多彩で豊かな日本神話の世界へようこそ!
正史『日本書紀』をもとに、
最新の文献学的学術成果も取り入れながら、どこよりも分かりやすい解説をお届けします。
今回は、
神武東征神話を分かりやすく解説するシリーズ12回目。
テーマは、
天香山の埴土採取と顕斎
宇陀を攻略し、吉野も支配下とした「彦火火出見」こと神武。
宇陀の南にある「高倉山」に登って目的地の「中洲」を遠望。すると!なんと周囲は敵ばかりであることが判明。。なんてこった。
そこで宇宙との交信を開始、もとい、夢で天神の教えを得て圧倒的不利な状況を打開しようとします。
彦火火出見は、敵ばかりの状況をどのように打開したのか?
そんなロマンをさぐることで、「香具土採取と顕斎」の神話が伝えるメッセージを読み解きます。
今回も、概要で全体像をつかみ、ポイント把握してから本文へ。最後に、解説をお届けしてまとめ。
現代の私たちにも多くの学びをもらえる内容。日本神話から学ぶ。日本の神髄がここにあります。それでは行ってみましょう!
- 日本神話研究の第一人者である榎本先生監修。確かな学術成果に基づく記事です
- 日本神話全体の流れや構造を解き明かしながら解説。他には無い分かりやすい記事です
- 現代語訳のほか原文も掲載。日本神話編纂当時の雰囲気を感じてもらえます
- 登場する神様や重要ワードへのリンク付き。より深く知りたい方にもオススメです
天香山の埴土採取と顕斎|夢に見た天神の教えによりにより丹生川上で祭祀!それでもって敵を撃破しようとした件
目次
天香山の埴土採取と顕斎 の概要
今回も『日本書紀』巻三「神武紀」をもとにお届け。前回の内容、これまでの経緯はコチラ↓をご確認ください。
吉野を制圧した神武一行。
敵が少ない吉野経由でコソっと北上、サクッと橿原即位へ。。。といったズルい手は用いません。常に真っ向勝負。宇賀志へ戻り、敵がたくさんいる宇陀経由で「中洲」へ進軍しようとします。
コレ、神策が根拠。あくまで東から西へ。昇る太陽の威を背に受けて攻め込む戦術。あとは、宇陀(榛原)の地は、大和からみて東の境界に当たる地、伊勢街道もあり重要な拠点だったという背景もあり。ココを攻略しておかないとお話にならない。。。
そこで、まずは敵情を探るべく、宇陀から中洲(大和平野)を見渡せる「高倉山」へ登るわけです。
すると、、どこもかしこも敵だらけ、という状況が判明。。なんてこった。。
この絶望的と言える状況、、、神武は憎悪、かなりイラッとしたご様子で。。
そして、、、
寝ます。とりあえず寝ます。
が、ちゃんと祈って寝る。活路を見出せるように。実際、その夢に「天神」が登場し、必勝の方法を教えてくれる。。神話世界では神との交信は夢の中??
で、天神の教えをもとに作戦実行。椎根津彦と弟猾に変装させて、天香山(天香具山)の土を採りに行かせます。そして丹生川のほとりで儀式を行い、最強パワーをゲットするという流れ。
今回の神話をまとめると以下の通り。
- 高倉山に登って目的地の中洲を望み見る。すると敵だらけの状況が判明。
- お祈りをして寝ると、夢のなかで天神が登場。賊虜の平伏方法を教えてくれる。
- 天神が教えてくれた通りに実行。臣下二人を変装させ、天香山の土を採って来させる。
- 天香山で採取した土で祭器をつくり、丹生川のほとりで天神地祇を祭る。
- すると、菟田川の朝原で超常現象発生。神武はこれを見て「イケる!」と確信。
- さらに、勝敗を占う「祈の儀式」を行ったところ、祈りの通りに「土で作った皿が飴状になり」、「祭器を川に沈めると魚が浮き上がった」。つまり、「必勝」という占い結果が出た。
- そこで、道臣を斎主とする「顕斎」の儀式を催行し、高皇産霊神の加護パワーを得ようとした。
以上の流れをしっかりチェック。
東征ルートと場所の確認
今回のルートは、天香山(天香具山)の土採取が主な内容。
榛原から166号線が橿原へ続いていますが、このルートに沿って行ったと想定。理由は以下。
- 高倉山から天香具山への最短ルートである事
- 女坂~国見丘~男坂~墨坂の敵布陣の中で、唯一、この一帯は手薄状態であり、通行しやすかった事
- 土採取のあと、丹生川のほとりで儀式が行われた事。つまり、採ってきた帰り道に相当する事
敵がひしめく中、無事「土」をゲットして戻ってきて、朝原で儀式を行う。位置関係をしっかり整理しておきましょう。
なお、「八十梟帥」と言う言葉が出てきますが、コレ「たくさんの敵将たち」と言った意味。人の名前ではありません。
また、本シーンでは特に、「祈(誓約)」という儀式的なものが登場。コレ、最初に2択方式の宣言を行い、どちらかの結果によって神意を占うもの。重要な意思決定、行動をする「前」に行います。言い方を変えると、将来の実現可能性を一つ一つ確かめてる、ってこと。重要局面に登場。
天香山の埴土採取と顕斎 現代語訳と原文
9月5日に、彦火火出見は、あの菟田の高倉山の頂きに登り、辺り一帯をはるかに望み見た。
すると、その手前、国見丘には八十梟帥がいて、女坂 には「女軍」を、男坂には「男軍」を配置し、墨坂には真っ赤に焃っている炭を置いていた。女坂・男坂・墨坂の名は、これによって起こる。また、磐余邑には「兄磯城軍」があふれるほど満ちていた。これらの賊敵が陣を布くところは、どこも要害の地で、そのため道が遮断されて塞がり、通れるところが無かった。
彦火火出見はこれを憎み、この夜、自ら祈って寝た。すると夢に天神が現れ、教えて言った。「天香山にある社の土を取って、『天平瓮』 八十枚をつくり、あわせて『厳瓮』もつくり、天神地祇を敬い祭るのだ。また、厳重な呪詛を為よ。そうすれば、賊どもは自ら平伏するだろう。」 彦火火出見は謹んで夢の教えを承り、その通りに実行しようとした。
ちょうどその時、弟猾もまたこのようなことを申し上げた。「倭国の磯城邑に『磯城八十梟帥』がおります。また、高尾張邑に『赤銅八十梟帥』がおります。この連中はみな、天皇を拒絶して戦おうとしております。私めはひそかにこれを憂慮しております。どうか、今まさに天香山の埴土を取って『天平瓮』を造り、それで天社国社の神をお祭りください。その後、賊を攻撃すれば容易く排除できます。」 彦火火出見は、すでに夢の教えを吉兆としていたが、今、弟猾の言葉を聞いて、ますます心のうちに喜んだ。
そこで、椎根津彦にヨレヨレになった破れた衣服と蓑笠を着せて「老夫」の姿を装わせた。また、弟猾には箕を被らせ「老婆」に姿を装わせた。そして、勅して言った。「お前たち二人は天香山まで行って、密かにその頂の土を取って戻って来るのだ。東征の大業が成就するか否かは、お前たちが土を取って来れるか否かで占うことにしよう。努めて慎重に行うように。」
この時、賊兵は香具山へ行く道にあふれていて行き来することが難しかった。そこで、椎根津彦は祈 をして言った。「我が君がまさしくこの国を平定することができるならば、行く道は自ら通れるだろう。もし平定できないのであれば、賊が必ず阻止するだろう。」 言い終ると直ちに天香山へ向かって行った。
その時、賊どもは、この二人を見て大いに笑い「なんと醜い、じじいとばばあだ。」と言って、みな道をあけて通らせた。二人は香具山にたどり着くことができ、土を取って帰って来た。
彦火火出見は大いに喜び、この香具山で採取した埴土で「八十平瓮」と「天手抉八十枚」そして「厳瓮」を作り、丹生川のほとりにのぼり天神地祇を祭った。すると、あの菟田川の朝原で、水の泡立ちのように呪詛が立ち現れた。
彦火火出見はまた祈をして言った。「私は今、八十平瓮で、水を使わずに飴を作ろう。もし飴ができれば、私は武器の威力を借りずに、居ながらにして天下を平定するであろう。」 そこで、飴を作ると、自然にできあがった。
また祈をして言う。「私は今、厳瓮を丹生川に沈めよう。もし魚がその大小にかかわらず、皆酔って流れる様子が、ちょうど柀の葉が水に浮いて流れるようであるならば、私は必ずこの国を平定することになるであろう。もしそうでないならば、ついに事は成就しないだろう。」 そこで厳瓮を川に沈めた。するとその口が下に向き、しばらくすると魚が皆浮き上がってきて、流れながら口をぱくぱくさせた。 椎根津彦はこれを見て報告したところ、彦火火出見は大いに喜び、丹生川のほとりの「五百箇真坂樹」を根っこごと抜き取り、神々を祭った。この時から、厳瓮を据えて神を祭ることが始まる。
その時、彦火火出見は道臣命に勅して言った。「これから『高皇産霊尊』を祭神として、私自身が『顕斎』 を執り行う。お前を斎主として、『厳媛』の名を授ける。そして、祭りに置く埴瓮を『厳瓮』と名付け、また火を『嚴香來雷』と名付け、水を『嚴罔象女』、食べものを『厳稲魂女』、薪を『厳山雷』、草を『厳野椎』と名付けよう。」
九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。時、國見丘上則有八十梟帥。又於女坂置女軍、男坂置男軍、墨坂置焃炭。其女坂・男坂・墨坂之號、由此而起也。復有兄磯城軍、布滿於磐余邑。賊虜所據、皆是要害之地、故道路絶塞、無處可通。
天皇惡之、是夜自祈而寢、夢有天神訓之曰「宜取天香山社中土、以造天平瓮八十枚、幷造嚴瓮而敬祭天神地祇、亦爲嚴呪詛。如此、則虜自平伏。」天皇、祇承夢訓、依以將行。
時弟猾又奏曰「倭國磯城邑、有磯城八十梟帥。又高尾張邑、有赤銅八十梟帥。此類皆欲與天皇距戰、臣竊爲天皇憂之。宜今當取天香山埴、以造天平瓮而祭天社國社之神、然後擊虜則易除也。」 天皇、既以夢辭爲吉兆、及聞弟猾之言、益喜於懷。
乃使椎根津彥、著弊衣服及蓑笠、爲老父貌、又使弟猾被箕、爲老嫗貌、而勅之曰「宜汝二人到天香山潛取其巓土而可來旋矣。基業成否、當以汝爲占。努力愼歟。」
是時、虜兵滿路、難以往還。時、椎根津彥、乃祈之曰「我皇當能定此國者行路自通、如不能者賊必防禦。」言訖徑去。時、群虜見二人、大咲之曰「大醜乎、老父老嫗。」則相與闢道使行、二人得至其山、取土來歸。
於是、天皇甚悅、乃以此埴、造作八十平瓮・天手抉八十枚、嚴瓮、而陟于丹生川上、用祭天神地。則於彼菟田川之朝原、譬如水沫而有所呪著也。
天皇又因祈之曰「吾今當以八十平瓮、無水造飴。飴成、則吾必不假鋒刃之威、坐平天下。」乃造飴、飴卽自成。
又祈之曰「吾今當以嚴瓮、沈于丹生之川。如魚無大小悉醉而流、譬猶柀葉之浮流者、吾必能定此國。如其不爾、終無所成。」乃沈瓮於川、其口向下、頃之魚皆浮出、隨水噞喁。時、椎根津彥、見而奏之。天皇大喜、乃拔取丹生川上之五百箇眞坂樹、以祭諸神。自此始有嚴瓮之置也。
時勅道臣命「今、以高皇産靈尊、朕親作顯齋。用汝爲齋主、授以嚴媛之號。而名其所置埴瓮爲嚴瓮、又火名爲嚴香來雷、水名爲嚴罔象女、糧名爲嚴稻魂女、薪名爲嚴山雷、草名爲嚴野椎。」 (『日本書紀』巻三 神武紀より抜粋) ※原文中の「天皇」という言葉は、即位前であるため、生前の名前であり東征の権威付けを狙った名前「彦火火出見」に変換。
天香山の埴土採取と顕斎 解説
絶望的ともいえる状況を、天神の教えにそって突破する方法を、力を身につけていく。。「祈(誓約)」や儀式を通じて神意を占い、将来の実現可能性を一つ一つ確かめながら進めてます。そこに無謀さはありません。危機が人を強くする。。。そんなロマンに想いを致しながら、、、
以下詳細解説。
- 9月5日に、彦火火出見は、あの菟田の高倉山の頂きに登り、辺り一帯をはるかに望み見た。
- 九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。
→九月の、「甲子」が朔にあたる「戊辰」は5日。
侵攻前の準備基地、兵站基地である宇賀志(穿邑)から出発。彦火火出見は、宇陀の高倉山に登ります。コレ、現在の大宇陀守道にある山。登った理由は、東から西へ「中洲」に進軍すべく、敵情を探るため。ココからは、宇陀から中洲(大和平野)が見渡せたようです。
ポイント2つ。
- 「陟」は特別な漢字。実は、天皇の即位儀礼を象徴する行為=壇(高御座)に陟ると同じ使われ方
- 「瞻望域中」の「瞻望」は、遥か遠くを眺めること。今まさに「中洲」を目指してる、なんなら親しい人に心を寄せるような気持ちで遥かに望んでいる。
まず、①について。
①「陟」は特別な漢字。実は、天皇の即位儀礼を象徴する行為=壇(高御座)に陟ると同じ使われ方
高倉山、単に山登ってみました的な軽いノリではございません。東征神話的には、天皇の即位儀礼に通じるくらい重要なものとして位置づけられてます。
まず、天皇の即位儀礼といえば、記憶に新しいところで、令和の御代替わりがありました。
分かりやすく。現代の御代替わりは、大きく3部構成。
1. | 践祚式 | 三種の神器を継承し皇位に即く |
2. | 即位礼 | 皇位についたことを広く宣明する |
3. | 大嘗祭 | 共食により天照大神と繋がる |
この中で、「陟」に関連するのが2の即位礼。現代では、即位礼のメインは「即位礼正殿の儀」。
で、この即位を宣言・宣明する特別な場所が「高御座」という特別な壇。その時に使用される特別な表現が「壇に陟って」という言葉なんす。
つまり、「陟彼菟田高倉山之巓」の「陟」は即位礼につながる非常に尊い言葉であり、特別に使われてるってこと。
高倉山の頂に登る=天皇として即位する高御座に陟るのと同じ意味あい、同じ位置付けにしてる訳で。もう、気持ち的には天皇です。東征神話的には、橿原即位に向けた伏線としての位置付けになってます。
ちなみに、、この後、神武は「敵に囲まれてる状況」というのを激しく憎むのですが、コレも、ココで伝える「オレ天皇」からの「なんでこんなことになってんの?」的な。。めっちゃコントラストが効くようになってます。
2つ目。
②「瞻望域中」の「瞻望」は、遥か遠くを眺めること。今まさに「中洲」を目指してる、なんなら親しい人に心を寄せるような気持ちで遥かに望んでいる。
「高倉山之巓」から遠望する。原文「瞻望域中」について。
瞻望=遥か遠くを眺めること。『毛詩』魏風『陟岵』の『陟彼岵兮瞻望父兮』がベース。『陟岵』の表現が使われてるのがポイントで。この詩では他にも「瞻望母兮」「瞻望兄兮」と繰り返し、父母や兄弟といった心を寄せる人をはるかに望むことが歌われてます。
なので、ココではそうした心情や意味になぞらえ、今まさに「中洲」を目指してる、なんなら親しい人に心を寄せるような気持ちで遥かに望んでいる、といったエモーショナル入りのニュアンスでチェック。
以上、①②をまとめると、
なんなら天皇としてくらいの勢いで高倉山に陟り、目指す中洲を、親しい人に心を寄せるような気持ちで遥かに望みました。ってこと。地味に非常に重要な登山なんです。
ちなみに、現在の高倉山山頂は、、、
中洲どころかあたり一帯も望めない!!木を伐採してほしい!
仕方がないから、次!
- すると、その手前、国見丘には八十梟帥がいて、女坂 には「女軍」を、男坂には「男軍」を配置し、墨坂には真っ赤に焃っている炭を置いていた。女坂・男坂・墨坂の名は、これによって起こる。また、磐余邑には「兄磯城軍」があふれるほど満ちていた。これらの賊敵が陣を布くところは、どこも要害の地で、そのため道が遮断されて塞がり、通れるところが無かった。
- 時、國見丘上則有八十梟帥。又於女坂置女軍、男坂置男軍、墨坂置焃炭。其女坂・男坂・墨坂之號、由此而起也。復有兄磯城軍、布滿於磐余邑。賊虜所據、皆是要害之地、故道路絶塞、無處可通。
→高倉山山頂から見えた敵布陣。
- 国見丘:音羽山の南の経ヶ塚。大宇陀町と桜井市との間の山。ここにいた敵が「八十梟帥」。「八十」は数の多さ。「梟帥」は敵将のこと、「たける」は勢いが盛んなさま。大勢の敵将、集団的呼称として。
- 女坂:桜井市八井内と大宇陀町の境にある「大峠」。女坂とは、傾斜のゆるい坂。ココにいた敵が「女軍」。主力部隊に対する分遣隊的な位置づけ。力の弱い軍隊。
- 男坂:奈良県桜井市と宇陀市との市境に位置する峠。男坂とは、傾斜の急な坂。ココにいた敵が「男軍」。主力部隊。部隊を二分したうち、戦力の高い方に「男」を冠する。力の強い軍隊。女軍との対比。
- 墨坂:宇陀市榛原の西峠。大和と伊勢を結ぶ要路。赤く熾った炭を置く。敵勢力のパワーを象徴する場所としての位置づけ。
- 磐余:桜井市西部から橿原市東部にかけての古い地名。ココにいた敵が「兄磯城軍」。
ということで、
まー厳しい状況。周り全部、敵だらけ、、、しかも「賊敵が陣を布くところは、どこも要害の地で、そのため道が遮断されて塞がり、通れるところが無かった。」とあり、どこもかしこも通行不能ですかい?!
次!
- 彦火火出見はこれを憎み、この夜、自ら祈って寝た。すると夢に天神が現れ、教えて言った。
- 天皇惡之、是夜自祈而寢、夢有天神訓之曰
→宇宙との交信は夢の中で、、、??
絶望的な状況を打開すべく、神武は過去の追体験に懸けます。過去の体験とは、八咫烏キタ――(゚∀゚)――!!体験。この時も、天照大神が夢に訓えてくれました。コレを先例として、まず寝る!
コレ、形としては、「「夢辞」を局面打開の拠りどころとして絶対視する」というもの。
類例としては、崇神天皇四十八年正月条。崇神天皇が二子のいずれを後継者とするかを決める際、夢によって占うという意向にしたがい「二皇子、於是、被命、浄沐而祈寐。各得夢也。」(崇神天皇四十八年正月)とつたえます。二皇子がそれぞれ奏した「夢辞」の内容をもとに、崇神天皇は後継者を定める。
崇神天皇条の原文「祈寐」は「祈みて寐たり」と読みます。なので、ココ(東征神話)でも、原文「自祈而寢」は「自ら祈みて寝たり」と訓むのが相当。
この後、弟猾が天神と同じ内容を奏言する時に、神武は「以夢辞為吉兆」としてます。「夢辞」を局面打開の拠りどころとして絶対視するというパターン・形式なんすね。
神武の精神状態を察するに、相当な危機感だったと思われて。絶望的とも言える状況をどうすんだと。すでに「熊野荒坂津」からは東から西へと大きく転換し、天照大神の支援も二度もあったけど、、果たしてこのまま突っ込んでいいものか、、具体的な必勝方法を授かろうとしていたのだと思います。
ちなみに、ここで言う「天神」とは、東征発議で「我天神」とあった「高皇産霊尊」「大日孁尊」のこと。ココでは特に「高皇産霊尊」をチェック。後ほど出てきます。
次!
- 「天香山にある社の土を取って、『天平瓮』 八十枚をつくり、あわせて『厳瓮』もつくり天神地祇を敬い祭りなさい。また、厳重な呪詛を為よ。そうすれば、賊どもは自ら平伏するだろう。」 彦火火出見は謹んで夢の教えを承り、その通りに実行しようとした。
- 「宜取天香山社中土、以造天平瓮八十枚、幷造嚴瓮而敬祭天神地祇、亦爲嚴呪詛。如此、則虜自平伏。」天皇、祇承夢訓、依以將行。
→果たして、夢に訓えてくれた天神さん!ありがとう!!強く願うことで宇宙からのメッセージが降りてきました。。?
天神指令は2つ。
- 天香山の土を取ってこい。その土で、「天平瓮」「嚴瓮」=祭器をつくれ。その上で、天神地祇を祀りなさいと。
- さらに、厳重な呪詛をせよと。
そうすれば、賊どもは自ら平伏すると、、
これ、思い起こせば「孔舎衛坂」での敗戦時に巡らした神策で、天神地祇を祭ることがありました。そうですか。今、まさにそれを実行する時なんですね天神さん!
「天香山」は奈良県橿原市にある天香具山。原文「社中」とありますが、現在の天香山神社に比定するというより、天香山が大和のパワーを象徴する場所として、古くそこに社を建てて祀っていたというニュアンス。
さらに言うと、崇神10年9月条に、天香山の土を倭国の「物代」とつたえ、この土を手にすることは大和の地の獲得を意味するものとして位置づけられてます。非常にパワーのある土。東征神話でも同様に、コレをゲットすることは大和のパワーをゲットする、つまり大和ゲットと同じ意味、という訳。
「厳重な呪詛を為よ。」とあります。原文「爲嚴呪詛」。言葉の作り的には、まず「詛ふ」=そしる、怨む、呪う、に「呪」を加えて「呪詛」。さらに厳重な「厳」を加えてる。なので意味合い的には、最凶悪な結果をもたらす言語呪術的呪いをしろ、ってことなんす。天神さん、なんて恐ろしい。。。(( ;゚Д゚)))ガクブル
次!
- ちょうどその時、弟猾もまたこのようなことを申し上げた。「倭国の磯城邑に『磯城八十梟帥』がおります。また、高尾張邑に『赤銅八十梟帥』がおります。この連中はみな、天皇を拒絶して戦おうとしております。私めはひそかにこれを憂慮しております。どうか、今まさに天香山の埴土を取って『天平瓮』を造り、それで天社国社の神をお祭りください。その後、賊を攻撃すれば容易く排除できます。」 彦火火出見は、すでに夢の教えを吉兆としていたが、今、弟猾の言葉を聞いて、ますます心のうちに喜んだ。
- 時弟猾又奏曰「倭國磯城邑、有磯城八十梟帥。又高尾張邑、有赤銅八十梟帥。此類皆欲與天皇距戰、臣竊爲天皇憂之。宜今當取天香山埴、以造天平瓮而祭天社國社之神、然後擊虜則易除也。」 天皇、既以夢辭爲吉兆、及聞弟猾之言、益喜於懷。
→天神の訓えを受けていたところに弟猾も同じような内容を奏言。
コレ、弟猾と言うのが大事で。要は、地元の地理や敵情に詳しい者ってこと。そのために選ばれてる。
「磯城邑」は、現在の奈良県桜井市付近。「高尾張邑」は、奈良県御所市、葛城山と金剛山東側の平野部。いずれも、これらの地を支配する敵の首領たちが「八十梟帥」。
これから進軍、侵攻する地には上記、非常に強い敵勢力がうじゃうじゃいた、ってことで。高倉山からの遠望だけでは捉えきれない地元民ならではの情報です。
地元民の弟猾も、天香山の埴土パワーのことは知っていたようで。天神の夢の訓え(夢辞)と同じ内容を神武に奏言。「夢辞」は神意のあらわれ。これに対応するのが、人の奏言。神と人の双方から同じ内容のメッセージ。これをもって「吉兆」、つまり、良いしるし、前触れとして位置づけてるんです。
非常に練りに練られた神話になってる。その構想力に震えが止まりません、。
次!
- そこで、椎根津彦にヨレヨレになった破れた衣服と蓑笠を着せて「老夫」の姿を装わせた。また、弟猾には箕を被らせ「老婆」に姿を装わせた。そして、勅して言った。「お前たち二人は天香山まで行って、密かにその頂の土を取って戻って来るのだ。東征の大業が成就するか否かは、お前たちが土を取って来れるか否かで占うことにしよう。努めて慎重に行うように。」
- 乃使椎根津彥、著弊衣服及蓑笠、爲老父貌、又使弟猾被箕、爲老嫗貌、而勅之曰「宜汝二人到天香山潛取其巓土而可來旋矣。基業成否、當以汝爲占。努力愼歟。」
→変装させて天香山の埴土を取りに行かせる。
ポイントは「東征の大業が成就するか否かは、お前たちが土を取って来れるか否かで占うことにしよう。」というところ。コレ、実は「熊野越え」の際、夢に天照大神が訓えた内容を、八咫烏の飛来によって確信するのと同じ形式・枠組み。同じ「基業」という言葉も使われてます。
- 熊野越え:此烏之來、自叶祥夢。大哉、赫矣、我皇祖天照大神、欲以助成基業乎。
- 天香山土採取:基業成否、當以汝爲占。
と、「基業」成就の有無を、神意の具体的あらわれによって確かめる点が共通してるんです。しかもそこに「夢」が介在してる。
課題発生→強く祈る→寝る→夢に教えてくれる→現実化する・確かめる→確信する。
大きな神話的枠組みをもとにつくられてる、ってことチェック。
次!
- この時、賊兵は香具山へ行く道にあふれていて行き来することが難しかった。そこで、椎根津彦は祈 をして言った。「我が君がまさしくこの国を平定することができるならば、行く道は自ら通れるだろう。もし平定できないのであれば、賊が必ず阻止するだろう。」 言い終ると直ちに天香山へ向かって行った。
- 是時、虜兵滿路、難以往還。時、椎根津彥、乃祈之曰「我皇當能定此國者行路自通、如不能者賊必防禦。」言訖徑去。
→いよいよ天香山へ向かいます。想定ルートは以下の通り。
「賊兵は香具山へ行く道にあふれていて行き来することが難しかった。」とあり、北は墨坂から男坂、国見丘、女坂と敵勢力が道にあふれていた模様。さらに平地に至っても磐余にはあふれるほどの敵勢力、、、通行不能。
そこで「椎根津彦は祈 をして言った。」とあり、出ました「祈」。コレ、最初に二者択一の宣言を行い、どちらかの結果によって神意を占うもの。重要な意思決定や行動をする「前」に行うやつ。
ちなみに、、椎根津彦のいう「我皇当能定此国者」と「如不能者」との組み合わせは、神武のいう「基業成否」をもとに重ねてつくられてることもチェック。
神武「基業成否」→椎根津彦「我皇当能定此国者」「如不能者」
細かいですが、きちんと前出の内容を承けて展開させてる。
神武の場合は「占」。椎根津彦の場合は「祈」。言葉違えど、事業の成否という未知を、天香山の土の採取・来旋の能否という具体的行為の成りゆきによって見極めようとする基本を共有してます。ココもしっかりチェック。練りに練られてる感をビシビシと。。
次!
- その時、賊どもは、この二人を見て大いに笑い「なんと醜い、じじいとばばあだ。」と言って、みな道をあけて通らせた。二人は香具山にたどり着くことができ、土を取って帰って来た。
- 時、群虜見二人、大咲之曰「大醜乎、老父老嫗。」則相與闢道使行、二人得至其山、取土來歸。
→変装作戦は見事に成功。敵のみなさんは大笑いして通らせた模様。
次!
- 彦火火出見は大いに喜び、この香具山で採取した埴土で「八十平瓮」と「天手抉八十枚」そして「厳瓮」を作り、丹生川のほとりにのぼり天神地祇を祭った。すると、あの菟田川の朝原で、水の泡立ちのように呪詛が立ち現れた。
- 於是、天皇甚悅、乃以此埴、造作八十平瓮・天手抉八十枚、嚴瓮、而陟于丹生川上、用祭天神地。則於彼菟田川之朝原、譬如水沫而有所呪著也。
→たいへんご満悦の神武「甚悅」。
この「悅」には、もちろん「基業成否」を「天香山の土の採取・来旋の能否」によって占った結果、無事採取してこれた、つまり基業は成功すると確信したことが背景にあり。厳しい状況だったからこそ、このときの喜びは特別だったのではないでしょうか。救いを、希望を、そこに見いだせた訳なんで。ありがたさとか、感謝とか、、そういったモメンタムが醸成されてる。そしてこれがこの後に続く祭祀に、厚みを、深みを加えてます。
そこで登場、東征神話の中でも最重要の儀式「丹生川上祭祀」+「顕斎」。
それぞれに目的があります。
- 「丹生川上祭祀」・・・賊虜の平伏、基業成就の能否を占う
- 「顕斎」・・・敵殲滅のための具体的なパワーを、天神の加護をゲットする
コレ、東征神話の中でも大きな転換点としての位置づけで、めっちゃ重要。
ポイントは、祭祀を単独で捉えるのではなく、神話の展開または構造にそくして考えること。
まずは「丹生川上祭祀」。
原文「陟于丹生川上、用祭天神地」。ポイント3つ。
- 「丹生川上祭祀」は2段階構成。
- 再度登場。「陟」は特別な漢字。天神の教示にしたがって厳修する祭祀だからこそ、天皇の即位儀礼を象徴する行為=壇場に陟ると同じ言葉を使用。
- 「丹生川上」は、「丹生の川の上」と読む。実は、伊勢神宮の「五十鈴川上」の斎宮祭祀に対応。
まず、1つめ。
①「丹生川上祭祀」は2段階構成
実は、「丹生川上祭祀」は2段階構成になってます。
- (教示に従う)天皇甚悦、乃(中略)陟于丹生川上、用祭天神地祇
- (独自に行う)天皇大喜、乃抜取丹生川上之五百箇真坂樹、以祭諸神
コレ、なんでかというと、
そもそも、ここまで解説してきた神絡みの内容(夢、占、祈)は大きく2つあり、それぞれに対応させる形で祭祀が組み立てられてるから。
神絡みの内容(夢、占、祈)
- 〈夢〉賊虜の平伏・除去
- 〈占・祈〉基業成就や国の平定
そういえば、、、もともと、天神が夢で訓えてくれたのは「賊虜の平伏方法」だったっけ。。「そうすれば、賊どもは自ら平伏するだろう。」。一方、神武や椎根津彦が占い、祈をしてたのは、「基業成就や国の平定」でしたよね。
要は、この賊虜平伏から基業成就への転換が、2段階祭祀を生んでるってことなんす。
夢で教示された「賊虜の平伏」には「陟于丹生川上、用祭天神地祇」を、自ら占った「基業成就」には「抜取丹生川上之五百箇真坂樹、以祭諸神」を、それぞれ対応させてお祭りをする。すごいでしょ?モノスゴイ構想力、理論によって組み立てられてる。
2つ目。
②再度登場。「陟」は特別な漢字。天神の教示にしたがって厳修する祭祀だからこそ、天皇の即位儀礼を象徴する行為=壇場に陟ると同じ言葉を使用。
高倉山に登った件でも登場しました「陟」。
天皇即位を宣言、宣明する特別な場所が「高御座」という特別な壇で。その時に使用される特別な表現が「壇に陟って」という言葉でした。
「陟于丹生川上」の「陟」も、即位礼につながる非常に尊い、重い言葉として、特別に使われてる。前段に登場した高倉山もこの布石だった?
「丹生川上祭祀」は、天神の教示にしたがって厳修する祭祀。それじたい天神に応じる、報じるといった意味あいが強い内容。高皇産霊尊を斎神として招ぎ降ろす場(斎場)だからこそ、特別な「壇場」に通じる「陟」を使用、陟って執り行うってこと、この運動、その尊さ、重要性をチェックです。
最後、3つ目。
③「丹生川上」は、「丹生川の上」と読む。実は、伊勢神宮の「五十鈴川上」の斎宮祭祀に対応。
「丹生川上」は「丹生川の上」と読みます。「川上」=川の上流ではありません。川のほとり。祭祀なんで、水の流れがある川が登場。コレ、実はそれだけで一本の長大な論文になってしまうくらいデカい論点で。詳細は別エントリで詳しく。
「上」については、例えば、『古事記』でも神武天皇の妻問いをめぐって、「於是、伊須気余理比売命之家在狭井河之上、天皇幸行其伊須気余理比売之許、一宿御寝坐也。」とあり、狭井河の上に姫が住んでたことを伝えてます。
で、もっと大事なのは、実は「丹生川上祭祀」は、伊勢神宮の「五十鈴川上」斎宮祭祀に対応して設計されてる、ってこと。
- 天照大神の天降って現に座す斎宮の「五十鈴川上」
- 高皇産霊尊を招ぎ降ろして現に斎神とする斎場の「丹生川上」
伊勢神宮については、垂仁天皇25年3月条に、天照大神の伊勢国鎮座の由来をつたえる箇所あり。
そこで、大神の教えた通りに祠を伊勢国に立てた。これにより斎宮が五十鈴川の上に興された。これを磯宮という。すなわち、天照大神が初めて天より降りたった場所である。
原文:故、随大神教、其祠立於伊勢国。因興斎宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神始自天降之処也。)(『日本書紀』垂仁天皇二十五年三月より抜粋)
と、天照大神が鎮座地として教えたのが「五十鈴川上」です。
「丹生川上」も「五十鈴川上」も同じ「川上」が使用され、女性を斎主とする(神武は道臣命を「厳媛」と名付け「斎主」としてる)ところも共通。
「川上」については、特に、そこを適所として見定めた川の上を表す、というのが使われ方。天照大神も五十鈴川の上をココがいい!と見定めました。詳細に解説すると論文になってしまうので別エントリで。いずれにしても、適切な場所として見定める+祭祀の場所=水の流れがある、という意味での「川上」。
以上、①②③を合わせると、「陟于丹生川上、用祭天神地。」については、
天神の訓えと自ら占った内容に沿って2段階で実施。非常に重要な祭祀の場であるため、しっかりと見定めたうえで、丹生の川の上にことさら陟って執り行ってる。そのための表現として「陟于丹生川上」が使われてる。しっかりチェック。
なお、
祭祀用に作成したのが、「八十平瓮」と「天手抉八十枚」そして「厳瓮」。
コレ、天神が夢で訓えた内容「『天平瓮』 八十枚をつくり、あわせて『厳瓮』もつくり、」に沿ったラインナップ。
- 「平瓮」は、平たい土器。神に供えるものを盛る用のお皿みたいなもの。
- 「天手抉」は、小さい壺の土器と考えられます。手で内側、内部を抉って作ったもの。「抉」=えぐる。こじる。ほじくり出す。「平瓮」とセットで作成。
- 「厳瓮」は、壺の形をした土瓶。「厳」=重。
コレらの祭器は、この後で伝えるように「神を祭る」基本セットとして、その原型、起源としても位置付けられてます。
そしてそして、最後に大事なポイント。呪詛が立ち現れる!
「すると、あの菟田川の朝原で、水の泡立ちのように呪詛が立ち現れた。」とあります。原文「則於彼菟田川之朝原、譬如水沫而有所呪著也。」
前半と後半に分けて解説。
前半「すると、あの菟田川の朝原で、」。
ポイントは、原文「則於彼菟田川之朝原」の「彼」の文字。
コレ、「彼の〜、あの〜」という意味で。直前のどこかを指すのではなく、そのように称するに相応しい場所を振り返る感じで言い表す言葉。
つまり、原文「彼菟田川」は、「あの菟田川」ということであり、あの菟田に流れる川と言ってる訳です。なので、祭祀を行った「丹生川」とは別の川。
- 祭祀を行う神聖な川=丹生川
- 呪詛が立ち現れた場所、川=菟田川
明確に使い分けてる。ちなみに、、もし丹生川と菟田川が同じ川なのであれば「其」という文字を使ってるはず。ここではそうなってないのでやはり別モノです。
続いて後半「水の泡立ちのように呪詛が立ち現れた。」
ポイントは、文の構造。そして天神の訓え。
実はコレだけで一本の論文になるくらいの重要論点。詳細は別エントリで。ここでは要点を。
まず、文の構造。
原文「譬如水沫而有所呪著也」は、「譬如水沫」と「而有所呪著也」の2つから成ります。で、「譬如水沫」が呪詛の現れた状態を表し、それを「而」の順接で繋いで「有所呪著也」が結果ないし成果を表します。
天神の訓えを再度確認。
「天神地祇を敬い祭りなさい。さらに厳重な呪詛を為せ。(敬祭天神地祇、亦爲嚴呪詛)」とのことで、祭祀と呪詛を併せ行う形になってました。
この通りの構造になってる。丹生川のほとりにのぼり、祭祀を行った。そうすると、あの菟田川の朝原で「水の泡立ちのように呪詛が立ち現れた。」という流れ。
「譬如水沫」は、類例としては国生み。「大八洲国」を生んだ果てに対馬嶋などの小嶋は海の「潮沫」「水沫」が泡立ったまま凝り固まって成ったと伝えてます。
コレと同様に、ココでも「水の泡立ちのように(なんならそれが凝り固まって・・・)」と呪詛の現れた状態を表現してる訳です。
「而有所呪著也」は、呪いがあきらかになるところがあった、と言う意味。祭祀が呪詛につながり、その結果ないし成果が現前したことを表現。ボコボコボコと泡立って凝り固まったものが呪いの現象として現れたと。
と言うことで、以上が天神の教示に基づく一連の祭祀。呪い現象発生により、賊虜の平伏・除去が(ある意味)約束されました。コレはこれで一旦の区切り。
で、ここからは
二段階構成になってる「丹生川上祭祀」の2つ目に突入。
- 〈夢〉賊虜の平伏・除去
- 〈占・祈〉基業成就や国の平定
つまり、神武が自ら設定した「基業成就や国の平定」について、神様、本当に大丈夫なんでしょうか?ってところを明らかにする訳です。
- 彦火火出見はまた祈をして言った。「私は今、八十平瓮で、水を使わずに飴を作ろう。もし飴ができれば、私は武器の威力を借りずに、居ながらにして天下を平定するであろう。」 そこで、飴を作ると、自然にできあがった。
- 天皇又因祈之曰「吾今當以八十平瓮、無水造飴。飴成、則吾必不假鋒刃之威、坐平天下。」乃造飴、飴卽自成。
→基業成就や国の平定はマジでイケるのか?については、2回占うことで慎重に見極めようとしてます。
水を使わずに飴を作るのが1回目。嚴瓮を沈めて魚を浮かせるのが2回目。いずれも「祈」を通してイケる兆候、兆し、確証を得てから「祭諸神」へなだれ込む。
次!
- また祈をして言う。「私は今、厳瓮を丹生川に沈めよう。もし魚がその大小にかかわらず、皆酔って流れる様子が、ちょうど柀の葉が水に浮いて流れるようであるならば、私は必ずこの国を平定することになるであろう。もしそうでないならば、ついに事は成就しないだろう。」 そこで厳瓮を川に沈めた。するとその口が下に向き、しばらくすると魚が皆浮き上がってきて、流れながら口をぱくぱくさせた。 椎根津彦はこれを見て報告したところ、彦火火出見は大いに喜び、丹生川のほとりの「五百箇真坂樹」を根っこごと抜き取り、神々を祭った。この時から、厳瓮を据えて神を祭ることが始まる。
- 又祈之曰「吾今當以嚴瓮、沈于丹生之川。如魚無大小悉醉而流、譬猶柀葉之浮流者、吾必能定此國。如其不爾、終無所成。」乃沈瓮於川、其口向下、頃之魚皆浮出、隨水噞喁。時、椎根津彥、見而奏之。天皇大喜、乃拔取丹生川上之五百箇眞坂樹、以祭諸神。自此始有嚴瓮之置也。
→2回とも「祈」の通りに結果が出た。イケる兆候、兆しキタ―(゚∀゚)―― !!
これをもって、丹生川のほとりに自生していたと思われる「五百箇眞坂樹」、つまり、たくさん枝葉の繁茂した榊を引き抜き、神々を祭った訳です(祭諸神)。これで「基業成就や国の平定」はイケる!間違いない!
ということで、ココで2つ目の区切り。
次!
-
その時、彦火火出見は道臣命に勅して言った。「これから、高皇産霊尊をもって私自らが『顕斎』 を執り行う。お前を斎主として『厳媛』の名を授ける。そして、祭りに置く埴瓮を『厳瓮』と名付け、また火を『嚴香來雷』と名付け、水を『嚴罔象女』、食べものを『厳稲魂女』、薪を『厳山雷』、草を『厳野椎』と名付けよう。」
- 時勅道臣命「今、以高皇産靈尊、朕親作顯齋。用汝爲齋主、授以嚴媛之號。而名其所置埴瓮爲嚴瓮、又火名爲嚴香來雷、水名爲嚴罔象女、糧名爲嚴稻魂女、薪名爲嚴山雷、草名爲嚴野椎。」
→「丹生川上祭祀」による「賊虜の平伏・除去」と「基業成就や国の平定」については目処がついた。続く課題は、実際に平伏や平定のためのパワーを得ること。
祭るだけで平伏平定できるなら苦労は無い訳で。敵を目の前に、より具体的な「必勝パワー」をゲットする必要あり?そこで登場するのが「顕斎」。
「顕斎」とは、高皇産霊尊の守護パワーをゲットするための儀式。
ココで何で「高皇産霊尊」が登場するのか?「顕斎」って具体的にどんな儀式なのか?について順に解説。
「高皇産霊尊」が登場している理由は2つ。
- 東征発議の中で、瓊瓊杵尊に豊葦原瑞穂国を授けた天神として位置づけられてるから。
- それもこれも、遡ると国譲りや天孫降臨で皇孫のために心を砕いて活躍したのが高皇産霊尊だから。
東征発議で、神武は高皇産霊尊を「我天神」と呼び、瓊瓊杵尊に豊葦原瑞穂国を授けた天神として位置付けてます。その瓊瓊杵尊に繋がろうとした神武。自分の名前「彦火火出見」もそのためでしたよね。
さらに遡ると、、
『日本書紀』巻第二(神代下)第九段〔一書2〕では、
- 国譲りに際して、大己貴神に勅して「あなたが治めている現世の仕事は、我らの子孫が治めよう。」と分治提案をしたのが高皇産霊尊でした。
- さらに、大物主神に「八十萬神を率いて、永遠に皇孫を守って差し上げよ」と命じ、帰り降らせましたのも高皇産霊尊でした。。
- さらにさらに、天孫降臨に際して、「私は 〜中略〜 皇孫のために祭祀をしよう。おまえたち、天児屋命と太玉命は、天津神籬を持って葦原中國に降り、また皇孫のために祭祀をしなさい」と命じたのも高皇産霊尊さんでした。。。
と、まー皇孫のために心を砕き、大変なご活躍をされてる訳です。
特に、3つ目の「皇孫のために祭祀」、原文「為吾孫奉斎」は超重要で。自らも皇孫のために祭祀をするし、二神にも祭祀をするように命じてる。。スゴくないすか?高皇産霊尊自ら皇孫のためにお祭りをしてたなんて、、、
それを踏まえての「顕斎」。要は、この祭祀により高皇産霊尊と神武(皇孫)は、相互に祭り・祭られる関係が、「斎」を通じた強固な関係が出来上がる訳です。超絶通り越して宇宙レベル。
こうした神代との繋がりが東征神話的に、いや神武的に超重要で。神武的としては、天照大神と並んで、なんなら天照以上に重要な神として位置付けていたのが高皇産霊尊なんです。
だからこそ、高皇産霊尊の加護パワーをいただこうと、、この宇宙レベルの重要性しっかりチェック。
続いて、「顕斎」ってどんな儀式なの?について。
具体的には、高皇産霊尊を降臨させ顕現した「斎神」とする。そして、道臣命を「斎主」とし奉斎させる儀式のこと。想定としては、祭壇に降臨した高皇産霊尊と祭器、それを斎主として奉斎する道臣命、という構図。
コレ、祭りの基本形と天皇の位置づけをチェックする必要あり。
まず、祭りの基本形とは、「願主」「祭神」「斎主」の3つの役割から成るというもの。
例えば、天岩戸神話でも、プロデューサー的思兼神がいて、祭神は天照大神、斎主は天児屋命や太玉命などが担当してました。で、今回の場合は、
- 願主・・・神武天皇
- 祭神・・・高皇産霊尊
- 斎主・・・道臣命
という分担になってます。「私自らが『顕斎』 を執り行う(朕親作顯齋)」とあり、神武が斎主になってそうですが、大前提のルールとして「原則、天皇は親祭しない」というのがアリ。自ら斎主として神を祭ることはしないんです。
余談ですが、天皇は鳳輦で移動。鳳輦は車輪なんて付いてない、臣下がみんなで担ぎ上げる訳ですね。神とおなじ位置づけ。て、ちょっと待て、先ほどの、丹生川上祭祀は、、、?って、あれは別。あれは天神の訓えがあったからこそ。本来はやらないということで整理。
なので、今回の「顕斎」も神武はあくまで「願主」として。「お前を斎主として『厳媛』の名を授ける。」とあり、「斎主」は道臣命に担当させた次第。
ちなみに、なぜ道臣さんに斎主を担当させたか? というと、天孫降臨の先導に対応する神武東征の先導をつとめ、これにより「有能導之功。是以、改汝名為道臣。」と名を賜った功績から。まさにぴったりの役回りと言えます。
そして、なぜ『厳媛』の名を授けているか? については、先ほどから解説しているとおり、「丹生川上」祭祀が伊勢神宮の「五十鈴川上」の斎宮(磯宮)祭祀に対応させて設計されてるから。
両者ともに、女性を斎主とし、それぞれ斎宮と厳姫とが対応してるんです。
- 「五十鈴川上」天照大神の天降って現に座す斎宮
- 「丹生川上」高皇産霊尊を招ぎ降ろして現に斎神とする斎場
伊勢神宮の祭祀を行う「斎主」には、すべて(景行―五百野皇女、雄略―栲幡皇女、継体―荳角皇女、欽明―磐隈皇女、敏達―菟道皇女、用明・崇峻・推古―酢香手皇女、天武―大来皇女)女性を当ててます。
高皇産霊尊を斎神とすればこそ、斎主に道臣命を当て、天照大神を祭神とする斎宮との対応上、斎主である道臣命に「厳媛」の号を授けた次第。
最後に、「そして、祭りに置く埴瓮を『厳瓮』と名付け、また火を『嚴香來雷』と名付け、水を『嚴罔象女』、食べものを『厳稲魂女』、薪を『厳山雷』、草を『厳野椎』と名付けよう。」とあり、これらは祭壇に並べられていたものと想定されます。
特に重要なのは『厳瓮』。コレ、次回のエントリで触れますが、「彦火火出見は、その厳瓮に盛った神饌を口にし(天皇嘗其嚴瓮之粮)」とあり、「粮」つまり神饌が盛られてた模様。
で、なにが重要かって、要は、この「粮」を食べてから賊兵討伐に出陣してる、つまり、高皇産霊尊の加護パワーを厳瓮に盛った「粮」を通じてゲットしたってことなんす。
構図的には、「顕斎」により高皇産霊尊と神武(皇孫)は、相互に祭り・祭られる関係が、「斎」を通じた強固な関係が出来上がる訳なんですが、その具体的な加護パワーは神饌を口にすることでゲットすることになる、ってこと。コレ、地味に重要なのでしっかりチェック。
全般的にまとめると、
天上の超越的な天神と神武(皇孫)の強い絆は神代からすでに用意されていた。この絆(奉斎)で結ばれているからこそ、その結びつきに根ざす「神助」が得られる。それは、賊の平伏だったり、基業の成就だったり、加護・守護だったり。つまり、神代神話とのつながりが、東征神話に決定的な意味を与えてるんですね。
神武東征神話、やっぱりスゴイ神話だと思います。そんな構想をカタチにした古代日本人の叡智が創意工夫がスゴすぎる、、
まとめ
天香山の埴土採取と顕斎
神武東征神話全体の中でも、このシーンは非常に重要な位置づけ。東大阪の孔舎衛坂で敗戦を経験し、以後苦難の連続だった「東征」は、この「丹生川上祭祀」「顕斎」を起点として大きく転換。
「丹生川上祭祀」では、「賊虜の平伏・除去」と「基業成就や国の平定」についてイケる兆しが現れた。さらに「顕斎」の儀式を通じて、天神のなかでも最有力な神である「高皇産霊尊」が降臨・現前、守護霊として彦火火出見を守護するパワーをゲットした。
あとは、暴れるだけですね。
これ以後は、連戦連勝を重ねて一気に天下統一、橿原即位へ向かいます。それは、なんなら天神の意を反映したものとして位置づけられる訳で。この意味は非常にデカい。神武一人のエゴとかではなく、東征成就には天神の関与、意志が入ってるんだと。一種のギャランティーですよね。周到に設計されてる感じがします。
そして、神代とのつながり、神代からの伏線回収は時間的に大きな広がりを感じさせますし、天上(天神)との関連は空間的な広がりも感じさせてくれます。時間と空間、想像できるかぎり目いっぱい広げて、そのなかで一つのテーマをもとに物語を繋げて展開させてる訳です。
こんな神話、他にはありません。スケール、展開の仕方、登場人物の魅力、どれをとっても文句無しに素晴らしいと思います。
神話を持って旅に出よう!
神武東征神話のもう一つの楽しみ方、それが伝承地を巡る旅です。以下いくつかご紹介!
●神武天皇聖跡菟田高倉山顕彰碑:中洲を遠望した地!
●国見丘推定地(諸説あり定説なし。経ヶ塚山周辺の山、、、)
●男坂伝承地
●女坂伝承地
●磐余邑顕彰碑:兄磯城があふれかえってた伝承地
●天香山神社:天香山の埴土採取の地!
●丹生神社:丹生川上祭祀の聖地!日本で唯一の高皇産霊神降臨の場所!?
●丹生川上顕彰碑:大人の事情たっぷりの1番碑!
続きはコチラ!山の敵を殲滅するのだ!
神武東征神話のまとめ、目次はコチラ!
佛教大学名誉教授 日本神話協会理事長 榎本福寿
埼玉県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程国語学国文学(S53)。佛教大学助教授(S58)。中華人民共和国西安外国語学院(現西安外国語大学)文教専家(H1)。佛教大学教授(H6)。中華人民共和国北京大学高級訪問学者(H13)。東京大学大学院総合文化研究科私学研修員(H21)。主な書籍に『古代神話の文献学 神代を中心とした記紀の成りたち及び相関を読む』がある。『日本書紀』『古事記』を中心に上代文学における文献学的研究成果多数。
参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)
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