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神武東征神話を分かりやすく解説するシリーズ
日本神話.comでは、天地開闢から橿原即位までを「日本神話」として定義。東征神話は、その中で最大のクライマックスを彩るアツく奥ゆかしい建国神話であります。
言うと、
これを知らずして日本も神話も語れない!m9( ゚Д゚) ドーン!
ということで、今回は20回目。
遂に大和最大最強の敵「長髄彦」を倒した神武こと「彦火火出見」。
一度敗戦を味わい、長兄のかたき討ちを果たした訳で、東征神話における最大の山場を乗り越えた次第。
残る課題は「建国・即位準備」です。
建国・即位は一日にして成らず。最大の敵を倒したからと言って即建国という訳にはいきません。入念な準備、それなりの体裁を整える必要があるのです。
大きく4つ。
- 中洲(=大和平野)平定
- 東征の事蹟にちなむ地名起源設定
- 宮殿造営
- 天皇にふさわしい嫁をもらう事
であります。
平定、事蹟、宮殿(家)、嫁の、4つの要素を確立し建国準備とした訳ですね。
こちら、全3回シリーズでお届けします。今回は、そのなかで、①中洲平定と②事蹟伝承の神話をピックアップ!
中洲平定と事蹟伝承|大和平野各地の土蜘蛛さんを叩いて平定完了!あとは東征の事蹟を伝えておきたい件
前回の内容はコチラで確認ください。
場所とルートの確認
中洲平定へ向け、今回登場する敵は大和平野各地に残る「土蜘蛛」のみなさん。
この「土蜘蛛」は「頑強に抵抗する先住民」を蔑んだ表現で、結構すごい表現を使わはるのね。。。汗
土蜘蛛のみなさんは全部で4つ。
- 「新城戸畔」 @層富県の波哆の丘岬
- 「居勢祝」 @和珥の坂下
- 「猪祝」 @臍見の長柄の丘岬
- 「侏儒に似た者たち」 @高尾張の邑
補足を少し。
「新城戸畔」は、これまでもちょいちょい登場した女性酋長さんの類。各地に跋扈されていたようで。
「猪祝」がいたという「臍見の長柄の丘岬」はどこだか分かりません。
「侏儒に似た者たち」は「こびと」のこと。中国では昔、俳優として用いられていました。本文では「身の丈が低く手足が長い」としています。
以上、地図上にプロットするとこんな感じです。

– google mapより作成 –
まあ、各地にいらっしゃった訳ですね。
「土蜘蛛」というからには、地を這ってるようなイメージの皆さん ←蔑み度がえげつない・・・
いずれも、抵抗するなら徹底的にやっつける訳で、
これをもって中洲平定&東征の総仕上げ、という位置づけです。
この後で出てくる「宮殿造営」時には、その結果として「中洲の地は少しも騒乱が無い」と言い、平定が成し遂げられていることが分かります。
ということで、大和平野のあちこちへ軍隊を派遣し平定を進めているイメージをもって読み進めていきましょう。
神武東征神話本文
己未の年、春2月20日[1]、「彦火火出見」は諸将に命じて士卒(上官と兵卒)を教練させた。
この時、層富県の波哆の丘岬 [2]に「新城戸畔」[3]」という者がいた。また、和珥の坂下[4]に「居勢祝」という者が、臍見の長柄の丘岬[5]には「猪祝」という者がいた。
この三か所の「土蜘蛛[6]」は、みな己の勇猛強力を恃みにし、あえて帰順しなかった。彦火火出見はそこで、一部隊を分けて派遣し、ことごとく誅殺させた。
また、高尾張[7]の邑にも土蜘蛛がいて、その体つきは、身の丈が低く手足が長くて侏儒[8]に似ていた。東征の軍は、葛[9]で網を結い、急襲して一挙に殺した。これにより、その邑の名を改めて「葛城」という。
そもそも、「磐余」の地は、旧名を「片居」、または「片立」ともいう。東征の軍が賊を打ち破ったとき、たくさんの兵卒が集まりその地に満ちあふれた。それにより地名を改め「磐余」とした。
あるいは次のように言う。「彦火火出見は昔[10]、厳瓮に盛った神饌を食し、西方を征討した。この時に、磯城の八十梟帥らが、その地に大勢たむろしていた。案の定、彦火火出見と大いに戦い、ついに滅ぼされた。それゆえ磐余の邑と名付けた」。
また東征の軍が雄叫びをあげた所を「猛田[11]」といい、城を造った所を「城田[12]」という。また、賊衆が戦死し、累々と転がっている死骸で臂を枕にした所を「頰枕田[13]」という。
彦火火出見は前年の秋九月[14]に、ひそかに天香山の埴土を取って八十平瓮を作り、自ら斎戒して諸神を祭り、ついに天下を平定することができた。それゆえ土を取った所を名付けて「埴安」という。
注釈
[1]壬辰(みずのえたつ)が朔の辛亥(かのとい)。
[2]層富県(そほのあがた)の波哆(はた)の丘岬(おかさき)。後の大和国添上(そふのかみ)。添下(そふしも)両郡にあたる地で、今の奈良市生駒市のあたり。
[3] このあたりの女性首長。名草戸畔や丹敷戸畔と同類(前出)。このあたり、添下郡に新木村がある。今、大和群山市新木町。
[4]和珥(わに)の坂下(さかもと)。崇神紀十年九月条に、「大彦命至於和珥の坂上」とある。北陸道に通じる要衝。今、天理市和珥。
[5]臍見(ほそみ)の長柄(ながら)の丘岬(おかさき)。場所未詳。
[6]頑強に抵抗する先住民を蔑んだ表現。皆、平地を離れたところに居住しています。
[7]葛城地方で、今の御所氏西南部。
[8] こびと。中国では昔、俳優として用いられていました。
[9]マメ科クズ属のつる性の多年草。根で食材の葛粉や漢方薬が作られます。 和名は、大和国吉野川上流の「国栖」が葛粉の産地であったことに由来。
[10]戊午年十月一日に、八十梟帥を国見丘で撃破した時を指します。
[11]所在未詳。原文「皇師立誥之處」とするが、該当する記述はありません。
[12]所在未詳。
[13]所在未詳。
[14]椎根津彦と弟猾が変装して敵陣を突破し天香具山の土を採取して天神地神を祭った事蹟をいいます。
原文
己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸將、練士卒。是時、層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者。又和珥坂下、有居勢祝者。臍見長柄丘岬、有猪祝者。此三處土蜘蛛、並恃其勇力、不肯來庭。天皇乃分遺偏師、皆誅之。又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。夫磐余之地、舊名片居、亦曰片立、逮我皇師之破虜也、大軍集而滿於其地、因改號爲磐余。
或曰「天皇、往嘗嚴瓮粮、出軍而征、是時、磯城八十梟帥、於彼處屯聚居之。果與天皇大戰、遂爲皇師所滅。故名之曰磐余邑。」又皇師立誥之處、是謂猛田。作城處、號曰城田。又賊衆戰死而僵屍、枕臂處、呼爲頰枕田。天皇、以前年秋九月、潛取天香山之埴土、以造八十平瓮、躬自齋戒祭諸神、遂得安定區宇、故號取土之處、曰埴安。 (『日本書紀』巻三 神武紀より)
まとめ
中洲平定と事蹟伝承
各地の土蜘蛛を誅殺し、中洲平定を成し遂げましたが、もう一つ重要な点があります。
それは、
討伐の事蹟を後世に伝える事。
東征にちなむ土地を「地名の起源伝承」としてまとめて伝えています。
古代において重視された考え方や価値観として、
歴史的事蹟や人々の関心を寄せる事物などを、後の世に語り伝えること
というのがあります。
これは、例えば、『万葉集』にも、
神功皇后による征韓伝承にちなむ「鎮懐石」に関連し、
「天地の ともに久しく 言い継げと この奇し御魂 敷かしけらしむ」(814番)と歌ったり、
例えば、富士山を「~時じくぞ 雲は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は」(317番)と歌ったりして、
ちょいちょい登場する重要事項。
神武東征神話は、建国譚でもある訳で。
王朝として、国家として、その創建にちなむ地名を「起源伝承」として残すことは、当然やるべきことであります。一方で、やっぱ、(個人的にも)残しておきたいといった動機もあるかと。スゲーことやったらそれを後世に伝えていきたひ。。。忘れないで的な。このあたり、今も昔も変わらない価値観だと思います。
そんな「事蹟をもとにした地名起源伝承」。本文の中で特記事項を以下2つ説明しておきます。
「磐余」
- 敵を打ち破った東征軍の兵卒があふれて「満めり」と、
- 逆に、東征軍に打ち滅ぼされた八十梟帥の「屯聚居たり」
という、異なる地名起源伝承を併載しています。
いずれの伝承であれ、彦火火出見の大和討伐にちなむ場所として「磐余」を伝えています。
コチラも是非
「埴安」
天香山の埴土の採取、祭祀により「遂に区宇を安定むること得たまふ」という平定にちなむ地名として位置づけます。
この地名により、天下平定にまつわる事蹟を後の世に語り伝えようとしているのです。
その意味で、特に、最後の「埴安」は超重要なスポットであります。
ちなみに、奈良にはなんと、こちらの土の神様をお祭りしている神社があります!
是非、チェックされてください。
と、いうことで、「建国・即位準備」の4項目。
- 中洲(ちゅうしゅう=大和平野)平定
- 東征の事蹟にちなむ地名起源設定
- 宮殿造営
- 天皇にふさわしい嫁をもらう事
のうち、2項目を達成。続きまして、宮殿の造営です!
続きはコチラ!
本シリーズの目次はコチラ!
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本記事監修:(一社)日本神話協会理事長、佛教大学名誉教授 榎本福寿氏
参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)、他
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