多彩で豊かな日本神話の世界へようこそ!
正史『日本書紀』をもとに、
最新の文献学的学術成果も取り入れながら、どこよりも分かりやすい解説をお届けします。
今回は、神武東征神話を分かりやすく解説するシリーズ2回目。
テーマは、
東征発議と旅立ち
東征するにあたって、「彦火火出見」=神武は、兄達や子供、臣下を集め「発議」を行います。
壮大すぎる構想をどのように伝え、動機付けしたのか?
そんなロマンを探る事で、「東征発議と旅立ち」が伝える意味を読み解きます。
今回も、概要で全体像をつかみ、ポイント把握してから本文へ。最後に、解説をお届けしてまとめ。
現代の私たちにも多くの学びをもらえる内容。日本神話から学ぶ。日本の神髄がここにあります。それでは行ってみましょう!
- 日本神話研究の第一人者である榎本先生監修。確かな学術成果に基づく記事です
- 日本神話全体の流れや構造を解き明かしながら解説。他には無い分かりやすい記事です
- 現代語訳のほか原文も掲載。日本神話編纂当時の雰囲気を感じてもらえます
- 登場する神様や重要ワードへのリンク付き。より深く知りたい方にもオススメです
神武紀|東征発議と旅立ち|東征の動機とか意義とか建国の決意とかをアツく語った件
目次
神武紀|東征発議と旅立ちの概要
『日本書紀』巻三「神武紀」をもとにお届けします。前回の内容、これまでの経緯はコチラ↓をご確認ください。
東征するにあたって、「彦火火出見=神武天皇」は、兄達や子供、臣下を集め「発議」を行います。
いきなり出発しちゃうのではなく、しっかり企画提案・動機づけを行なう訳ですね。
自身の生い立ちと、これまでの経緯をふまえて、東征の意義と建国の決意をアツく語ります。
この東征発議、実は「日本最古の演説」ながら、素晴らしい仕上がりになっております。現在のビジネスシーンでも十分活用できる内容であり、参考になると思います。
ポイントを整理すると以下の通り。
経緯 |
・遥か昔、神武の祖先である天神の「高皇産霊尊」・「大日孁尊」が、「豊葦原瑞穂の国」を神武の「天祖」である「彦火瓊瓊杵尊」に授けた。 ・神武の「天祖=彦火瓊瓊杵尊」は天孫降臨し、この国へ至り、西のはずれの地を治めることとした。 ・神武の先祖と父は素晴らしい「政」により慶事を重ね、その徳を輝かせてきた。そして、天孫降臨から今日まで、179万2470有余年が過ぎた。 |
現状認識 |
・遠く遥かな地は、いまだ王の徳のもたらす恵みとその恩恵をうけていない。その結果、争いが耐えない。→なんとかしなければならない。 |
目的 |
・「世界の中心」へ行き「都」とするため。 ・国の平定と統治の偉業を大きく広げ、王の徳を天下のすみずみまで届けるため(=人々が安心して豊かに暮らせる国をつくるため)。 |
目標 |
「世界の中心」=六合之中心 |
と、
自らの出自とあわせて、これまでの経緯、現状認識、建国によるメリット(王の徳による民が受ける恩恵)を分かりやすく語っています。日本最古のスピーチ。ものすごいクオリティです。。
あと、補足として、
本文中に「天祖」とか「皇祖」とか「皇考」とかいろいろでてきますが、以下の系譜として整理。
天祖(瓊々杵尊・ひいおじいちゃん←神武的超絶リスペクト
ー皇祖(火火出見・おじいちゃん
ー皇考(鸕鷀草葺不合・お父さん
ー神武天皇(45才)
ということで、さっそく現場をチェック。
神武紀|東征発議と旅立ち
(彦火火出見が)四十五歳になったとき、兄達や子供等に建国の決意を語った。
「昔、我が天神である高皇産霊尊・大日孁尊は、この豊葦原瑞穂国のすべてを我が天祖である彦火瓊瓊杵尊に授けた。 そこで火瓊々杵尊は、天の関をひらき、雲の路をおしわけ、日臣命らの先ばらいを駆りたてながらこの国へ来たり至った。これは、遙か大昔のことであり、世界のはじめであって暗闇の状態であった。それゆえ諸事に暗く分からない事も多かったので、物事の道理を養い、西のはずれの地を治めることとした。 我が祖父と父は霊妙な神であって物事の道理に精通した聖であった。彼らは素晴らしい政により慶事を重ね、その徳を輝かせてきた。そして多くの歳月が経過した。 天祖が天から降ってからこのかた今日まで、179万2470有余年が過ぎたが、遠く遥かな地は、いまだ王の徳のもたらす恵みとその恩恵をうけていない。その結果、国には君が有り、村には長がいて、各自が支配地を分け、互いに領土を争う始末だ。 さて、一方で塩土老翁 からはこんな話を聞いた。『東に、美しい土地があって、青く美しい山が四方を囲んでいる。そこに天磐船に乗って飛びその地に降りた者がいる。』と。 私が思うに、かの地は豊葦原瑞穂の国の平定と統治の偉業を大きく広げ、王の徳を天下のすみずみまで届けるのにふさわしい場所に違いない。きっとそこが天地四方の中心だろう。そこに飛んで降りた者とは「饒速日」という者ではないだろうか。私はそこへ行き都としたい。」
諸々の皇子は、「なるほど、建国の道理は明白です。我らも常々同じ想いを持っていました。さっそく実行すべきです。」と賛同した。この年は、太歳・甲寅(紀元前667年)であった。
その年の冬10月5日に、彦火火出見は、自ら諸皇子や水軍を率いて、東へ進発した。
及年卌五歲、謂諸兄及子等曰 「昔我天神、高皇産靈尊・大日孁尊、舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彥火瓊々杵尊。於是火瓊々杵尊、闢天關披雲路、驅仙蹕以戻止。是時、運屬鴻荒、時鍾草昧、故蒙以養正、治此西偏。皇祖皇考、乃神乃聖、積慶重暉、多歷年所。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。而遼邈之地、猶未霑於王澤、遂使邑有君・村有長・各自分疆用相凌躒。抑又聞於鹽土老翁、曰『東有美地、靑山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」 諸皇子對曰「理實灼然、我亦恆以爲念。宜早行之。」是年也、太歲甲寅。 其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。 (『日本書紀』巻三 神武紀より一部抜粋) ※原文中の「天皇」という言葉は、即位前であるため、生前の名前であり東征の権威付けを狙った名前「彦火火出見」に変換。
※橿原神宮で公開中の「神武天皇御東征絵巻」より
神武紀|東征発議と旅立ちの詳細解説
リーダーとして、兄達や子供ら、そして臣下たちに東征の意義と建国の決意を語るシーンは、東征神話の中でも非常に重要な位置づけです。内容的にも、東征神話全体の起点になってる。
ポイントを再度確認。
経緯 |
・遥か昔、神武の祖先である天神の「高皇産霊尊」・「大日孁尊」が、「豊葦原瑞穂の国」を神武の「天祖」である「彦火瓊瓊杵尊」に授けた。 |
現状認識 |
・遠く遥かな地は、いまだ王の徳のもたらす恵みとその恩恵をうけていない。その結果、争いが耐えない。→なんとかしなければならない。 |
目的 |
・「世界の中心」へ行き「都」としたい。 |
目標 (ゴール設定②) |
「世界の中心」=六合之中心 |
と、
ま、後付け整理になるかもしれませんが、それでも、自らの出自とあわせて、これまでの経緯、現状認識、建国によるメリット(王の徳による民が受ける恩恵)を分かりやすく語っていますよね。
当時の理想的指導者が「事を成す」必要性、必然性、適時性を丁寧に説明し、問題を明確にして一丸となって実行する。
「日本最古の演説」ながら、そのレベルの高さにビックリです。1つの演説として、動機づけの方法としても非常に参考になると思います。そんなロマンに想いを致しながら、、、
以下詳細解説。
- (彦火火出見が)四十五歳になったとき、兄達や子供等に建国の決意を語った。
- 及年卌五歲、謂諸兄及子等曰
→45歳になったときに東征発議。
45歳って、、、この時すでに、中年のおっさんです。
でも、そんなのにひるまない神武天皇こと彦火火出見。生い立ちのところであった「生まれながらにして英明、意志堅固」を遺憾なく発揮。 末弟が、兄たちや子供たちに建国の決意を語る。。とんでもない構想をぶち上げる訳です。
次!
- 「昔、我が天神である高皇産霊尊・大日孁尊は、この豊葦原瑞穂国のすべてを我が天祖である彦火瓊瓊杵尊に授けた。
- 「昔我天神、高皇産靈尊・大日孁尊、舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彥火瓊々杵尊。
→ココ、超重要ポイント。東征神話の起点とも言うべきところ。
まずチェックするのは2点。
- 高皇産霊尊・大日孁尊(=天照大神)を「我が天神」と位置づけてること。
- その天神(二神)が、「我が天祖」である彦火瓊瓊杵尊に国を授けたとしてること。
原文「舉」は、ことごとく、すべてをあわせてという意味。徹底的な網羅的な感じ重要。
で、コレ、、実は、神武が構想した新たな神話とも言うべき内容で。ココが重要。
細かく言うと以下の通り。
瓊々杵尊に国を授けたシーン、つまり、天孫降臨には、2つの伝承があります。
- 高皇産霊神が、豊葦原中国を瓊々杵尊(皇孫)に授け、天降らせた、という伝承(第九段本伝)
- 天照大神が、長男の天忍穂耳尊を豊葦原中国の主として天降らせようとしたが、途中で天忍穂耳尊に子(瓊々杵尊)が生まれたので、その子に交替させて、天降らせた、という伝承(第九段〔一書1〕)
で、ここで重要なのは、
神武は、両方の伝承を取り入れて、ひとつにまとめたってこと。二つの伝承を結びつけ、新たな神話を構想したんです。
コレ、なんでかというと、瓊々杵尊に授けたことをめいっぱい権威づけるため。
伝承的にはアレコレあるけど、高皇産霊神も天照大神も、瓊々杵尊に授けたことは同じなので、それをまとめようと。そうすることで強烈に瓊々杵推しをしてやろうと。
そもそもが、神武の生前の名「彦火火出見」も瓊々杵尊の子である山幸彦の名前であり。名前を通じて「瓊々杵尊の子」というつながりをつけた訳で。何かにつけて神武の瓊々杵リスペクトは徹底してる。
で、この強烈な瓊々杵推しがなんでか? というと、つまり、権威付けのため。東征の正当性を打ち出すため。コレが重要。権威付けの根拠をすべて瓊々杵尊に集約させてるんですね。ワイ、瓊々杵尊の後継者。だから東征するんやと。このロジック、しっかりチェック。
ちなみに、、、
なんで高皇産霊尊、大日孁尊(=天照大神)なのか?について補足を2点。
①なぜ高皇産霊尊なのか?
それは、国譲りや天孫降臨の際に、皇孫のために心を砕き、大変なご活躍をしていただいた天神だから。
『日本書紀』巻第二(神代下)第九段〔一書2〕では、
- 国譲りに際して、大己貴神に勅して「あなたが治めている現世の仕事は、我らの子孫が治めよう。」と分治提案をしたのが高皇産霊尊でした。
- さらに、大物主神に「八十萬神を率いて、永遠に皇孫を守って差し上げよ」と命じ、帰り降らせましたのも高皇産霊尊でした。。
- さらにさらに、天孫降臨に際して、「私は 〜中略〜 皇孫のために祭祀をしよう。おまえたち、天児屋命と太玉命は、天津神籬を持って葦原中国に降り、また皇孫のために祭祀をしなさい」と命じたのも高皇産霊尊さんでした。。。
と、確かに、、ありがたいことこの上ない。。
特に、3つ目の「皇孫のために祭祀」、原文「為吾孫奉斎」は超重要で。自らも皇孫のために祭祀をするし、二神にも祭祀をするように命じてる。。スゴくないすか?高皇産霊尊自ら皇孫のためにお祭りをしてたなんて、、、神武的には、これを踏まえて言ってる訳です。
そして、
②なぜ大日孁尊なのか?天照大神としていない理由は?
これは、神武的には(東征神話的には)、天照大神をあくまで「日神」として位置づけているから。
中盤の孔舎衛坂敗戦の理由、神策の理論、熊野での天照大神の救援など、すべて天照大神が「日神」として、つまり太陽神として位置づけられてることに由来。そして、神代において、日神として登場したのが『日本書紀』巻第一(神代上)第五段〔本伝〕。
ここでは、「そこで、共に日神を生む。名を大日孁貴と言う。(大日孁貴、ここでは於保比屢咩能武智と言う。孁は、音は力丁の反である。ある書には、天照大神と言う。ある書には、天照大日孁尊と言う。)この子は、光り輝くこと明るく色とりどりで、世界の内を隅々まで照らした。」と伝え、まさに日神(太陽神)としての特性が強く打ち出されてます。これを踏まえてるんですね。
神武東征神話は、神代とのつながり、神代の設定が決定的に重要で。それらを踏まえるからこそ、東征に説得力や正当性が生まれるようになってる訳です。このあたりもしっかりチェック。
ちなみに、、こちらの「天神」、東征神話中盤で、周囲を敵に囲まれて絶体絶命の危機に陥ったときに再登場。ココではその布石、伏線としての意味もあり。
次!
- そこで火瓊々杵尊は、天の関をひらき、雲の路をおしわけ、日臣命らの先ばらいを駆りたてながらこの国へ来たり至った。これは、遙か大昔のことであり、世界のはじめであって暗闇の状態であった。それゆえ諸事に暗く分からない事も多かったので、物事の道理を養い、西のはずれの地を治めることとした。
- 於是火瓊々杵尊、闢天關披雲路、驅仙蹕以戻止。是時、運屬鴻荒、時鍾草昧、故蒙以養正、治此西偏。
→瓊々杵尊が天孫降臨し、地上を治めはじめたときのことを言ってます。
ポイント2つ。
- 東征神話的伏線?天孫降臨を再現することで回収を図っていく壮大な仕掛け
- ニニギによる西偏統治は『易』を手本とする
1つめ。
①東征神話的伏線?天孫降臨を再現することで回収を図っていく壮大な仕掛け
「火瓊々杵尊は、天の関をひらき、雲の路をおしわけ、日臣命らの先ばらいを駆りたてながらこの国へ来たり至った。」とあります。コレ、まさに天孫降臨のことで。
ポイントは、降臨に際して先ばらいを務める「仙蹕」。「蹕」はさきばらいの意。「仙蹕」とは、行幸の行列。天子の車駕の列のことです。
『日本書紀』神代紀第九段〔一書4〕では、次のように伝えてます。
「(高皇産霊神が瓊々杵尊を天降らせた時)天忍日命は、来目部の祖先神の天槵津大来目をひきいて、背に天磐靫(矢を入れる容器)を負い、腕に稜威高鞆(弓を射るとき左手首に着けるもの)を着け、手に天梔弓(山漆で造った弓)と天羽羽矢(大蛇をもたおす強力な矢)をもち、八目鳴鏑の矢をそえ持ち、また頭槌剣を帯びて天孫の先導をされた。(『日本書紀』神代紀第九段〔一書4〕より一部抜粋)」
天孫降臨では、天忍日命が天槵津大来目をひきいてきらびやかに武装し天孫の先導を行います。
神武の言う「日臣命らの先ばらい」がまさにコレで。「仙蹕」。日臣命=天忍日命。
大事なのは、
この「天忍日命」が東征の際の道臣の祖先であり、また、「天槵津大来目」が同じく東征の軍隊「大来目」の祖先である、ということ。
コレ、要は、
「天忍日命」「天槵津大来目」両者が瓊々杵尊の降臨を先導したように、その子孫である「道臣」と「大来目」が神武東征を先導して大活躍をし勝利をもたらす。つまり、神話を歴史につなげる正当化をはかった、ということです。
歴史記述のなかで神代伝承を引き継ぐ内容をいれることで、神代伝承が、つまり神話が歴史の中に組み込まれるようになる。。スゴイよね、この構想力。発想力。
別の言い方をすると、東征神話的伏線であり、
神代を起点に考えると、東征神話を通じて、天孫降臨で活躍した神々の子孫が、神武の先導をすることで天孫降臨を再現、回収するという仕掛け。
この場面を起点に考えると、これから展開する天孫降臨の再現を予兆する伏線であり、物語を通じて回収されていく訳です。
神代から仕掛けられた壮大な伏線と回収の仕掛けをチェック。
次!
②瓊々杵尊による西偏統治は『易』を手本とする
『易』は中国古典の五経の第一で、うらないの書。この世界の秩序や倫理、道徳のなりたちを説くもの。
この『易』にもとづき、瓊々杵尊の天降った時代を「草昧・蒙昧」(世の開き始めの暗黒、無秩序の時代)とし、その統治を正しきを養うものとしています。
日本の古代の統治の始めを、中国古典・漢籍知識を駆使して表現してる創意工夫の例!
次!
- 我が祖父と父は霊妙な神であって物事の道理に精通した聖であった。彼らは素晴らしい政により慶事を重ね、その徳を輝かせてきた。そして多くの歳月が経過した。天祖が天から降ってからこのかた今日まで、179万2470有余年が過ぎた。
- 皇祖皇考、乃神乃聖、積慶重暉、多歷年所。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。
→ついに登場!時間記述!!
「そして多くの歳月が経過した。天祖が天から降ってからこのかた今日まで、179万2470有余年が過ぎた。」とあります。
コレ、さらっと流してはいけません。
革命です。革命。
そもそも、、
神武紀前の神話には「時間概念」が無く、「継起性」でもって物語が展開してきました。
継起性とは「つぎから次へと物事が続いて発生する事」。神の時代には「何年何月」といった時間概念は存在しません。
日本神話の最初の言葉も「古」という言葉から始まっている通り、遥か昔の話であって「いつ」という時間は存在しないのです。
●参考⇒「日本神話が伝える天地開闢|一番最初の言葉「古」から始まる世界のはじまりのお話」
そんな状態から、
神武紀以降は時間が導入されるようになります。
- 天祖が天から降ってからこのかた今日まで、179万2470有余年が過ぎた。
- この年は、太歳・甲寅であった。
という内容がソレ。
これら時間表現は、神代のあとを引き継ぐ神武紀の重要な特徴の一つ。
これ以降、
編年体(出来事を年代順に書かれたもの)での記載が開始。
- 神話の時代=継起展開
- 歴史の時代=時間展開
と、まースゴイ変化なんす。まさに革命だ。
神代から神武紀へ、
「継起性で展開する世界」から「時間の世界」へ。
神武紀の最後は、橿原即位であり、以降、人の時代が続く展開になっています。
その意味で、
神から人へ、時間概念の導入を通じてブリッジをかける役割を果たしていると言えて。この点はしっかりチェック。
そのうえで、、、
「そして多くの歳月が経過した。天祖が天から降ってからこのかた今日まで、179万2470有余年が過ぎた。」。
天祖(瓊々杵尊)ー皇祖(火火出見)ー皇考(鸕鷀草葺不合)ー神武天皇(45才) ・・この間、百七十九万二千四百七十余年
上記系譜の通り、
- 神武は皇統(天皇家の系譜)を確立し、
- 自分がその皇統を引き継ぐこと、
- さらに、始祖を天祖(瓊々杵尊)と位置づけたこと
に大きな意味があります。
この位置づけにより、この世界が天祖の天下り(天孫降臨)を直接の起源とする歴史に組み込まれたことになる訳で。これ、超重要事項。
しかも、
歴史がその天祖の降跡に始まったとし、歴史経過の時間を具体的に179万年と明示しています。つまり、天祖の降跡を境に、それ以前を、無時間の神代、それ以降を時間軸にもとづく歴史とする区分がここに成り立った、ということ。
こちらも非常に重要なポイントです。しっかりチェック。って、、なんて戦略的なんだろう、、なんてすごいことを構想したんだろう、、『日本書紀』編纂チームの叡智、構想力に震えがとまりません、、((((;゚Д゚))))ガクブル
時間設定の詳細はコチラも参考にされてください。
次!
- しかし、遠く遥かな地は、いまだ王の徳のもたらす恵みとその恩恵をうけていない。その結果、国には君が有り、村には長がいて、各自が支配地を分け、互いにしのぎを削って争う始末だ。
- 而遼邈之地、猶未霑於王澤、遂使邑有君・村有長・各自分疆用相凌躒。
→東征の理由や背景の部分。
天祖の降跡したこの西偏は、遠くはるかな土地であり、まだ未開・野蛮な状態にあった訳です。
各地がバラバラなまま小族長が勝手に支配し、境界争いが絶えない。。。
東征は、この社会の混乱に終止符をうち、正しい秩序や教化をもたらす偉大な事業として始まった訳です。コレも非常に重要なポイント。大義、やっぱ大事。
次!
- さて、一方で塩土老翁 からはこんな話を聞いた。『東に、美しい土地があって、青く美しい山が四方を囲んでいる。そこに天磐船に乗って天から飛び降った者がいる。』と。
- 抑又聞於鹽土老翁、曰『東有美地、靑山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』
→突然登場、塩土老翁!
「塩じい」こと塩土老翁は、実は、降臨した天孫を出迎えた在地の首長、事勝国勝長狭の別名。 天孫の瓊々杵尊に、国を献上した経緯あり。しかも、天照大神を生んだ伊奘諾尊の子と伝えてたりします(以上、神代紀第九段一書第四)。なんと、天照大神とは同じ父を持つ関係にあると、、? しかも、この塩土老翁が、海幸山幸譚では、山幸を海神の宮へと導く役割を担ったりします。
神武に東征を促す話をきかせるというのも、神代から生き続けているという、とんでもない長命ゆえ。
古代では、こうした長生きの老翁を「長人・遠人」と呼んでました。
仁徳天皇の偉大な事蹟をものがたる所伝(『日本書紀』仁徳天皇五十年条・古事記)では、天皇が武内宿禰に問いかけた次の詩を伝えてます。
たまきはる 内の朝臣 汝こそは 世の遠人 汝こそは 国の長人 秋津島 倭の国に 雁産むと 汝は 聞かずや
時代を超えて生きてきた人であるからこそ、世の物知りという。神武は「物知り爺さん」という偉大な側近を得ていたことになる訳ですね。
そして、
その「物知り爺さん」曰はく、「『東に、美しい土地があって、青く美しい山が四方を囲んでいる。」とのことで。想定としては、大和、現在の奈良県橿原の地。

▲左の盆地が大和盆地。左端の細長い緑が生駒山。大和盆地の右が宇陀です。手前が熊野の山々。神様はきっとこんな世界を、、、ロマンだー!
「そこに天磐船に乗って天から飛び降った者がいる。」とあり、コレ、後ほど「饒速日」であると神武が推定しています。天神が降臨した場所であることを目的地設定の根拠にしてる訳ですね。なんせ天皇の都を造る訳で、どこでもいいって訳じゃない。で、「饒速日」は実際に、東征神話後半で登場します。
次!
- 私が思うに、かの地は豊葦原瑞穂の国の平定と統治の偉業を大きく広げ、王の徳を天下のすみずみまで届けるのにふさわしい場所に違いない。きっとそこが天地四方の中心だろう。
- 余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。
→東征の目的、その核心が語られてます。かなり壮大な、そして重い言葉が使われてる。
原文「恢弘大業・光宅天下」。
「恢弘」とは、広く大きくすること。 事業や制度、教えなどを世に広めること。
「大業」とは、帝王の業績のこと。
「光宅」とは、満ちゆきわたらせること。
なので、「恢弘大業・光宅天下」とは、王としての業績(事業、制度、教え等)を広く大きくしていくこと、天下にみちゆきわたらせることを言います。スゴイ、、、
そしてそれは、
広く、瓊々杵尊以来受け継いできた地上統治の「わざ」を広げていくこと、さらにその先には、豊葦原瑞穂の国の平定と統治が見据えられてる訳で。。結構壮大な、そして重い言葉なんですよね。もちろん、そこには人々が安心して豊かに暮らせる国をつくりたいという熱い想いがあったはず!
そして、そうした大業を成す場所こそが「六合之中心」。
「六合」とは、天地(上下)+四方(東西南北)をいいます。いわば「世界の中心」であり、ここに都を置く事が想定されてます。
東征の目的、その核心がココで語られてるんです。超重要事項。しっかりチェック。
次!
- そこに飛んで降りた者とは「饒速日」という者ではないだろうか。私はそこへ行き都としたい。」
- 厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」
→先ほどの、「そこに天磐船に乗って天から飛び降った者がいる。」の続き。
「饒速日」については、神武天皇の東征に先だって大和に天降った神様という設定あり。大和の地を支配する最強の敵「長髄彦」の妹を娶り、子供をもうけていたことが東征神話の後半になって判明。
最終的には、「長髄彦」を見限り「彦火火出見」に帰順。空気読める素晴らしい天神です。
で、なんでこんな神が登場してるか?
これが重要で。
要は、大和の土着の勢力に対して、天皇即位や日本建国の正当性を、天神との関わりにおいても示すため。ってこと。
東征はある意味、九州勢力が大和勢力を征伐する構図とも言えて。
大和在住の皆さんからしたら、ある日突然、部外者がやってきました的な話になる訳です。当然、脊髄反射する方々もいらっしゃったと思いますし、素直にお迎えする気持ちになれない可能性がある。そこで、武力を背景とした東征という構図に加えて、もともといた天神(大和の皆さんが受け入れていた天神)の支持、恭順という構図も加えることで、即位や建国の正当性を出そうとした、ってことなんす。
東征の最後、「長髄彦」との最終決戦でも、最終的には交渉と「饒速日」の寝返り的な行動によって勝敗が決するのですが、コレも、単に武力で征伐しました、という形で完結するのではなく、交渉やもともといた天神(饒速日)の恭順があったからこそ、という形にすることで、大和在住の皆さんのコンセンサスを取ろうとしてる訳ですね。
「饒速日」さん、その意味で、非常に重要な神ですし、別の言い方をすると、ダシに使われてるって雰囲気もしなくはないですが、、、 ( ̄Д ̄;;.
そうした、人民の気持ちにも配慮した、非常に奥ゆかしい伏線をいれてる神話になってる訳ですね。ホントに良く練られてます。古代日本人の叡智、創意工夫が凄すぎ。。
次!
- 諸々の皇子は、「なるほど、建国の道理は明白です。我らも常々同じ想いを持っていました。さっそく実行すべきです。」と賛同した。この年は、太歳・甲寅(紀元前667年)であった。
- 諸皇子對曰「理實灼然、我亦恆以爲念。宜早行之。」是年也、太歲甲寅。
→みんな納得、どうやら、みんな同じ思いでいたようで。これは忖度などではない!
ということで、さー出発だ!
ここで、先ほどの解説でふれた時間表現が登場。
「太歳」とは、木星の別称で、年を「太歳」+「干支」で記す方式。
これ以降、
各天皇代のはじめに「是年也、太歳(干支)」というように、「太歳」+「干支」で紀年を表示するようになっていきます。
多くは、即位の元年末尾にあるのですが、神武紀では特別。東征発議のこの場所で登場。つまり、橿原即位までのできごとの起点を示す形で使用されてます。
先に、「179万年余り」によって神代紀を歴史に組み込んだのですが、これをうけて東征を発議し、実行に移す年を「歴史の始源」すなわち元年として位置づけてる訳ですね。超重要事項。
「甲寅 」とは、「甲」が干支の最初に、「寅」が十二支の最初に於かれている事をいいます。
↑こちらの記事で解説してるように、結構ディープな暦年表記法があって。。。
「甲寅」自体は、十干の始めの「甲」と十二支の始めの「寅」との組み合わせなのですが、十二支の始めを「寅」とするのは、『爾雅』釈天によるもの。そこにはディープな革命理論説あり。
それが、「讖緯思想に基づいた古代中国の英雄的帝王像」を「我が国の七、八世紀における修史家の仕事」として造作したとする説(横田健一『日本書紀成立史論序説』)。
「讖緯思想」とは、漢代に流行した陰陽五行説に基づき、天変地異、または運命を予測するなどの予言説のこと。
この讖緯思想によれば、甲寅が元気始肇に当たり、辛酉は革命の年であり、神武の東征の発議・暦年の始めを前者に、東征の完遂後の橿原宮での即位を後者にそれぞれ当て、根拠づけ、権威化をはかったとするもの。
このあたりも非常に練りに練られた神話な雰囲気がぷんぷんしますよね。
時間表現、掘り出すと止まらなくなるオモローな世界が広がってます。
次!
- その年の冬10月5日に、彦火火出見は、自ら諸皇子や水軍を率いて、東征へと出発した。
- 其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。
→先ほどの時間表現に付随して、登場。「冬」という「四時」表現。
暦年の始まりは、同時に「四時」の始まりでもあります。
春(一、二、三月)
夏(四、五、六月)
秋(七、八、九月)
冬(十、十一、十二月)
で、
「その年の冬10月5日に、」という表現もコレを踏襲したもの。このあとの神武紀でもこの「四時」表現が登場。四季はほぼこれに重なりますね。
いやー、神武東征神話、深すぎです。どこまでも広がる神話ロマン。サイコーだ!
まとめ
東征発議と旅立ち
『日本書紀』巻第三(神武紀)からお届けしてきましたが、いがでしたでしょうか?
チェックしてきたポイントは以下の通り。
- 東征するにあたって、「彦火火出見=神武天皇」は、兄達や子供、臣下を集め「発議」を行います。いきなり出発しちゃうのではなく、しっかり企画提案・動機づけを行なう。
- 東征発議は「日本最古の演説」ながら、素晴らしい仕上がり。現在のビジネスシーンでも十分活用できる内容であり、参考になる。
- 内容について、冒頭、神武は、神代紀の二つの伝承を結びつけ、新たな神話を構想。コレ、豊葦原中国を瓊々杵尊に授けたことをめいっぱい権威づけるため。
- 東征神話的伏線設定あり。天孫降臨を再現することで回収を図っていく壮大な仕掛けが埋め込まれてる。
- ニニギによる西偏統治は『易』を手本としている。
- 神代から神武紀へ、「継起性で展開する世界」から「時間の世界」へ。時間表現は、神代のあとを引き継ぐ神武紀の重要な特徴の一つ。
- 歴史が天孫降臨に始まったとし、歴史経過の時間を具体的に179万年と明示。つまり、天孫降臨を境に、それ以前を、無時間の神代、それ以降を時間軸にもとづく歴史とする区分がここに成り立った、ということ。
- 東征は、この社会の混乱に終止符をうち、正しい秩序や教化をもたらす偉大な事業として始まった。
- 神武は「物知り爺さん」という偉大な側近を得ていた。
- 東征は、瓊々杵尊以来受け継いできた地上統治の「わざ」を広げていくこと、さらにその先には、豊葦原瑞穂の国の平定と統治が見据えられてる。そうした大業を成す場所こそが「六合之中心」。コレが東征の目的、その核心。
- 東征を発議し、実行に移す年を「歴史の始源」すなわち元年として位置づけてる。暦年の始まりは、同時に「四時」の始まりでもある。
今回ご紹介したのは、一部なのですが、深堀りすると、いろいろなオモシロ設定があって、非常に奥ゆかしい神話になってることが分かります。
『日本書紀』編纂チームの創意工夫の結晶、その構想力がスゴくて震える((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル 現代の私たちにも、多くの学びをもらえる内容だと思います。
神話を持って旅に出よう!
神武東征神話のもう一つの楽しみ方、それが伝承地を巡る旅です。以下ご紹介!
● 皇宮神社:東征発議の場!??実は、15歳からこの皇宮屋に移って政治を行なっていたらしい、、
● 神武天皇御舟出の地:神武天皇が東征の航海に船出した地!?
● 立磐神社:船出の際に、航海の安全を御祈念、海上の守護神住吉三神を奉斎したことにちなむ
●磐船神社:饒速日命が天から降った時に乗ってた天磐船が御神体!?
つづきはコチラ!航海順風ガンガン行こうぜ!
神武東征神話のまとめ、目次はコチラ!
佛教大学名誉教授 日本神話協会理事長 榎本福寿
埼玉県生まれ(S23)。京都大学大学院文学研究科博士課程国語学国文学(S53)。佛教大学助教授(S58)。中華人民共和国西安外国語学院(現西安外国語大学)文教専家(H1)。佛教大学教授(H6)。中華人民共和国北京大学高級訪問学者(H13)。東京大学大学院総合文化研究科私学研修員(H21)。主な書籍に『古代神話の文献学 神代を中心とした記紀の成りたち及び相関を読む』がある。『日本書紀』『古事記』を中心に上代文学における文献学的研究成果多数。
参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)
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