多彩で豊かな日本神話の世界へようこそ!
正史『日本書紀』をもとに、
最新の文献学的学術成果も取り入れながら、どこよりも分かりやすい解説をお届けします。
今回は、
神武東征神話を分かりやすく解説するシリーズ6回目。
テーマは、
長兄「五瀬命」の死
孔舎衛坂での敗戦を受けて神策発動、紀伊半島を南下することになった神武一行。
ところが、神武の長兄「五瀬命」が、戦闘で受けた傷が悪化し、竈山に到ったところで儚くなられる。。。
なぜこのタイミングで長兄は死んだのか?そして「長兄の死」が東征に与えた影響は何か?
こうしたロマンを探ることで、東征神話における「兄の死の意味」を考えます。
今回も、概要で全体像をつかみ、ポイント把握してから本文へ。最後に、解説をお届けしてまとめ。
現代の私たちにも多くの学びをもらえる内容。日本神話から学ぶ。日本の神髄がここにあります。それでは行ってみましょう!
- 日本神話研究の第一人者である榎本先生監修。確かな学術成果に基づく記事です
- 日本神話全体の流れや構造を解き明かしながら解説。他には無い分かりやすい記事です
- 現代語訳のほか原文も掲載。日本神話編纂当時の雰囲気を感じてもらえます
- 登場する神様や重要ワードへのリンク付き。より深く知りたい方にもオススメです
神武紀|長兄「五瀬命」の死|「ますらお」なのに復讐できず無念すぎたので、東征に復讐を追加した件
目次
神武紀|長兄「五瀬命」の死 の概要
今回も『日本書紀』巻三「神武紀」をもとにお届け。ちなみに、前回の内容、これまでの経緯はコチラ↓をご確認ください。
孔舎衛坂での敗戦後、東征軍は神策どおり海路を南下し、紀伊半島を迂回するルートを進みます。
途上、大阪府泉南市男里、男里川河口付近の「山城水門」に到りますが、ここへきて長兄「五瀬命」の傷が甚だしく悪化。
五瀬命は雄叫びをあげ、敵に復讐もできずに死ぬ無念を口にします。
そして、和歌山市竈山に到ったところでついに薨じられ、そのまま竈山に葬られます。
東征ルート、場所の確認
ルートを確認。
生駒山の「孔舎衛坂」での敗戦により、神策をめぐらし「日を背に戦うため」紀伊半島を大きく迂回して大和に入ろうとする。
その途上のお話。
紀伊半島迂回のため、草香津→ 山城水門→ 竈山の順で進軍。
↑上空から、和歌山市を望む。左上の突き出てる半島が加太の岬です。ここに神武の大船団が、、、ロマンが広がりますっ!
五瀬命は和歌山市の竈山に到ったところでついに薨じられ、そのまま竈山に葬られることになるのですが、、ここでの「長兄の死」は、単に「お兄さんが傷を受けて死んでしまった」だけではありません。
このときの神武の無念は深く、以後、東征の目的に「仇討ち」が追加されることになります。
つまり、
「建国」という理想追求型の東征に、「報復」という個人的な目的が加わる訳で、その意味で、非常に重要なシーンなのです。
神武紀|長兄「五瀬命」の死 現代語訳と原文
5月8日に、東征軍は茅淳の「山城水門」 に至る。またの名は「山井水門」。(茅淳はここでは「ちぬ」という。)
この時、長兄「五瀬命」は、孔舎衛で受けた矢傷の痛みが甚だしく、そこで剣の柄に手をあてて押さえ雄誥をあげた。(撫劒は、ここでは「つるぎのたかみとりしばる」という)「なんといまいましいことだ!武勇に優れていながら、(慨哉は、ここでは「うれたきかや」という)敵の手によって傷を負い、報復もせずに死ぬとは!」当時の人は、それでこの地を名付けて「雄水門」といった。
さらに進軍し、紀国の竃山に到ったとき、ついに五瀬命は軍中にて薨じられた。よって竃山に葬った。
五月丙寅朔癸酉、軍至茅淳山城水門。亦名山井水門。(茅淳、此云智怒。)時五瀬命矢瘡痛甚、乃撫劒而雄誥之曰(撫劒、此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢)「慨哉、大丈夫(慨哉、此云宇黎多棄伽夜)被傷於虜手、將不報而死耶。」時人因號其處、曰雄水門。
進到于紀伊國竈山、而五瀬命薨于軍、因葬竈山。 (『日本書紀』巻三 神武紀より抜粋)
神武紀|長兄「五瀬命」の死 解説
必勝の神策、大和へは東から入って昇る太陽を背に受けて戦えば大丈夫作戦!の途上、、長兄が死んでしまう、、なんてこった。
兄の無念に想いを致しながら、、以下詳細解説。
- 5月8日に、東征軍は茅淳の「山城水門」 に至る。またの名は「山井水門」。(茅淳は、ここでは「ちぬ」という)
- 原文 五月丙寅朔癸酉、軍至茅淳山城水門。亦名山井水門。(茅淳、此云智怒。)
→5月の「丙寅が朔にあたる癸酉」は8日のこと。
茅淳の「山城水門」は、現在の、大阪府泉南市男里、男里川河口付近とされてます。「茅淳」は、欽明天皇14年五月条に「河内国言、泉郡茅淳海中」と伝えており、河内国和泉郡の海を指す言葉です。その「水門」つまり河口付近。
敗戦が4月だったので、ここまで来るのにおよそ1か月ほどかかってます。その間、兄の傷は徐々に悪化していた。。?
次!
- この時、長兄「五瀬命」は矢傷の痛みが甚だしく、そこで剣の柄に手をあてて押さえ雄誥をあげた。(撫劒は、ここでは「つるぎのたかみとりしばる」という)「なんといまいましいことだ!武勇に優れていながら、(慨哉は、ここでは「うれたきかや」という)敵の手によって傷を負い、報復もせずに死ぬとは!」当時の人は、それでこの地を名付けて「雄水門」といった。
- 時五瀬命矢瘡痛甚、乃撫劒而雄誥之曰(撫劒、此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢)「慨哉、大丈夫(慨哉、此云宇黎多棄伽夜)被傷於虜手、將不報而死耶。」時人因號其處、曰雄水門。
→報復もできずに死ぬ無念を雄叫び、、
「剣の柄に手をあてて押さえ雄誥をあげた。なんといまいましいことだ!武勇に優れていながら、敵の手によって傷を負い、報復もせずに死ぬとは!」とあります。いくつか注釈を。
原文「撫劒」。剣の柄に手をあてて押さえる。憤りの表現です。参考として『孟子』(梁恵王章句下)に、斉の宣王の「自分は勇を好む」という言葉に対して孟子が答えて言う内容。「王、請ふ、小勇を好むこと無かれ。夫れ剣を撫し疾視して曰く『彼れいづくんぞ我れに当たらんや、と。此れ匹夫の勇、一人に敵する者なり」と諭すシーンあり。
ココでは「剣の柄に手をかけぐっと押さえつけ、目をいからして睨みつけ」という内容で伝えてます。非常に強い気持ちを体で表現している訳です。
同じ「撫劒」が使われてるってことは、剣の柄に手をあててぎゅーっと押さえる、のみならず、目をいからして睨みつけてる感もあったと解釈するのが◎。五瀬命の「匹夫の勇」を暗示する表現ですね。
原文「慨」。腹立たしい、いまいましい、の意味。参考として『万葉集』巻8「ここだくも 我が守るものを うれたきや 醜霍公鳥(中略)地に散らせば(1507番)」とあり、恋の歌ではありますが、憎らしいという意味で使われてます。
原文「大丈夫」。りっぱな男。勇気のある強い男の意味。
ということで、まとめると、、
剣の柄に手をあててぎゅっと押さえて(目をいからして睨みつけ)雄叫び。ますらおなのに、立派な俺なのに、敵から傷を受けて、しかも復讐もできず死ぬなんて!!!(死んでも死に切れないっ、、)
って、こと。
ポイントは、この無念さに深く思いを致すこと。コレかなり重要で。これをうけて、東征神話後半で「神武の仇打ち」につながっていく。神武の行動の根拠、原動力がこの「(兄の)無念さ」にある、という設定になってるすね。
最後の、「時人」とは、「当時の世間の人」の意味。神武紀では、事蹟にちなむ土地を名づける者として位置付けられてます。
次!
- さらに進軍し、紀国の竃山に到ったとき、ついに五瀬命は軍中にて薨じられた。よって竃山に葬った。
- 進到于紀伊國竈山、而五瀬命薨于軍、因葬竈山。
→さらに進軍。和歌山市の竈山に至ったところでついに亡くなります。「薨」という漢字が使用されており、これは、天皇の兄という身分に即した表現で、「死」を言います。
ココ、超重要なところ。長兄の薨去は、神武にとって、兄の無念を晴らす「仇討ち」の意味を東征に加えることになります。
古代では、「報復」を「義務」として定めていて、殺されたのが父であれば「不倶戴天」の敵として、相手が死ぬまで報復を止めません。
五瀬命は長兄なので、弟の神武は「報復の義務」を負う。これは「兵(武器)を反さず」という言葉で伝えられ、武器を執って仇を討ち果たすまでは止めてはならない、という意味。有名な「忠臣蔵」も同じ考え方です。
実際、東征の最終局面で長髄彦を攻撃する時に、この五瀬命の薨去に思いを致し、断固とした決意をもとに、神武は「〜撃ちてし止まむ」「〜我は忘れず、撃ちてし止まむ」と来目歌を歌って戦いに臨む訳です。
東征が、理想を追うだけではなく、報復をめざす新たな段階に入るという、極めて重要な意味を持つのが、この五瀬命の薨去なんです。
まとめ
長兄「五瀬命」の死
孔舎衛の激戦と敗退。その原因は「情報不足と無自覚(≒おごり)」にありましたが、その代償を「兄の死」という形で払う事になりました。
神武の無念は非常に深く、以後、東征の目的に「仇討ち」が追加されることになります。考えようによっては、3年も準備したのに、自分の無自覚によって敗戦し、長兄が傷を負い死んでしまうわけで、、、ある意味私の責任です。
押さえておきたいのは、ここでの「長兄の死」は「報復」を東征に組み込む意味を持つという事。「建国」という理想追求だけでなく、「仇討ち・復讐」のための東征といった新たな段階に入る訳で、非常に重要なのです。
また、東征神話はその意味で「日本最古の仇討ち」として位置づけられるという事ですね。
神話を持って旅に出よう!
神武東征神話のもう一つの楽しみ方、それが伝承地を巡る旅です。以下いくつかご紹介!
●茅淳の「山城水門」伝承地
天神の森公園の中。「水門」という名の通り、古代このあたりは海だった模様。。
●竃山伝承地
本殿の背後には彦五瀬命の墓と伝える「竈山墓」(宮内庁治定墓)があります。
つづきはコチラ!突然の暴風雨!??コレは、、、
神武東征神話のまとめ、目次はコチラ!
佛教大学名誉教授 日本神話協会理事長 榎本福寿
埼玉県生まれ(S23)。京都大学大学院文学研究科博士課程国語学国文学(S53)。佛教大学助教授(S58)。中華人民共和国西安外国語学院(現西安外国語大学)文教専家(H1)。佛教大学教授(H6)。中華人民共和国北京大学高級訪問学者(H13)。東京大学大学院総合文化研究科私学研修員(H21)。主な書籍に『古代神話の文献学 神代を中心とした記紀の成りたち及び相関を読む』がある。『日本書紀』『古事記』を中心に上代文学における文献学的研究成果多数。
参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)
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