多彩で豊かな日本神話の世界へようこそ!
正史『日本書紀』をもとに、
最新の文献学的学術成果も取り入れながら、どこよりも分かりやすい解説をお届けします。
今回は、
神武東征神話を分かりやすく解説するシリーズ7回目。
テーマは、
熊野灘 海難と兄の喪失
長兄「五瀬命」を竈山の地に葬り、東征を続ける神武一行。
紀伊半島をぐるっと回り、「神邑」に到ります。
ここで天磐盾に登り、ただならぬ気配を察知。軍を引いて注意深く進みますが、暴風雨に遭遇。このなかで兄達2名を亡くします。
天磐盾に登ったあと、なぜ軍を引いたのか?
なぜ「突然」暴風雨に遭遇し、兄たちを失ったのか?
これらのロマンを探ることで、「熊野灘海難の意味」を考えます。
今回も、概要で全体像をつかみ、ポイント把握してから本文へ。最後に、解説をお届けしてまとめ。
現代の私たちにも多くの学びをもらえる内容。日本神話から学ぶ。日本の神髄がここにあります。それでは行ってみましょう!
- 日本神話研究の第一人者である榎本先生監修。確かな学術成果に基づく記事です
- 日本神話全体の流れや構造を解き明かしながら解説。他には無い分かりやすい記事です
- 現代語訳のほか原文も掲載。日本神話編纂当時の雰囲気を感じてもらえます
- 登場する神様や重要ワードへのリンク付き。より深く知りたい方にもオススメです
神武紀|熊野灘海難と兄の喪失|なぜ!?兄達は暴風雨の中で歎き恨み逝ってしまった件
目次
神武紀|野灘 海難と兄達の喪失 の概要
今回も『日本書紀』巻三「神武紀」をもとにお届け。前回の内容、これまでの経緯はコチラ↓をご確認ください。
長兄「五瀬命」を竈山の地に葬り、東征を続ける神武一行。
名草邑では、地方の族長で女性の「名草戸畔」を討伐。当時、地方にはこのような女性の族長が跋扈していて、東征軍に帰順しなかったため誅伐を加えたという訳。
その後、紀伊半島をぐるっと回るルートですが、「神武紀」においては詳細の記載はありません。
名草の次はいきなり「狭野」に到り、ここを越えて現在の和歌山県新宮市である「神邑」に到着します。
ここで天磐盾に登り、ただならぬ気配を察知。軍を引いて注意深く進みますが、暴風雨に遭遇。このなかで兄達2名を亡くします。
長兄「五瀬命」の喪失に続き、全ての兄を失うという状況に追い込まれる訳です。
神武東征ルート、場所の確認
神策発動中。紀伊半島をぐるっと回る迂回コースを進行。
図示すると以下。
今回のポイントは「神邑」。
ここで「彦火火出見」は、東征神話上の重要な位置づけである「天磐盾」に登ります。
眼下に広がる熊野灘をはるかに仰ぎ見て、ただならぬ気配を察知。
これは、暴風雨の前兆か?はたまた。。。
以後、軍を引いて注意深く進軍。しかし、その先で暴風雨に遭い、兄達二人を失います。
ここで伝える「軍を引く」という表現は、孔舎衛敗戦直後の「軍を引いて引き返した」と同じで、東征神話においては、これら2か所にしかでてきません。
東征=前に進むが大前提であり、「引く」とか「撤退」は逆方向の動きとして「本来はあり得ない」訳。
そう考えると、その「コトの重大性」が理解できると思います。
本来ありえない行動を取る必要があったのは、この地が「特別な意味」を持っていたという事であり、だからこそ兄達がいなくなってしまうところに繋がります。
神武紀|熊野灘 海難と兄達の喪失 現代語訳と原文
6月23日、東征軍は「名草邑」 に至った。そこで「名草戸畔」に誅伐を加える。
ついに 狭野を越えて熊野の「神邑」 に至る。そして「天磐盾」に登る。そこで軍を引いて徐々に進む。
ところが海中で、突然暴風に遭い 、一行の舟は木の葉のように揺れ漂った。
その時、次兄の「稲飯命」 が、「ああ、私の祖先は天神で、母は海神である。それなのにどうして私を陸で苦しめ、また海でも苦しめるのか」と嘆いた。言い終ると、剣を抜き荒れ狂う海に身を投じて「鋤持神」 となった。
三兄の「三毛入野命」 もまた、「我が母と姨とは共に海神である。それなのにどうして波濤を立てて溺らせるのか」と恨み言を言い、波の先を踏んで常世の国に往ってしまった。
彦火火出見は、たった独りで皇子の「手研耳尊」 と軍を率いてさらに進み、熊野の「荒坂の津」に至った。(又の名を丹敷浦という)「丹敷戸畔」という者に誅罰を加える。
六月乙未朔丁巳、軍至名草邑、則誅名草戸畔者。遂越狹野而到熊野神邑、且登天磐盾、仍引軍漸進。 海中卒遇暴風、皇舟漂蕩、時稻飯命乃歎曰「嗟乎、吾祖則天神、母則海神。如何厄我於陸、復厄我於海乎。」言訖、乃拔劒入海、化爲鋤持神。 三毛入野命、亦恨之曰「我母及姨並是海神。何爲起波瀾、以灌溺乎。」則蹈浪秀而往乎常世鄕矣。天皇獨與皇子手硏耳命、帥軍而進、至熊野荒坂津、亦名丹敷浦、因誅丹敷戸畔者。 (『日本書紀』巻三 神武紀より抜萃)
※原文中の「天皇」という言葉は、即位前であるため、生前の名前であり東征の権威付けを狙った名前「彦火火出見」に変換。
神武紀|海難と兄達の喪失 の解説
熊野灘で暴風雨に遭遇。このなかで兄達を失う。。長兄「五瀬命」の喪失に続き、全ての兄を失うという状況に追い込まれる訳です。神武の悲痛はいかばかりか、、、
そんなロマンに想いをいたしながら、以下詳細解説です。
- 6月23日、東征軍は「名草邑」 に至った。そこで「名草戸畔」に誅伐を加える。
- 六月乙未朔丁巳、軍至名草邑、則誅名草戸畔者。
→6月の「乙未が朔にあたる丁巳」は、6月23日のこと。
「名草邑」とは、和歌山市西南の「名草山」付近。
名草山は標高229m。飛鳥の三輪山に似て、まろやかにやさしい山容です。この山が、鏡のように波静かな「和歌の浦」の水面にゆったりと影を落としている景色はオススメ。
万葉集にも「名草山 言にしありけり 我が恋の 千重の一重も 慰めなくに(一二一三)」と歌われる名所です。
「そこで「名草戸畔」に誅伐を加える。」とあります。
「名草戸畔」とは、女性の地方首領の名前。女賊。
古代、地方にはこのような女性の酋長・族長が跋扈してたようです。
誅した理由は、反抗したから。従わないならイテコマス。。。
類例として、、
景行天皇の西征(九州熊襲を主な標的とする討伐)では、周芳の国の沙麼の神夏磯媛、碩田の国の速見邑では速津媛が天皇を迎えます。
景行天皇はこれら地方の女酋長の手助けを得て討伐を進める訳ですが、神武はむしろ、有無を言わせず誅伐を加え、容赦しません。。。この後の、熊野では「丹敷戸畔」、大和では「新城戸畔」が登場し、同様に討ち果たします。
次!
- ついに 狭野を越えて熊野の「神邑」 に至る。そして「天磐盾」に登る。そこで軍を引いて徐々に進む。
- 遂越狹野而到熊野神邑、且登天磐盾、仍引軍漸進。
→回ってきました紀伊半島。
「 狭野」は、現在の新宮市佐野。万葉集に、
「苦しくも 降り來る雨か 神の崎 狭野のわたりに 家もあらなくに(二六五番)」という歌にあるように、次の熊野の「神邑」と一体的な土地です。
「神邑」は、新宮市のあたり。「神邑」を「みわのむら」と訓読みするのが通例。
「天磐盾」は、新宮市神倉山。この地に「神倉神社」があり、切り立った崖に建ってます。その頂上からは熊野灘が遠望できます。
この「天磐盾」を、通説は「盾のような磐」(新編日本古典文学全集など)としていますが、、むしろ「饒速日命」が天から降ったという「天磐船」と表現上は通じます。つまり、天から降った磐の盾、文字通り「磐でできた盾」を表す訳です。
で、盾については次のような例をチェック。
①壬申の乱のさなか、天武天皇側の将軍大伴吹負が荒田尾直赤麻呂の進言に従い、古京(近江遷都以前に宮室を置いた飛鳥)を守らせた際、劣勢の赤麻呂らは一計を案じ、橋を解体して盾に作り、京の辺の衢に竪てて守り、敵を欺いてひき返させた。
②儀礼でも、持統天皇四年正月一日の即位に際して、物部麻呂朝臣が大盾を樹てた。
③崇神天皇の夢に神人が立ち、赤盾・赤矛をもって墨坂神をそれぞれ祠れと誨える(崇神天皇九年三月条)。墨坂・忍阪は倭(大和)から東の伊勢、西の難波へ通じる要路の境界に当たり、倭を守る境界の神を祀るさい、盾・矛を供物とする。
と、「天磐盾」もこれらの盾に機能上は通じる訳です。つまり、境界に防衛のために立てたもの。
ポイントは、
その境界の向こう側に何がいるのか?
ってことで。
「天磐盾」の向こう側は、、熊野。そして、、そこには実は、魔物がうごめいている。。。((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
イヤ、コレ結構マジで言ってます。場所に関する神話的設定の話なので。
実際、この後、熊野の神が突然毒気を吹きかけてきて神武一行全員昏倒するとか、、神ってるイベントが発生する訳で。
この地に立つ「天磐盾」は、その意味で、境界に立って、なんなら、この魔物、魔界を遮断するものとして位置づけられてる訳です。それより手前は人間世界。向こう側は魔物というか神が支配する世界、人知の及ばない世界であります。
だからこそ、続いて「そこで軍を引いて徐々に進む。(仍 引軍 漸進)」とあり。。
「軍を引く」とは、あの孔舎衛で敗北を喫した直後の「軍を引きて還る」と同じく、撤退さえ暗示する言葉。
警戒して少しずつしか進まざるを得ないというのも、磐盾に登り、この地が荒ぶる神々の息づく、その霊気のただよう気配を察知したからこそ。。
で、、日本神話的に言うと、その荒ぶる神々の中心におられるのが、、、
伊奘冉尊!!!
キタ――(゚∀゚)――!!
「神邑」の近隣に有馬村があります。ココ、火神を生んで焼死し、黄泉では伊奘諾尊に絶縁された伊奘冉尊を埋葬して祭祀を行ってます。
すでに神代で登場し、この地が設定されてる訳です。日本神話的に。
有馬村の伊奘冉尊祭祀は、第五段〔一書5〕で伝えていて、神代の話なのに突如リアルな地名と祭祀を伝えるという特別な伝承。
雰囲気的には、伊奘冉祭祀の重要性、そしてそれを特に、有馬村に指定したかった感じがぷんぷんなんです。
三重県熊野市有馬に鎮座する花窟神社。コチラ、伊奘冉尊の埋葬地であり、死神の霊気や祟などを鎮めるための祭祀(花の祭り)が行われてます。
構造的に整理すると以下。
神武(彦火火出見)は「天照大神」の子孫。天照は「伊奘諾尊」が生んだ神です。
つまり、
神武は伊奘諾の系統にあり、黄泉=死の国の伊奘冉とは対立する訳です。コレ、生(伊奘諾)と死(伊奘冉)の対立構造。
で、死を代表する伊奘冉の鎮まってる地に足を踏み入れちゃった、、、というのが今回の内容。
荒ぶる神、死、その代表格である伊奘冉尊からしたら、あの時、ヒドイ別れをした旦那の子孫がやってきた訳で、、神武一行につかみかかろうとして、虎視眈眈とねらっていたと考えるべきで、、、それがこの後の暴風雨につながっていく。。コレ、壮大な神話ロマン。
なので、ココでの訳出は「そのとき、前方にあるただならぬ気配を察知、そこで軍を引いて徐々に進む。」と訳出するのが○。
神武としては、是が非でもここを通り抜けなければならない事情がある訳です。最初に敗北を喫した直後の神策発動中。東征の成否が、これにかかっている訳ですから、、、
次!
- ところが海中で、突然暴風に遭い、一行の舟は木の葉のように揺れ漂った。その時、次兄の「稲飯命」 が、「ああ、私の祖先は天神で、母は海神である。それなのにどうして私を陸で苦しめ、また海でも苦しめるのか」と嘆いた。言い終ると、剣を抜き荒れ狂う海に身を投じて「鋤持神」 となった。
- 海中卒遇暴風、皇舟漂蕩、時稻飯命乃歎曰「嗟乎、吾祖則天神、母則海神。如何厄我於陸、復厄我於海乎。」言訖、乃拔劒入海、化爲鋤持神。
→図示すると以下。
「海中で、突然暴風に遭い、一行の舟は木の葉のように揺れ漂った。」とあります。
海の遭難は、海神の仕業です。
類例として「日本武尊」が相模から上総に渡る海上で、海神により遭難したという伝承あり。
で、
「次兄の「稲飯命」 が、「ああ、私の祖先は天神で、母は海神である。それなのにどうして私を陸で苦しめ、また海でも苦しめるのか」と嘆いた。」とあり、かなり嘆いてます。。
嘆きの理由は、神武兄弟の出自が絡むお話で。神武は兄たち含め、海神の孫である訳で、その意味で、本来海神の庇護や援助があって然るべき。。という考え方なんです。
日向を出発して、海路を東征してきたんですが、これまで海上で一度もトラブルに巻き込まれてなかったのは、海神の庇護があったからこそ、とも言えます。母方のおじいちゃんが守ってくれてた、、的な。
ところが、、、
ココで初の海上トラブル。暴風雨に遭遇する訳です。
おかしい!
守ってくれてたはずのおじいちゃんが守ってくれない、、、なんでだ!??ってなりますよね。
それが「それなのにどうして私を陸で苦しめ、また海でも苦しめるのか」と嘆いた。」という発言。
ま、これは、先ほど解説したとおり、この一帯は荒ぶる神、死、その代表格である伊奘冉尊が鎮まる地。。花の祭りでなんとか鎮まっていただいてますけど、、流石に伊奘冉も、伊奘諾の子孫が来たとなったら脊髄反射、荒ぶってみたんじゃないかと。。。それが暴風雨。
本来、起こるはずのない海難が起きたってことは、海神の神威を超える神の存在、それはつまり伊奘冉がいるから、と考えられる訳です。コレも壮大な神話ロマン。
※海神は、伊奘諾と伊奘冉が生んだ神。海神からしたら、伊奘冉は親な訳で、、(;゚д゚)ツエー
でだ、
「剣を抜き荒れ狂う海に身を投じて「鋤持神」 となった」とあり、稲飯命は、剣を抜いて海に入り鋤持神に化す、シンカする訳ですが。。
突然どうした???
って、、まず、
「鋤持神」については、次のような例があります。
①古事記、海幸・山幸をめぐる所伝
山幸が自分を乗せて海神の宮から陸に送ってくれた一尋鮫に紐小刀を頸に著けて返したことにちなみ、この一尋鮫を「さひ持神」(小刀を持つ神)と称すると伝えてる。この「さひ持神」と「鋤持神」との対応上、「鋤」(さひ)は「小刀」に当たります。
②日本書紀神代上第八段一書第三・第二
素戔嗚尊による八岐大蛇退治に際して、毒酒によって睡むらせた大蛇の、頭・腹・尾を斬った剣を「蛇韓鋤剣」といいます。そして、今に「断蛇之剣」として吉備神部のもとにあると付け加えてる。同じく〔一書2〕でも、この剣を「蛇之麁正」と号けて石上神宮に在ると伝えてる。コレ、単に現存するってことだけでなく、共に、威力ある呪器・神器として伝世してきたことを言ってる訳です。
つまり、、、
剣を抜いて海に入った稲飯命が「鋤持神」に化したというのは、非常に威力のある剣を持つ神に化した、シンカしたってこと。
コレ、もちろん、慨嘆という激越した心情に基づいて化す運動です。コレまでの神話解説の通り、神が誕生するパターンの中で、非常に激しいシーンで誕生するというのがありました。今回の稲飯命の鋤持神化もソレ。
で、
「荒れ狂う海に身を投じて」とある訳で、東征神話では、その後どうなった??的な結果を伝えてないのですが、鋤持神が向かう先は、海難をひき起す海神のはずなので、その「神剣に化した神」として、強く海神のしわざを牽制するに違いない訳であります。
現に、この直後、皇船は危機を脱するという流れ。コレ、鋤持神の神威によると考えるのが◎。コレもまた、壮大な神話ロマンであります。
次!
- 「三毛入野命」 もまた、「我が母と姨とは共に海神である。それなのにどうして波濤を立てて溺らせるのか」と恨み言を言い、波の先を踏んで常世の郷に往ってしまった。
- 三毛入野命、亦恨之曰「我母及姨並是海神。何爲起波瀾、以灌溺乎。」則蹈浪秀而往乎常世鄕矣。
→三兄の三毛入野命も恨みのなかで去っていく。。。
三毛入野命の場合は、兄の稲飯命が剣を抜き海に身を投じたのとは対照的に、波の秀を踏んで常世の郷へ往ってしまう。。
常世の国といえば、遥か海上彼方にある理想郷!
自由だな!3男坊!!
類例を。
『日本書紀』神代上第八段〔一書6〕より。国造り神話において、熊野の御碕に至ると少彦名命は、常世の郷へ適ってしまう、、という神話を伝えます。
大己貴神との国造りの途中、熊野の御碕に至ると少彦名命は、それまで共に国造りしてきた大己貴神を見捨てて、ついに常世の郷へ適ってしまう、、
協働の相手を後に残し、同じ熊野から常世の郷をめざすという点で、両者は同じ設定な訳です。
三毛入野命は恨みに駆られる余り、少彦名命と同じように途中で任務を投げ出して常世をめざした。。兄の稲飯命がみせた、剣を抜いて海に入るという積極的行動とは非常に対照的に描かれてる。ある意味キャラ立ってます。。
ま、コレ、三男坊の自由な気質というか、なんというか、、男4兄弟を育てたことのある方ならお分かりいただけるはず。。3人目って、何かと自由ですよね、、
次!
- 彦火火出見は、たった独りで皇子の「手研耳尊」 と軍を率いてさらに進み、熊野の「荒坂の津」に至った。(又の名を丹敷浦という)「丹敷戸畔」という者に誅罰を加える。
- 天皇獨與皇子手硏耳命、帥軍而進、至熊野荒坂津、亦名丹敷浦。因誅丹敷戸畔者。
→兄弟を失い独りとなった彦火火出見。息子の「手研耳尊」とともに東征を続けます。
「手研耳尊」は神武の息子。本シリーズ第一回目で登場。
神武が、日向国の吾田邑の吾平津姫を娶って生んだ長子でした。実は、東征に同行してた次第。
「熊野荒坂津」は、諸説ありますが、地理的な関係上、熊野市大泊の辺りと考えられます。
- 神邑(新宮)から海難に遭いつつ「さらに進んだ」と伝えてること
- 大泊から熊野街道(42号線)に入るとすぐに「急坂」が続くこと
からです。
ここにも、女性の地方首領がいたようで、、要所だったからか、、その名も「丹敷戸畔」。前段での「名草戸畔」同様に討ち果たします。
で、大事なポイント2つ。
まずは、「熊野荒坂津」について。
東征神話全体の中では、「熊野荒坂津」は2つ意味があり。
1つは、海路から陸路への転換点であること。2つ目は、最東端の地であること。コレ、結構重要で。
孔舎衛坂の敗戦で、神策発動。西から東ではなく、東から西へ攻め込むという戦術の大転換を行う訳ですが、そのためにもまず、東の端へいく必要がある訳です。
東征神話的には、この最東端の地が「熊野荒坂津」。コレ以降、逆方向への進軍、つまり東から西へ進むことになる。これは大きくいうと、日神の威力を背に負う形になる訳で、神武に、東征一行に大きな支援の力を与えることになる訳です。
その意味で、非常に重要な転換点であり、コレ以降、なんなら天の道に逆らってた状態、半目になってた状態を脱し、天の道に沿った追い風状態に突入していくんです。コレ、しっかりチェック。
2つ目。
改めて、、長兄(五瀬命)の戦死、海難に際しての次兄(稲飯命)、三兄(三毛入野命)と、協力者が次々に戦線を離脱していった。。。神武の無念や憤りはいかばかりか、、、「独り皇子手研耳命と軍を帥ゐて進む」とつたえる通り、「独り」になってしまったことに万感の思いを込めている、、
なんですが、一方で、兄の全てを喪ってもミッションに向けて邁進することは変わりません。東征神話的には、この対照(喪失の一方でへこたれない)を際立たせるのが、実は、海難をつたえる狙いだったりする訳ですが、。試練が、逆に東征の決意をいっそう強固なものとしてる訳ですね。コレも重要事項としてチェック。
まとめ
海難と兄達の喪失
ポイントは、やはり「天磐盾」。
「天磐盾」は、境界に立って、この先に蠢く魔物、魔界を遮断するものとして位置づけられてます。神話的に。
ココに登り、その後、軍を引いて少しずつ進んだのも、「敗戦時に軍を引いた」のと同じくらい危険を感じさせるものだったから。
『日本書紀』第五段〔一書5〕では、この地で「伊奘冉尊=黄泉(死)の国にいる神」を鎮め、祭る地として位置づけてます。日本神話全体を俯瞰して繋がりを考えると、神武一行の察知した「危険」とは、「死」とつながるきな臭さであったと推測されます。
「突然」暴風雨に遭遇した理由も、「伊奘諾の末裔」である神武が足を踏み入れてきたことで、ここに鎮まっていた「荒ぶる神」が東征一行に襲い掛かったという事。暴風雨はその象徴として。
それゆえ、唐突とも言えるようなタイミングで、兄達は突然いなくなってしまう。
海神の末裔ということで守られていると思ってたのに荒ぶる神が襲いかかってきた、荒れ狂う海と暴風雨のなかで、そのショックは大きく、彼らは歎き、恨み、いなくなってしまうという流れ。
神武の歎きや悲しみは記載されていないですが、想像に難くありません。身内を失う事、協力者がいなくなる事というのは、誰にとっても辛い事ですよね。
一方で、兄の全てを喪っても、東征はやめません。「独り」になってもビジョン実現に向かって邁進する。逆に、試練が、東征の決意をいっそう強固なものとしてる訳です。
そして、最後。
「熊野荒坂津」は、東征神話全体の中では、海路から陸路への転換点であること、最東端の地であること、の2つの意味があります。
特に、戦術上、東から西へ向かう必要があり、そのための折り返し地点、最東端の地が「熊野荒坂津」として位置付けられてる。
「熊野荒坂津」以降、東征は、コレまでとは逆方向への進軍、つまり東から西へ進むことになり、これは大きくいうと、日神の威力を背に負う形になる訳で、神武に、東征一行に大きな支援の力を与えることになるんです。
その意味で、非常に重要な転換点であり、コレ以降、なんなら天の道に逆らってた状態、半目になってた状態を脱し、天の道に沿った追い風状態に突入していく。コレも、しっかりチェック。
神話を持って旅に出よう!
神武東征神話のもう一つの楽しみ方、それが伝承地を巡る旅です。以下いくつかご紹介!
●神武天皇聖蹟名草邑顕彰碑(名草戸畔をイテコマした伝承地)
●神武天皇聖蹟狭野顕彰碑(紀伊半島ぐるっと回って最初に至った場所)
●神武天皇聖蹟熊野神邑顕彰碑(熊野との境界の地)
●天磐盾(境界に立つ天から降った磐の盾)神倉神社
●伊奘冉尊祭祀の場所(花窟神社)
●熊野灘の位置づけ常世国も含めてまとめ!
●熊野荒坂津(熊野市大泊港)
●地元的にはココだとされる「熊野荒坂津神社」
●いやむしろココだと石碑が建つ「熊野荒坂津」
おまけ、、、超絶ローカル伝承として
●鋤持神化したはずの稲飯命。その後、土民により発見され??室古神社に奉葬された、、
●同様に、常世の郷にいってしまったはずの三毛入野命も土民により発見され阿古師神社へ奉葬???そんなバカな!
続きはこちらから!突然、、熊野の神が毒気を・・??
神武東征神話のまとめ、目次はコチラ!
佛教大学名誉教授 日本神話協会理事長 榎本福寿
埼玉県生まれ(S23)。京都大学大学院文学研究科博士課程国語学国文学(S53)。佛教大学助教授(S58)。中華人民共和国西安外国語学院(現西安外国語大学)文教専家(H1)。佛教大学教授(H6)。中華人民共和国北京大学高級訪問学者(H13)。東京大学大学院総合文化研究科私学研修員(H21)。主な書籍に『古代神話の文献学 神代を中心とした記紀の成りたち及び相関を読む』がある。『日本書紀』『古事記』を中心に上代文学における文献学的研究成果多数。
参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)
こちらの記事もどうぞ。オススメ関連エントリー
どこよりも分かりやすい日本神話解説シリーズはコチラ!
日本神話編纂の現場!奈良にカマン!
コメントを残す