島姫と言う。また九握剣を食べて児を生んだ。名を湍津姫と言う。また八握剣を食べて児を生んだ。名を田心姫という。合わせて三女神である。
そうしたあと今度は素戔嗚尊がその頸にかけている五百箇御統の瓊(数多くの玉を数珠つなぎした美玉)を天渟名井、またの名は去来の真名井に濯いで食べ、そうして子を生んだ。名を正哉吾勝勝速日天忍骨尊と言う。次に天津彦根命。次に活津彦根命。次に天穂日命。次に熊野忍蹈命。合わせて五男神である。
それゆえ、素戔嗚尊はすでに勝の験(証拠)を得た。そこで、日神は、素戔嗚尊にもともと悪意がなかったことをまさに知り、そこで日神の生んだ三女神を筑紫の洲に降した。これにより、三女神に教えて「汝三神は、道中(〔一書 第三〕に「海の北の道中」という海路をいう。この玄界灘の沖ノ島に沖津宮、大島に中津宮、宗像に返津宮がある)に降り居て、天孫(後に降臨する火瓊瓊杵尊)を助け奉り、天孫に祭られなさい。」と言った。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。素戔嗚尊が天に昇ろうとする時に、名を羽明玉という神が迎え奉り、めでたいしるしの八坂瓊曲玉(大きな美しい珠の湾曲した玉)を進呈した。それで、素戔嗚尊はその瓊玉を持って天上に到ったのである。
この時、天照大神は、弟に悪い心(国を奪い取る邪悪な心)があることを疑い、軍兵を動員して問い詰めた。素戔嗚尊はこれに対して「私の来た理由は、実際に姉とお会いしたいと思ったからです。また珍宝の瑞八坂瓊曲玉を献上しようとしただけです。それ以外にことさら意図などありません。」と答えた。この時また天照大神が「汝のその言葉が嘘か実か、何を験(証拠)とするのか。」と問うと、答えて「私が姉と共に誓約を立てることを要請します。この誓約の間に、女を生めば黒心(国を奪い取る謀反の心)であり、逆に男を生んだら赤心(潔白な心)です。」と答えた。そこで天真名井を三処掘り、ともに向き合って立った。
この時、天照大神が素戔嗚尊に向かって「私の帯びる剣を、今汝に奉ろう。汝の持っている八坂瓊曲玉を私に授ければよい。」と言った。このように約束し、共に所持品を交換して取った。そうしたあと天照大神は八坂瓊曲玉を天真名井に浮かべ寄せて、瓊の端を噛んで断ち切り、口から吹き出した気息の中に神を化生した。名を市杵嶋姫命という。これが大海の遠い沖(沖津宮)に居る神である。また瓊の中ほどをかんで断ち切り、口から吹き出した
気息の中に神を化生した。名を田心姫命という。これが中ほどの沖あい(中津宮)に居る神である。また瓊の尾(尻に当たる部分)をかんで断ち切り、口ちから吹き出した気息の中に神を化生した。名を湍津姫命という。これが浜辺(辺津宮)に居る神である。合わせて三女神である。
そこで今度は素戔嗚尊が持っている剣を天(あまの)真(ま)名井(ない)に浮かべ寄せて、剣の末(すえ)(切っ先)をかんで断ち切り、口ちから吹き出した気息の中に神を化生した。名を天穂日命という。次に正哉吾勝勝速日天忍骨尊。次に天津彦根命。次に活津彦根命。次に熊野櫲樟日命。合わせて五男神であると、爾云う(「爾」が以上の記述全体を指す。「一書曰」に対応する締め括り辞)。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。日神は素戔嗚尊と天安河を隔てて向き合い、そこで誓約を立て「汝にもし姧賊之心(国を奪い取る邪悪な心)がないのであれば、汝の生む子は必ず男である。もし男を生めば、私は子として天原を治めさせる。」と明言した。さてそこで、日神が先にその帯びている十握剣を食べて児の瀛津嶋姫命を化生した。亦の名を市杵嶋姫命という。また九握剣を食べて児の湍津姫命を化生した。また八握剣を食べて児の田霧姫命を化生した。
そうして今度は素戔嗚尊がその左手の髻に纏きつけている五百箇統の瓊を口に含み、吐き出して左手の掌中に著けて男を化生した。そこでこれを称えて「なんとまさしくも、私が勝ったのだ。」と言った。だから、それによって名付け、勝速日天忍穂耳尊と言う。また右の髻の瓊を口に含み、吐き出して右手の掌中に著け、天穂日命を化生した。また頸にかけている瓊を口に含み、吐き出して左臂の中に著け、天津彦根命を化生した。また右臂の中から活津彦根命を化生した。また左足の中より熯之速日命を化生した。また右足の中から熊野忍蹈命を化生した。亦の名を、熊野忍隅命という。その素戔嗚尊の生んだ児は、皆まさに男である。
それゆえに、日神はまさに素戔嗚尊にもともと赤心(潔白な心)があったことを知った。そこでその六男を引き取って日神の子とし、天原を治めさせた。同時に、日神の生んだ三女神は、葦原中国の宇佐嶋に降して居らせた。今、海の北の道中に在って、名を道主貴と言う。これは、筑紫の水沼君等の祭る神がこれである。「熯」は、「干」である。ここでは「備」と云う。
『日本書紀』巻第一(神代上)第七段
〔本伝〕
この後には、素戔嗚尊の行うことが、甚だ常軌を逸脱したものであった。何かといえば、天照大神は天狭田・長田を御田としていたが、その時、素戔嗚尊が春にはその御田のすでに種子を播いた上にさらに種子を播き、「重播種子」は、ここでは「璽枳磨枳」と云う。しかもまたその畔を壊しなどする。秋には、天斑駒を放ち、稲の実る田の中に伏せさせ、また天照大神が新嘗(新穀を神に供えかつ食する祭祀)をする時を見計らっては、新造した宮(新嘗を行う殿舎)にこっそり糞を放ちかける。また天照大神がまさに神衣を織って斎服殿(機を織る神聖な殿舎)に居るのを看ると、天斑駒の皮を剥ぎ、その殿の甍を穿って投げ込んだ。この時、天照大神は驚愕して、織り機の梭で身を傷つけてしまった。これによって激怒し、そこで天石窟に入り、磐戸を閉じて籠もってしまった。それゆえ、この世界中が常闇(はてしなく続く闇)となり、昼と夜の交代も分からなくなってしまった。
この時、八十万神が天安河辺に会合して、その祈るべき方法を計画した。それゆえ、思兼神は深謀遠慮をめぐらせ、遂に常世(神仙境)の長鳴鳥(鳴き声を長くのばして暁を告げる鶏)を集めて互いに長鳴きさせ、また手力雄神を磐戸の側に立たせた。そうして中臣連の遠祖天児屋命と忌部の遠祖太玉命が、天香山の五百箇真坂樹(神域を画するりっぱな境木)を根こそぎ掘り出し、上の枝には八坂瓊の五百箇御統をかけ、中の枝には八咫鏡(咫は開いた手の親指と中指の間の長さ)をかけ、あるいは「真経津鏡」と云う。下の枝には青和幣、「和幣」は「尼枳底」と云う。白和幣をかけ、一緒にその祈祷に尽くした。また猨女君の遠祖天鈿女命は、手に茅を纏いた矟を持ち、天石窟戸の前に立って巧みに俳優(独特の所作を伴う舞踊。演者を倡優という)をした。また天香山の真坂樹を鬘(髪飾り)にし、蘿(蘿蔓で、常緑のシダ類)「蘿」は、ここでは「比舸礙」と云う。を手繦にして、「手繦」は、ここでは「多須枳」と云う。かがり火を焚き、覆槽(逆さに伏せた桶)を伏せ置き、「覆槽」は、ここでは「于該」と云う。顕神明之憑談(神の憑依による神託を顕現すること)した。「顕神明之憑談」は、ここでは「歌牟鵝可梨」と云う。
この時、天照大神はこれを聞いて「私がこのごろ石窟を閉じて籠もっている以上、豊葦原中国は必ず長く続く夜であるのに、どうして天鈿女命はこのように大笑いして楽しんでいるのだろうか。」と言い、そこで御手で磐戸を少しだけ開いて窺った
その時とばかり、手力雄神が天照大神の手を承け奉り、引いて石窟からお出し申し上げた。そこで、中臣神と忌部神がただちに端出之縄(しめなわ。通常とは逆に左捻りにわらの端を出したまま綯う)を石窟の入り口に引き渡して境とし、「縄」また「左縄端出」と云う。ここでは「斯梨倶梅儺波」と云う。そこで「二度とお戻りなさってはいけません。」と請い申しあげた
その後諸神は罪過を素戔嗚尊に帰して、千座置戸(物を置く数多くの場所。そこに置く莫大な賠償品)を科し、遂に督促して徴収した。これに応じないため、髪を抜いてその罪を購わせるに至った。また別に、その手足の爪を抜いて購ったと言う。こうしたあと、遂に放逐して降したのである。
〔一書1〕
ある書はこう伝えている。誓約の後に、稚日女尊が齊服殿に坐して神の御服を織っていた。素戔嗚尊はこれを見ると、生きたまま班駒を逆剥ぎ(尻のほうから皮を剥ぐこと)に剥いで、その殿内に投げ入れた。稚日女尊は、これに驚いて機から墜ち、持っていた梭で体を傷つけて死去した。それゆえ、天照大神は素戔嗚尊に対して「汝はやはり黒心がある。汝と会おうとは思わない。」と言い、そこで天石窟に入り、磐戸を固く閉じてしまった。ここにおいて天下は常に闇となり、昼と夜の交替も無くなってしまった。
それゆえ、八十万神を天高市(交易する市のように神の集う小高い場所)に会し(主語を明示しない)、善後策を問うた。この時、高皇産霊尊の子息の思兼神という者がいた。思慮の智があったので、思いをめぐらして「あの神の象をかたち造って、招き禱り奉るのがよい。」と申しあげたのである。それゆえさっそく石凝姥を鍛冶工とし天香山の金を採って日矛を作った。また真名鹿(愛子の愛で、愛らしい鹿)の皮を丸剥ぎにして天羽鞴(火を起こすさい風を送る道具、ふいご)を作った。これらを用いて天照大神の像を造り奉った神が、紀伊国に鎮座する日前神である。「石凝姥」は、ここでは「伊之居梨度咩」と云う。「全剥」、ここでは「宇都播伎」と云う。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。日神尊が天垣田を御田としていた。この時、素戔嗚尊は、春にはその田の渠を埋め、畦を壊し、また秋の穀物がすでに成熟すれば、横取りあるいは収穫を妨害するため勝手に絡縄(丈夫な縄)をその田に引き渡した。また日神が織殿に居た時には、班駒を生きたまま皮を剥いでその殿内に投げ込んだ。おしなべてこの諸事は、ことごとくが暴虐であった。そうではあっても、日神は、情け深い親愛の意があり、怒らず恨まずに、すべて穏やかな心で容認した。
それでも、日神が新嘗に当たっている(新穀を神に供え、神と共食する神聖な行事のさなか)時に及ぶと、素戔嗚尊はそれを見計らってその新嘗を行う新宮の日神の御席の下にひそかに糞をした。日神は、なにも知らないまま、じかにその席の上に坐った。これにより、日神は全身が病んでしまった。それゆえ、たいそう怒り恨み、ただちに天石窟に籠もってその磐戸を閉じた。
この時、諸神は憂慮し、そこで鏡作部の遠祖である天糠戸には鏡を造らせ、忌部の遠祖である太玉には幣を造らせ、玉作部の遠祖である豊玉には玉を造らせた。また山雷(山の神)には五百箇真坂樹の八十玉籤(神にささげる祭具、玉串)を採らせ、野槌(野の神霊)には五百箇野薦の八十玉籤を採らせた。おしなべてこの諸諸の物が皆来て集まった。その時に中臣の遠祖である天児屋命が日神の祝い言を言葉の限り称えあげた。ここにおいて、日神はまさに磐戸を開いて出た。この時に鏡をその石窟に入れたので、戸に触れて鏡に小さな瑕ができてしまった。その瑕は、今もなお残っている。これがつまり、伊勢のあがめ敬う神秘な大神である。
そうしたあと、罪を素戔嗚尊に科して、その罪を祓うためのものを出させた。こうして手端の吉棄物(祓えの具として切った手の爪)、足端の凶棄物(祓えの具として切った足の爪)があり、また唾を白和幣(唾液の供え物)とし、洟を青和幣(鼻水の供え物)とし、これらを用いて解除(罪穢れを除去する祓え)をやり終え、遂に神逐(神の追放)の理によって追放した。「送糞」は、ここでは「俱蘇摩屢」と云う。「玉籤」は、ここでは「多摩俱之」と云う。「祓具」は、ここでは「波羅閉都母能」と云う。「手端吉棄」はここでは「多那須衛能余之岐羅毘」と云う。「神祝祝之」は、ここでは「加武保佐枳保佐枳枳」と云う。「逐之」は、ここでは「波羅賦」と云う。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。この後に([一書 第一]と同じ書き出しのかたちをとるが、誓約の後ではなく、先行する内容は不明)、日神の田は三カ所あった。名を天安田・天平田・天邑并田という。これは皆良田であった。長雨や干魃に見舞われても、損なわれたり壊れたりなどしない。一方、その弟の素戔嗚尊の田も、また三カ所あった。名を天樴田・天川依田・天口鋭田 という。これは、どこも土地がやせて狭小であり、石も多い。雨が降れば流れ、また旱であれば焦けてしまう。それゆえ、素戔嗚尊は姉の田を妬んで害を加えた。春には、田の用水路をだめにし、溝を埋め、畔を壊し、またすでに種子を播いた上に重ね播きする。秋には、収穫前の田に串を刺して自分のものとしたり、馬を入れて腹這いにさせたりする。すべてこの悪事の止む時がまったく無かった。それにもかかわらず、日神は怒らず、いつも穏やかで思いやりの心で容認していた。云云。(省略を表す語。その省略は、日神の天石窟閉居を導く素戔嗚尊の悪辣な行為を主な内容とする先行[一書 第二]を前提とする)。
日神が天石窟にとじ籠もるに及んで、諸神は中臣連の遠祖である興台産霊の児の天児屋命を遣わして祈らせた。そこで天児屋命は、天香山の真坂木を根ごと掘り出し、その上の枝には、鏡作の遠祖である天抜戸の児の石凝戸辺が作った八咫鏡を掛け、中の枝には、玉作の遠祖である伊奘諾尊の児の天明玉が作った八坂瓊の曲玉を掛け、下の枝には、粟国の忌部の遠祖である天日鷲が作った木綿(木の繊維を糸状にした祭器。榊に掛け、襷にして神事に使う)を掛け、そうして忌部の首の遠祖である太玉命にこの真坂木を手に取り持たせ、壮大・重厚に賛美するたたえごとを祈り申し上げた。時に、日神はこれを聞いて「このごろ人が何度も石窟から出るように誓願するが、いまだこんなにも麗美しい言葉はない。」と言い、そこで磐戸を細めに開けて外を窺った。この時、天手力雄が磐戸の側にひかえていたので、ただちに磐戸を引き開けると、日神の光が世界の隅々まで満ちた。
それゆえ、諸神は大いに喜び、さっそく素戔嗚尊に千座置戸の解除(罪穢れを祓うためのもの、祓えの具)を科し、手の爪を吉爪棄物とし、足の爪を凶爪棄物とした。そこで、天児屋命にその解除のこの上なく荘重・厳粛な祝詞を掌り、唱えさせた。世人が自分の爪を慎重に収めるのは、これがその縁(ことの起こり)なのである。
そうしたあと、諸神は素戔嗚尊を責めとがめて「汝が所行は甚だ常軌を逸している。だから天上に住んではならない。また葦原中国にも居てはならない。今すぐに底根之国に往くがよい。」と言い、そこで共に天上から逐い降り去かせた。
ちょうどこの時、霖雨が降っていた。素戔嗚尊は青草を結い束ねて笠や蓑とし、宿を多くの神に乞うた。神神は「汝は、みずからの所行が濁って悪辣だから追い払われ流されるのだ。それなのに、どうして宿を私に乞うのか。」と言い、結局みな同じように拒絶した。そこで、風雨は甚だしかったけれども、留まり休むことができずに、つらく苦しみながら降った。それ以来、世の人では、笠や蓑を着けたまま他人の家の屋内に入ることを諱むのである。また束ねた草を負って他人の家の内に入ることも諱む。これを犯す者があれば、必ず解除(祓えの具)を出して償わさせる。これは、太古から残されてきたきまり・制度である。
この後に、素戔嗚尊は「諸神が私を追放した。私は、今ここから永久に去ろうと思うけれども、どうして姉と会うことも無く、自分勝手にただちに去ることができようか。」と言い、また天地を揺るがして天に昇った。この時、天鈿女が見て、日神に報告した。日神は「私の弟が天に昇って来る理由は、決して好意ではない。必ず我が国を奪おうとしているのではないか。私は婦女だが、どうして避けようか。」と言い、みずから戦いの備えを身に装った。云云(省略を表す語。前出)。
そこで素戔嗚尊は誓をして「私がもし善くない心を懐いて再度ここに昇って来たのであれば、私がいま玉を噛んで生む児は、必ずや女であるはずです。そうだとしたら、この女の児を葦原中国に降すことができます。もし清い心があるのであれば、必ずや男を生むはずです。そうだとしたら、この男の児に天上を統治させることができます。また姉の生むのも(生む児の男女とその処遇との対応)、またこの誓いと同じです。」と言った。ここにおいて、日神が先に十握剣を噛み、云云。
素戔嗚尊は、そこで緒もくるくるとその左の髻に纏いている五百箇統の瓊の緒を解き、瓊の触れ合う音もさやかに天渟名井に濯ぎ浮かべ、その瓊の端を噛み、吐き出して左の掌に置いて児の正哉吾勝勝速日天忍穂根尊を生んだ。また右の瓊を噛み、吐き出して右の掌に置いて、児の天穂日命を生んだ。これが、出雲臣・武蔵国造・土師連等の遠祖である。次に天津彦根命。これが、茨城国造・額田部連等の遠祖である。次に活目津彦根命。次に熯速日命。次に熊野大角命。合わせて六男である。そこで素戔嗚尊は日神に「私の再び天上に昇って来た理由は、多くの神神が私を根国に追放処分したことです。今そこに退去しなければならず、もし姉とお会いしなければ、とうてい別離にたえられません。それゆえ、本当に清い心で再び昇って来ただけなのです。今はもうお目見えもすみました。多くの神神の意向に従い、これより永久に根国に赴くべきなのです。どうか姉上には天国(語構成上は天の国であり、高天原とみるのが通説だが、存疑。天上と葦原中国との対応上は、天地に通じる天と国との熟合の可能性もある)に照臨(四方を照らし、君臨すること)し、おのずから平安でおられるのがよろしい。私は、清い心で生んだ児らもまた姉上に奉ります。そうしたあと、再び、葦原中国に還り降った。「廃渠槽」は、ここでは「秘波鵝都」と云う。「捶籤」は、ここでは「久斯社志」と云う。「興台産霊」はここでは「許語等武須毘」と云う。「太諄辞」はここでは「布斗能理斗」と云う。「○轤然」はここでは「乎謀苦留留爾」と云う。「瑲瑲」は、ここでは「奴儺等母母由羅爾」と云う。
『日本書紀』巻第一(神代上)第八段
〔本伝〕
この時(諸神に追放されて高天原を降る時)、素戔嗚尊は天より降り、出雲国の簸の川の上に至った。その際、川の上に死を痛んで哭きさけぶような声がするのを聞いたので、その声を尋ね求めて往けば、老翁と老婆が中に少女を置いて撫でながら哭いていた。素戔嗚尊が「汝らは誰か、どうしてそんなありさまで哭いているのか。」と問うと、これに対して「私は国神で、名を脚摩乳と申します。私の妻は手摩乳と申します。この童女は私の児で、奇稲田姫と申します。哭く理由というのは、過去に私の児は八人の少女がいましたが、年ごとに一人ずつ八岐大蛇に呑み込まれてしまいました。今、この少女が大蛇に呑み込まれようとしています。なんとも脱がれる手立てがありません。それで(この少女の死を)悲しみいたんでいるのです。」と答えた。素戔嗚尊が勅して「もしそうだとするならば、汝は女を私に奉るか。」と言うと、「勅に従って奉ります。」と答えた。
それゆえ、素戔嗚尊はたちまち奇稲田姫を湯津爪櫛(神聖な爪を立てた形状の櫛(くし))に化身させて、御髻に挿した。そこで脚摩乳と手摩乳に八醞の酒(醸造を何度もくり返した強い酒)を造り、あわせて仮庪(桟敷)を八間(八つの仮の棚)作り、「仮庪」は、ここでは「佐受枳」と云う。そのおのおのに一つの酒桶を置いて酒をそれに盛らせ、大蛇の到来を待ったのである。
その時期に至ると、はたして大蛇が姿を現した。頭と尾は、それぞれ八岐に分かれ、眼は赤酸醤(ほうずき)のようであり、「赤酸醤」は、ここでは「阿箇箇鵝知」と云う。松や柏(栢。常緑高木)がその背に生えて、八つの丘、八つの谷の間に蛇体を這いわたらせていた。酒を得ると、八岐の頭をそれぞれ酒桶に突っ込んで飲み、酔って睡てしまった。この時を見はからって、素戔嗚尊は帯びていた十握剣を抜き、細かくその大蛇を斬り刻んだ。尾に至ったところで、その剣の刃が少し欠けた。それでその尾を切り裂いて見れば、中に一振りの剣があった。これが、いわゆる草薙剣である。「草薙剣」は、ここでは「俱裟那伎能都留伎」と云う。ある書には、「もとは名を天叢雲剣という。思うに、大蛇のいる上には、常に雲気がただよっている。それゆえに、そう名付けたのではないか。日本武皇子に至って、名を改めて草薙剣という」とつたえている。素戔嗚尊は「是は神剣である。私がどうしてあえて自分のものとして置こうか。」と言い、そこで天神に献上したのである。
その後、素戔嗚尊は奇稲田姫と結婚するのに最適な場所を求めて探し訪ね、その果てに遂に出雲の清地に到った。「清地」は、ここでは「素鵝」と云う。そこで「私の心は清清しい」と言い、この次第で、今この地を「清」と言う。その場所に宮を建てた。ある説には、時に武素戔嗚尊が「八雲たつ出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣ゑ」と歌ったと伝えている。そこで結婚して児の大己貴神を生んだ。これにより、勅して「私の児の宮を管理する首(司長)は、脚摩乳と手摩乳である。」と言い、それで、この二神に名号を賜り、稲田宮主神と言うのである。そうしたあと、素戔嗚尊は根国に行った。
〔一書1〕
ある書はこうつたえている。素戔嗚尊は天から降り、出雲の簸の川の上に到った。そうして稲田宮主簀狹之八箇耳の子女、稲田媛に会い、そこで奇御戸(隠処、寝所)に睦事を始めて児を生み、清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠と名付けた。一説に清之繫名坂軽彦八嶋手命と云う。また一説に、清湯山主三名狹漏彦八嶋野と云う。この神の五世の孫が大国主神である。「篠」は「小竹」である。ここでは「斯奴」と云う。
〔一書2〕
ある書はこうつたえている。この時、素戔嗚尊は天から下り、安芸国の可愛の川の上に到ったのである。そこに神がいた。名を脚摩手摩と言う。その妻は名を稲田宮主簀狹之八箇耳と言う。この神はまさに妊娠中であった。夫と妻は共に愁え、そこで素戔嗚尊に「私の生んだ児は多かったのですが、生むたびに、八岐大蛇が来て呑み込んでしまい、一人も生き残ることができていません。いま私は児を産もうとしていますが、おそらくはまた呑まれてしまいます。それで悲しみいたんでいるのです。」と告げた。
素戔嗚尊はそこで二神に教えて「汝は多くの木の実で酒を八甕醸造したらよい。私が汝のために蛇を殺してやる。」と言った。二神はこの教えどおり、酒を設けそなえた。いよいよ産む時に至ると、確かにあの大蛇が戸につき当たって児を呑みこもうとした。素戔嗚尊は蛇に勅して「汝は恐れ敬うべき神だ。是非とも酒を供えてもてなさなければならない。」と言い、そこで八つの甕の酒を、大蛇の八つの口ごとに注ぎ込んだ
するとその蛇は、酒に酔って睡てしまった。素戔嗚尊は剣を抜いて斬った。尾を斬る時に至ったところで、剣の刃が少し欠けた。尾を割いて見れば、中に剣があった。名を草薙剣と言う。これがいま尾張国の吾湯市村にある。熱田祝部の管掌する神がこれである。その蛇を断ちきった剣は、名を蛇之麁正と言う。これが、今は石上にある。
この後、稲田宮主簀狹之八箇耳の生んだ児、真髪触奇稲田媛を出雲の簸の川の上に遷し置き、養育して、成長させた。そうした後に素戔嗚尊が妃となして生んだ児の六世の孫が、名を大己貴命と言うのである。「大己貴」は、ここでは「於褒婀名娜武智」と云う。
〔一書3〕
ある書はこうつたえている。素戔嗚尊が奇稲田媛を娶ろうと思って乞うた。脚摩乳・手摩乳はこれに答えて「どうか先にあの蛇を殺して下さい。その後に娶るというのであれば宜しいでしょう。あの大蛇は、頭ごとにそれぞれ岩松があり、両脇に山があって、甚だ恐るべきです。なにで殺すのでしょうか。」と言った。
素戔嗚尊は、そこで計略をめぐらし、毒酒を醸造して大蛇に飲ませた。蛇は酔って睡ってしまった。素戔嗚尊は、そこで蛇韓鋤之剣で頭を斬り、腹を斬った。その尾を斬る時に、剣の刃が少し欠けた。それゆえ尾を裂いて見ると、別に一振りの剣があった。名を草薙剣とした。この剣は、昔は素戔嗚尊の許にあったが、今は尾張国にある。その素戔嗚尊が蛇を断ち斬った剣は、今は吉備の神部(神職)のもとにある。出雲の簸の川の上の山がこれである。
〔一書4〕
ある書はこうつたえている。素戔嗚尊の所業が暴虐極まりなかった。それゆえ、諸神は千座置戸(罪過を贖う莫大な賠償品)を素戔嗚尊に科して、遂に天上から追放した(第七段 [本伝]の抄録)。
この時、素戔嗚尊は子の五十猛神をひき連れて新羅国に降り到って、その曽尸茂梨という所に居住した。そこで声高に言葉を発して「この地は、私は居たいとは思わない。」と言い、遂に埴土で舟を作り、これに乗って海を東に渡り、出雲国の簸の川の上に所在する鳥上の峯に到った。まさにこの時、そこには人を呑み込む大蛇がいた。素戔嗚尊はそこで、天蠅斫之剣でその大蛇を斬った。その際、蛇の尾を斬ったところで、刃が欠けた。すぐに裂いてよく見ると、尾の中に一振りの神剣があった。素戔嗚尊は「これは、私が自分一人だけで使用してはならないものだ。」と言い、そこで、五世の孫に当たる天之葺根神を遣わして天に献上した。これが、今にいう草薙剣である。
当初、五十猛神が素戔嗚尊に伴って天降った時に、多く木の種を持って下った。しかし韓地(新羅)にはそれを一切植えることなく、全て東渡の際に持ち帰り、遂に筑紫から始め大八洲国の国内すべてのところに播き植え、ことごとく青山に成した。このはたらき、功績により、五十猛命を有功之神と称するのである。すなわち紀伊國に鎮座する大神(和歌山市伊太祈曾の伊太祁曾神社)がこれである。
〔一書5〕
ある書はこうつたえている。素戔嗚尊が「韓の郷(地方)に所在する嶋には金銀がある。もし私の児(第八段[本伝]に「生児大己貴神」と伝える)の支配する国に浮く宝(船)がなければ、それは良くない(金銀のある嶋に渡れない)と言い、そこで鬚・髯を抜いて播いた。すると、それがたちまち杉に成った。また胸の毛を抜いて播くと、これが檜に成った。尻の毛は柀に成り、眉の毛が櫲樟に成った。そうして、あとでその用途を定めた。そこで「杉および櫲樟は、二つの樹とも浮く宝(船)にすべきだ。檜は、瑞宮(宮殿)の用材とすべきだ。柀は、顕見蒼生(現にこの世に生きる民草。人民)の奧津棄戸(墓所)に臥す具(棺)とすべきだ。さて食用にすべき八十木種(数多くの果実の種)は、どれも播いて生かすことができた。」と称えた。
この時、素戔嗚尊の子(児とは違う)は名を五十猛命と言い、その妹は大屋津姫命であり、次が枛津姫命である。みなこの三柱の神も、木の種を広く播いた。そこで紀伊国に渡し奉ったのである。そうした後、素戔嗚尊は熊成峰に居住し、遂に根国に入ったのである。「棄戸」は、ここでは「須多杯」と云う。「柀」は、ここでは「磨紀」という。
〔一書6〕
ある書はこうつたえている。大国主神は、また大物主神と名付け、また国作大己貴命と号し、また葦原醜男と言い、また八千戈神と言い、また大国玉神と言い、また顕国玉神と言う。その子は、全部で百八十神いる。
そもそも大己貴命は、少彦名命と力を合わせ心を一つにして天下を経営した。また顕見蒼生および家畜のためには、その病を治療する方法を定め、また鳥獣や昆虫の災害(わざわい、害悪、変異現象)を払い除くためには、その災難やたぶらかしを押さえとどめる(呪禁)方法を定めた。これにより、人民は今に至るまでみなこの恩恵を蒙っている。
かつて大己貴命が少彦名命に向かって「われらの造った国は、どうして善くできたといえるだろうか。」と言った。少彦名命はこれに対して「あるいはできたところがある。またあるいはできていないところもある」と答えた。この両者の談は、思うに深遠な趣がある。その後、少彦名命は熊野の岬まで行き至ったところで、遂に常世郷に適ってしまった。またこれとは別に、淡嶋に至って、粟の茎をよじ登れば、弾かれて常世郷に渡り至ったという。
これより後に、国内のまだ造り終えていない所は、大己貴神が一人で巡り造りあげて、遂に出雲国に到った。そこで声高に言葉を発して「そもそも葦原中国は、もとは荒れて広々とした状態であり、岩石や草木に至るまでみな強暴であった。しかし私がすでにそれらを摧き伏せてしまい、すっかりおとなしく従順になっている。」と言い、遂には、それで「今この国を治めるのは、ただ私一人だけである。さて私と共に天下を治めることのできる者が、はたしているだろうか」と言った。
その時、神神しい光が海を照らし、忽然として浮かんで寄り来る者がいて、「もし私がいなかったらならば、汝はどうしてこの国を平定することができただろうか。私がいたことによって、それで汝はその国を平定するという大きな功績をうちたてることができたのだ。」と言った。この時に、大己貴神は「そうだとすれば、汝は誰なのか。」と問い、これに対して「私は、汝の幸魂(幸をもたらす魂)・奇魂(霊妙なはたらきの魂)である。」と答えた。大己貴神が「まさしくそうだ。なるほど汝は私の幸魂・奇魂であることが分かる。今どこに住みたいのか。」と言うと、これに応じ、「私は日本国の三諸山(奈良県桜井市の三輪山)に住みたいと思う。」と言った。それゆえ、さっそく宮殿をその地に造営し、そこに行き住まわせた。これが大三輪の神である。この神の子が、甘茂君等・大三輪君等であり、また姫蹈鞴五十鈴姫命である。
また次のように伝えている。事代主神が八尋熊鰐(「尋」は広げた両手の幅。巨大なさめ)に化(変身)し、三嶋溝樴姫に通じて、あるいは玉櫛姫と云う。児の姫蹈鞴五十鈴姫命を生んだ。これが神日本磐余彦火火出見天皇(神武天皇)の后である。
はじめ大己貴神が国を平定するに際して、行き巡り出雲国五十狹狹の小汀に到って飲食しようとした。この時、海上に忽然と人の声がした。そこで驚いて探し求めたけれども、全くなにも見当たらない。しばらくすると、一人の小男が白薟(カガイモまたヤブカラシ)の皮を舟として、鷦鷯(ミソサザイ)の羽を着衣とし、潮流に乗って浮かび到った。大己貴神はさっそく取り上げ掌中に置いてもてあそんでいると、飛び上がって頬を噛んだ。そこでその小男の形状を怪しんで、使いを遣わして天神に申しあげた。その時、高皇産霊尊はその報告を聞き、それで「私の産んだ児は全部で千五百座いる。その中の一児は最悪で、教え育てようにも従わない。私の指の間から漏れ墜ちたのが、きっとそのものだ。可愛がって養育すれば良い。」と云った。少彦名命がこれである。「顕」は、ここでは「于都斯」と云う。「蹈鞴」は、ここでは「多多羅」と云う。「幸魂」は、ここでは「佐枳弥多摩」と云う。「奇魂」は、ここでは「俱斯美侘磨」と云う。「鷦鷯」は、ここでは「裟裟岐」と云う。
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